四日目
四日目
カーテンから日差しが差し込み、空を舞う埃が輝いて見える。時刻は六時を指している。私は横で寝ている亜美を尻目に、服を着替え、書き置きを残してその場所を後にした。書き置きには簡素な挨拶と、昨日の迷惑料として一万札を置いてきた。きっと亜美が起きていたら受け取らないだろうし、これが最善策に思えた。
私は出勤ラッシュを横目に、電車に乗り自宅へと帰った。特に何か考えがあるわけではなかったが、会社には病院に行くので休ませてほしいとメールを送った。脱皮をしなくてはいけない、目を背けるわけにはいかないとシャワーを浴びて、服を着替えた私は忌まわしき封筒の住所をスマホで検索し、そこに向かうことにした。
電車を何回か乗り換え、十時前にはその住所に一番近い駅へと着いた。スマホには歩くと二十分必要だと表示されているが、少し歩きたい気分だったのでタクシーは使わず、私は歩くことにした。
しばらく歩いていても、昼前と言うこともあり人の姿はあまり見えず、取り立てて美しい風景があるわけでもなかった。それは私の目に風景を楽しむ余裕などもう残されていないからだろうか。そんなことを考えている間も、怪物は胃袋の中で空腹に悶え、私の内側から這い出ようと爪を突き立てる。あの女にあった時果たして私は何を感じるのだろうか、消えることのない憎悪か、一種の諦めか。それを確かめるしかないと思うと歩く速度が少し早まった。
腕時計が十一時を示した時、私は目的地に到着した。その家は新築でまだ汚れを知らない白い壁が太陽の光を反射している。玄関口には門がついており、私はその外からそれを眺めていた。目の前の玄関ベルに指を置いても、私には考えなど無かった。そう気付いた時、自分の体がひどく小さく、寒さに震え、恐怖に絶望した子供の様に感じられた。風が吹いた、普段ならそんなことを気にも留めないはずが、私は思わず身震いする。そして一呼吸置いてベルを鳴らした。
「はい、どなたですか?」
ベルの無機質な音が私の耳に届いてから、三秒程度時間があった。その後、男の声が私にそう聞いた。
「村井と言います。彩子さんに用があって来ました」
そう言うと、男はあぁと言ってマイクから離れたらしく、ドタドタとした足音が遠ざかって行くのが聞こえた。すると玄関の扉が開き、男が顔を出した。
「村井さん、彩子から話は聞いています。寒いですから中へどうぞ」
そう言って手招きをする男に導かれる様に、私は門を開けて玄関の中へ入った。
「平日のこんな時間に押し掛けて申し訳ありません」
靴を脱いだ、私がそう言うと男はとんでもないと大げさに手を振った。男の身長は私よりもだいぶ低く、頭髪は色が抜けて白一色となっていた。
「こちらへどうそ、彩子に村井さんがいらっしゃったと伝えて来ます。座って待っていてください」
そう言うと男はリビングに私を通し、ソファに座らした。そして男が去って行くの見送ると、私は部屋を見渡した。外見から想像通りの清潔で、どこか生活感がないリビングは私を異物と見なしているのか、酷く居心地が悪く感じた。私は酷く煙草が吸いたくなったが、テーブルに灰皿はなかったし、こんなに息苦し場所では窒息してしまうと考えポケットの中の煙草を握りつぶした。それから少し時間が経つと、再度足音を鳴らしながら、男が現れた。
「村井さん、彩子もここに来たがっておりますが、病人なもんで自由に動けないんです。お話は彩子の部屋でもよろしいですか?」
そう言うと男は申し訳なさそうに、頭を掻いた。私は構いませんよと言ってソファを立つと、男に案内され木製のドアの前に通された。
「彩子さんは病気なんですか?」
歩きながらそう聞くと、男はこちらを振り向かずに答えた。
「えぇ、医者からも何度も入院を勧められているんですが、本人は家がいいとの一点張りで、まぁ私はまだ動けますからどうにかなっていますがね。ご存知じゃないんですか?」
「えぇ、何せ何年も会っていませんでしたから」私は男の問いかけにそう答えた。
私は何故この家がこんなにも居心地が悪いのか、一つ納得のいく理由を考えた。もちろんそれが正しいとは限らないが、少なくとも私の経験則からして的を得ていなくとも、間違いではないと思われる。病人が、特に死までの時間が短い病人がいる家というのは、家族であっても居心地が悪くなる。明日を望む渇望という生は暗闇の死を同時に浮かび上がらせるものだ。父が亡くなるまでの三ヶ月ほど、私は自分の家をこんな風に居心地が悪く感じたことを思い出す。
「彩子、村井さんだ」
そう言って、男はドアを開ける。そこにはベットに横たわり、窓の外を眺める女が窓から差し込む日光に照らされていた。女は声に反応して、ゆっくりとこちらを向くと、両手を使って、ベットの上で半身を起こした。私はただそれを眺めていた。
「彩子、しばらく二人にした方がいいかい?」
男の問いかけに、女はうなづく。すると男が私の方を向きこう言った。
「私はしばらくリビングにいますから、何かありましたらすぐ呼んでください」
そう言って男は部屋を後にした。私は女の顔を見つめがら、うるさい足音が遠ざかって行くのをただ聞いていた。目の前の女は私が最後に見た時からは想像できないほど老いている。私たちの間に流れた時間の長さをその姿だけで十分物語っていた。
「守?守なの?」
そう言って、女はこちらを見つめてくる。思い返せば私は全くと言っていいほど名前では呼ばれていなかった。だから初めこの女は人違いをしているんじゃないかと思ったほどだ。
「あまり目が見えなくて、近くに来てくれない?」
そう言われ、私は三歩ほど前に進む。そして自分が今立っている場所を確かめる様にゆっくりとこう言った。
「そうです。僕は村井守、あなたの息子だ」
女はそれを聞くと、目を細ませこちらに手を伸ばす。私はその手を握った。その時握った母の手は力を込めれば折れてしまいそうで、枯れ木の様に潤いを無くしていた。
「きっとあなたは私を恨んでいるわね、それは当然のこと。何度も何度もひどい仕打ちをしたものね」
女は話すたびに息が切れるのか、一言話すたびに呼吸を整えゆっくりと話した。私は急かすこともなく、その言葉をただ聞いていた。
「えぇ、あなたのことを恨んでいます。でもそれ以上にあなたのことが僕にはわからない。何故僕にあんな仕打ちをしたのか、何故急に家族を捨てたのか、そして今になってあんな手紙を私に送ったのか。僕はそれが知りたくてここへ来たんです」
私がそう言うと、女の手に力が籠もった。残り少ない生を燃やす様な、消えかけの焚火の様な寂しい暖かさがそこにはあった。
「そうね、あなたにはわからないことだらけだと思う。だから今私の話をさせてくれないかしら」
女は私の問いにそう答えた。それに対し私はうなづく。彼女に残された時間があまり無いことを私は感じていた。それに比べれば私の時間はまだ残っている。
「私が初めて結婚したのはあなたのお父さんじゃ無いのよ。初めに結婚した人は酷い人で私に暴力を振るう様なそんな人だった。でもあなたのお父さんが私を助け出してくれたのよ。そして一緒になろうと言ってくれた」
そう言うと女は体を丸め込んで、激しい咳をした。私は思わず背中をさすってやる。父にしたのと同じ様に。そしてしばらくして咳が止むと女は再び話し始めた。
「そしてお父さんと結婚したの、私はとても幸せだった。そして私はあなたを妊娠したの。お父さんはもう大喜びで、名前は守にしようって言って舞い上がってたわ。私が何で守なの?って聞いたらお父さんは何かを守れる人に、人の為に傷つける強さを持った子になって欲しいとそう言ってた。でもそんな幸せは私の歪みのせいで壊れてしまった。生まれたあなたを抱いている時にふと考えてしまったの、本当にこの子はお父さんとの子供なんだろうかって、初めはそんな悪い冗談がある訳ないと思っていたんだけど。あなたが成長するにつれて、そんな小さな妄想がどんどん私を飲み込んでいった。私が初めてあなたに手を上げた時、お父さんはとても動揺していたわ。何でこの子にそんなことをするんだって、何度も聞かれた。でも私の心中を話すことなんてできなかった。そして私はあなたにひどい仕打ちをし続けた。もうお父さんは気付いていたんでしょうね。でも私は既に壊れてしまっていたし、あなたを痛みつけることで悲惨な過去に復讐しようとしていた」
女はひどく息切れしている。
「僕はあなたの子じゃないかもしれない。それは同時に僕が父だと信じる人は他人かもしれないってことですね。だからあなたは僕を痛めつけた。時に力で、時に言葉で何度も何度も僕を傷みつけた」
私は思わず考えていたことをそのまま話してしまった。急にこんなことを言われて、うまく飲みことができなかったからかもしれない。
「いくら謝っても許してはもらえないでしょうね。きっとあなたが私を許してくれたとしても私は自分を許すことができないもの」
部屋の中はしばらく沈黙に包まれた。これは彼女の懺悔だ。ならば私はそれを聞かなくてはならない。
「そして成長したあなたは、私がお父さんまで傷めつけている場面を見てしまった。私は彼の口に食べ物を押し込もうとした。そして-」
私は一呼吸置いた。
「そして僕はあなたに暴力を振るった」
彼女の言葉を遮り、そう言った。その日の、その場面を私は覚えている。怪物が生み出された日のことは。
「そうして私の目にはあなたがあの男に見えてしまった。私の見当違いな復讐のせいでむ愛するべき我が子を私は自分の手で現実の悪夢に変えてしまった。その時私は完全に壊れてしまった。いや元々壊れていたものから完全に中身が、お父さんからもらった愛情までもが私から溢れ出してしまった。そして私はあなたたちから逃げたの」
女はいい終わると、息を荒げしばらく俯いていた。そして私に水を取ってくれないかと頼んだ。私は部屋の中の水差しからコップに水を入れて手渡した。
「これが私があなたに話せることの全て。それから私はあの人と一緒になってここに住んでいるの。見ての通り医者からももう長くはないと言われているけれど、最期はここで過ごしたいの」
「あの人はとてもいい人そうだ、きっとあなたを深く愛してくれている。でも一つだけ疑問があるんです。聞いてもいいですか?」
私がそう尋ねると、えぇと女は答えた。
「何故今になって、僕に手紙を寄越したんですか?あなたにとって僕の存在は思い出したくもない過去のはずなのに」
「死が這い寄ってくるのを日々感じるの、そうすると人は過去のことを思い返すのね。朝目が覚めるたびに自分が空っぽだって思う。そしてその理由を探さない訳には行かなかった。そして自分がいかに愚かで、酷い人間だったのかを思い知った。死ぬ前にせめてあなたにだけは伝えておきたかった。あなたの中の私を許して欲しかった。それは身勝手ね」
そう言うと、女は静かに涙を流した。もう涙を拭う力も残っていないのか、流れた水滴はただベットを濡らしている。
「でも僕にそれを話してくれた。僕はあなたを許したい。あなたから受けた傷はまだ痛むし、時々夢に見ることもあります。それでも許そうと努力をします。人は蛇の様に脱皮をして生きていく生き物だから」
そう言うと私は静かに立ち上がった。窓の外からは夕焼けが差し込む。長い時間だった。でもとても意味のある時間だった。私や彼女にとって。
「ありがとう、守。私に母を名乗る資格はないけれど、それでもあなたの優しさがとても嬉しい」
私はそれを聞くと、ゆっくりと歩いてドアを開けた。そしてふと後ろを振り向きこう言った。聞かざるを得なかった質問を口に出す。
「お母さん、僕は幸せになれると思いますか?」私は母の目を見た。
「あなたは幸せになれる」母はそう言った。
それだけ聞くと私は部屋を後にし、玄関で男に礼を言った。
「とんでもありません。こちらこそありがとうございました。村井さん」
そう言って頭を下げた姿勢からは誠実さが伺えた。この男と最期を一緒に過ごすのであれば母は幸せだろうと私は思い玄関のドアを開ける。
外は夕暮れで、腕時計は午後四時を指していた。私は電車に乗って自宅に帰ると、何かに迫られる様に食パンを6枚も完食した。そしてシャワーを浴び、ベットに腰をかけながらウイスキーをコップに注いだ。今日聞いた話を消化するためには時間と、何よりもエネルギーが必要だったし、アルコールが誘う深い眠りを私は求めていた。そして私は自然と横たわり目を閉じた。
おそらく母にはもう二度と会わないだろう、私は母の懺悔を受け止め、そして許したのだから。母の命が消えたとしても私に連絡は来ないだろうし、私はそれを感じることはできない。それでも今日のあの時間は、私と母にとって必要な時間だったと私は思う。そして深い眠りへと落ちていった。その日私が見た夢はお腹の膨らんだ母とそれを見つめる父の様子だった。二人は笑顔で、生まれてくるであろう私を見守っている。幸せは確かにそこにあった。