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人嫌い公爵様が初日から溺愛してくるのですが、十月十日たったら私はここを出てゆく予定です。

作者: にょん

「なんて馬鹿なことをしたの。マーガレット」


 うずくまって涙する妹。それに寄り添う両親の代わりに、私は頭を抱えてため息をつきました。


「だって、だってデイジーお姉様……」


 マーガレットは私の双子の妹です。この妹、幼い頃はたいそう病弱で両親の愛を独占してわがまま放題の自由な娘に育ちました。対して健康優良児だった私は、放任されて育ったものだから、愛想のない女になりました。


そんな妹に、婚約の話が持ち上がりました。相手は人嫌いで有名のアルベール•スノウン公爵。仕事人間で、婚約が決まってからも彼は一度も妹に会いにくることはありませんでした。


 それでも妹はこの結婚を楽しみにしていました。肖像画でしか知りませんが、アルベール公爵は、それはそれは美しいお方だったからです。


 しかしなんということでしょう。式を一週間後に控えたある日。妹が驚くべきことを告げたのです。


 なんと彼女は誰の子かもわからない子を妊娠したというのです。夜会で酔った勢いで、複数の男性と関係をもってしまったというのです。


 ああ、そういう方面にも奔放だとは知っていましたが、式の前にそんな愚かな真似をするなんて誰も思わないじゃないですか。


「マーガレット、子供はおろせばいい」


「そうよ、今ならまだ間に合うわ」


 両親がそう声をかけると妹は、二人をきっと睨みつけて首を横に振りました。


「嫌です。私……この子を産みたい!」


「そんな……じゃあ公爵様との結婚は諦めるの?婚礼は一週間後なのよ?」


「嫌です!彼のお嫁さんにはなりたいの!」


 さすがに身重の新妻なんて認めてもらえないでしょう。コブ付きの娘なんて今後の嫁の貰い手だってありません。世間知らずにもほどがある妹に、苛つきさえ通り越えして呆れしかでてきません。


 妹は泣き喚き、年甲斐もなく地団駄を踏みます。これが始まると、彼女は要求が通るまで止めることはありません。


 両親は顔を見合わせて何やらごにょごにょと相談を始めます。


 数刻の相談が終わったかと思うと、彼らは私の方を振り返りました。なんでしょう。その名案を思いついたかのようなニヤつきは。ああ、やめてください。聞きたくはありません。


「ねぇ、デイジー……」



 

 正直に話したところで、公爵もコブ付きの娘を迎えるほど度量は深くないでしょう。


 この婚約が破談になったらうちは信頼をなくします。莫大な慰謝料も払うことになるでしょう。


 なんとしてもそれを防ぎたい両親は、あろうことか私を妹の代わりに嫁に出すことにしたのです。


 しかもただ嫁に出すだけではありません。


 十月十日。妹が極秘出産を終えるまで、彼女のふりをしろと言うのです。


「私の子供、産んだらお姉ちゃんにあげるわ。我が家の後継として大事に育てて!たまに会いに行くから」


 そう言って妹は笑いました。まるでそれが私のためとでも言うように。この妹はいつだってそうでした。自分の幸せは他人の幸せと信じて疑わず、平気で私に様々なものを押し付けたり、奪っていく。もはや慣れっこでした。


 そうして私は、この公爵家に十月十日限定で嫁いできました。


 嫁いできて行われた結婚式は神父の前でサインを交わすだけの簡単な式。


 人嫌いの噂は真のようで、式は彼の親族すら呼ばれておりませんでした。使用人たちがだけが数人。私たちを見守ってます。


 書類に妹の名前を書いて、私はアルベールの妻となりました。ぱちぱちと巻き起こるまばらな拍手の中、私はそこで初めてアルベールの顔をまじまじと見つめました。肖像画で見た通り、彼はとても美しい人でした。陽の光を浴びてキラキラ光る銀髪。白い肌に青い瞳。彼は私と一度も目を合わせることなく、式が終わった途端に「仕事がある」と駆け足で会場を後にしました。


 仕事人間というのも本当のようです。使用人の話によれば、一度仕事に出てしまえば三日は戻らないとのこと。これなら十月十日間。顔もろくに合わせず結婚生活を送れるかもしれません。


 私は使用人に頼んで、部屋に案内してもらうと早々に彼らに暇を出して、ウェディングドレスを脱ぎました。コルセットを外し、ふかふかのダブルベッドに飛び込みました。


 十月十日が終われば、晴れて私はコブ付きの訳あり令嬢となるわけです。


 嫁の貰い手もありませんでしょう。ならこの十月十日は好きなことことをして過ごしましょう。


 妹なら散財もするだろうし、使用人にわがままだって言うはずです。欲しいものを買って、怠惰に過ごしていきましょう。ひとまずは睡眠です。ああ、昼から眠れるなんて最高。



 私の眠りを覚ましたのは、部屋をノックする音だった。窓の外を見れば、すでに暗くなっている。


「その……。夕食でもどうだ」


 使用人だと思い、寝汚く、狸寝入りを決めようとしていたところに響いた低い声に私は思わず飛び起きた。


「あ……アルベールさまぁ?!」


 いやいや、なんで。三日は帰らないはずでは?


「し、支度をしたらすぐ行きますわ」


「そうか」


 足音が遠のいたことを確認してから急いで乱れた髪を整え、簡易的なドレスに着替えてドアを開ける。そこで気づいた。


 あ、私。まだこの屋敷のこと知らない。ダイニングはどこにあるんだろう。


 ※


 歩けど、歩けど空き部屋ばかり。一体ここはどこなんだろう。誰かに道を聞こうにも使用人の数まで最低限なのか全く誰も見つからない。


 まさか、自分の家となる場所で迷子になるとは……。


 廊下の突き当たりで、途方に暮れて座り込む。アルベールが部屋を訪ねてきてからもう、半刻は経っているだろう。いや、自分の支度の時間を含めたらそれ以上か。 


「怒ってるかしら……」


 ふと、声が聞こえた気がした。膝の埋めていた顔をあげると、廊下の奥からアルベールがかけてくるのが見えた。


「よかった。いた!」


 アルベールは私の前まで駆け寄ると、息を整えてた。顎からは一雫、汗がこぼれ落ちる。


「どうしてこんなところに」


「あ、アルベール様。すいません……ダイニングの場所が分からなくなってしまって……」


 その瞬間。彼はひざまづくと、私に覆い被さってきました。背に回された大きな手に抱きしめられてると気づくには随分と時間がかかったように思います。


「アルベール様……!?」


 汗と香水。彼は、男の人のくせにとても心地よい匂いがしました。鼓動が聞こえるほどの距離に私はどうしてらよいかわからずに固まってしまいます。


「いや、よかった。私はてっきり君が誰かに攫われたり出ていってしまったのかと思ったよ」


「そんなこと……」


「使用人たちには、よく言っておく。君をほって休んでいたなんて、なんて奴らだ」


「いえ、彼らは悪くありません。疲れてるからと部屋から追い出したのは私なのですから……それよりも……」


 離してください。そう言い終わる前に彼はひょいっと私を抱き上げた。


「はっ……離してください!」


「いや、疲れただろう。このままダイニングに向かう。君は道でも覚えることに専念してくれ」


 息がかかる距離にある顔から、私は急いで顔を背けた。


 人嫌い?人嫌いがこんなことをするのか?

 噂と全く違うアルベールの行動に、私の頭は混乱するばかりだった。


 ダイニングにつくと、やっと彼は私を解放してくれた。


 大きなテーブルには、まだ手が付けられていない二人分の食事が並んでいる。


「じゃあ、僕はもう行くから」


「え?お食事は」


「仕事を抜けてきたんだ。もう戻らないと……」


「そんな、私のせいでお食事が取れなかったですか?先に食べてくれていれば」


「君と食べたかったんだ」


 アルベールは微笑むと、踵を返して部屋を出て行こうとした。


「アルベール様!」


 私は、フォークで無造作に肉を刺すと、呼び止めた彼に、さっとそれを突き出した。振り返った彼の口に肉が押し込まれる。


「あっ……いや。その一口くらいと思ってごめんなさい」


 アルベールはキョトンとした顔をしたが、フォークを握ったままの私の手を取ってゆっくりとそれを咀嚼した。


「ありがとう。美味しいよ」


「いっ、いってらしゃいませ……」


「ああ。いってくる」


 彼が出ていった後、後ろでメイドたちがきゃあっと黄色い歓声をあげた。 


 執事長だけがコホンと咳払いをする。


「すいません。行儀が悪かったです」


「いえ、彼が食べ物を美味しいなんて言って食べるのを久々に見れてよかったです。料理長に言ったら涙を流すでしょう」


「聞いていたお方と違うから。少し驚きましたわ」


「聞いていたとは?」


「その彼は……人嫌いだと……」


「間違えではありません。坊ちゃんは……いえ、主人は人を嫌っております。私たちも驚いてますよ。彼が食事ごときで仕事を抜けてきたことなど一度もありませんから。どうやら貴方が特別なようだ」


 うやうやしく頭を下げてウィンクをしてみせる執事長。言われたことに頬が熱くなるが、すぐにその熱は冷めた。


 この熱は、妹のものだ。彼の感情が向けられてるのは私ではない。妹になのだ。


 それを考えると、胸の奥がひどく痛んだ気がした。



 それからも彼は、毎日夕食の時間には仕事を抜けて家に帰ってくるようになった。そこで交わす会話は二、三だけだったが、彼は笑顔で私の話を聞いてくれた。


 ある日のこと、夕食の時間に帰った彼は、妙によそよそしかった。会話には口を開かず、いつもより時間をかけて咀嚼をしている。


「アルベール様。その……今日は随分とゆっくりされていますが、お仕事は大丈夫ですか?」


「いや……、ああ。うん」


「私に気を遣ってくれなくても、お忙しいなら戻って来なくても……」


「いや。そんなことは……その……」


 アルベールはそれからしばらくの沈黙する。妙な空気に居心地の悪さを感じていると、コホンと。執事長が咳払いをした。それにアルベールの肩が僅かに震える。


 アルベールは、フォークを置くと。私をまっすぐに見据えた。青い目がシャンデリアの光を反射して光っているように見えた。


「今日は珍しく仕事が終わったんだ」


「まぁ!それでは今日はゆっくりできるのですね」


 アルベールはいつも朝方に近い時間に屋敷に帰り、私が目覚める前には仕事に出かける。


 主人の仕事に口を出すことなんてできないが、毎日それだったので、本当はとても心配していたのだ。食後この時間からぐっすり眠れればだいぶ疲れはとれるだろう。


「ああ、だから。その……夜は……」


 なぜそんなに顔が赤いのかしら。具合でも悪いなら心配だわ。


 そう思い。私は席を立ち、彼のそばに歩み寄った。


「アルベール様。具合が悪いなら早く休みましょう」


 熱を測ろうと額に伸ばした手を、彼は素早く掴んだかと思うと、私の耳元に口を近づけた。


「夜は君の部屋に行くから」


 ぱっと手を離し、彼は執事長を連れて足早にダイニングを去った。


 息のような囁きが耳に残って離れない。


 その意味を考えて、沸騰したように頭から熱くなる。思わずへたり込んだ私をメイドたちはいつものようにきゃあきゃあと声を上げながら介抱してくれた。



 爪の先から髪の毛の一本までピカピカに磨き上げられ、私は大きなダブルベットで固まったまま座っていた。身に纏うのはメイドたちに用意された。薄いピンクのネグリジェ。頭からかけられた香油が妙に鼻に合わなくて、落ち着かない。


 結婚式をあげてから一月。なんと、ここにきて初めて私とアルベールは初夜を迎えるのだ。

 

 いや、ダメでしょ。だって私は十月十日限定の花嫁。彼が愛しているのは、本当は私でなくて妹。でも、妹なら絶対に彼を拒否したりはしない。私自身純潔を守らなくてよいのだろうか。いや、どうせ決まってるのは妹の赤ん坊の乳母という未来。私自身が誰かに嫁ぐことなんて……。そもそも万が一でも私が妊娠してしまったらダメなのでは?いろんな考えが浮かんでは消え、浮かんでは消え。体の熱さにどうにかなりそうだった。


 トントンとノックの音が聞こえ、「ひゃい!」と妙な返事を返してしまう。


「入るぞ」


 ドアが開き、寝巻き姿のアルベールが入ってきた。


 彼は、私の隣にそっと腰をかけると、じっとその視線を私に向けた。


「あ……あまり見ないでください」


 しばらくの沈黙の後。自分の格好を思い出し、私はそれを隠すように膝を抱えた。しかしそれがより彼の劣情誘ったらしく、アルベールは私の肩に手をかけて、そっとベッドに押し倒した。


 目の前に美しい彼がいる。アルベールは自分の寝巻きを脱ぎ捨てた。見かけによらず筋肉質な体が私に覆い被さった。


 その爆発的な魅力に抗うことができない。このひと月で、私は彼のことが好きになってしまったのだ。手を伸ばしその頬に触れると、彼はその手を重ね、美しく微笑んだ。


「愛している。マーガレット」


 瞬間。自分でも驚くほど血の気が引いていくことが分かった。


 彼が愛してるのは(デイジー)ではない。(マーガレット)なのだ。


「どうした。どこか痛いのか」


 彼の心配そうな声によけいに涙が溢れていく。惨めで悲しくて、悔しくて。


「ちがうんです……ちがうんです……」


 なにも違くない。痛いんだ。胸が。


 アルベールは私を抱き起こすと、自分の脱いだ上着を私に被せ、立ち上がった。


「アルベール様?」


「今日はやめにしよう……おやすみ」


 彼は振り返らず、そのまま部屋を出ていった。


 その日から、彼が夕食の席に着くことはありませんでした。きっと怒っているのです。初夜で泣く女など、みっともないですから。



 私が公爵家に嫁いで半年が過ぎた頃です。私は体調を崩して寝込んでしまいました。


 こうしていると子供の頃を思い出します。

 健康優良児の私ですが、一度だけ、ひどい熱を出して寝込んだことがありました。窓の外では珍しく元気な妹が両親と雪遊びをしていました。病気なんて関係なく、両親の愛は妹が独占するのだと知り、ひどく悲しかったことを覚えてます。


 家は常に妹優先で回っていました。社交会デビューの日。妹は高熱を出しました。私は両親に命じられ、デイジーとしてではなく、マーガレットとしてパーティーに参加しました。私としてではなく、妹して完璧な振る舞いをし、数々のコネクションのきっかけを作りました。全ては妹のため。妹のために行動すると唯一両親は褒めてくれるのです。だから私は昔から、

妹が熱を出すたびに、妹の代わりにパーティーに参加して、彼女の株をあげていました。対して、妹は夜会などのよくないパーティーに、私の名前で参加していたようです。おかげで私の評判はガタ落ち。乳母になるとかならないとか、その前に。そもそも嫁の貰い手なんてなかったのかも知れませんね。


 そういえば、一度。子供の頃。そんなパーティーで男の子と遊んだことがあったな。妹のふりも疲れて会場からもってきたおやつをこっそり食べようとしたら、夜の庭で泣いてる男の子がいたのよ。二人でお菓子を食べて、追いかけっこして、かくれんぼして、たくさん話して……。


 額に冷たい感触を感じ、目を開けた。


「あ……」


 そこにいたのはアルベールだった。額から手をのけて、彼は居心地悪そうに、それでもそこから離れることはしない。


「アルベール様。お仕事は……」


「抜けてきたんだ。というか……今日は休みにした」


「なんで……」


「なんでって、妻の具合が悪いんだ。当然だろ。幸い急ぎの仕事もなかったから」


 ベッドサイドには書類の束が広がっていた。嘘ばかり。無理に抜けてきたのだ。


 濡れたタオルを絞り、アルベールはそれを私の額に乗せた。


「アルベール様……」


 私は、大丈夫です。無理せず仕事に行ってください。そう言おうとしてるのに、それ以上は口が開かなかった。


「なんだ」


「行かないで、そばにいてください」


 何故だか、全く思ってもいないことが口から出る。それでも宙に伸ばした手を、アルベールはそっと掴んでそこに優しく口付けしてくれた。


「当たり前だろう。今日はずっとお前のそばにいる。だからゆっくり休むんだ」


 涙が出た。あの時。熱で寝込んだあの日以来。私はずっと誰かにそばにいて欲しかったのだ。


 毎日ではないものの、大きな仕事が片付いた。そう言ってまた、アルベールは私と夕食をともにするようになった。


 ベッドを共にすることはないけれど、それだけで私は十分だった。



 妹が無事に男の子を産んだと、知らせが届いたのは、春先のことだった。十月十日には少し早かったが、母子共に健康だという。手紙を燃やし、私はため息をついた。


 執事長に適当に言い訳をし、私は明日。実家に帰ることになった。


 もうここに戻ってくることはない。優しい執事長、友人のようになったメイドたち。美味しいご飯を作ってくれた料理長などに、理由は伏せて。それっぽく日頃の感謝を伝えた。


「奥様。信じられないでしょうが坊ちゃんが人嫌いなのは本当なのですよ。坊ちゃんの母君は早くに亡くなりましてね。先代の旦那様も後妻をとることはしませんでしたから。彼は後継者として厳しく育てられたのです。その上であの容姿でしたから幼い頃から、彼はその身には余るような視線や欲を向けられてきました。彼が人嫌いとなるのも当然なのです」


「でも、彼は初めてあった式の日から私によくしてくれました」


「だから私たちは驚いたのです。僅かな使用人にも心を開いていなかった彼が何故貴方にそこまで入れあげていたのか……。だからどうか、奥様。坊ちゃんの手を離さないであげてください。貴方は彼にとって唯一心を許せる相手なのですから。必ず帰ってきてください」


 まるで何かを見透かしているように、執事長は私を優しく見つめてから頭を下げた。


「ふふ……ただの里帰りです。すぐに戻りますから」


 最後に、アルベールにも会いたかったが、今日に限って彼は夕食の席には現れなかった。


 その夜。私はなかなか寝付けなかった。


 もうこのベッドで寝ることはない。ここで寝るのは妹。彼女のことだ。この家にきたその夜にはアルベールとここで関係をもつのかもしれない。そんな下世話なことを考えると、眠りにつくことはできなかった。


 夜も更け、窓の外から白み出した頃。ようやく私はうとうととまどろんできた。その時ゆっくりと部屋の扉が開く。


 私は急いで寝たふりをした。


 誰かはほとんど足音を立てずに、部屋の中に入ってくる。目を少しだけ開く。部屋を反射する窓に映ったのは、私の髪にそっとキスをするアルベールの姿だった。


 やだ……。もしかして、毎朝こんなことをされていたの?そう考えて、顔が一気に熱くなる。アルベールはそっと微笑むとそのまま踵を返して、部屋を出ようとする。


 私はがばりと飛び起きると。その背中に飛び込むようにして抱きついた。


「マ、マーガレット起きて……」


「名前を呼ばないでください!」


 自分でも、びっくりするくらい大きな声が出た。涙だけが止まらず、彼の上着に染み込んでいく。


「……泣いているのか。どうしたんだ」


「……怖い夢を見たんです」


 帰ることが、夢だったら。どんなによかったか。いや、いままでのことが夢だったのだ。楽しくて、幸せで、終わることの決まっていた。今までこそが夢だったのだ。それが覚めるだけ。それがたまらなく怖いだけだ。


 アルベールは私を背から離すと、肩を掴んでそっと顔を覗き込んできた。


「……見ないでください」


 両手で顔を覆っていると、彼はその手をそっと払った。クマに鼻水に、涙。化粧もしていないのだ。きっと今の私は酷い顔をしている。それでも彼は大きな手のひらでそれらを拭って、自分の唇を私の唇に重ねた。


 驚いて涙も止まっていると、彼は我に帰ったように「あ」とだけ声を漏らし、恥ずかしそうに顔を背けた。


「すまない。あまりにも愛らしくて。つい……嫌だったか?」


 首をふり、その胸に顔を埋める。涙が止まらない。この人から離れたくない。誰にも渡したくはない。


「悪かった。いや……すまない。はぁ……」


 アルベールはため息をつくと、私を抱き上げた。「きゃっ!」と声をあげると彼はそのまま、私ごとベッドに寝転ぶ。


 今関係を求められたら、きっと私は拒否することができない。いや、むしろ。私は求めてしまう。どこまでも深く彼を求めてしまうだろう。


 だが、彼は寝転んだだけで、それ以上のことをしようとはしない。


「アルベール……?」


 敬称も忘れ、愛しいその名を呼ぶが、彼はぽんぽんと私の背を宥めるように軽く叩く。


「幼い頃。私は弱虫で、泣き虫だったんだ」


「貴方が……?」


「そうだ。私がだ」


 想像がつかず、思わず口元が緩む。


「そんなときは母がこうして、私が寝付くまで宥めてくれた」


「お母様が……」


「ああ、とても優しい人だったよ」


「では、貴方はお母様似なのね」


「俺が?」


「とても優しいもの」


 背中を叩く手が優しいリズムを刻み続ける。それから彼は私が寝付くまで、ずっと優しく抱きしめてくれた。


 私が目覚めたときにはとうに陽は高く昇り、私の横には彼はいなかった。


 布団と自分に染みついた彼の残り香を吸い込んで、もう一度。少しだけ泣いた。



「ただいま」


 久々に実家に帰ると妹と両親が私を迎えた。


「まぁ、お姉様おかえりなさい!ほら見てよ私の子供!可愛いでしょう」


 妹は一気に捲し立て、私に小さな包みを押し付けた。


「まぁ……」


 包みだと思ったそれはおくるみに包まれた赤ん坊であった。


 ミルクの匂いがする可愛らしいその子はぱちりと目を開けると、大きな声をあげて泣いた。


「あ、どうしよう。ねぇ、マーガレット!」


 急いで母親である彼女に返そうとするが、彼女はそれを受け取らなかった。


「もう!これからはその子をお姉様が育てるんだから……それくらい泣き止ませて」


「そんな……母親でしょ?一緒にいるときぐらい……」


「やめてよね。確かに堕すのは目覚め悪いから産んだけど。母親はあなた!私は公爵夫人なんだから。もう二度と私のことを母親なんて呼ばないで」


 妹には悪気はないのだ。全くもって。だからこそタチが悪い。私は泣き叫ぶ赤子を抱きしめて、必死であやした。


 やっと眠りについたところで、ベビーベッドにのせ、私は妹と両親とこれからのことを話した。


 一週間後。妹が公爵家に戻る。ボロが出ないように情報交換をしようと言ったが、妹はそれを面倒くさがった。


「いいわよ。そうだわ!階段から落ちて、頭を打ったことにしましょう。記憶を無くしたことにするの。そうすれば情報のすり合わせなんていらないわ」


 それは名案だ。と両親は妹を褒めた。私は悲しかった。私が公爵家で過ごした十月十日間をなかったことにされるようで。それと同時に嬉しかった。むしろその気持ちの方がずっと勝っていた。私と彼の過ごした十月十日を、彼女に奪われずにすんで。あの思い出たちを自分だけのものにできるのは喜ばしいことだった。



 実家に戻ってきて五日目。甥っ子を抱きながら庭を散歩していると、怒鳴り声が屋敷から聞こえてきた。幸い甥っ子が目覚めることはなく、私は何事かと声のした方に向かう。


 部屋の前にはすでに使用人の人だかりができている。野次馬根性甚だしい。中から響くのは、聞き覚えのある声だった。


「私はマーガレットが怪我をしたと言うから仕事を抜け出してきたのだ」


「ですから、公爵様……ここにいるのが貴方の妻のマーガレットではございませんか」


「ふざけたことを、全く別人ではないか。私は私の妻を迎えにきたんだ。こんな女は知らない」


「ひどいですわ。アルベール様……。私は確かにマーガレットです。ただ記憶がぼんやりとしてしまっていて……」


 中から響くのは父とマーガレットの弱々しい声。それと、アルベールの声だった。


 何が起こったのか、顔馴染みのメイドに尋ねると、メイドは困ったように私と扉を見比べる。


「それが、マーガレット様が階段から落ちたと聞いた公爵様が、彼女の様子を見にきたそうなのですが、別人だと騒ぎたてているんです」


「そんな……」


 私は扉に手をかけた。しかしそこではたと止まる。この部屋に入って、どうしろというのか。私がマーガレットだと叫んで、アルベールに抱きつけばいいとでも?そんなことをしたら今までアルベールを騙していたことが彼に知られてしまう。それに彼が本当に愛しているのは妹なのだ。今は混乱してるだけ、きっと落ち着けば、彼も彼女の魅力に気づくはず。


 手が緩んだ瞬間。私の手首をしっかりと掴む人がいた。母だった。


 母は何も言わずに乱暴に一番上の物置小屋まで引っ張ると、突き飛ばすようにして中に押し込んだ。甥っ子を抱いていた私は下手な抵抗もできず、彼を庇うようにして尻餅をつく。


「デイジー。妹の幸せを願うなら、公爵様がマーガレットを連れ帰るまで貴方たちはそこにいなさい」


「待って……!」


 扉を閉められ、あたりは真っ暗になる。扉に手をかけるが、鍵を閉められたようでびくともしなかった。


 泣き叫ぶ甥っ子をなだめる。


「暗いね。怖いね……。大丈夫よ。私がそばについてるから」


 その背を優しく叩き、ぎゅっと抱きしめる。しばらくすると寝息が聞こえてきた。


 ここは暗くて怖い。どうか、どうかアルベール。マーガレットを連れて帰って。彼女はきっと貴方を幸せにしてくれるわ。違和感を感じるのは最初だけ。彼女のことだもの。うまくやってくれるわ。



 しばらくして、甥っ子の泣き声で目が覚めた。私も眠ってしまっていたらしかった。


「どうしたの?オシメは濡れてないし……お腹空いたのかしら。ごめんねここにはミルクもなくて……もう少しの辛抱だからね」


 流石に乳飲子を飢え死にさせるなんてことはしないだろう。


 いや、本当にそうだろうか。私とこの子の存在は、マーガレットにとって邪魔なはずだ。このまま閉じ込められたまま消される可能性だってある。そんなことを考えて背筋にぞくりとするものを感じた。


 その時だった。


 ドタバタと外の方で音がし始めた。


 扉を乱暴に順に開ける音と。男女の怒鳴り声が聞こえる。


「おやめください!公爵様!」


「うるさい!そちらが彼女を隠すのであれば、探すのみだ」


「ですから!マーガレットは私です!」


「ちがう!」


「何を根拠に……!」


「分かるのだ!本当に愛した女ならば、わかるんだよ!!その瞳の奥の優しさや仕草。あの時から変わらない。それがお前にないのだ!お前は俺の知るマーガレットではない!」


 甥っ子が声を上げて泣く。


「ここか!」


 だんだんと蹴るような音がして、私は扉から離れた。勢いよく扉が開き、光が差し込んでくる。その眩しさに私は思わず目を細めた。


「いた……マーガレット!」


 息を切らしたアルベールが甥っ子ごと私を抱きしめた。


「あ……ああ……」


 その名を呼ぼうとして、私はぐっと息を飲み込んだ。


「離してください」


 できるだけ冷たく。言い放ち、私は彼を押しのけた。


「マーガレット……?」


「マーガレットは私の妹で。そこにいる貴方の妻ではないですか。私は姉のデイジーです。この通り子供もいるんですよ。急に抱きついてくるなんてなんて失礼な方」


 ため息をついて、私は物置を出る。


「マーガレット!」


 伸ばしてきたその手を私は容赦なく振り解いた。ぱしっという乾いた音が響き渡る。


「ですから、私の名はデイジーです。何を勘違いしているかわかりませんが。とっとと妹を連れて帰ってください。この子のミルクの時間ですので、失礼いたします」


 これでいいんだ。これで。


「お父様。この方を送って差し上げたら?時間をおけば落ち着くのではなくて?」


「あ……ああ、そうだな。公爵様。とりあえず今日はお引き取りを。デイジーも出産したばかりで気が立っておりまして、マーガレットも怪我が治ったわけではありませんので……」


「……わかった」


 階段を降りる瞬間。重々しく。小さく彼が呟いたのを聞いていた。


 胸が苦しかった。


 ミルクを飲んですっかりと眠りに落ちた甥っ子をベビーベッドに寝かせる。


 子供部屋からは、馬車に乗り込むアルベールがよく見えた。彼は無表情で冷たい顔をしていた。



 それから間も無くして、マーガレットをアルベールが迎えにきた。「あの時はどうかしていた。君が怪我をしたと聞いて動揺してた。どうか許してほしい」、彼がそう告げるとマーガレットは喜んで彼を許し、馬車に乗って公爵家に帰って行った。


 これでよかったのだ。きっと今頃。二人で幸せにやっていることだろう。



 それからニ年後。


「まま……」


「なあに?」


「だあーいすきぃ」


「そう?ママもよ」


 甥っ子は、私を母とは疑わず、よくしゃべり、よく歩き。とても活発な子に育っていった。今でもアルベールのことを思い出して、悲しくなることがある。その空いた心を埋めてくれるのはこの子の存在だった。


 マーガレットがいなくなった後。両親も孫の可愛さに気づき。溺愛している。私のことも以前よりは気にかけてくれるように思えた。


 そんな折だった。妹が公爵家を出て、どこぞの若い男と駆け落ちしたという連絡が入り、アルベールが家に訪ねてきた。


「この度は娘が……とんだことで……」

 

「いえ……。いいんです。仕事ばかりで碌に彼女と会話もしませんでしたから。私はね、彼女が求めても抱くことすら放棄してたんです。彼女がよそにそういうことを求めても止める権利もありませんでしだよ。つきましては離縁を認めていただきたいのです」


 父は慰謝料を払わないことを条件にその離縁を受け入れました。


 それからというもの、離縁の手続きだとか何かと理由をつけてアルベールは我が家を頻繁に訪れるようになりました。


 私の甥っ子と遊び、私たちとランチを囲んで二、三世間話をし、仕事へと、帰っていく。


 そんな生活がしばらく続いたある日。甥っ子は彼のことを「パパ」と呼んだのです。私は驚いてしまって、必死でちがうのよ。と説き伏せますが、彼は不思議そうな顔をしてアルベールの膝の上で首を傾げていました。


 アルベールは甥っ子を膝から下ろすと、私の目の前でそっと跪きました。


「デイジーさん。どうか、この子の発言を。本当のことにしてくれませんか。私をこの子の父親にしてほしいのです」


 その手が伸ばされることに、私はどれほど焦がれていたでしょうか。それでもその手を取ることに私は迷いがありました。


「私は貴方の妻だったマーガレットの姉です。この子のことは愛しています。父親が必要だとも思います。でも世間的には未婚の母を妻とするなんてよくは思われないのですよ……それに私は貴方を愛する資格がない」


「それは貴方が私を騙していたからですか?」


「騙す……?なんのことでしょうか」


 あくまでも、あの十月十日を過ごしていたのはマーガレットでなくてはならない。私はデイジー。マーガレットではないのだ。


「デイジーさん。なぜ私がマーガレットという女性と婚約したか分かりますか?」


「マーガレットは美人でしたから」


「違いますよ。確かに彼女は美しかった。でも、それだけじゃないんです。彼女は私の初恋の人だったんですよ」


「え?」


 私の瞳をしっかりと見つめて、アルベールはいたずらつぽく微笑んだ。


「母を亡くして、しばらく。私は父に厳しく育てられました。涙を流せば鞭で叩かれ、強くあれと言われたのです。父は私をパーティーに連れ回しました。幼い私にこの世界で生きていくための術を身につけさせてくれようとしたんです。でもね、私はその時に浴びせられる大人たちの気持ちの悪い目が耐えられなかった。だからこっそりと抜け出して一人で泣いていたんです。そうしたら、一人の女の子がお菓子をもって現れました」


「その子はどうしてそこにいたのかしら」


「彼女は妹の代わりに妹としてパーティーに出ていると言いました。そうすると両親が褒めてくれる。それが嬉しいと」


「ひどい両親ね」


「はい。その子は言いました。頑張っても誰も自分を見てくれない。妹として頑張らないと、誰も私を見てくれない。それがたまらなく嫌になると。そう言って、それでも笑う彼女の強さが私にはとても眩しかった」


「そのあとはどうしたの?」


「私たちは遊びました。お菓子をたらふく食べて、かけっこをして、かくれんぼをして……。とても楽しかった。それが母が死んでから、私の唯一子供らしいといえる思い出です。そして、大人になったある日。社交会で彼女を見つけたんです。一目で分かりました。あの時の女の子だと。話してみたい。そう思ったんです、でも。たくさんの人々に囲まれて、人嫌いの私にはそこに飛び込んでいく勇気がなかった。弱虫だったんです。昔と変わらず」


「それで婚約者に……?」


「ええ、どうやらその人物は。相変わらず妹のふりをした姉だったようですが」


 ニヤリと笑い、アルベールはもう一度手を伸ばしました。


「デイジーさん。いえ……デイジー。もう一度言います。貴方が私を騙していたからなんなんですか。私はもっとひどいことをしました。貴方の大切な妹が、私の元から離れてくよう仕向けたのですよ?食事もベッドもともにすることなく、手近な男を近づけ、出ていかせた。まぁ、安心してください。手が早いが、仕事はできる男です。妹さんのことは多少は幸せにしてくれるでしょう。だから貴方も幸せになってください」


 私はさっきから、この手を取らない理由を必死で探している。それなのなこの男はそんな私の気持ちを見透かすように矢継ぎ早に話を止めない。こんなにこの人はおしゃべりだったでしょうか。


「愛していますデイジー。どうか私の妻になってください」


 私がおずおずと伸ばしかけた手を、見逃さないと言わんばかり、彼は迎えて、掴んで、ひっぱった。


 そしてそのままぎゅっと私を抱きしめた。


「答えは……?」


 囁く彼に、そっと私から口付けした。


 甥っ子は囃し立てるようにきゃきゃっと笑いながらそれを見つめていた。




 公爵家で息子が走り回る。


 夕食に帰ってきた父親がそれを抱き上げた。


「どうした。わんぱく坊主」


 父親に抱きしめられ、息子はくすぐったそうにくすくすと笑った。


「あのね、あのね。お父様。もうすぐ僕はお兄ちゃんになるんだって」


 息子にそう告げられた父親は、しばらく要領を得ずに首を傾げてたが、すぐに思い当たって私を見つめた。


 私は自らの腹を撫でながら少し恥ずかしそうに頷いた。


 夫は息子を片手で抱いたまま私のことを抱きしめ、息子と私に代わりばんこに何度もキスをした。くすぐったくて恥ずかしくて、笑みが溢れる。


 これからまた始まるのだ。あの時はまた違う。素敵な十月十日が。


end


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― 新着の感想 ―
[一言] 息子(?)は公爵の血を引いていないんですが、 後継とかはどうするんですかね。
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