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皮を脱ぐ話  作者: 天野雷
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五日目

五日目

 喧しいベルの音を聞きながら私は目を覚ました。ベッドの上の置き時計は七時を示している。私はベッドから這い出ると、寒さに思わず身震いした。昨日は暖房を入れずに寝てしまったらしい。しかしここ最近では最も気持ちの良い目覚めだった。頭ははっきりとしていたし、腹も空いている。私は台所に行き、昨日食べきれなかったパンをチーズトーストにした。朝食を取りながらPCを立ち上げると、仕事用のアカウントにログインし、メールを確認する。昨日仕事を休んだことで、何件か確認が必要なメールが溜まっていたが、処理し切れないほどでは無かった。何せ時間はたっぷりとある。私は朝食を食べ終え、シャワーを浴びているとリビングに置いてあるスマホから着信音が流れているのが聞こえた。私は頭を洗っている最中だったが、思わずシャワーを止め、タオルを腰に巻きつけるとスマホを確認した。私には基本的に電話はかかってこない、仕事以外で私から

誰かに電話をすることは稀なのだから当然だが、それゆえに電話がかかってくると体が反応してしまう。スマホの画面には大輔の名前が表示されている。私が電話に出ると、相手は私の応答も聞かず話始めた。

「もしもし?村井くん?」

電話の相手は木暮だった。酷く慌てている様で、息も切れている。

「そうだけど、どうかした?」

私は相手を宥める様に、ゆっくりと話した。しかしそれはあまり意味がなかった。

「大輔が、大輔が……」

木暮は何度も大輔の名前を呼んでいる。何か良くないことが起こったのだと思い、思わずスマホを握る手に力が入る。言葉を出そうとするが、空回りしてしまってうまく口が動かない。

「病院にいるのだけど、私気が動転しちゃって」

木暮の会話は要領を得ていなかったが、慌て具合からして何か良くないことが起こったのだろう、それが大輔にであることは明白だった。

「わかった、今すぐは無理だけと、昼までにはそっちに行くよ。とにかく落ち着いて」

私がそう言うと、木暮は何度か深呼吸をして、私に病院の名前を告げた。今すぐにでも飛んで行きたい気分だったが、おそらく治療中である状況で私にできることは何もない。せいぜい神に祈ることしかできないが、私は無宗教だ。困ったときだけ祈っても、おそらく神はその願いを聞いてはくれないことを私は知っていた。

木暮は病院の名前を聞くと、医者に呼ばれた様で電話を切った。私は切れる前に再度昼までには行くことを伝える。

 そして電話が切れると、私は思わずくしゃみをした。そこには頭を泡だらけにして、タオル以外何も身に纏っていない愚か者の姿がそこにはあった。私は窓に反射したその姿を見て、まるで宗教画の様だと思ったが、それよりも寒さが勝った。私は再度シャワーを浴び、服を着替えると椅子に座って、大輔の身に起こったことを考えた。しかし考えれば考えるほど、考えは飛躍しありもしない妄想の類になってしまって、何の意味も無さかった。今はどうすることもできない。

 出社した私は、上司に昨日休んでしまったことに関して謝罪を行った。しかし返ってきたきたのは私が想像していた罵倒の言葉ではなかった。

「おぉ、村井。昨日は病院だったんだろ?それなら別に謝ることはないよ。すっかり顔色も良くなったみたいだし、どっか悪かったのか?」

上司がそう言ったのを聞いて、私は休む理由に通院を使ったことを思い出した。

「はい、季節の変わり目で風邪をひいたみたいです。それで今日のお昼に検査の結果を聞きに病院に行きたいんですがよろしいですか?」

私がそう聞くと、上司は嫌な顔一つせずに、笑いながら答えた。

「そう言うことなら、ちゃんと直してもらってこい。お前は入社してから真面目にやってんだからこんくらいのことでガタガタ言わないよ」

それを聞いて、私は再度謝罪の言葉を口にし、自席へと戻った。顔色が良くなったかどうかは自分ではわからなかったが、上司が言うのなら高度成長期とまでは言わないまでも、不景気な顔ではないのだろう。私はそんなことを考えながら、昼まで溜まっていた仕事を片付けていた。

 そして、時計が十二時三十分を示した時、私は昼食に出ていく社員に混じって、会社を後にし、今朝木暮から聞いた病院へと向かった。電車の中で窓の外を眺めながら、大輔の容態について再び考えそうになったが、どれだけ私が焦ったところで電車は速くならないと思い腕時計と景色を交互に見ながら目的の駅に到着するのを待った。

 車両が目的の駅名を告げると、私は電車を降りて、改札を出た。そこからはスマホのマップを確認しながら病院へと歩いた。目的の病院は駅の近くにあり、私は自動ドアを抜けると、中央案内に座る女性に声をかけた。

「今朝こちらに来た、川口大輔の友人です。お見舞いに来たんですが」

私がそう尋ねると、紺色のカーディガンを着た女性はぶっきらぼうに紙とペンを私の前に置いた。

「こちらにお名前のご記入をお願いいたします」

それだけ言うと、女性は私と一度も目を合わせることなく、自らの作業へ戻った。私は名前を書き終えると、女性にそれを渡し、来客用のカードを受け取ると、部屋番号を告げられた。

私は女性にお礼を言って、その部屋に向かって歩いた。しかし大きな病院で目的の部屋を探すのに随分と時間と労力を要した。そしてやっとの思いで川口大輔の名が記載された部屋の前に立ち、私は呼吸を整えドアを開けた。

 その部屋は個人用らしく、随分と小ぢんまりとしていた。そして、目の前のベットに横たわる大輔に向かって私は声をかけた。

「おい、急に電話がかかってきたものだから心配したぞ」

私がそう呼びかけると、大輔は身を起こし、こちらを向いた。すると笑顔になり悪いと掌を合わせ、謝罪するとベットの横のパイプ椅子を指差し、私に座るよう促した。

「美咲が随分と慌ててな、村井には電話するなと言ったんだが、俺も意識がなかったみたいだしお前にまで迷惑かけちまったな」

「それで?どっか悪いのか?」

「どこも悪くなきゃ、こんな牢屋みたいな場所に寝かされてる訳ないだろ?」大輔は笑いながらそう言った。私がそれもそうだな、と返すと、しばらく沈黙が訪れた。

「お前、前あった時より顔色が良くなったな、なんかあったのか?」

「作用と反作用だ、お前の体調が悪くなれば、僕の体調はよくなる。お前が好景気な顔をしてるから、僕の顔は不景気なんだ」

「冗談を言えるほど体調が良いなんて、羨ましいな」

「それで」私はそう言うと、指を組みながら大輔の顔を見る。

「何があったんだ?別に話したくないなら言わなくても良いけれど、僕は会社を抜け出してまでここに来たんだ。それくらい聞く権利があると思わないか」

それを聞いて大輔は、しばらく無言で窓の外を眺めていた。その目はどこか焦点が合っていなくて、私には見えない遠くを眺めている様だった。

「煙草を吸わないか?」

大輔はこちらを向くと、指で煙草を挟む形を作りながら私に向かってそう言った。私は亜美の話を思い出す。

「煙草をやめたんだったら、僕に付き合って無理に吸わなくて良いんだぞ」

「やめてなんてないさ、俺は死ぬまで煙草を吸い続けるよ」

そう言ってベッドから大輔が立ち上がる。その時、足を滑らせたのか大輔の姿勢が急に低くなる。私はとっさのことで対応できず、大輔が床に倒れた後になってようやく手を伸ばした。

「平気か?」

「寝っ転がってたからかな、足が歩き方を忘れちまった」

大輔はそう言って、私の手を掴み立ち上がった。前をふらふらと歩く大輔を心配しながら、我々は病院の外の駐車場に立った。

「一本もらえるか?美咲に入院用の荷物と一緒に頼んだんだが、まだ来てなくてな」

私は自分の分の煙草を咥えると大輔に箱を差し出した。大輔は礼を言うと、煙草を咥えた。そして我々は煙草の煙を吸った。

「ここ禁煙じゃないのか?」

私がそう言うと、大輔は煙を吐き出しながら答えた。

「さぁ?まぁ今なんてどこも禁煙だろ、ましてやここは病院だ。生きたい奴がくる場所だぜ。自ら死ぬ様な奴に場所なんてないさ」

私はそれを聞き、ことさら大輔の容態が心配になった。

「式だって控えてるんだ、体は速く治さないとな」

それを聞いて、大輔はあぁそうだな、とから返事をして自ら吐き出した煙を眺めていた。

「それで-」私が話そうとした言葉を大輔は遮った。

「少し歩かないか?あの部屋は気が滅入って、治るものも治らなくなる」

私はあぁ、と言って、煙草を足で消すとまだ半分以上煙草を残している大輔の後ろを歩いた。

 しばらく歩いていると、我々の前に小さな公園が見えた。ここで良いか、そう大輔が言って我々は公園のベンチに腰を下ろした。

「流石に冷えるな」そう言って大輔は体を小刻みに振るわせた。

「そんな格好で来るからだ。これでよければ着てくれ」

私は来ていたコートを脱ぐと大輔に手渡した。大輔はそれを羽織るが、いかんせん私の方が身長が高い為、どこか不格好に見える。

「あの写真見てくれたか?」

「あぁ、今一生懸命スライドを作ってる最中だよ」

そうか、と大輔は言って、ゆっくりと私の方を向いた。

「これから言うのは俺しか知らないことだ、美咲にも亜美にも言わないでほしい」

私を見つめる大輔の目はとても真剣で、吸い込まれそうになる。

「誰にも言わないさ、僕に差し出せるものも、誓う神もいないけど。人生における数少ない友人に誓って口外しない」

私が言った言葉をかみしめる様に、大輔はしばらく無言になった。そして深呼吸をすると、ゆっくりと話始めた。

「俺さ、癌なんだ。今朝医者からそう言われた」

私は思わず耳を疑った。しかしその言葉は間違いなく私の耳から脳へと伝達された。

「ガーンって感じだよな。ほんと笑える。くそったれなほど笑えるよ」

私はうまく言葉を発することができなかった。それでも何か言わなければならないと思い、必死に口を動かす。

「そうか。だけど今の医療は進んでるんだろ?どうにだってなるはずだ」

その声は掠れていた。

「薬漬けにされて、ベットに拘束されるのを生きてると言えるなら、俺はあと一年生きれるかもな」

大輔は私が何か言おうと口を開いたところを手で制すると、再び話始めた。

「何も言うなよ。俺は受け入れてるんだ。男が一人地球からいなくなるだけだ、何も変わりゃしない」

煙草に火をつけていた。それは無意識で、自分にできることはこれしかないと思ったからだった。そしてそれを一口吸うと、大輔に差し出した。

 大輔はそれを無言で受け取ると、大きく息を吸った。ジリジリと煙草が燃えていく音が私の耳に聞こえる。

「お前が受け入れているのなら、僕から言えることはないのかもしれないな」

そう言って一呼吸おく、だがそれを言わざるえなかった。

「木暮はどうするんだ?」

大輔は指に煙草を挟んだまま、こちらを見つめた。

「式はやってやりたいんだ、あいつは幸せにならなくちゃいけない。その権利があると思う。でも俺は隣にいてやれない」

そう言った大輔の目を私は見つめた。淡く茶色の目玉には、私の顔が写っている。私に何かできることはあるのだろうか。いくら考えてもその答えは出なかった。その時遠くから声が聞こえた。

「こんなところに居たの?看護婦さんが血眼で探してたわよ」

そう言って木暮は小走りで、我々の元へと近づいてきた。大輔は煙草を地面に落とすと、足で火を消した。

「悪い、村井と静かな場所で話したくてな」

そう言って大輔は立ち上がった。それに釣られて私も立ち上がる。

「あ!煙草。やめるって言ってじゃない」

火が消えたばかりの煙草を見つめながら木暮はそう言った。かすかにだが煙がたなびいている。

「村井から一口もらったんだよ」

大輔はそう言うと、木暮の元へと歩いていく。そして私の肩を叩くと、無言で目を合わせた。本当に言ってないんだな。私はそう思った。

 我々が病院に戻ると、受付に居た無愛想な看護婦が大輔と私に向かって、勝手に出歩かれては困りますと、目を吊り上げながら声を荒げた。しかし病院で勤務しているとそうなるのか、声のボリュームは小さく、しかし怒っていることが伝わってくる。低く唸る様な声だった。大輔は平謝りすると頭を下げた。そして木暮も私もそれに合わせる様に謝罪をする。そして病室に戻ると、木暮はせかせかと大輔の入院用の荷物を荷ほどきした。

 私はそれを眺めながら、自販機で買った珈琲を啜っていた。大輔はベットに腰掛け、木暮を眺めている。そして軽い世間話をしていると、木暮が昼食に行かないかと誘ってきた。

「病院の一階に食堂が入ってるんだって、お昼がまだなら一緒に行かない?」

「あぁ、そうだね。そいえば何も食べていないだった」

時計は一時を少し過ぎた頃だった。あまりゆっくりはしていられないが、なんとでも言い訳はできるだろうと思ったし、このまま一人になってしまうと大輔の告白を受け止められない自分がいた。

大輔は自分も行きたいと言ったが、木暮がそれを制した。じゃあ行きましょうと言って病室を出た木暮を追いかけようとした時、大輔に呼び止められた。

「忘れもんだ、まだ外は寒いぞ」

そう言って私が貸したコートを投げてきた。私はそれを受け取ると、また来るからなと言って病室を後にした。

 先を歩く木暮に追いつき、迷路の様な病院内を何分か歩くと、食堂へとたどり着いた。

お昼時ということもあり、席はほとんど埋まっていたが、運良く窓際の席が空いているのが見えた。

「僕が買ってくるから、木暮さんは先に席に座ってて」

私はそう言って空いてる席を指差した。すると木暮は礼を言ってそちらに歩いて行った。思えば食堂を使うのは学生以来だなと私は思った。大学の食堂は昼頃になると、多くの学生が昼食にありつこうと溢れていて、私もその一人だった。大輔は女性二人に気を使い、並ぶのは紳士の役割だと言って私を付き合わせた。そんなどうでもいいことを、過ぎ去ってしまった些細な日常をどうしても大輔の告白を聞いた後では思い返さずにいられない。

 ミートソースがたっぷりと掛けられらたパスタを二つトレーに乗せ、私は木暮が待つ席へと向かった。それを見て木暮はこちらに手を振って出迎えた。そうして我々は昼食を食べ始めた。学生向けの食堂とは違い、入院中の患者が食べることも考慮しているのか、どことなく薄味なパスタを食べながら、私は話始める気にもなれず、窓の外を眺めていた。午前中は晴れていた天気だが、空を見ると分厚い雲が覆い始め、日光が遮られ少しづつ暗くなっている。

「痛っ」

私は木暮の発した一言で、窓の外に向けていた視線を、木暮の元へと向けた。木暮は片手で後頭部を押さえている。それを見る私の視線に気づいたのか、彼女は私に向けて微笑んだ。

「雨が降りそうだと、ここが少し痛むの。軽い天気予報みたいなものよ」

そう話す彼女を見ると、私の前に置かれたミートソースを食べる気が失われてしまった。「その傷はまだ痛むのかい?」

私がそう聞くと、彼女は首を横に振って答えた。

「雨の時だけよ、普段は傷があることすら忘れちゃうくらいだもの」

そうか、と私は答えた。すると木暮は空になった皿にフォークを置くと話始めた。

「私、この傷が何でできたのか覚えてないのよ。お医者さんもショックで前後の記憶がなくなってるだけだって、何があったのかなぁ」

そういうと、彼女はお冷やを一口飲んだ。私はいつか思い出すよ、と言って答えるのをさけた。私はなぜその傷ができたのか知っている。そしてそれを伝えなくてはいけなかった。

 我々は食事をすませ、私は会社に戻らなくては行けなかった。木暮は大輔に会うことを私に勧めたが、私は時間を理由にそれを断った。会ってしまえばいつかくるであろう最後を自覚しなくてはいけなくなる。私はそれから逃げる様に病院を後にし、会社へと戻った。

 電車を降りて、改札を抜けるとパラパラと雨が降り出した。空を見ると、分厚く薄黒色の雲が私を見下ろす様に鎮座している。それはまるで、逃げた私を責め立てている様に見えた。そして雲から溢れ出した水滴が私の肩を濡らす。母に会って、いい方向に向いたとばかり思っていたが、この天気の様に簡単に崩れてしまうものなのだと私は思いながら、会社まで小走りした。

 会社に着くと、私は自分の席にコートをかけ、上司の元へ報告へ行った。予想以上に病院が混んでいたと私が言うと、上司は気にするな雨に濡れて風邪を振り返さない様にな、と言った。

 私は席に戻るとPCを立ち上げ、作成途中のスライドを眺めた。そしてそれを保存し、ファイルの名称を作成途中に変更すると、私はできるはずもない大輔と木暮の結婚式の段取りについて資料を作り始めた。手を動かしていれば頭で余計なことを考えずに済む。そして無心で定時まで働くと私は早々に自宅へと帰った。

 帰宅し、シャワーを浴びると私は冷蔵庫からビールを取り出し、一気に喉へと流し込んだ。シュワシュワと弾ける炭酸が容赦無く喉を傷つける。そしてアルコールの残り香が口の中に残った。一人でいると大輔のことを思い出してしまう。私は思わずPCで癌について調べたが、調べれば調べるほどそこには希望などと言う安っぽい幻想ではなくリアリティを帯びた絶望がひたすらそこには映し出されていた。そして私はPCを閉じ、さらにビールを煽った。いくつもの管に繋がれ、白濁した目の大輔がこちらを見つめているイメージが頭の中に浮かんだが、それはすぐにアルコールによってかき消された。

 そして机の上に置かれた写真を見て、それに向き合わなくてはならないと決めた。亜美話したように。

 それは長野から車に乗って我々の最寄り駅へと帰ってきた時から始まる。

「じゃあ、ここで解散だな。お前ら帰るまでが旅行だから、気をつけてな」

そう言うと大輔は窓を閉じて車を走らせた。クラクションを短く二回鳴らすと、加速した車のテールライトが小さくなっていき、最後には見えなくなった。

「じゃあ私は反対方向だから、あんたは美咲を送ってあげなさい」

亜美は私の肩を叩くと、そう言って反対側の駅のホームへ消えていく。私は肩にかけたバッグの重さに辟易しつつも、横に立つ木暮の顔を見た。

「それじゃあ、僕たちも帰ろうか」

そう言って、私は木暮の返答を待たずに歩き出した。時刻は二十一時で駅は帰宅するサラリーマンや、私たちの様に遊び疲れ帰宅する人たちでごった返していた。

 駅のホームで電車を待つ行列に並んでいると、木暮は私の横で旅行についてのあれこれを私に語りかける。私だってそこにいたのだからわざわざ聞かせるまでもないだろうと思いつつ、私は適当に相槌を打って電光掲示板を眺めていた。そして木暮が温泉の話をし始めた時、警笛を慣らしながら電車はホームに到着した。

 電車のドアが開くや否や、吸い込まれる様に次々と客が電車に乗り込んでいく。私はそもそも人混みが得意ではないが、それよりも早く家に帰りたかった。それは旅行の疲れもあるだろうが、これ以上木暮といることに耐えきれなかったからだ。そしてドア付近に木暮を立たせ、それに覆いかぶさる様な形で私が立っていると、背中がどんどん押し込まれていく。なんとも言い難い不快感が私を襲った。車内は人の熱気で呼吸をすることが苦しいし、両腕に力を入れていないと潰されてしまいそうになる。普段であれば乗るはずのない満員電車はとても不快であった。

 発車のベルが鳴り、電車のドアが閉まると背中に込めていた力がふっと抜ける。そして目線を下ろすとそこには木暮が真っ青な顔をしているのが見えた。

「大丈夫かい?こんなに混んでいると嫌になるね」

私がそう言うと、木暮は深呼吸をして涙目で私を見つめた。

「私、気分が悪くなっちゃって」

木暮が差し出した手が震えている。それを見ると、目の間に立っているのは女性ではなく小動物の様に見える。慣れない環境で震えているその姿がなんとも哀れに見えた。そして私は彼女の手を握ってこう言った。

「そんなに気分が悪いなら次の駅で降りようか」

木暮はそれを聞き、無言でうなづくとしばらく深呼吸を繰り返していた。握っている木暮の手は冷たく、震えはどんどん大きくなっていく。そんな状況でも電車は止まらずにその速度をどんどん上げていく。

 そして電車が次の駅で止まると、私は木暮の手を握ったまま人混みをかき分け、駅のホームへたどり着いた。思えば女性の手を握ったことなど初めての経験だった。木暮をベンチに座らせると、私は自動販売機で水を買ってきて手渡した。

「平気そうかい?」

木暮は水を一口飲むと、少し気分が良くなった様で真っ青だった顔色が少しづつ赤みを帯びて元に戻っていくのが感じられた。だが降りた駅でも人の量はたいして減っておらず、このまま電車に乗っては二の舞になることは明らかだった。

「少し歩こうか、僕は急いで家に帰らないといけないわけじゃないからね」

そう言って私は地面に置かれていた木暮の荷物を持った。

「ごめんなさい、私のせいで」

木暮は俯いてそう言うと、私の後ろを歩き始めた。こんな風に庇護欲を駆り立てるところに大輔は惚れたのだろうか。思えば亜美は女性として自立していて、誰から何を言われようと我が道を歩む強さがある。だが木暮はその正反対だ。

「夕飯にしては遅いし、コーヒーでも飲もうか」

ずっと俯いたままの木暮に気を遣って、私は駅前の喫茶店を指差した。木暮は私の発言に無言でうなづくと、そっと私の肩に体重を掛ける。

「まだふらつくみたいで、お店に着くまでこうしてていいですか?」

彼女の体重は軽く、手に持っている荷物の方が重たく感じられた。私は歩けないほど体調が悪くなったのかと心配して、彼女の顔を見た。その頬は僅かに赤く、普通の男であればそれだけで恋に落ちてしまいそうな破壊力がそこにはあった。

 我々が喫茶店に入ると、店内にはあまり人は入っておらず、店員はお好きな席にどうぞとだけ告げると空いたテーブルを拭いていた。私は四人用の席に木暮を座らせ、自分の横に荷物を置いて座った。

「まぁゆっくり時間を潰して、電車が空いたら帰ろうか」

私はメニュー表を見ながら木暮にそう言った。入った店はチェーン店らしくコーヒ以外の飲み物も提供しているらしい。体調が悪い人間にコーヒーを飲ますのもどうかと思い、私はホットミルクを指差して木暮に勧めた。私の指を見て、木暮が小さくうなづいたので私は店員を呼びコーヒーとホットミルクを注文した。私の言った言葉を復唱し、メモをした店員が振り返ろうとした時、私は声をかけた。

「灰皿をもらえますか?」

「ウチは禁煙です」私の問いに対して、店員は即座に答えた。


そして愛想笑いも見せずに厨房へと歩いていくのを私は唖然として見送った。その姿が滑稽であったのか木暮は口元を手で押さえて笑い始めた。

「なんですかその顔、そんなに吸いたかったんですか?」

私を笑えるくらいなら、体調は回復したものだと思うと肩の力が抜けた。机の上に出した煙草の箱をポケットに戻すと、腕時計を見る。時刻は二十時を少し過ぎたところで、かれこれ四時間以上煙草を吸っていないことになる。だが私は指が震えたり、癇癪を起こしたりはしない。ただコーヒ共に煙草を味わえないことに落胆しただけだった。

 私は愛想の無い店員が運んできたコーヒーを啜りながら、窓の外を魚群の様に慌ただしく過ぎていくスーツを着た人々を眺めていた。私の目線に気付いたのか木暮も窓の外に目を向ける。

「あと二年で私たちもああやって働くようになるんですかね」

そう言って彼女は鼠色のスーツを着て、首を丸めながら歩く四十代程度の男の姿を指差した。恐ろしく気の弱そうな男性は虚な目をしながら駅へ向かって歩いていく。いやそう見えるのは私が自分の将来に関して何も考えていないせいで、漠然とした不安を感じているかだろうか。

「どうだろう、僕は耐えられそうにないな」

呟くようにそう言って、我々はしばらく窓の外を右往左往する人の流れを見つめていた。自分はどうなっていくのだろうか、しばらく考えていたが窓の外の澱んだ人の流れと同じように答えは出なかった。

 しばらく我々の間には会話は無く、安っぽいジャズを流す店内のBGMだけが聞こえていた。目の前のコップは既に空になっていたが、2杯目を飲む雰囲気ではなく、私はただ木暮がミルクを飲み終えるのを待った。だが私の考えに木暮が気づく訳は無く、無言を嫌った彼女は駅のホームでしたように私に再び旅の話を聞かせ始めた。

「村井さんは今回の旅行楽しかったですか?」

それまで彼女の話を適当に聞き流していたから、自分の名前が呼ばれたことではっとした。ふと視線上げると、木暮の大きな目が私を見つめ、返答を待っていた。

「楽しかったさ。そりゃ色々あったけども、大輔の言葉を借りればそれも旅行の醍醐味なんじゃないかな」

そう言って私は木暮に同じ質問を返した。木暮も同じような感想を抱いていたようで、コップに残ったミルクを飲み干すと笑みを浮かべた。

 そして私は彼女がミルクを飲み干したタイミングで、テーブルの上に置かれた伝票を取って立ち上がった。

「そろそろ出ようか、帰宅する人も少なくなったようだし」

私がそう言って窓の外を見る。私の視線を追うように彼女の目も外を見た。店に入った時に比べてば人は随分と少なくなっている。

 木暮を先に店の外に出すと、私は無愛想な店員に声をかけ会計を済ませた。何気なく受け取ったレシートには、自分が頼んだコーヒーが八百円であると印字されていて私は思わず目を細めた。もっと安くて美味しいコーヒーを出す店を知っている。そう思ったが、深くは考えなかった。ニコチンに依存している訳ではないが、煙草が吸えなかったことに若干の息苦しさを感じているのだろう。握っているレシートをレジ前に備え付けられたプラスチックでできた箱の中に入れると、自動ドアを抜けて外へ出た。

 私は木暮の横に立つと、帰ろうと言って歩き始めた。幸い駅のホームにもあまり人はおらず、さっきのような満員電車に乗らなくて良いと考えると気が楽になった。木暮も同じように考えているようで、さっきから仕切りにこちらに向かって長野に向かう車内で何がかったのかを詳細に話してくれている。だが所詮は車の中だ。誰が何を話した以上のことは無く、急に世界がひっくり変えるようなことも無かった。駅のアナウンスが電車の到着を告げ、それを聞いた木暮は黙った。アナウンスが終わり、電車が到着するまでの間には心地の良い静寂がそこにはあった。

 到着した電車に乗り込むと、立っている乗客は少なく席はまばらに空いていた。私はドアの近くの席に木暮を座らせるとその前に立った。木暮は自分だけ座るのが申し訳ないと言っていたが、私がまた体調を崩したら心配だと言うと子供のように頬を膨らませた。

 そこから電車は走り続けた。電車が駅で止まるたびに大勢が乗り込んでこないか心配になったが、それは杞憂に終わった。そして彼女の降りる町田駅に電車が到着した。

 私は亜美に言われた通り、木暮を家まで送り届ける予定であった。そこで電車を降りようとした時にふと前に座っていた木暮が動いてないことが目に入った。自分の身長では彼女の後頭部しか見えない為、もしや寝ているのではないかと考える。寝てたとしても彼女を責めることはできない、おそらく私も家に着いたらすぐに寝てしまうだろう。そんなことを考えながら、彼女の肩を叩くが一向に動く気配が無い。まさか前と同じように気分が悪いのではないかと考え、思わず彼女の顔を覗き込む。首をわずかに傾け寝息を立てている彼女を起こさぬように、電車のドアは静かに閉まった。

 どうしようか。しばらく速度を上げていく電車の中で考えたすえ、私が出した結論は今すぐに木暮を起こすことだった。気持ちよく寝ているところを起こされて気分が良い人間はいない。それも寝起きで見るものが私の顔だと言うのだからそれは不機嫌にもなるだろう。現に大輔が講義中に居眠りをした際に、助け舟を出してやるつもりで肩をこづいたところ寝ぼけた顔で私に罵詈雑言を浴びせたことは忘れていない。その後私たちは抗議から退席を命じられ、単位まで落とすことになった。そのことについて大輔は寝起きは気分が悪ぃ、と一言。そして詫びだと言って私に煙草を一本渡しただけだった。

「起きてくれ、そうしないと僕が家に帰れない」

私は小声でそう言うと、木暮の肩を揺らした。意識がない女性の体に触れることにいささか抵抗はあったが、そんなことは言ってられない。

 私が肩から手を離すと、木暮はうっすらと目を開けこちらを見る。

「どうしたんですか?」随分と緊張感の無いその声は、降りるべき駅から電車が現在進行形で離れていることなど微塵も感じさせなかった。

「電車を乗り過ごしてしまったんだ。次の駅で降りないと」

少し早口になりながら木暮にそう伝える。木暮はそれを聞いて首を縦に振った。早口過ぎて、寝起きでは理解できなかったのかもしれないと思ったが、車内に次への駅への到着を告げるアナウンスが流れたことで、木暮にも状況は伝わったものだと思った。

 電車は甲高いブレーキ音を響かせながら停車する。木暮の隣に座っていたスーツ姿の男がそれに合わせ席を立つ。木暮は俯いたままの姿勢を維持している。

「降りよう」私はそう言って木暮の腕をとる。されるがままといった様子で私の腕に体重をかけながら木暮は立ち上がる。そうして私たちはなんとか電車を降りることができた。今思えばこんなところで降りなければよかったのだとそう思う。

 電車から降りた木暮は私の腕をすり抜けるように歩き始め、ベンチへと座った。彼女は空いている隣の席を手で叩くと私に座るよう勧めた。どのみち次の電車が来るまでは時間があると思ったため、私は木暮に素直に従った。

「まさか電車に乗り過ごすだなんて、置いていってもよかったんですよ」

隣に腰を下ろした私に向かって、木暮はそう言った。置いてなどいけるものか、そのことが亜美の耳に入ったらきっと私は酷い仕打ちを受けるだろうし、第一小心者の私は置いていった木暮が無事に家に帰れたかどうかを心配してしまって帰ったところで休めないのだから。

「そんなことはしないさ。亜美さんに殺されてしまう」

「村井さんは亜美さんが怖いんですか?」

「いや、言ってみただけさ。亜美さんはは冷たい人かもしれないけど、怖い人じゃない」

私の回答に満足がいかなかったのか、木暮は続けて質問した。

「なら、私のことは怖いですか?」

「怖いだって?」

私はそう言って木暮の顔を見た。続けようとした言葉が思わず、空気となり消えてしまう。木暮の目はしっかりと私を見つめている。それを見た私は思わず私は目を逸らしてしまった。

「怖くはないよ。少なくとも女性にそんな失礼なことは言わないさ」

「ならなんで、私の名前を一回も呼んでくれないんですか?」

目を逸らしたせいで木暮がどんな顔でその言葉を発したのかはわからなかった。しかし、その声には亜美が纏うものとは別種の冷たさがあった。

「そうだったかな、名前で呼ぶかどうかなんて意識したことがないから。それを言い出すと亜美さんは大輔の名前を「あいつ」とか「あんた」とかだと思ってる節がある」

それは答えになってないな。話している自分に対して批判的な声が内側で響いた。

「大輔さんや亜美の話をしてるんじゃありません。私は村井さんと話しているんです」

なんで目の前の彼女がそんなに必死になっているのか私にはわからなかった。そもそも何故今更になって、名前のことなど持ち出すのか。

「機会の話だ。一人称が「僕」から「俺」に変わるみたいな、そんな些細なことなんだけども機会が無いと変わらない。そこに好き嫌いは存在しないんだ」

私は彼女を宥める様にゆっくりと話した。特に僕と俺の部分では単語の間に一呼吸置いて、速度を調整した。

「村井さんは初めて会った時から、私の事を呼んでくれてない」

それは間違いだ。話の流れで木暮さん、と呼んだことを覚えていた。しかし女性のヒステリックの恐ろしさは身に染みていたので、それを口に出すことはしなかった。

「わかった」私は両手を上げて降参の意を示した。

「木暮さん、これでいいかい?君は木暮美咲。初めて会ったのは駅前の居酒屋で僕と大輔は遅刻をした」そして大輔は君に惚れている。

最後の部分は考えただけで口には出さなかった。それを認めたくはなかった。

「なんで、そんなに一生懸命人と距離を取ろうとするんですか?」

「人によって物ごととの適切な距離は変わるんだ。君と僕じゃその距離が違う。価値観が違うからといって迫害する様な人じゃないだろ?君は」

私はそう言い放つと思わず、視線を木暮から逸らした。彼女の目が涙で潤んでいて、その目に映る私の姿がひどく歪んで見えたからだ。

「村井さんは大輔さんととても仲がいいのは知っています。最初は女性が苦手な人だと思ったんです。でもそうじゃなかった、大輔さんや亜美を見る目と私を見る目が違う。それは何故?」

その刹那、電車がホームに侵入して耳をつん裂くブレーキ音を響かせた。私が持ってる答えを目の前の彼女に話すべきなのだろうか、必死で考えているのに思考は煙のようにただただ無意味な軌道を描くのみだった。

「それは」私は考えるよりも先に口を動かした。だがそれ以上言葉を発することができなかった。彼女は私の唇を奪ったのだ。

 それは一瞬で、何より唇が触れたことよりも急に彼女が体重預けたことに私は驚いた。私は咄嗟に彼女の肩に触れて引き剥がす。

「私は村井さんのことが好きなんです」

そう言った彼女の肩は震えていて、充血した目から既に涙が溢れ出していた。

「そうか、それは嬉しいな」そう言った私の声は掠れていた。

大輔が恋慕する相手は自分のことが好きだなんて、それはありきたりで安いドラマのような話に思えた。彼女も私も台本を忘れてしまった様にただ立ち尽くしていた。そこに無機質なアナウンスが流れる。どうやら電車は人身事故の影響でしばらく動かないらしい。人が減ったとはいえ、運休となればホームから出ようと大勢の人が動き出す。私はそっと彼女の手を取って、駅を後にした。そこは降りたことがない駅で、この後の予定などなかった。ただ無性に煙草が吸いたくて、これ以上に人混みの中には居たくなかった。

 それから私はろくに会話もせずに、ホテルへと向かった。入口で木暮が確かめるように視線を合わせてきて、私はそれに無言でうなづいた。

 部屋に入った私は、ベットに腰掛け煙草を三本吸った。口元まで燃えた残骸がガラス製の灰皿に積まれていた。隣に彼女が座っていて、嫌な顔ひとつせず私が煙草を吸っている様を見つめている。彼女が見つめているのは私の姿か煙草の煙なのか、私にはわからなかった。

 そして三本目の煙草の火を灰皿に押し付け消した後、私は彼女を抱いた。

 どの程度の時間を行為に要したかは覚えていない。覚えているのは彼女の肌がやけに白く感じたことと、射精する瞬間に大輔の顔を思い出したことだけだった。

 行為が済んだ後、彼女は何を話す訳でもなかった。私は何回か話しかけたが、彼女の興味はもはやここには無いような様子で空返事を繰り返すばかりだった。返ってくる見込みのない相手と会話ができるほど体力が残っていたわけでもなかったので、私は始発が動き出す時間まで煙草を吸っていようと決めたが、箱の中に煙草は二本しか入っていなかった。無論ホテルを出て買いに行くことだってできたが、その為に服を着るのは酷くめんどくさく感じた。誰だって煙草を買うためだけに外に出るのは苦痛だ。特に激しい運動の後なら尚更だ。

 しばらく私は煙草を吸うでも無く、目を閉じて眠ることもせずにベットに腰掛けていた。すると今まで話さなかった木暮がふとこちらを見ていることに気づいた。

「始発まで時間がある。眠った方がいい」

「寝れません。お願いですから、もう一度抱いてくれませんか?」

私は首を横に振った。これ以上の負担は体も心も持ちそう無かった。

「なんでですか?私じゃ満足できないからですか?」

彼女は私の腕を掴み、そう言った。行為の最中も思ったが、彼女の長い爪は相手を無意識に傷つける。

「そうじゃない。君は十分魅力的だ。だけど僕の体が持ちそうにない。何せ旅行の疲れも残っているし、夕飯も食べていないからね」

私はそう言って、ベッドに横になった。眠れてしまえばいいと、これが夢であってほしいとさえ願った。

「やっぱり。村井さんが欲しいのは私じゃないんですね」

私は目を瞑って彼女の声を聞いていた。立ち上がって口を塞ぐこともできたが、それをする気力は無かった。

「あなたが欲しいのは大輔さんでしょ」

彼女の声は重たく、無音の部屋の中をいつまでも漂っていた。

「そうだ」私は目を閉じたまま答えた。しかしその声は掠れていた。

「大輔さんが私に好意を持っているのは知っています。そうゆうのに女は敏感なんです」

そこまで知っていたのなら、私の行動は酷く滑稽に映っただろう。

「今日のことはお互いに忘れましょう」

時折聞こえる布が擦れる音で、彼女が服を着ていることはわかった。だが私は目を開けることができなかった。彼女の目に映った醜い自分を見れる訳がない。

「すまなかった」そう言った私の声は震えていた。

「それは私に対してですか?それとも大輔さんに対して?」それだけ言って彼女は部屋のドアを閉めた。

 一人になった部屋の中には彼女が残した言葉が私を監視するかのように、その重みだけを残していた。

 大輔のことを好ましく思っていた。だがそれが叶わぬことなど知っていた。大輔の横に立つには自分では無いことはわかっていたはずなのに、私は大輔が行為を抱いた女性を抱いた。そこに弁解の余地は無い。私はどちらに対して謝罪をしたのだろうか、思えば彼女が玄関を出るその時まで私は彼女の顔を見ることができなかった。しかし私の頭は既に限界でそこで意識は途切れた。

 目が覚めた時、彼女が横にいて、謝罪の機会があればと願った。しかしベットの横側には誰も寝ていなかった。私は頭と腰に若干の重みを感じながらベットから起き上がり、ホテルを後にした。

 帰宅すると私はシャワーを浴びた。体に染み付いた彼女の匂いを洗い流そうと、何度も体を擦った。おかげで肌は若干赤くなり、ヒリヒリと痛んだ。朝食を取ろうと、台所に向かうと旅行に出る前に作り置きしてタッパに入れていた料理達が冷蔵庫に入れられずに置かれていた。その中の一つを持ち上げ、蓋を開けると鼻を刺すような悪臭がした。どうやら私は冷蔵庫に入れるのを忘れ、作り置きした料理を全て腐らせてしまったようだ。全ての匂いを嗅いで、腐っているかを判断する気力も鼻の良さも持ち合わせてはいなかったので、タッパごと全てゴミ箱に捨てた。何かないかと冷蔵庫を開けたが、その中身は悲惨なものだった。旅行の荷物を整理しなくてはいけないし、食べ物を買いに行かなくてはならなかった。それに煙草だって切らしている。だけどもその全てを投げ打ってもいいくらい私は疲れていたし、これ以上空腹や色恋などの現実と向かうことは不可能だった。

 結局私はその後水をコップ一杯だけ飲むと、夕方まで途切れ途切れではあったが眠った。不思議なことに夢は見なかった。その代わり、眠りに落ちるまでの長い時間考える必要があった。幸せになれないのでは無く、自ら幸せを遠ざけていることに。自分の醜い願望に木暮を巻き込み、挙句の果てにそれさえも見透かされた。情状酌量の余地は無く、首を括ってでも謝りたかった。だがそれ以上にこんな自分はこれ以上彼女に関わるべきではないと思った。

 私はテーブルの上の写真を眺めながら随分と同じ姿勢で座っていたことに気付いた。おかげで腰が悲鳴を上げている。時間は二十二時を少し過ぎたところで、私は帰宅してからビール以外を口にしていなかった。料理をする気分では無かったので、トーストを2枚作り、適当なジャムを塗って食べた。酸味が強い以上の感想は出てこない、そんなありふれたトーストだった。それを食べ終わると、残ったビールを台所に流し、歯を磨いてベッドに横になった。

 木暮との間に起こってしまった、私が引き起こしてしまった問題。そして大輔に対する好意について暗闇の中でしばらく考えていたが、あの時に自分がするべきだった行動やとるべき選択に関して、明確な答えは無いと思った。一つあるとすれば最初から木暮との関わりを持たないことが挙げられたが、それは何かの映画で見た結末であったし、臍の緒で自分の首を絞めることができたなら、私が抱えている問題は全て無かったことにできるだろう。そんなことを考えていると意識は徐々に薄れていった。そうして今日が終わろうとしているその時に、何かが玄関のドアをノックした。思わず、ベットから起き上がると私は眠りかけていた頭を必死で動かそうとした。ノックの後しばらく重たい沈黙が流れる。私は静かに立ち上がると、部屋の明かりは点けずに玄関へ向かった。この時間だ、酔っ払った別の階の住民が部屋を間違えても不思議では無いし、そうだった場合は多少面倒でも話をすればどうにか解決はするだろう。

 やっとの思いで玄関へと辿り着く。いつも何気なく歩いている家の中でもこんな状況ではフルマラソンを走ったかのような疲労感を感じた。玄関のドアの前に立つ。ノックの音は止んでいた。

「どなたですか?」暗闇とドアに私の声は吸い込まれるように消えていった。

返事は無かった。私はドアに付けられている覗き穴にゆっくりと目を近づけた。そこに何も写っていなければ、再びベットに戻ればいい。そして明日に管理人に今日のことを伝えればいい。だがそこには何も写っていなかった。正確に言えば私の目に映ったのはあまりにものっぺりとした黒色だった。思えば覗き穴を使うのは初めてで、私は混乱していて当たり前のことに気づくのに時間を要した。

 夜の闇はこんなに暗くはない。これは何者かが指か何かを使って覗き穴を塞いでいるということに。

 私は思わず、尻餅をついた。部屋の暗闇にその音は吸い込まれていく。何者かはまだドアの前にいて、狼のごとく、藁の家の前で獲物が出てくるのを待っているのだ。

 だがこのドアは狼の一息で飛んでいってしまうような物じゃない。流石の狼でも鉄製のドアを吹き飛ばすほどの肺活量はないだろうし、私には兄弟はいない。首筋が汗で濡れているのがわかる。それでもこのドアを開けなければならないと思った。そして私はドアの鍵を外し、勢いよくドアを開けた。

 何かにぶつかった感触と共にドアは開かれた。そこには月光を伴う夜の光と、汗ばんだ体にはいささか涼しすぎる夜風が流れていた。

 私はドアの前にうずくまる男の後頭部を知っていた。

「一体なんの冗談だ」私はそう声を出すと同時に張り詰めていた緊張が解け、眩暈がした。

「ビビったか?お前ひどい顔してるぜ」大輔はにやけながら、ドアノブをぶつけたのだろう脇腹を抑えていた。

「僕の家には客なんか来ないんだよ。それもこんな夜中にはね」

「でも俺はここにいる。言っとくが俺は幽霊じゃないぜ」そう言って大輔は私の肩を叩いた。

「勘弁してくれよ、一体どうしたんだ?病院を抜け出してきたんだろ?」

「外に行こう、早く準備してこい」

大輔は私の質問には興味がないようで、自分の要件だけを言った。確かにこの会話の噛み合わなさは大輔だ。幽霊じゃここまでうまく演じることはできないだろう。

「どこまで行くんだ?」

「俺が答えると思って聞いてるのか?」

そうだ、大輔はいつも突然現れる。そして予定も告げずに私を何処かへ連れていく。時刻は既に午前一時を過ぎていた。

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