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隠れ里  第一部  作者: 葦原観月
9/28

宝探しの出会い

少し長くなりますが、シーボルトと島津の大殿の出会いです。宝探しのお膳立てを御覧下さい。

  (六)


 高輪邸から駕籠に乗った島津重豪は、そぼ降る雨の中、沢山の土産物を引き連れて、大森にいた。オランダ商館長一行は、未だ現れない。


「大殿、本陣でお待ちくだされ。春とはいえ、本日の雨は少々寒うございます。お風邪でも召されてはいけません。この樺山久智めが粗相なく、ご一行をお出迎えいたします」

 先ほどから何度も駕籠の外から聞こえる声に、重豪はいい加減うんざりしていた。


 確かに、本日は小寒い。だが二枚も着せられた掻巻が窮屈であり、また、少々暑くもある。狭い駕籠の中で一度は着たものを脱ぐのは難儀であるから、じっと我慢をしている次第だ。

 常ならば、とうに長年の家臣、樺山の言葉に頷いて、さっさと屋根のある場所へと移動しているところだ。


(まぁ……桐油紙に降り注ぐ雨の音も、たまには悪くないが)

 と、重豪は僅かに笑みを浮かべる。


「又三郎(斉彬)は、いかがした。余のことより大切な曾孫のことじゃ。風邪でも引かれては敵わん。弥姫が煩い」

 斉彬の母の弥姫は、賢い女だ。子供たちを乳母には預けず、自らの手で大切に育て、教育をした。曽祖父である重豪が、やたら「大切な息子」を傍に置きたがる様子に、難色を示しているのは、蘭癖を警戒してのことだろう。

 重豪は斉彬に、「母上の前では、蘭学を語るでないぞ」と言い聞かせている。だが、噂は当然、弥姫の耳に届いているであろうと、察しはつく。

 重豪が斉彬を召すたびに、弥姫はすぐに迎えをよこす。だから本日の雨の中を、高輪邸に残さず、供をさせたのだ。

 もっとも……「待っていなさい」といっても、斉彬は従いて来たではあろうが。


「若君は中津の大殿様とご一緒に、先ほど本陣へと向われました。某めが何度もお誘い申し上げたものを、頑としてお聞き届けなさらなかった若君が……中津の大殿様の一言で、渋々ではあられますが、本陣へと。さすがであられますな、中津の大殿様は、島津の大殿の御尊厳を受け継いでおられる」

 樺山の言葉に重豪は笑いを堪える。

(さては富之進(奥平昌高)め、「母上の迎えがこちらに向っておる」とでも言うたな。ふむ。あれもまた、愛いやつよ)

 現在のところ重豪にとって、唯一の理解者であり、同輩とも言える二男の昌高は、豊前国中津の奥平家に養子に入り、中津の領主となったが、先ごろ二男に家督を譲り、現在は隠居の身だ。

 父に学び、蘭癖の強い中津の大殿の昌高は、オランダ商館長のヘンドリック・ズーフより、「フレデリック・ヘンドリック」というオランダ名まで受けているほどのオランダ通だ。


 今回のオランダ商館長一行を出迎えるという栄光を、実に楽しみにしていた昌高だが、おそらくは、重豪の胸の内を汲み、重豪が誰よりも大切にしている斉彬への配慮を重んじ、本日の栄光を尊敬する実父に譲ったものと思われる。

「ならば、よい。余は大事ない。あまり年寄り扱いするな。余にとって、本日は特別な日じゃ。頼む、好きにさせてくれ」

 しばし無言の後、樺山は「もしも、なんぞ御用ができましたら、御呼びくだされ」と言い残して去った。


 やはり、長年の家臣はいい――と、重豪は狭い駕籠の中で、小さめの脇息に凭れ掛かる。

(この雨の中を出迎えれば必ずや、余の思いは伝わるであろう。待ちに待った本日この日、余の蘭学への向学心を満たしてくれるであろう、優秀なドクトル・シーボルトに、余の偽りのない熱心さを伝えるいい機会だ)

 にしても……

(退屈は退屈じゃ)

 重豪は大きくなった尻をずりずりとずらし、窮屈な駕籠の中を見渡す。


 動いている時は体が揺れるし、慣れた今でも時折は気分が悪くなる駕籠の中は、暗くて殺風景なこと、このうえない。しかも雨が降っているとあって、何とはなしに重苦しく感じ、物見窓から外を眺めても、桐油紙に当たる雨が視界を遮るばかりだ。

(日本人であっても疲れるこの小さな乗り物に、異国人であるドクドルは随分と、辟易しておられよう。出島からの長旅じゃ、くたくたであろうな。いつか高輪の屋敷にも来てはくれんかの……)

 本日の休息場は、品川の本陣と決められている。既に宿場役人たちが準備を整え、一行の到着を待ち構えているだろう。少々行程が遅れ気味のようであるから、本日の会見も多くの時間は取れぬはずだ。


 重豪は年々髷から遠ざかっていく顎に手を置いて、退屈を押しのけるように妄想に耽る。

 集めた西洋の品々を手にとって、オランダ語の会話が弾む、重豪とドクトル・シーボルトの姿に、重豪の頬が緩んでいく。

 近頃、買い求めた西洋の椅子を、シーボルトは気に入ってくれるだろうか。否、絶対に気に入るはずだ。


(あれは、なかなかの品であるからな、高価なものだった。笑左衛門めの目を盗んで、やっと買い求めた品だから、気に入ってもらわねば困る――)

 勝手な妄想がどんどんと広がって、椅子に腰掛けた二人は、重豪が調査中の薬草に関する話を肴に、ギヤマンのグラスで大いに酒を飲み、シーボルトの白い顔が、赤くなっていく。

(ドクトルは酒好きかな? 否、好きでなくては困る。楽しい話は、楽しく酒を飲んで語るが一番。余の周りは酒が弱い者ばかりで、つまらん。千佐子だけであったな、余が飽きるまで酒に付き合ってくれたのは……)

 重豪は大柄な側室に思いを馳せる。

「もう飲めん」と重豪に酒を断らせたのは、千佐子だけだ。

「ほほほ」と笑いながら、重豪の目の前で、水でも飲むようにぐいぐいと杯を空けた姿に、感心を通り越して、感動すら覚えたほどだ。

(まぁ……あれほどまででなくて良いが)

 近頃は「お体に障りますゆえ」と、酒も控えさせられている。が、実際は「お体に障る」のではなく、「笑左の癇に障る」からだと、重豪は知っている。


(遠くはるばる異国から来てくれた客人に出す酒すら渋るとは……笑左の節約も、度が過ぎはせぬか)


 既に妄想が現実と混ざり合い、重豪は子供のように口を尖らせる。調所を起用したのは、重豪本人だが、あまりの徹底した節約ぶりに、浪費癖のある重豪は最近になって、つくづく思う。

(人選を誤ったか。余も、年かの)

 さすがに八十四ともなれば、この先どれほど生きられるものか。せめて命のある限り、好きなことに没頭し、大いに余生を楽しみたい――


 今までにも十分、他人と比べれば好き放題で生きてきた事実を棚に上げて、しかも、そのおかげで領国の経済が貧窮したという結果を省みず、大物である大殿、島津重豪は、自らが起用した調所に、八つ当たる。他に当たるところがないのだから、やむをえん――と重豪は思っている。

 

ふと、外が騒がしくなり、つつ、と近寄る足音に次いで、

「大殿っ、ご到着されました。商館長殿がご挨拶に」

 やれやれ、やっと着いたか――と、ぎしぎしと痛む腰を伸ばす重豪に、

「どうか、そのまま」と駕籠の外から聞き慣れない声が掛かる。

(ん?)と重豪が物見の窓から覗けば、礼を尽くした商館長が、斜めに肩に手を置いて、にこり、と笑って会釈した。


「雨が降っておりますゆえ、我々も正式なご挨拶を後に引き伸ばさせていただきますご無礼を、お許しください。薩摩の大殿様の、直々のお出迎え、一行は大いに恐縮の次第でございます」


 小降りになったとはいえ、雨の中、合羽も羽織らず、直々に商館長が挨拶に来たことに、重豪はおおいに喜び、また、好感を覚えた。


 ようやく動き出した駕籠の中で、重豪は小さめの脇息を探してもぞもぞと辺りを探る。携帯用の脇息は、同輩である、二男の昌高が誂えてくれたものだ、少々小さすぎるきらいはあるが、狭い駕籠の中では重宝する。

(親孝行なあれに、家督を譲ればよかったものを)

 と、つくづく後悔しながら、手に触れた脇息に重く感じる腕を乗せれば、再び本日の喜びが押し寄せる。

「大殿、そろそろ」樺山の声に、物見窓に目を遣れば、丸に十字の幕の張られた本陣の塀が見えてくる。

(おう。待たせたな、又三郎、富之進。余がきちんと、ぬしらを代表して、オランダ一行をお出迎えしたぞ)

 緩みっぱなしの頬を意識しながら、重豪は若い頃に感じた「腹の底が浮き上がってくる感覚を必死に抑え、近づきつつある、丸に十文字をじっと見つめていた。

   

  (七)


「大御所様っ」

 元気のいい声にはっと我に返り、重豪は顔を上げる。やはり少し疲れたか、居眠りをしていたようだ。


 少しばかり緊張気味の面に、頬がほんのりと色づいている曾孫の斉彬は「雨の日の外出」と、「異国の博士」との間に身を置き、少々興奮気味のようだ。

「何か」と、口を開けば、はぁ……

「いつになったら、オランダ国の方々とお会いできるのでしょうか。われは、待ち遠しくてなりませぬ」

 常ならば、物事に動じず、時間があれば書物に没頭している斉彬であるが、さすがに本日は、落ち着かないらしい。脇に挟んだ書物には、栞すらも挟んではいない。

 顔がほころぶのは致し方ない、と重豪は思う。目に入れても痛くはないほどの愛しい曾孫だ。


 聡明そうな目の輝きと、いかにも理知的な秀でた額、細い鼻筋は、重豪にとっては少しばかり不満ではあるが、女子には好まれる。

 薄い口元は横に広く、他人に左右されず、淡々と己の言葉を紡ぐ相だ。きりりと閉まった口の端が、余計な弁は漏らさぬと、引き締まっている。


 良き男よな……


 未だ若き「跡取り」に重豪は、にんまりと笑う。息子や孫なぞ足元にも及ばぬ斉彬は、重豪の分身とも言える薩摩の王となろう。家臣の間でも、評判の曾孫は齢十八にして、賢者の相を持っておる……


「ふむ。ここへ」


 一つ礼をして、躊躇わずに足を運ぶところがまた、愛しい。

 幼き頃から常に傍に置き、風呂すらも入れた経験を持ったのは、斉彬が初めてだ。

 他の子供も、孫も曾孫も、重豪を見ると大いに萎縮し、言葉すらも掛けてはこない。じっと置物のように畏まり、ただ返事をするのみだ。

「大御所様、われはここにいても、よろしいのですか? 大御所様のお傍であらば、誰も文句は申しますまいな。何とも落ち着かず、身の置き所に困り果てておりました。庭に出れば「かような場におられてはなりませぬ」と言われ、部屋におれば、そわそわと従者が出入りして騒々しい。広縁に腰掛けて書物を広げれば、どこかから、ひそひそと声が聞こえて来るのです。本陣とは、かように落ち着かぬものでしょうか」


(そうではない。落ち着かぬのは、本陣ではなく、我が高輪邸の者どもなのだ……)

 頭を抱えたいところではあるが、重豪は、ぐっと我慢する。


 重豪が表向き、引退してからというもの、「隠居邸」として構えている高輪の屋敷は、多くの訪問客を迎えている。よって訪問客に対する教育は徹底され、高輪邸は、「遥か昔の豊楽殿」などよりもずっと、質の高い「迎賓館」である。と、重豪は自負している。蘭壁の強い主の元には、異国の来賓も数多い。

 そんな高輪邸の者も、いざ外へ出るとなると、勝手が違うらしい。普段は外に出ないせいか、物珍しさが先走り、どうにも落ち着きに欠ける。


 様々な経験をさせようとの、樺山の計らいではあるようだが、初めてのことであるから浮き足立って、なんとも収拾がつかず、重豪としては、どうにも居たたまれない思いだ。それでも、何事も経験を積まずして成り立つものではないと、じっと我慢している。 


 道すがら、普段は目にすることのない宿場町の賑やかさに、いささか落ち着きを失った女中たちをさらに刺激したのが、本陣近辺の騒がしさだ。

普段は身分の高い大名への怖れも手伝い、本陣の周りはいたって静かではあるが、珍しい異国人の一行を一目見ようと、多くの人が集まっている。宿場町全体が浮足立っていて、おそらくはそれが高輪邸の者たちの気を、余計に昂らせているのであろう。


(ふん。商館長一行はこれをどう感じるであろう)

 異国人一行を物珍しそうに眺める民に、重豪は大いに恥じ入る。

(日本国民は田舎者だ)と思われねば良いがと、一人小さく大きな肩を落とす。だが……

(日本国にも、海の外に目を向け、多くの知識を取り入れようとしている者もおるのだ、いずれそれがこの国を変える、なぁ、又三郎よ)

 目の前の曾孫は大きな未来を背負って立つ男だ。が、今は曾祖父を頼む素直な若者である。

ここで、またまた、重豪のたぷたぷの頬が緩む、曾孫馬鹿は、死ぬまで治らぬらしい。

(まぁよい。女中たちの浮足立つ気持ちも、当然じゃ)

多少のことには目を瞑ろうと重豪は密かに思う。

  将来を期待される若君は、高輪邸から伴をしてきた女中たちにとって、大いなる興味の的だ。滅多にお目にかかれない若君のお姿を、拝見する機会など早々訪れはしない。

その若君がまた、大層に見目麗しいと聞けば、次々に女中たちが集まり、こそり、と覗いて見たくなるのも道理だ。曾孫自慢の曾祖父としては、それくらいは許してやりたいと思う。


「じきじゃ。しばし待たれぃ。男たるもの、大事にはでんと構えるものじゃ。どうじゃ、菓子でも食うか。緊張をほぐすには、甘いものが一番良い」

 重豪のすぐ横にかしこまった曾孫は、曽祖父の顔を見上げて、にっ、と笑い、

「大御所様は、酒をお控えになられてから、甘いものがお好きですね。われが持ってまいります。しばし、お待ちを」

 ほんに愛いやつじゃ。重豪が目を細める中、愛しい曾孫はさっと立ち上がり、にんまりと笑って小さく礼をとる。近く置いてなおまだ、物足らぬ――

 できれば一時も手放さず、一挙一動を見つめて愛でたいほどに、愛おしい斉彬は、我が生の生まれ変わり。


(安泰じゃ。あれがおる限りは、薩摩の明日は明るい)


 重豪が悦に入り、再び脇息に凭れかかるのと同時に、

「大殿、会見の準備が整いましてございます」

 身を低くして述べる樺山に、重豪はふっ、と口の端を緩める。

(そちの人脈、江戸育ちの又三郎のため、十分に使うがいいぞ)

 国元に陣取る、倅の側室由羅は、油断ならん女だ。役立たずの忠温(斉興)はただの繋ぎ。己の目の黒いうちにこの役立たずを廃嫡し、又三郎を薩摩の王の座に着けなくてはならん。

そのためには、優秀な人材を揃え、又三郎の足場を固めなくてはならん。

「よきに計らえ」

 穏かな笑みを浮かべ、重豪は脇息に重い身を委ねた。

        

(八)


 長旅の疲れをものともせず、大きな笑顔を浮かべた若き医師を、重豪は一目で気に入った。

 不慣れな地での不備すらも、微塵も覗わせぬ正装は、これから出向く江戸城への準備だと知ってはいても、重豪には好ましく感じられた。

 窮屈そうに畳に座した姿が、重豪には気の毒に見えたが、当人の真摯な様子がまた、なおさら一層好もしく思えた。


ぱんっ――。


手を打った重豪に、若き異国の医師、シーボルトは一瞬、目を見張った。

 しずしずと椅子を運ぶ家臣を横目に、樺山が商館長スチュレルに説明を加える。

 通詞が急いで内容を訳すと、スチュレルはおおいに喜んで重豪に感謝の意を述べた。ドクトル・シーボルトは、笑みを浮かべて何度も頷き、感じ入ったように、様々な角度から椅子を眺めた。


「どうぞ、お掛けください」


 通詞がこちらの意を伝えると、シーボルトは、おどけた様子で椅子に腰を下ろし、満足そうに頷いて、重豪に向って手を合わせた。


(良き男じゃ)


 重豪は、感無量だ。


 土産にと、オランダ商館長スチュレルの差し出した品々には、おおいに興味をそそられた。重豪自身、初めて見る品々についつい興奮し、質問を投げかけるにも、熱が入る。

 オランダ語、日本語、日本語、オランダ語……矢継ぎ早に繰り返される言葉の中、ついつい、重豪も深く学んだオランダ語が、日本語に交じる。にこり、と笑ったオランダ使節団一行は、


「薩摩侯は、大変、オランダ語がお上手ですね」


と、通詞を通して重豪を称讃する。重豪はちょっと得意だ。


「シ―ボルトよりもずっと発音がいい」とは、スチュレルの言ではあるが、ドクトルはちら、とスチュレルに目をやって、

「本当に」と、重豪に向かって深い笑みを見せた。


 和気藹々とした使節団との会話を終え、重豪は、本日の目的であるドクトルに向き直る。

「余は動物や天産物の大の愛好家で、四足の獣や鳥を剥製にしたり、昆虫を保存する方法を習いたい」と、使節団を真似て、重い口の端を上げてみる。

 内心では、ひやひやものだ。

 あのような笑みを上手く作れるだろうか。常に感心するが、異国人は、実に友好的な仮面を作る所作に長けている。


「お―」

 ドクトルは、両手の平を上に向け、大きな目を目一杯に広げた。重豪はじっと、ドクトルの顔を見返す。

「勿論です。お噂通り、薩摩侯は探究心盛んなお方であられる。私でできることであれば、なんなりと侯のお力になりましょう。かねてから、私は侯にお会いできはしないかと、人を伝って訊ねておりました。

ですが、薩摩の王と呼ばれる侯に、異国人のお目通りは難しく、此度の江戸参府の旅で、お会いできることを楽しみにしておった次第です。是非に、その手法を綴り、侯にお渡しいたします。あぁ、そうだ、確か鳥の剥製が一つ、荷の中にあるはずです。我が祖国のありきたりの種ですが、侯がそれでも構わないと仰れば、差し上げたいと思います」

(良き男じゃ)

 重豪は大いにドクトル・シ―ボルトが気に入った。


その後、重豪は薬草について語り、すでに琉球国近辺の薬草の調査に乗り出していることを、ドクトルに伝える。

 ドクトルは、それにまた深く感じ入った様子で、

「琉球国とは実に、興味深い国ですね」と大きく頷いた。

 話したいことは山ほどある。が、先ほどからちらちらと、こちらを気にしている息子の昌高が目に入り、(ふん、仕方ない)と重豪は思う。

 大切な曾孫に気を回し、出迎えの栄光を譲ってくれた息子にも、花を持たせてやらねばならん。


最後に、と重豪は「ドクトル」と呼びかけて、右手を差し出した。

 赤く腫れ上がった手の甲は、触れれば、ひり、と痛む。丹毒でありますと医者は言い、膏を貼っているが、一向に良くなる兆しがない。ぱくりと口を開けた傷口が痛くて堪らないのだ。

 一度、真っ直ぐにこちらを見たドクトルは、そっと手を取って、まじまじと右手を眺めた。貼り付けてある膏を静かに捲り、うんうん。と小さく頷く。


重豪の手を取ったまま、ドクトルは通詞に目配せをし、近寄った通詞に、ドクトルは小さく何かを囁いた。

 通詞は室内を見渡して一人の男に目を止める。ちら、とそちらを窺ったドクトルは、通詞に紙とペンを所望し、すらすらと文字を書いた。

「あちらに控える医者に、心配りを。薩摩侯の丹毒は、この膏では良くなりません」

 重豪自身も紙に目を這わせ、ドクトルに目を合わせる。「よろしいか?」と言いたげな表情に、重豪は小さく頷いた。

「薩摩侯の領国には、多くのお宝が隠れております。私が知る限り、地殻や環境、気温条件など、稀なる薬草の宝庫と言えましょう。是非に私にも、その調査の結果をお知らせください、たとえば……」

 さらさらと紙に書くのは、薬草の名だ。ただし、それは珍しいものではない。重豪でも目にした覚えがある薬草の名は、領国の薬園に問い合わせれば手に入る代物だ。

 ドクトルは黙々と薬草の名を綴る。重豪は自身の知っている薬草名を、ドクトルと確認し合っているようで、とても楽しい気分になっていた。

 通詞はしばらく、じっと文字を眺めていたが、薬草の名に興味はないらしく、身を引いて二人を眺める位置に立った。

 ちら、と通詞を確認したドクトルは、「琉球王の秘宝」とローマ字で綴り、ペンでこつん、と突いた。

 重豪は、何のことかと、ドクトルを見る。にこり、と笑ったドクトルは、続いて「海底の皇子」とその下に綴る。


(なんじゃ? 新種の薬草か?)


 重豪が口を開こうとして、ドクトルは小さく首を振った。重豪に目を合わせたまま、わずかに通詞に向かって顎をしゃくる。

(なるほど、通詞には内緒か)

 合点のいった重豪に、ドクトルは二つの言葉を丸で囲み、もう一度、重豪に見せた。重豪はただ、丸の中の言葉を見つめるばかりだ。

何のことか、少しもわからん。


「そうですか。ご存じありませんか」


 ドクトルのオランダ語を訳しながら、通詞が近寄る。

「では」

 にこり、と笑いながらドクトルは紙を一枚破り、新しい紙にペンを走らせた。


「侯の丹毒に利く薬の調合を、後日お送りします」

 紙に書かれた内容を見た通詞は、重豪の耳に小さく内容を訳し、重豪はドクトルに、こくり、と頷いた。

よくはわからぬが、ドクトルは後日、「二つの新種の薬草」について、何かを知らせてくれるつもりらしい。

「とても有意義な時を過ごさせていただきました。薩摩侯、本日は、ありがとうございました」

 最後の「ありがとうございました」をたどたどしい日本語で言い、ドクトルは両手を合わせて、小さくお辞儀をした。それを機ととったか、昌高が、声高に声を掛ける。


「ドクトル・ジーボルト、こちらへ。手紙と贈り物をありがとう」


 重豪が聞いても、見事なオランダ語ではっきりと言った昌高に、ドクトルはにこやかに顔を向ける。

 重豪に近寄る待医が、「大殿、お加減はいかがです?」と気遣わしげに顔を覗き込み、同時に樺山が、斉彬の背を押すようにして近づいてきた。

(すっかり忘れていた……)

 目に入れても痛くない曾孫の存在を、重豪が忘れた例は、かつてない。

 少々気が引けながら、斉彬を見ると、ドクトルは実に優しげな顔で、斉彬に礼を取り、二言三言、オランダ語で挨拶をした。

斉彬が多少緊張気味にオランダ語で返すと、「さすがは薩摩侯のお身内です」と、おおいに褒め称え、重豪はまた、鼻を高くする。


「若君、ご一緒に」ドクトルに促され、斉彬は昌高の席へと足を向けた。斉彬の背が弾むようであることに、重豪はさらに満足を覚えた。

「大殿、そろそろ邸へお戻りを。長時間の外出は、お体に障ります」

 早々に長羽織を着せようとする樺山に、

「余を年寄扱いするな。ドクトルは余を『実にお若い』とつくづくと申されたぞ。余はまだまだ平気じゃ、女中どもが茶菓の準備をしておろう」

「甘いものはお控えになっていただかなくてはなりません。先ほど、若君とご一緒に、羊羹を召されたとか。本日は、それで仕舞になされ。さようですな、先生?」

 うんうんと頷く待医を横目に、(お前の料簡はあてにはならぬ)と思いながら口にはしない。ドクトル・シーボルトが待医であれば良いのに、と内心で呟く。

 本日はこれで引き上げるとしよう。いずれ、ドクトル一行も立たねばならん。残りわずかの時を、息子と孫に譲ってやるのは、年長者の心配りというものだ。

「わかった。樺山、そちの申すとおりにする」


――薩摩侯のお立ちでございます――

 

すかさず声が上がると、皆が揃って頭を下げる。オランダ一行は片膝をつき、片手を肩に置く西洋式の礼を取り、頭を垂れた。

 重豪は、ちらり、とドクトルに目をやった。ドクトルは重豪の視線に気が付いて、にこりと微笑んで目で頷く。

 重豪は大いに満足して、駕籠に乗った。


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