竜の蒼い月 3
場面は暗い部屋の中に変わる。
締め切られた戸。光が何一つ射さない部屋の中で『俺』が布団を被って蹲っていた。
食事を十分にとっていないのか身体は重たく、思考もどんよりしている。
何もしたくなかった。何も感じたくなかった。ただひたすらに「何故自分が」なんて重たい気持ちで押しつぶされそうだった。それはまだ『5歳』の子どもにはあまりに重たい気持ちだったろう。
そんな時だ。戸が開き、光が差し込んだのは。
周りから「姫様――!」なんて侍女たち声が聞こえ、重たい頭で僅かに布団から顔を出す。
光が入る場所。30cmほどに開かれた部屋の入口に女の子が一人立っていた。
逆光のせいで良く見えない。
女の子と分かったのは『俺』よりも小さくて、纏っていた着物が女性物だったから。それだけだ。
そして、ただ妙に煌めく美しい蒼い瞳だけが輝いているのが見えた。
『……。そこにだれかいるのですか?』
可愛らしい声がする。
だが『俺』は何も答えなかった。何も答えたくなくてまた布団に潜り込んだ。
侍女の声と共に戸が閉まり、足音が離れていく。それだけでほっとして、同時に暗い気持ちにまた陥る。
それを打ち消したくて身を丸める様に蹲るんだ。
暗い部屋。
暗い布団の中で蹲っていると少しだけ気持ちが楽になる。
世界から拒絶された自分でも居場所を与えてくれている気がして。
『おはようございます!』
だが、次の日もその静寂を壊す様に女の子はやって来た。
元気よく挨拶をして気が付けば、布団の直ぐ側でニコニコと。
その時初めて彼女の容姿を見た。
雪みたいに白い肌。
綺麗に切りそろえられた栗色の髪。
空を、映しとったかのような綺麗な蒼い瞳。
幼い容姿でありながら、つい見惚れてしまう綺麗な少女――。
『俺』はつい最近の思い出を思い出す。『俺』がまだ病で倒れる前の事だ。
屋敷に連れて来られた新しい家族だと紹介された彼女の事を。
『はじめまして。うえのお兄さま!わたしはしおぎ。あなたのいもーとです!』
キラキラ輝いて、まるで――。まるで……。
☆
それから紫荻は毎日の様に『俺』の部屋にやっていた。
「貝合わせをしましょう」「いっしょにご飯を食べましょう」「けまりをしましょう」「けいこをしましょう」
楽しそうに楽しそうに。竺丸(政道)の所にでも行けば良いと言うのに。彼女はいつも楽しげに『俺』の所にやって来ては『俺』には難しい事をねだってくる。
それが『俺』には眩し過ぎて。
あまりに。
――鬱陶しかった。
ある月の晩だ。
蒼い満月が空で輝く夜。
紫荻は何時ものようにやって来た。
こっそりと部屋を抜け出してきたようだ。
『俺』の気持ちも知らずに、ニコニコ笑いながら。
『俺』は起き上がって彼女を部屋に招き入れる。
珍しい事だと笑う彼女を前に、後ろ手に短刀を握って。
『俺』と同じ気持ちになれば良いと腐った気持ちで彼女と向き合う。
そんなことも露知らず。
空を指差し紫荻は言った。
『梵天丸にいさま。今日はきれーな《まんげつ》です!しおぎと月見をしましょう!』
まだ3つ。
まだ舌足らずの口でニコニコ何時ものように『俺』には出来ない事を願ってくる。
だからこそ『俺』は卑屈に笑う。暗い左目で彼女の顔なんて見もせずに笑って言う。
『無理だよ。おれには無理だ』
『?――どうしてですか?』
『俺』の拒絶に紫荻は不思議そうに顔を傾けた。
そりゃそうだ。この子からすればただ月見をしようと誘っているだけだ。
片目が無くても出来る。至極簡単な事なのに、兄貴は応じようともしない。
其ればかりか卑屈に笑うだけ。そして続けざまに言う。
『おれには出来ない事だよ。おれには見上げる右目が無いんだ』
『……』
『俺』の言葉に紫荻は押し黙った。
幼子心。義兄の踏み込んではいけない場所に踏み入れてしまったとようやく気付いたのかもしれない。
短刀を握りしめて、黙った彼女をいい事に『俺』は続ける。
『おれにはさ。もう何も無いんだよ。だから蹴鞠も出来ないし貝合わせも出来ない。だれかと一緒に食事をとることも出来ない。俺を見てくれる人ももう誰も居ない』
俯いて俯いて俯いて……。
暗く何処までも暗く濁った……。そうだ濁り切った右目の様に虚ろに。
その少年は墜ちていく。
『――だからさ。月だってもうおれの元には無いんだよ。おれの足元はずっと真っ暗なんだ。だっておれの右目はもう無いんだから』
『――そんなことありません』
だが、彼女は違った。
小さくて温かな手が右目を覆う『俺』の手を包み込む。
それでも『俺』は彼女を見ようとはしなかった。
どうせとすら思っていた。周りの奴らと同じことを言うのだ。
――まだ左目が残っています。
なんて励ましにもならない事を。
『月ならここにいます!』
だけどそれは思いもよらない言葉で打ち消された。
包み込む手に力が入る。
『おにいさまの月ならここにいます。しおぎがなってみます!』
時が止まった瞬間がして、『俺』は顔を上げる。
初めて顔を上げて、『政宗』は彼女を見たのだ。
まず映ったのは蒼い月。
真っ暗な夜の中で真っ白に輝く綺麗な月。
そんな月夜の元。
茶色の髪が光を受けて輝き、白い肌が月の輝きを受けて淡く光る。
月のように綺麗で、月の様に笑いかける綺麗な少女。
俺を見つめる。そんな月より蒼い瞳に俺が映っていた。
『どんなくらやみでも。どんなまっくらな夜の世界でも。しおぎは、お兄さまを照らします!しおぎはお兄さまの右目にはなれないけど。夜の道をてらすことをしましょう!いつまでもどこまでも!お兄さまが歩きつづけるのなら。――しおぎは、お兄さまの月になってみせます!!』
ソレは。紛れもなく。
左目だけに映す事になる、初めて見た綺麗なモノだった。
残った目から熱い物が込み上げてきたのは直ぐの事。
それが涙と気が付くのには時間が掛かって、拭いても拭いても涙は流れ溢れて。
そうだ。『俺』は右目を失ってから初めて、大声で泣いたのだ。
その温もりも、月の輝きも『政宗』は決して忘れない。
幼いころ、失ってから初めて手に入れた暖かくて綺麗な蒼い月を――。
その瞬間に彼女は彼の、『彼』だけの夜を照らす月になったのだから……。
☆
「政宗ついたわよ」
「!」
母の声を聞いて俺ははと我に返る。
辺りを見渡せばそこは車の中。どこかの駐車場に止まったようだが、現実に戻って来た。
そう実感するのに少しだけ時間が掛かった。
不思議そうに見つめる政道の顔を見つめながら、今までのは『記憶』だと気が付く。
俺のじゃないし、勿論7つの政宗のモノじゃない。
数百年前。独眼竜と呼ばれた『伊達政宗』のモノだ。あ、勿論「下天の空」の方な。
そう。俺の中には記憶が複数ある。
1つは俺のモノ。1つは今の政宗のモノ。そして最後は『伊達政宗』のモノ。
つまりだがこの身体。政宗は、生まれ変わる前の『政宗』の記憶を所持しているようなのだ。
つい先ほど見たモノは昔の『政宗』が見たモノ。
独眼竜と呼ばれる前。右目を病で失って塞ぎ込んでいた頃の大切な『記憶』だ。
因みに今のは俺も初めて見た。
そうか、『政宗』はこんな経験をしていたのだと、しみじみと思う。
ふむふむ。そりゃこんな体験していればシスコンにもなるわ。呪術のせいで自分から裏切るんだけど。
なんだか言い表せない気持ちが溢れて、『政宗』が今初めて不憫に感じる。
あんなに大切にしようと心に決めたのに、女の術1つで妹を切り伏せるまで堕ちるのだから。
……。いやこれ以上思い拭けるのは止めよう。『やめたい』これは『過去』の事だ。
だからこそと俺は思う。
『政宗』の分もコレは紫荻を大切にしなくてはいけない――と。
想いで溢れて決意が固まる。
うん。俺は良いお兄ちゃんで居よう!
そんな想いいっぱいで俺は車の扉を開けるのだ。
☆
「先にはっきりいいます!私はお前なんかの月にはなりません!!!!」
十分後。
俺は会いに会いたかった激推しの彼女に心からの拒絶を受ける羽目となった。