45.行雲流水(こううんりゅうすい)
ハイヤーンの脚はそろそろ限界だった。ここはグレイフォーリアの大滝から下流へ下って支流を入った森の中の泉のほとりである。
「それにしても…… もうそろそろじゃないのかい? アタイはもう限界が近いんだ、勘弁してもらいたいねえ」弱音を吐くハイヤーンだがせっかくここまで歩いて来たのだからもう少しだけ頑張ってみようと耐え忍ぶ。
実のところ、妖精たちの泉はすぐそこだった。考えてみれば当然のことだが、彼、彼女らの大きさは人型の十二分の一程度、そのため距離感覚もそのくらいの差があるわけだ。つまりスピルマンのハイヤーンにしてみればたったの1タルメだとしても、妖精たちには12タルメ相当となり、体感的には十二倍の距離である。
そんなわけで大して遠くもないところまでやってきた二人は、芝の上に転がされているエンタクと、その上にひっくり返っているリンリクプルを無事に発見できた。エンタクは溺れて完全に意識を失っており非常に切迫した状態のように思えたが、すでに妖精たちによって治療が施され、熱を下げるために眠らされているだけだった。
対してクプルは妖精的には重症であるのだが、人型にしてみれば髪が濡れた程度の感覚である。羽が濡れそぼってしまい飛べなくなっていて、その重みで起き上がることもできないと言われても緊迫した状況とは思えない。
ではハイヤーンの足が限界なのはなぜか。それは安堵した彼女が思わずエンタクを引き寄せて膝の上に頭を乗せてしまったからである。なぜそんなことをしたのかは自分でも不思議でならないが、のちに語った本人の談では『なんとなく』『わからない』『気の迷い』程度の理由しか出てこなかった。
「はあ、それにしても焦ったよ。まさかアンタにこんな度胸があるなんてねえ。それでも優しい男だってことはわかっていたから不思議ではなかったがね。でも随分と無茶をしたもんだよ、ありがとう」礼を言われている当人は眠っているため聞こえるはずもないが、それでもなにかしてあげたいと思った結果のひざまくらなのかもしれない。
『オレサマも大変な目にあったんだが? 少しくらいねぎらってくれてもいいと思うんだが? なんせ救援を呼びに行ってもらえたのはオレサマの手柄じゃないか』
『ああそうだったね、アンタも良くやったよ、ありがとさん。それにしても災難だったねえ。だがね? 起き抜けで顔も洗わず寝ぼけてるからそうなるのさ。しかし羽が濡れるとそんなに大人しくなるとはいいことを知ったよ』ハイヤーンは嫌な笑い方をしながらクプルに目をやる。
『おいおい、本当に辛いんだから勘弁してくれよ。事前にわかってる雨とかなら水弾きの魔法をかけるけどなあ。さすがに滝壺の中へ連れ込まれちまったら何の役にも立たないってもんさ』
『いやあ、しかし妖精の集落って言うのかい? ここは静かで落ち着くねえ。これで酒と飯が出てくりゃ言うことなしなんだけど、二人の恩人たちに向かってさすがに贅沢は言えないさね』
『そうだな、普通の妖精は飯なんざ喰わないし酒なんてもってのほかだ。オレサマみたいな人間と契約したモンは世俗にまみれちゃうから余計なもんを覚えちゃうけどな』
『女遊びとかな。ホントいい加減にしろよ? アンタはさっきのルーリーローリリイみたいに可憐で清楚な嫁さんでも貰って更生してさ、今後はまっとうに生きたらいいんだよ』
『ふざけたこと言っちゃダメだ。あんな不細工な妖精がオレサマにふさわしいわけないだろ。美しい妖精ってのはやっぱ麦だよ、麦』
『ああそうか、厳密に言えば種族が違うんだもんな。きっとここの妖精たちは森とか花とか水とかそういうやつなんだろ?』ハイヤーンは辺りを見回しながら妖精が産まれそうな自然の産物をうかがっている。
『リリイはあれだろ』クプルが寝転がったままで泉を指差すと、その方向には水辺に群生している草木が見える。目を凝らして見るとそのあたりから小さな花が頭を垂れていた。
『へえ、あんな小さな花が咲くんだねえ。いやはや確かにリリイっぽくつつましやかで可憐で可愛らしいじゃないか。もちろん麦がダメって言うわけじゃないよ? 麦畑もきれいなもんだからな』
『けっ、無理やりとりつくろわなくなって構わないさ。妖精には優劣上下なんてもんは無いんだしな。それはオマエさんも同じことだろ?』同じ精霊族として仲間意識があるのか、スピルスのクプルはスピルマンのハイヤーンへ問いかけた。
『そうさねえ、本来は無いはずでも、人間が作った町にいればその中で序列は作られちまうもんさね。アタイは魔法が得意だったからそうでもなかったけど、中にはバイカルにイビられたり小遣い巻き上げられたりする子がいたよ。冒険者になったら今度は実力主義で、ランクで優劣を争うもんだしな』
『でもハイヤーンはSSSSって最高ランクなんだろ? だったら威張り放題じゃないか』クプルは持って当然の疑問を投げかけてくる。
『するとさ、今度は男だ女だって争いになるわけさ。まったくバカらしいことだと思うよ? でも黙って言われてるのは面白くないだろ? 当然言い返すと力ずくで屈服させようなんて男も中には居るのさ』
『あれか、差別ってやつだな。まったく人型ってのはなんでこう下らねえことにこだわるんだろうかねえ。やっぱ妖精が一番気楽でいいぜ』
『そうだねえ、アタイらみたく太古の昔に妖精から別れちまった人種はもう人里で暮らすしかないけどさ。こういう森の中でのんびり暮らせるなら、それが一番幸せなのかもしれないと考えることがあるよ』
『でもムサイムサ村も森の中と大差ないけどな。オッサンだって元は街で暮らしてたらしいじゃないか。それが今ではすっかり村の原住民だぜ? ハイヤーンだってすぐ慣れるってもんさ』
『な、な、な、慣れるってなんで慣れる必要があるんだよ! アタイはあくまで骨休みに来てるだけなんだからね? ずっとあの村に住むつもりなんて無いさね』
「そうなのか? オレはてっきりずっといてくれるつもりなのかと思いこんじまってたぜ。そっか、いつかは王都へ戻っちまうんだなあ……」突如ハイヤーンの膝の上から野太い声が聞こえた。
「なんだエンタク、目を覚ましたのか。どれどれ―― うん、熱はもうだいぶ下がってるな。後は魔法で治しちゃってもいいけど、無理なことしてぶり返しても困るからちゃんと寝てた方がいいさね」
「いや、もう平気だから起きるぜ。ずっとこうしてたのか? 重かったろうに。それに―― 視線が気になって寝てられねえぜ」そう言ったエンタクはすぐ横でもう片方の膝に頭を乗せている少女を見る。
「あれっ!? ミチュリったら起きてたのか? もしかしてずっと起きてた? 寝てるんだとばかり思ってたんだけどなあ。なるほど、オッサンたちが助平なことしないかちゃんと見張っててくれたんだな?」
「けっ、言うに事欠いてそれかよ。オレは妖精じゃねえんだからそんな真似しやしねえってんだよ。きっと嫉妬してるんだろうさ。ミチュリ、そうなんだろ?」
ミチュリは返事の代わりに素早く目を閉じて寝に入ってしまった。
ー=+--*--*--+=-ー=+--*--*--+=-
こううん-りゅうすい【行雲流水】
空行く雲や流れる水のように、深く物事に執着しないで自然の成り行きに任せて行動するたとえ。また、一定の形をもたず、自然に移り変わってよどみがないことのたとえ。




