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隠れ里  第一部  作者: 葦原観月
8/28

シーボルトの思惑

       (五)


 飛んで火に入る夏の虫――


 とは、こういった状況をいうのだろうかと、シーボルトは本日の最後の患者を見送り、診療所のドアを閉めながら思う。

「棚から牡丹餅」と「飛んで火に入る夏の虫」とは、どう違うのかと考える。だが、よくわからないので、考えるのをやめた。


 上着のポケットから先ほど届いた手紙を取り出し、もう一度しっかり確かめてみる。

 間違いなくカピタンの署名がある、馴染んだ癖のある文字には、見間違いはない。

 満足げに手紙を畳み、目を転じれば、庭の緑は深く落ち着きつつある。常緑樹の木々が淋しげに葉を秋風に揺らす。枳殻が、さわり、とお辞儀をした。


「月日が流れるのは、あっという間だ。気がつけば、年老いて明日の命もままならん」


とは、祖国にいた頃、良く聞いた祖父の口癖だ。

 医師もまた、人だ。人の命は、ままならん。だから、時は大事に使うべし。シーボルトは常に胸に刻んでいる。

(それでも若葉は、きちんと芽吹く、そうだろう?)

 棘だらけの枳殻を覗けば、金色のお宝を抱いた枳殻は、シーボルトを威嚇するように枝を揺すらせた。

(お宝は渡さぬとな。まぁ、そうだろう。お宝とは、早々簡単に手に入るものではない。だが、春の暖かな日差しを浴びれば、新たなる希望が見えてくるのも事実だ)

 秋になったばかりの今、早々に春の話か、と、気が逸る自らを、ほんの少し笑い、それでも沸き立つ気分は、抑えきれない。


(なんとまぁ、間がいいというか、ついているというか)


 シーボルトは、一度は仕舞った手紙を、再び取り出して読み返す。

(まるで、恋人からの手紙のようだね)

 ついつい浮かぶ笑みに、お滝が見たら嫉妬するだろうと、辺りを見渡す。

 幸いにも、お滝の姿はない。まぁ、別に問われて困る代物でもないが。

 寒くなり始めたせいか、患者の数が増え、本日は弟子にも手伝わせた診療所は天手鼓舞だった。夕刻になって、ようやくあと数人で終わるところに、出島からの使いが持ってきたのがこの手紙だ。

 馴染みの通詞は、カピタンからの手紙を渡して、即座に踵を返した。病を拾わぬ用心だろう。


 敬作が患者に薬の飲み方を説明している間に、シーボルトは手紙を読んだ。文字を追うごとに自身の顔が明るい表情になっていく様を感じ、ちらり、と上げた目が敬作と合い、きまり悪い思いもした。

 カピタンからの手紙の内容は、江戸参府についての話だった。

 オランダ商館に対して義務付けられる江戸参府は、出島にあるオランダ人にとって、心沸き立つ行事だ。なにせ「牢獄」から大手を振って出られるのだから、楽しみなこと、この上ない。


 以前は年に一度と決められていたようだが、今は四年に一度となっている。その機会に恵まれたシーボルトは、幸運だったといえる。

 日本国内を探索し、植物や、生物の研究を思う存分できると思うと、自然と口元が緩んでしまう。

 多くの協力者を同行させるつもりでいるシーボルトに、現カピタンのスチュレルは、色々と煩い。シーボルトとは、あまり馬が合わないのだ。

今回の手紙にも、シーボルトが推薦した人選について、文句を述べてある。

(ふん。全く)

 気分を害したシーボルトだったが、先を読んで、気を取り直した。そこには……

「島津の王が貴殿に会いたいと、仰っておられる。ご公儀の許可も得ている様子であるから、貴殿には従っていただきたい」

 偉そうに付け加えてあった。


 かねてから鳴滝塾の塾生から、島津の王の噂は耳にしていた。大層な蘭癖だと聞いている。

 島津の王の領国には、多くの薬園や、蘭学塾もあると聞く。そのおかげで領国の財政は火の車だと、塾生は忍び笑った。「火の車」が何なのかシーボルトにはわからなかったが、あまりよいことではないのだろう。ともかく――

 それならばと、シーボルト自身、島津の王にどうすれば会えるのかと、出島の役人に聞いたこともある。が、返事は皆、同じ、「さぁ、それは」である。

 出島のオランダ人は、日本国の人との、勝手な接触を禁じられている。閉じ込められた出島に出入りする日本国人は決められており、「遊女」を呼ぶにも長崎奉行所の許可がいるのだ。

「芸に身を助けられた」シーボルトは、長崎の町に出る権利は得たが、出島に人を招く権利は得られなかった。そこでお滝は、しばしの間、遊女として出島に通っていた時期もあった。

 シーボルトが熱心に塾と診療所の開設を願ったのは、愛する女性に遊女のふりをさせるのが、いたたまれなかった心境も加わっていた事実は否めない。


 そんな状態であるから、異国人シーボルトが島津の王に会うためには、長崎奉行所を通して将軍にお伺いを立て、将軍から島津の王へと話が回り、島津の王から将軍に返事が届き、将軍から長崎奉行所へと返事が来るまで……いったいどれほどの月日が掛かるだろうか。

勿論、どこかで却下される可能性もある。よって役人の返事が「さぁ、それは」なのだ。幕府は異国人に対して、とても敏感なのだ。

 謁見の理由も何かとしつこく尋ねられるであろうし、運良く話が運べば、場所や立会人の準備も必要となる。


 何かと面倒が多い上、シーボルトにはさらに、気の重い難関があった。

 長崎奉行所よりも苦手な上役に、「面倒」を掛ける詫びをしなくてはならない。それを思うと、シーボルトの腸は煮えくり返るのである。よって――

(やはり、無理か)

 シーボルトは諦めかけていた。

ここのところ頻繁に届けられる、商館からの手紙には、江戸参府に関するシーボルトが出した希望への、スチュレルの辛辣な批判が並べ立てられ、ほぼ「決闘」を覚悟していたところだ。


 それが――なんという幸運だろう。


 島津の王のほうから、シーボルトに会いたいと申し出てくれたとは。

 本来であれば、スチュレルの偉そうな物言いに、いよいよ「決闘」を決意するところだが、今回は素直に従う。

 むしろ「是非に」と笑顔すら見せてもいいと思う、シーボルトは大盤振る舞いだ。却下された絵師、フィレーネフのことも諦めよう。川原慶賀はいい絵師だ。

 すっかりとご機嫌のシーボルトに、更に幸運が舞い込んだ。


「先生!」いささか色づきすぎた椛の葉のような少年が、駆けてくる。

「こらっ、待てよ、石坊」

 牡丹餅が二つ。シーボルトは、にこっ、と笑う。

「先生、わかったよ、お宝、お宝」

 シーボルトの周りを飛び回る石坊を、敬作が追いかける。

「お宝?」馴染んだ言葉を繰り返せば、敬作が肩を窄め、

「はい。いつぞやの話ですが。先生はお忘れかも知れませんが、琉球王の探す宝の謎を、石坊は掴んだと言うのです。ほんとかどうかは、わしには一切わかりませんが、先生が知ったら、きっと喜ばれるかと思って……」

 シーボルトはわくわくしながら先を促した。


「いつかお話しした『平家物語』を、先生は覚えておいででしょうか。この辺りには、その後日譚が多く残っているとお伝えしましたが、それと「お宝」とが関わりがあるようで。琉球王は「海に沈んだ皇子様」の言い伝えのある、硫黄島に人を遣わしたらしい――と石坊は言うんです。そうだな、石坊」

「うん。うみんちゅぬはーめーが、そういうた」

 漁師の親父がそう言ったといっています。と敬作はオランダ語で伝える。


 面白い――シーボルトの口が大きく緩んだ。

全てが私を導いているかのようではないか――。


(島津の王を嗾ける、いい題材ができたぞ)

 実を言えば、今日のこの日、腹の立つスチュレルのもたらした吉報には浮き足立ったものの、いざ島津の王に会ってどう、お宝話しを持ちかけるかと、頭を悩ませていた。肝心の情報が皆無であったからだ。


 夏に二つの牡丹餅から得た話に進展はなく、琉球国の漁師の爺さんの噂話では、異国人、シーボルトが、島津の王に語るには、あまりにもお粗末な話である。

 しかも「お宝」の影形すらはっきりとはしない話を、どうして一国の王に、できるものか。一笑に付されるのが関の山だ。

 それが、琉球国王の登場とあれば、たとえお宝の形が掴めぬとも、島津の王の食指を動かすには、十分ではないだろうか。


(今日の私は、実に運がいい)

「棚から牡丹餅」とは、いわゆる「幸運の女神」のことを言うのか。

 シーボルトは敬作に確かめてみたほうがいいか、とも思う。シーボルトに「諺」を伝授してくれる塾生は、実にオランダ語が下手で、今一つ、しっかりとした意味が伝わっていないような気がするからだ。よし。


 シーボルトは二人を夕食に招待しようと決め、その旨を敬作に伝える。

「わ~い」石坊は更に激しくシーボルトの周りを飛び跳ね、敬作はしきりに恐縮しながら石坊を追いかけた。

(いい友人だ)

 シーボルトは二人に背を向け、お滝の姿を探して邸宅へと向った。

      


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