クワを振る女+血まみれの男が部屋に入ってきた話
「それじゃあ今日のトークテーマは、日常で起きたちょっと不思議な話です。
ちょうど最近、僕もあったんですよ。
自動販売機でさ、コーヒーを買ったの。
で、手を入れて拾ってみたら、2本あったの、コーヒー。
お金は1本分しか入れてないのに、2本!
思ったのよ、2本まとめて出てきちゃったのかなあとか、前のひとが忘れていったのかなあとか。
でもさ、コーヒー買って、忘れていくことってある?
不思議だよねー。
とまあこんな感じで、ちょっとしたことでもね、オチがつかなくても何でもいいんで、みなさんからのお電話待ってます。
さあ、さっそくひとり目がつながったかな?」
「あのー、すいません、ついさっきのことなんですけど」
「はいはい。君がひとり目ね」
「あ、はい。……あ、えっと、都内の大学生の……たくまと言います」
「うん、たくま君」
「はい。いつもラジオ聞いてて、絶対お話したいと思ってて、いつか電話しようと思ってて……。
この番組の電話番号も携帯に登録してたんです。もうチャンスがあれば絶対に連絡したくて」
「あはは、嬉しいねえ、そう言ってくれると。いま、外からかけてるの?」
「あ、そうなんです。ちょっと雨も降ってて……口も回らなくて、すいません」
「大丈夫。落ち着いて話してくれればいいよ」
「はい。あのー、不思議なことの話なんですけど、女のひとがいて……棒みたいなものを持ってて、振ってたんです」
「棒?」
「そこはちょっと入ったところの狭い道で、路地って言うのかな。
雨も降ってたし、暗いし、なんなのかな? と思って……」
「ほう、なんだろう」
「で、近づいてみたら、クワだったんです。持ってたの」
「クワ! そうか、畑仕事をしてたんだ。路地だしね。露地栽培かな?」
「うーん、いや、違うと思います。畑じゃなかったし」
「あはは、そうだよね。字が違うもんね。もともとは同じ意味だったみたいだけど」
「そうなんですね。それで、『あっ、クワだ』と思って……見てたら女が振り向くんです」
「うん? うん」
「それで、僕に向かってクワを振り下ろすんですよ」
***
コンビニで夜食を買うことにした。
今日は、「電子レンジを使ってやるものか!」という気分だったので、温めずにすむ鶏ささみ入りのサラダと、肉うどんを買った。
そういう気分の日はある。
電子レンジの「チン!」という音が、聞きたくないのだ。
あれはもうちょっと思いやりのある音になってくれないかな、と思う。
あの音を聞くと、なんだか電子レンジに責められている気分になってしまうのだ。
店内をぐるりと周って、買い忘れたものはないかな、と確認する。
このマンガは……どこまで買っただろう。
よく思い出せない。
今度来るときはマンガの巻数をメモしてから来よう、と心に決める。
店を出て、空を見上げると、雨が降っていた。
***
「えっえっ? クワを振り下ろしてきたの?
いや、冗談でしょう。だってそんなことされたら、たくま君無事では済まないよね?」
「はい、そうなんです。
血はあんまり出なかったけど、いや、出たのは出たんですけど、雨で流れて。
とにかく何度も振り下ろしてくるんで、身体中が痛くて……倒れても何度も振り下ろしてきて……」
「えっ? うん? えっ、どういうことだろう。
たくま君は警察……病院に連絡したの? いまどこ?」
「うーん、警察の番号がわからなくて……それで……なんか、番組に連絡しようって。
声を聞いておきたいなって。
絶対にこの番組に電話したいなって思ってて、いつも聞いてたから……。
この番組の番号は登録してたから……」
「うん、うん。えっ、たくま君。いまどこなの? 警察に連絡してないってこと?」
「……いま……路地のとこです」
「ラジオ番組に電話してる場合じゃないよね!? 自分で電話できる!?」
「ん……どうだろ……」
「たくま君!? 声ちっちゃくなってるよね!
そうだよね、最初から思ってたけど、普通の声じゃないもんね!?
ダメだよ、返事してね!?」
***
傘を持ってきていないから濡れて帰ることにした。
買って帰ってもいいのだけれど、そこまでひどい雨でもない。
それにコンビニの傘は高いのだ。
濡れることはもう諦めているので、ゆっくりと歩く。
夜だから、辺りは暗い。
水に濡れた道路というのは、独特の暗さを持っている。
あちこちの光を反射しているから、真っ暗というわけではない。
なのに、たしかに暗い。
それに冷たい。
僕はこの暗さは嫌いではなかった。
そうやって歩いているうちに、路地にさしかかった。
***
「えっと、ちょっと頭が回らなくて、すいません……」
「いいよ、たくま君は謝らなくていいよ。
じゃあ、警察には電話してない。病院にも電話してない。
いま路地に倒れているところ。路地の場所はよくわからない。
そういうことだね?」
「はい……あ、はい、そうです。
ごめんなさい……ちょっとボーっとしてて」
「たくま君! いいから返事だけはしてね! 電話切らないで!
……さあ、みんな聞いた?
ヒントは都内、コンビニから少し歩いたところ、ひとがほとんど来ない路地。
これで特定するのは難しいけど、もし心当たりがあったら見に行ってくれないかな。
たくま君が倒れているかもしれないんだ」
***
路地に入るといっそう暗い。
うっかり水たまりにも足を踏み入れてしまった。
もうどうせ濡れているから気にしないのだけれど。
生ごみのようなものが落ちていたから避けて通った。
車は通らないから、大きく避けて道の真ん中を歩いても問題ない。
そうやって歩いていくと、すぐに僕の住んでいるアパートが見える。
***
「え……あ……ああ……」
「ん? どうした? たくま君!?」
「あ……いま通ったひとがいて」
「えっ、ひとが来たの。良かった! すぐに病院に連絡してもらって! 本当に良かった!」
「それが、通り過ぎちゃって」
「えっ!? は、えっ!?」
「あれって思って……声をかけようとしたら声が出なくて、そのまま通り過ぎちゃって」
「ちょっと! どうしてだろう。いま通りすぎた人! この番組聞いてないかなあ!
あなたが通り過ぎた路地に、たくま君が倒れてます!
お願いだから一度戻って、確認してみてくれないかなあ!」
***
濡れてしまったので、服を着替える。
そうすると、食欲がなくなってしまった。
買ってきたサラダの、鶏ささみだけをかじる。
鶏ささみの「とり」って、鳥じゃないんだよなあ? などと考えたりする。
そのうちに眠くなってきた。
お風呂に入ってから寝ないとなと思ったのだけれど、それもなんだか面倒くさくなって、ベッドにもぐりこんだ。
***
「あ、でもいまのひと……あそこのアパートに入っていったから、そこに住んでるひとなのかな」
「お、おお。そこから声は聞こえそうかな?」
「うーん、大きな声は出せなくて……すいません」
「いいよ、いいから! あやまらなくていいから!」
「でも、あそこか……あそこまでなら行けるかな……」
「ん、うん……そうか、ほかにひとはいないもんね。
そのアパートならさっきのひとは確実にいるだろうし、助けてもらえるかもしれない」
「はい……ちょっと……行ってみます」
「よし、よし! 頑張れ! たくま君!」
***
玄関のほうで物音がした。
猫かな? と思って耳をすますが音は続かない。
こういうのが、実はゴキブリだったりするのだ。
聞こえなかったふりをして目をつぶって、毛布をかぶる。
***
「着き……ました……」
「よくやった! たくま君、よく頑張ったよ!」
「はい、お話しできてうれしかったです。最高の思い出です……」
「うん、違うよね、たくま君! 着いたんでしょ、アパート!」
「あ、そうです。えっと……どうすればいいのかなあ……」
「うん、よし! チャイムを鳴らしてみよう! そうすればあとは中のひとがなんとかしてくれるはずだから!」
「あ、そうですね……」
***
ピンポーンとチャイムが鳴る。
うちだろうか。
たぶんそうだ。
こんな時間に何の連絡もなく訪ねてくる知り合いはいない。
都会に住むようになって、こういう突然の訪問には警戒心が働くようになった。
心当たりのない訪問にドアを開けてもろくな目に合うことはない。
息をひそめていると、チャイムの音は続かなかった。
***
「ああ……鳴らしたんですけど、出てこないですね……」
「どうしてだろう! ねえ、中のひと! お願いだから出てきてくれないかなあ!」
「ちょっと、無理したみたいで……きついです……」
「たくま君!? たくま君!」
「はい……ん、あれ……?」
***
暗闇の中でふと思ったことがある。
帰ってきたとき、服を着替えることで頭がいっぱいだったけれど、玄関の鍵を閉めただろうか。
***
カチャ。
***
耳をすますと、ズルズルと何かを引きずるような音が聞こえる。
外ではない。
部屋の中から聞こえるような気もする。
***
もう耳をすませる必要もない。
部屋の中から聞こえている。
男がわめいているような、奇妙な小さな音も聞こえる。
近づいている。
何かが。
確認しなければならないだろうか。
確認せずに済む方法はないだろうか。