六日目(最終話)
六日目
私は汗でぐっしょりと濡れた寝巻きを脱いで新しい服へ着替えた。何かを持っていくべきが迷ったが、多くのものは必要ないように思えた。鍵に煙草、財布に携帯電話だけを持って玄関へ向かった。
「朝までには家に帰れるのか?」
私の言った言葉を無視して大輔は歩き始めた。これ以上は話かけても意味がないと思い私は諦めてその後を追った。
「まぁ乗れよ、話はそれからだ」
そういうと、マンションの駐車場に停まっていた車を指差した。私は助手席に座ったことを確認すると、車はエンジン音を鳴らしマンションを後にした。
「急に押しかけて悪かったな。でもこんなことを話せるのはお前しかいなかった」
「いいさ。次からは来る前に電話の一本でも入れてくれれば」
「次があればな」
大輔は簡単にそう言い捨てた。私は煙草に火を点けた。
「お前な、俺がどんな状況か知ってんだろ?」大輔はハンドルを叩いて笑った。
「煙草じゃ人は死なない、お前だって死なないさ」煙草の煙を逃すために窓を開け、煙を外に吐き出す。
「弱気になってたかもな」
「今死なれちゃ困るんだ」大輔はその理由を探るようにこちらを見た。
「事故になったら僕まで死ぬことになる。お前と心中はごめんだね」
そう言った私の肩を大輔は軽く小突いた。そして大輔がアクセルを踏み込んだのと同時に、車はどんどんと加速していく。まるで刻一刻と近づく朝日から逃げるように。
私が三本目の煙草に火をつけた頃、車内には会話は無く車は既に私の知らない道を走っていた。そして料金所を抜けると、高速道路へと入っていった。普段電車で移動する私にとっては大輔がどこに向かおうとしているのかわからなかった。そもそも目的地などないのかもしれない。まだ外は暗く、大型のトラックを除けば道路に車は無かった。
「前みたいに、どこに向かってるのか聞かないのか?」
大輔はそう言ったと同時にウィンカーを出すと、追い越し車線に入った。
「聞いてもどうせ答えないんだろ」
「じゃあ当ててみろよ」抜き去ったトラックが後方の闇へと消えていった。
私はしばらく考える。そして口を開いた。
「海かな。天国じゃ海がどれだけ美しいかを話すんだろ?」これは昔見た映画の中で登場人物が言っていた言葉だった。
「俺は海よりも山のほうが好きだな。他の奴が海のことを話すなら、俺は山の魅力を語らせてもらうぜ」大輔はそう言って笑った。
「天国の人はお前の長話に付き合わなきゃいけないなんて不幸だろうな」
「いいんだよ。天国には待ってる奴が大勢いる。友達や家族が来るまで時間は山ほどあるから逆にありがたがられるかもな」
「でも」私はポケットから煙草の箱を取り出した。
「天国に煙草はないだろうね」こちらを向いた大輔が首を傾げる。
「聞いた話じゃ自殺した人間は天国には行けないんだ。だから天国にいるのは煙草を吸わない人だけなんじゃないかな」
「なら地獄で山の話をするさ。どのみち時間があることには変わりない」
それを聞いた私は煙草の煙をゆっくりと肺に吸い込む。そしてふと道路に設置された案内板を見て、私の頭の中で何かが腑に落ちた。
「実家か。目指しているのは」
「惜しいな、だけど海よりは近い」
それを聞いた私は思い出した。最後のキャンプは確か大輔の実家の近くであったことを。
「そんなに気に入っていたんだね」大輔は私の次の言葉を待っている。
「四人で最後に行った山だ」
「正解だ」大輔は手を叩く。
私は体の力が抜け、座席へ背中を沈ませる。ならば後は到着まで考えることはないだろう。少なくとも今だけは。
そして高速道路を降りた車は一度コンビニの駐車場で停まった。飲み物を買ってくると言って車から降りた大輔を私は窓から眺めている。しばらくすると袋を持った大輔が車内へと戻ってきた。そして私に缶コーヒーを渡すと、車を発車させた。
車は何度か右折と左折を繰り返し、徐々に建物の数が少なくなっていく、空の黒に若干の白さが混ざり始めた。そして舗装されていない道路に入り、揺れる車内で飲み干した缶が立てるガラガラとした音に耳が慣れ始めたところで車は停車した。
車を降りた私がまず感じたのは、空気の冷たさだった。しんと静まり返った場所では自分達が異物であることを感じずにはいられない。山の入り口には階段を照らすためだけの街灯が誰に頼まれたわけでもなく、着実に自身の仕事をこなしていた。
「この暗さじゃ上までは行けないか」そう言った大輔は、階段に座った。
私は同意を示すと大輔の横に座り、ポケットの中の煙草を取り出した。しかし何か大きな力を感じ、それをそのままポ戻した。座っている我々の間に会話は無く、時折木々が風によって揺れる音だけがさざなみのように響いている。
「覚えてるか?キャンプに行ったこと」大輔は私の目を見てそう言った。
「あぁ、覚えてる」
「あれから四人で集まるなんてことは無くなっちまったもんな」
「学生が終わって社会に出なくちゃ行けなかったからね」
「それだけじゃないだろ、まさか美咲が大怪我するなんてな」
大輔の言葉を聞いた私は今しかないと思った。ここで話さなければならない。そして私は口を開いた。
「お前に聞いてほしいことがあるんだ」
「奇遇だな。俺もお前に話がある」
大輔は私から目を逸らさない。それは私も同じだった。
「あの事故について、お前に話さないと行けないことがあるんだ。長い話じゃない聞いてくれないか」
大輔はうなづいた。それを合図に私の目には木暮の姿が浮かぶ。もう写真は必要ない、きっと過去を思い出すのはこれで最後だろう。そして私は話始めた。
我々は夕飯が終え、囲んでいた焚き火は徐々にその勢いを失っていた。私の隣に座っていった大輔は酒がまだ入ったコップを握りしめたまま寝息を立てている。私は何をするわけでもなく、消えかかった焚き火に線香花火のような、一種の寂しさを感じていた。何分か前に亜美は木暮と共にテントへと戻っていて、そろそろ焚き火を消して私も眠ろうとしたその時だった。
「村井さん」
突然暗闇から声をかけられた私は思わず、肩を震わせた。その声は紛れもなく木暮のものだった。
「驚かせないでほしいな。大輔ならもう眠ったよ」
あの件以来、私と木暮の間には深い溝があった。私は元々自分から人に話しかけるような性格ではないが、木暮は違った。ただその対象から私が外れただけだった。
「少し歩きませんか?」
そう言った木暮の顔を見ることはできなかった。彼女の顔を見るにはあまりにも暗闇が広がりすぎていた。
「流石に危ないんじゃないかな。もう暗いし、焚き火も消えそうだ。戻ってこれなくなるかもしれない」
すると木暮はどこかからライトを取り出したらしく、その光を私の顔へ当てた。その眩しさに思わず、私は手で顔を覆った。
「なるほど、それがあればまぁ安心だ」
そう言った私の手を掴み、彼女は歩いていく。私は後ろに見える焚き火が徐々に小さくなっていく様子を見て、若干の不安を覚えた。
そしてライトの光を頼りに森を抜けると、そこは開けた場所でライトが無くとも互いの顔が見えるくらいには明るかった。
「綺麗」
そう言って木暮は、大きく手を広げた。それほど高くはない山だが落ちればどうなるかわからない。
「落ちたら大変だ」
そう言った私に彼女は笑みを浮かべる。思えば自分に向けられた木暮の笑顔を見るのは久しぶりだった。
「こうやって話すのは久しぶりですね」
「うん。確かにそうだ」
「何で私がここに呼んだかわかりますか?」
その質問に対して私は答えを持っていなかった。ただ彼女の後ろに見える夜空の星の一つ一つが私を凝視している様な気がして、目を逸らした。
「君に酷いことをした」
「何が酷いことなんですか?好きでもないのに私を抱いたこと?それとも私を抱いているときに大輔さんのことを考えていたこと?」
あえて口に出すということはおそらくそれは答えではないのだろう。ただそうなると私の思考は暗礁に乗り上げることになる。
「両方。本来なら僕は君の前から消えなきゃいけなかった。でもそれはできなかった」
私の言葉を聞いた彼女は首を振った。まるで私が見当違いなことを言っているかのように。
「私は村井さんが大輔さんを好きなことも知っていて抱かれました。だからどちらも違う。このことを亜美や大輔さんに話せばあなたを追い出すことだってできた。でも私にはできなかった」木暮は息を吐いた。
「村井さんは大輔さんが好きなんでしょ?ならなんで行動しないんですか?」
「僕にはそれをする強い意志がない。それに大輔がいなくなることに耐えられそうもない」ただそれだけだった。私は幸せにはなれないのだから。
「私はまだ村井さんが好きなんです。嫌いになれない」そう言った彼女の目には涙が溜まり。夜空を反射させている。
私は木暮の元へ近づいた。しっかりと向き合わなければならないとそう感じた。
「だめ、来ないで」そう言って、彼女は一歩後ろに下がった。
しかし、そこに地面は無く彼女は私に手を伸ばした。
一歩だった。踏み出すことができたはずの一歩を私は躊躇った。私は先ほどまで彼女が立っていた場所に立ち、身を乗り出した。そこにはまるで誰かが失くした人形の様に彼女が倒れていた。酷くリアリティに欠けたその光景を見て、私は呆然と立ち尽くすしか無かった。降りて彼女の安否を確かめるべきだと思った。高さは二メートル程度だろう、しかし私は降りることをせず、記憶を頼りにキャンプ場へと走った。
ライトも無く、月明かりで照らされた道を記憶を頼りに走った。それほど遠くはないはずなのに永遠に元の場所には戻れないような、そんな錯覚に囚われた。木の根に足を引っ掛け派手に転倒する。額に痛みを感じ、指でその部分に触れると熱くねっとりとしたものが流れているのがわかる。だがそんなことに構っていられなかった。
息を切らし、やっとの思いでキャンプ場にたどり着くと、私は眠っている大輔の肩を揺らした。
「どうした?小便でもー」
冗談を言おうとした大輔は、血で濡れた私の顔を見て血相を変えた。
「木暮が」
肺が酸素を求めてうまく喋れない。何かを話そうとしても苦しさから、声を出すことができない。そして私はその場に崩れ落ちた。
「おい!木暮がどうしたんだ?」
大輔の質問に答える代わりに、私は木暮が落ちた先を指差した。大輔の声で起きた亜美は、テントから出るとすぐに私に近づき、着ていた服の袖で私の額を抑えた。
「落ちたんだ。早く助けないと」
亜美の手を払って、二人にそう伝える。すると大輔はテントからライトを取り出し、私が指差した方向へと走って行った。
「亜美さんも行ってくれ、僕は平気だ」
若干呼吸が楽になると、私は亜美にそう伝えた。それを聞くと、亜美も大輔が向かった方向へと消えていった。
そして私一人だけになった。そこから先のことは途切れ途切れでしか覚えていない。警察が来て、それから私は病院へと運ばれた。その後、木暮は入院していて意識が戻っていないことを知らされた。大輔や亜美と何かを話したことを覚えているが、話した内容は覚えていない。それから就職活動を理由に我々は疎遠になっていった。
「僕が手を掴んでいれば、木暮が落ちることは無かった」
私は覚えている限りのことを話した。大輔は相槌を打つわけでもなく、ただ無言で話を聞いていた。
「僕が臆病でなければ、あんなことは起こらなかった」声が掠れていることがわかる。
「お前がそんなに抱え込んでいたなんて知らなかった」
そう言って大輔は私の肩を叩いた。いつものように勢いよく叩くのではなく、それはとても優しかった。
「ありがとう。話してくれて」
大輔はそう言うとしばらくの間、私の肩に手を置いていた。
空に白さが加わり、時計の針は午前四時を指していた。
「お前に頼みがあるんだ」大輔は立ち上がってそう言った。
「俺はもうお前にも美咲にも会うことはないだろう。これから起こることを受け入れてはいる。だけど俺の周りはきっと違う。受け入れられない」
「木暮を頼む。別に横にいてやれとか、そういう意味じゃない。俺がいなくなった後であいつを支えてやってほしい。こんな身勝手なことはお前にしか頼めない」
「でも僕は臆病者で彼女を助けることができなかった」
大輔は首を振った。
「今は違う。お前は変わった。一歩なんて簡単に踏み出せる」
「人は変わっていく生き物か?」私は返ってくる言葉を知っていた。
「そうだ。蛇の様に脱皮して生きていく」
大輔の目から視線を外すことができなかった。それでも私の答えは決まっていた。次は一歩踏み出せるように変わっていきたいと思った。
「努力をしてみる。お前のいない世界は退屈だろうけど、それでもきっと生きていくよ」
私はそれをはっきりと声に出した。
それを聞いた大輔は満足したように笑うと、ポケットから車の鍵を出して、私に投げつけた。
「お前には戻る場所もやるべきこともまだ残ってる」
「あぁ、いつかまた会えたら、山の話をしよう」
「そうだな、煙草も持ってきてくれると助かる」
そう言って我々は笑った。顔が痛くなるほど笑った。
そして笑い終えると私は車に向かい、ドアを開けた。そしてもう一度大輔の方へ振り返った。
「僕は君が好きだったんだ」
もうそこに大輔はいなかった。でも私は大輔を探さずにエンジンをかけると、その場所を後にした。きっとそれは伝わっている。私はそう思い、朝焼けの中車を走らせた。
七日目
この日は休日だったが、私は七時に目を覚ました。それから朝食にトーストを一枚食べ、珈琲を飲むと椅子に座って時計を眺めた。木暮が九時にここに来ることになっている。大輔がいなくなったことに対して私知りうることは全て話さなくてはいけないと思った。それ以外にも彼女には話さなくてはいけないことが多くある。
チャイムの音が鳴り、私は玄関を開けた。そこには木暮が立っている。
「君に話さないといけないことがたくさんある。大輔のことや僕らのことを」
エピローグ
お前と話をするときの為に、ここに今までのことを書き記しておく。まずは木暮について、お前がいなくなって彼女は少し動揺していたけれど何年かかけてそのことを受け止められたんだと思う。そのために僕は長い時間、彼女に色々な話をしなくてはいけなかった。でも彼女はあの日のことを今まで思い出してはいない。少なくとも僕はそう感じた。僕らはいい友人として付き合っていると思う。彼女が結婚したい人がいると言って、連れてきた男はとてもいい人だったよ。とても誠実で、何よりも彼女のことを愛していた。名前は書かないでおく、それはさほど重要ではないから。彼との結婚式は結局僕が担当して、友人代表としてスピーチもしたんだ。うまいスピーチでは無かったかな、きっとお前ならもっといい話ができていたと思う。そして彼らの間に子供が生まれて、その名前を決めてくれって頼まれた。名付け親なんて、僕には荷が重すぎると一度は断ったんだけど、結局押し切られて名前をつけたんだ。お前には謝っておくけど、名前は大輔にした。彼は立派に成長している。彼は僕のことをおじさんって呼ぶんだけど、そう呼ばれると自分が歳をとったことを自覚するよ。
亜美さんは結局店を畳んで、実家を継いだんだ。彼女なりに葛藤はあったし、僕や木暮も随分と長い時間相談に乗った。それでも彼女は強い人だし、僕らの助けは要らなかったようにも見えた。お前のことを伝えた時の彼女の反応は薄かった。「へぇ、あいつらしいじゃない」と言って、特に気に留める様子は無かった。でも僕は彼女が一人で泣いていたことを知っている。本当に強い人だと思う。お店に何回か顔を出しているけど、彼女は変わらず元気でやっているよ。
最後に僕のことを書く。僕は今でもウェディングデザイナーの仕事を続けている。この仕事を始めた時は、人の幸せに携わる仕事がしたいと思っていたんだけど、僕はずっと自分に嘘をついていた。自分を幸せになれないと決めつけて、他人の幸せを見ることで空っぽの心を埋めようともがいていた。でもお前と約束した日から少しづつ努力をして変わったんだ。今も変わり続けていると思う。本心から人の幸せを願っているとそう言える。し仕事の話はこんなところだ。家族についてだけど、僕は今も独り身だ。不幸だとは思わないけれども、木暮の幸せな家庭を見ているとやっぱり少し寂しくは感じる。それでも木暮や亜美さん、多くはないけど新しくできた人との繋がりを感じて毎日を生きている。いつか僕はお前に友人はいらないと言ったけれどもそれは撤回する。友人はとてもいいものだ。最後にどうでもいいことを書く。残念だけど僕は煙草を辞めたんだ。新しく始めた趣味を長く続けるために、それとあんまり早くお前のところに行くと話すことがすぐに無くなってしまうから。それでもいつもポケットには煙草は入れている。これはお前と吸うためのものだ。忘れないで持って行くから安心してくれ。
そこまで書くと私はペンを置いた。そして今まで書いていた紙にライターで火をつけて燃やした。紙がゆっくりと灰になるのを見届ける。私は今、山の中で椅子に座って空を眺めていた。山の話をするために趣味で登山を始めたのだ。登山と言っても登山道を歩いて登れる程度の山だ。年齢には勝てない。
「おじさん、もう起きていたんですか?」
それを聞いて、私は声をした方を振り向く。
「手紙を書いていたんだ、でももう燃やしてしまった」
私の目には青年の姿が映っていた。彼は大学生で聡明な顔立ちをしている。まだ寝ぼけているらしく何度も欠伸をしている。
「せっかく書いたのに燃やしてしまってよかったんですか?」青年は灰になった手紙を見下ろしてそう言った。
「いいんだ。話す前に内容を知っていたら話を聞くのがつまらないだろ?」私は笑ってそう言った。
それを聞いて、青年は首を傾げる。
「なんだかよくわからないけど、おじさんが笑っているならそれでいいです。おじさんはほんと好景気みたいな顔をしてますね」
「あぁ、僕はいつだって好景気だ。決して不景気な顔はしないさ」
そう言って私は立ち上がった。そろそろ下山しなくてはいけない時間だ。
「さぁ帰ろうか。聞いた話じゃこのまま大学に行くんだって?お母さんが心配してたよ」
「僕は大丈夫です。おじさんと違ってまだ若いんですから」青年は胸に拳を押し当てて答えた。
「そうか、まぁ大輔のことだ。君がそういうなら大丈夫だろうな」
そして私は手紙の最後に書こうとしていた言葉を思う。
僕はお前の所に行くまで、何度も脱皮をしながら生きていく。そして最後まで生き抜いて、やっとお前に会えたなら、長い話をしよう。お前が長いと文句を言うまで、僕が話すから覚悟しておけよ。僕に変わるきっかけをくれた親友へ。