6話 雪と蒼と儚い私
「はーただいまー」
志とつばめは、近くのファミレスへと昼食を食べに行って、今帰ってきたのだ。
帰宅した二人は、リビングのソファへと腰を下ろす。
つばめは、机に置きっぱなしになっていた小説を手に取る。
「……それ……いつも読んでるけど、飽きないん……ですか……?」
まだ志は、つばめと話すのに、少し敬語を使ってしまう。
話しかける時は、少し緊張気味で声も小さくなってしまう。
「そうですね……。この小説は、当時幼かった私の心に凄く刺さった作品なのです。私が小説を読み始めるきっかけになった、私にとって運命のような一冊です」
つばめは小説を優しく撫でるようにしながら言う。
「心に刺さった作品……ですか……」
「はい。『雪と蒼と儚い私』って作品で、何度読み返してみても本当に感動するんです」
「あ、それ知ってます。数年前に映画化してました……よね……」
この作品、実は志も知ってはいたのだ。ただ当時の志は、恋愛小説というものをあまり好んでおらず、読む気はなかった。
「そうなんです。観たんですか?」
「あ、はい。一応……」
映画も観る気はなかった志だが、妹の圧に負けて、一緒に映画館まで観に行ったことがある。
幸い志が思っていた以上に、ストーリーや音楽も充実していて、観て良かったと思える映画ではあった。
ただ、志としてはあまり印象に残らない映画だった。
「小説……好きなん……ですか?」
「そうですね。私はこの作者の作品が好きなので、この人の別の小説も部屋にたくさん置いてあります」
小説というものを好む人には、ニ種類の人間がいる。
推理小説、恋愛小説など、自分の好きな小説のジャンルを中心に読んでいく人。自分の一番好きな作家の作品を中心に読んでいく人。
つばめは圧倒的後者である。
「…………恋鳥さんも、そんなに小説読むんですか……」
「はい。でも、そういう椎咲さんもかなりの小説を持っていませんでしたか?」
「あー……そう……です……ね。ラノベなら大量に持ってます……」
志は、中学二年生の時にライトノベルにハマり、異世界系から恋愛系など、ほとんどのジャンルを読み漁っている。そのおかげか、志の部屋の本棚はライトノベルで埋め尽くされている。
「ライトノベル……ですか……」
「面白いから、今度読んでみてよ」
「そうですね。考えておきます」
そう言うとつばめは、ソファから立ち上がり、小説を片手にリビングを後にした。
そのまま二階へと行き、自室に入っていった。
「あ、宿題……」
夏休みの宿題に何も手を付けてないことを思い出した志は、つばめの後を追って自室へと戻った。
──『数学I』と書かれた問題集とノートを机に広げて、志はスマホを見ていた。
「駄目だ……。やる気が起きない」
志は特別に成績が良いというわけでもないが、特別に悪いというわけでもない。一応定期考査では、半分よりかは上の成績を取っている。
だが、勉強は嫌いだ。
特に数学と理科が嫌いだ。
そう、志は文系なのである。これほどライトノベルを読み漁るほどなのだから、文章を読んだりそれについて考えたりすることは全然苦ではない。むしろ楽しいとまで思えるのだ。
だが、理数は嫌いだ。
今、夏休みの宿題として出ている数学の分野は二次関数。志が最も苦手とする関数である。
でも解かなければいけないのは分かっている。だが、志の手はシャープペンシルではなく、スマホへとのびる。
(……そういえば『雪と蒼と儚い私』ってどんな内容だったっけ……)
志は検索サイトを開いて、内容について検索する。
「あぁー!! こんなことやってる場合じゃないって……!!」
志はスマホを、ベッドに向かって落とす。
数学だけ、夏休みの宿題が異常なまでに多いのだ。明らかにこのペースでやっていると、最終日の夜に泣きを見ることになるのは確実だろう。
志は向き直って、シャープペンシルを握る。
だが、解らない。
(一)の問題ですら解く気になれない。志は再びシャープペンシルを机に転がし、天井を見上げる。
(『雪と蒼と儚い私』って確か時を巻き戻して……みたいなストーリーだったような……)
志は数学の問題から逃げるために、映画の内容を思い出していた。
──橋の上で祈ると自分の寿命と引き換えに、時が巻き戻るという橋があった。
主人公とヒロインは出逢い、ともに過ごす時間を経て両片想いの関係となる。しかし、ある日事故に巻き込まれ、主人公が死んでしまう。主人公が死ぬ前に戻りたいと祈り、ヒロインは時を戻す。しかし、今度は違う事故でヒロインが死ぬ。主人公は何回も祈るが、時が戻るたびにヒロインが死んでいく。
最終的に主人公は、寿命を引き換えすぎて死ぬ運命になるのだが、実は今まで時の巻き戻しの引き換えになっていたのは、ヒロインの寿命だった──
的な話だったよな。
と、志はところどころ違うものの、映画のストーリーを頭の中で動かしていた。
「あー駄目だ。気になる。恋鳥さんに借りに行こう……」
志は自室をでて、つばめの部屋のドアをノックする。
「はい? どうかしましたか」
「あ、あの……さっき言ってた……小説貸してほしいんだけど……いいです……か?」
「別に構いませんよ。はいどうぞ」
つばめは何のためらいもなく小説を差し出した。
「ありがとうございます……」
「また感想聞かせてください」
自室に戻った志は、つばめの小説を見る。
小説本体を柔らかに包み込むようにブックカバーがつけられ、中にはつばめが読みかけであろうところにしおりが挟まったままだった。
──結局、志は小説にどっぷりとハマってしまい、数学の宿題は机に広げたまま一日が終わってしまった。