船酔い
(五)
はたはたと着物がはためく音を聞いていると、平佐田は、何故だか自分が空を飛んでいるような気がして、腹の底が透くような感じがする。
「ハイサー、エイサー」という威勢のいい男衆の掛け声と、「ミィー、ミィー」と鳴く海鳥の声を聞きながら、平佐田は閉じていた目を開いた。
段々に遠ざかる本土を目に映すと、妙に淋しく感じられる。一人身の平佐田には、別段これといって思いを馳せる相手もいないが、初めての船出に、少し気弱になっているようだ。
(いかん、いかん)
大きく首を振ると、くらり、と眩暈がして、船縁に手をついた。
(郷愁に浸っていても、どうにもならぬ。海を渡っていく島は琉球の一部だ。他国とは言え、今や大殿の支配下にある土地、おいは大殿から直々に命を受けた男じゃ……)
そこまで思って、再び気分が萎む。あぁ、駄目だ、駄目だ。
(役目を終えれば、薬園に戻ることができる。さっさと仕事を片付けて、子供たちの元に帰ろう)
すっかり、父親の気分だ。地味で単調な仕事だが、二年の間に亘って世話をした〝子供たち〟は、平佐田の心に居座ってしまったらしい。当たり前に毎日ずっと通っているうちは気がつかなかった思いは、離れてみて初めてわかるものだと、しみじみと思う。
遠ざかっていく山々に縋りつきたい気分になって、つ、と目を逸らせれば、深い緑が一面に広がる。
それがまた、冬の間の薬園の木々を思い起こさせて、ますます悲しくなってくる。目頭が熱くなり、平佐田はぐっ、と瞼を押さえた。
「気ぃ~悪いちゃあ~?」
間延びした声に顔を上げると、色黒の顔が口を曲げて覗き込んでいる。
おそらくは多分、心配してくれているのだろうと、平佐田にはわかっていた。
しかし、男の顔が大きかったことが平佐田の神経を逆撫でして、邪険に手を振った。
わかっている、そう、わかっている――
別に、薬園が恋しいわけではない。薬園の植物たちには確かに愛情を感じてもいるし、世話をするのも嫌いじゃない。だが、平佐田がいなくても、植物は育つし、悲しみもしない。平佐田が薬園に心を残しているのは――
こんな仕事は断固したくない。島になんか行きたくない。密命なんて、くそくらえ。おいは〝宝探し〟なんぞに、向いてはいない――天に向って叫びたい思いを、ぐっと堪えているからだ。
何かに気持ちを挿げ替えておかなければ、年甲斐もなく駄々を捏ねてしまいそうだ。そんな自分が、平佐田はつくづく情けない。
見るともなしに、一面に広がる深い緑に目を置くと、たぷん、たぷんと船の腹を叩く波の音が、平佐田の神経をまた逆撫でる。
「何が、密命だっ! 宝なんて、あるはずはないだろっ!」
叫んだつもりが、声には出なかったらしい。大きな手が優しく背をさすっている。口の中にじわじわと酸っぱさが滲み出る。
抗う気力もなく、親切に感謝を述べる元気もない、おいは本当に情けない男
だと、平佐田は引きずられるように船の上を移動する。
くたくたと、どうにも頼りない足元を気にしながら平佐田は、男の手を離れ、船底に寝かされた。心配そうに何かを言っている大きな顔の男に、礼を言わねばと思いながらも、言葉は出ない。
曖昧になっていく意識を取り戻そうと、平佐田は必死に踏ん張ってみる。がしかし、無駄骨に終わったようだ。大きい顔の男の背が遠ざかると同時に、平佐田の意識も遠ざかった。
(六)
どん。背が何かに衝かれたような衝撃を受け、平佐田は重い瞼を開ける。
ぼんやりと見えたものは、焼けたように黒ずんだ梁だった。体が浮いているのか、地面が浮いているのか――
朦朧とした意識で平佐田は考える。
「逃げなくちゃ」
が、それは無理な注文、体が重くて動けない。
(蟹が中ったかな?)
一昨日の田崎の上機嫌な顔が蘇る。あぁ、そうか……
そこで、はた、と平佐田は気付いた、
(おいは船上の人じゃ。密命を果たしに出向く、薩摩の戦士じゃ)
蟹に中った事実を思い起こす。平佐田は再びの「ちぃと付き合え」に導かれ結局……今こうして体調を崩して横たわる結果となったのだ。
どんっ。再び大きく体が跳ね、みしみしと梁が悲鳴をあげる。ついでに平佐田の背もみしみしと音を立てた気がして、「うおぉぉっ」と叫ぼうとして「うっぅうぅぅ……」となった。
口の中が酸っぱい。きりきりと胃の腑が痛む。揺れている視界は、夢か幻か。頭の奥底が何かに引っ張られるように重い。
(蟹……じゃないな、これが、噂に聞く船酔いか)
昨日、仕事の帰りだと言って、寄ってくれた同僚は、平佐田の先生就任を大いに喜んでくれた。
「知りませんでしたよ、平佐田さんが道場の先生に志願していたなんて。それであんなに悩んでいたんですね? 通るかどうか、不安だったんでしょう? 任期が終われば戻られるそうですね、田崎様に伺いました。めでたいことです、どうかお気をつけて」本当に好いやつだ。
密命を語らずに、平佐田の不在を説明できる先生就任は、なるほど便利だ。なかなか用意周到だと、平佐田は感心した。その同僚が帰り際、付け加えたのが、船酔いだ。
「眩暈がして、体が重く、胃の腑が痛んで、吐き気が襲います。熱が出る人もいるようです。外海は大きく揺れるようなので、漁師でも船酔いはあるみたいです。あまり揺れているものを見ないほうがいいといいます。ええと、わしが聞いた治療法は……」
平佐田が聞いても、いかにも眉唾物な療法など、試してみるつもりはない。気持ちだけ、ありがたく頂くことにしている。
(蟹であるはずはないよな。死んだ蟹に、生きた沢蟹ほどの魔力があるようには思えん)
「はー」と息を吐くつもりが、「げー」となって辟易とする。大荷物を背負わされたついでに、体の自由までなくなっては、この先いったいどうなってしまうかと、平佐田の気持ちは、どんどんと沈んでいった。
「大丈夫か?」
少し高い声は、子供だろうか。ざぶん。大きな水音と共に体がうねる。我慢していたものが一気に溢れ出し、平佐田は何とか不快な魔物を押し留めた。口がぱんぱんに膨れ上がる。
「我慢せんでよか。ほら、吐き出すんじゃ、辛抱は大事じゃが、我慢は過ぎると大事になうちゅうて、父ちゃんは言う」
頭を支えたのは、頼りない手だ。小さくて、まだ骨ばっていない。それが、
「ぐきっ」と首を反転させ、平佐田は思わず溜めていた物を吐き出した。ちょっと、すっきりする。
「次は、これじゃ」
口に押し付けられた竹筒から流し押し込まれたものは、塩辛い。海水か。平佐田が竹筒をどうすればいいか、ためらっていると、
「吐けばよかよ。口の中が気持ち悪かろう? 漱ぎじゃ。飲みたければ飲んでもいいが、わしは、あまり勧めん」
言い方がいかにも嫌そうだったので、平佐田は素直に吐き出した。うん。我慢は過ぎないほうがいい。
「ありがとう」と礼を言いたくて口を開けば〝ざぶん〟が押し寄せる。言葉の代わりに出るものに、平佐田は為す術もなく、先ほどの動作を繰り返した。
「大丈夫か?」
何度目かの言葉に、頷くだけの元気を取り戻した平佐田だが、ふわふわとした頭が、口を利かせない。
元来、口下手なほうだが、「話すのが億劫」になったのは、初めてだった。口にしたい言葉が素直に出てこない。
頭の中では、「君はどこの子なの、親切にしてくれてありがとう。君は気分は悪くないの? どうしてここにいるの? この船はいったい何故こんなに揺れてるの……」語りつくせないほどに、たくさんの言葉が犇めいているというのに。
相変わらずに揺れている体に、胃の腑は小刻みに反乱を起こす。が、目下のところは小競り合いで収まっていて、反乱軍は敵方の様子を窺っているようだ。
「大将は、まだ出てこんぞ」平佐田は心の中で呟き、下がりがちの重い瞼に、精一杯の力を込める。
見えては消え、消えては見える。目の玉が迫り上がっていく様がわかる。懸命に目玉を下ろすのは、平佐田自身の意思だ。
(起きろ! 起きるんだ! しっかりしろ!)
繰り返すうちに、小さな影が一つに纏まった。平佐田は影に目を据える。
ゆらゆらと揺れる船と、平佐田自身の頭の揺れが重なって、ほんのすぐ目の前の影が、捕まえたと思ってはするり、と逃げる。
(鬼ごっこみたいだな)平佐田は苦笑した。
「なんじゃ、おはん、元気になったか? 笑える元気があれば、じきにようなる」
ぱっ、と笑った顔に、平佐田の焦点が合った。
子供の顔が光ったのかと、一瞬はっとした。が、じり……油の臭いが平佐田の鼻腔を衝いた。大きく揺れる子供の顔が、赤くなったり、黒くなったりと、忙しい。
「風が強くなってきた。海の天候は変わりやすい。もしかすると大荒れになるかもしれん。わしは父ちゃんに言われて、荷がばらばらにならんように固めに来た。で、ついでに船乗りから、病人を看ててやってくれ、言われてな」
ついでか。船酔いの男は、荷物の次らしい。
「上は、大騒ぎじゃ。船がひっくり返らんように、気を配らにゃあならん。倭寇にも気をつけにゃならんしな。やつらは命知らずじゃ、大荒れの海こそ格好の条件じゃと、乗り込んでくる。船乗りたちは、船の舵をとるのに精一杯じゃからの」
溌剌と元気な声が語る内容じゃない。大きく体をうねらせる姿は、楽しく遊んでいるようにしか見えない。
平佐田が不審な顔をしたのか
「嘘じゃなかよ。この辺りは倭寇の庭みたいなもんじゃし、海の神様は気紛れじゃ。到着は、ちぃと遅れる。最悪は、島には着けん」
えっ? 何で? 船は海の上を駆け抜ける、馬のようなものじゃないの?
言葉が出ない平佐田の、表情を子供はよく見ている。よほど子供が聡明なのか、それとも平佐田が単純なのか。
平佐田は前者が正しいと信じることにする。
「船が沈む――それも、ありうることじゃ。海に出たもんは海の神様のもん。わしらは今、海の神様に遊んでいただいておるんじゃ。なに、へっきじゃ。海の神様が堪能すれば、わしらは無事に島に着ける。上の船乗りたちが上手く、海神様のお相手をすればいいんじゃ。琉球船の船乗りは、優秀じゃ。上手くお相手をするじゃろうし、倭寇の相手にも、慣れとる。何よりも、わしの父ちゃんが手伝うとるけん、心配はなか」
けろりと言ってのけた子供は、「おぅ」と不満そうな声を上げ、平佐田の前から姿を消した。
ぎぎぎぎ……音とともに体が斜めになり、がこん、がこんと何かが転がっていく。灯かりに照らされた小さな影が、猿のような身軽さで、その後を追った。荷が解けたらしい。
とんでもない事態になった――
平佐田の嫌な予感は、当たった。どうして幼馴染は、平佐田を褒めたりしたのだろうと、恨めしく思う。
(ほんとに全く、どこからどこまでも……酷い人だ)と理不尽な八つ当たりをしてみる。
だが、怒り狂う元気もない。大きく揺れる梁を見ていると、頭がふらふらとなり出して、目を閉じてみると、今度は胃の腑の小競り合いが大きくなる。
仕方なく再び目を開けた平佐田は、元気良く動き回っている子供の姿をぼんやりと見つめた。
大きな揺れをものともせず、走り回る姿は頼もしい。船のように揺れていない分、走り回る子供を見ていると、少し気分が楽になるような気がした。
今の平佐田の位置からは、影絵のようにしか見えない子供の顔を思い浮かべてみる。
はっきりとした顔立ちだった。溌剌とした大きな黒い瞳が印象的な……本土で見かける子供たちと、ちょっと違う。
「島は、閉鎖的じゃからな。異国の血が、そのまま受け継がれておるんじゃろ」
郷の婆様の言葉を思い出す。
強者である婆様は、まだ幼い頃に、父親にせがんで島へ渡った経験があると聞いた。
女は乗せないという漁船に、幼女を乗せる許可を出したのは、父親の力か、はたまた、どう見ても婆様は幼女には見えなかったか。
干からびた蟹のような婆様を、数十年の間ずっと海水に漬け込んだら、田崎そのままになるだろうと、平佐田に笑いが込み上げる。
「なんじゃまた、笑ろうとるんか。おはん、なかなかのもんじゃの」
戻ってきた子供が、にかっ、と笑った。
「――赤毛の碧眼じゃあなかよ。ぱっと見は、おいどんたちと変わりない。が、なんかこう……違うんじゃ、眼力が鋭いっちゅうか……じーっと見られると、心の底を見透かされるような気がして、おいどんは、まともに目を合わせられんかった。おいどんの世話をしてくれた若もんは、彫りの深い顔をしておったな。色は黒く、手足が長い。おいどんに合わせてしゃがみこんだ時、ぎょろりとした目が、おいどんを睨んだような気がして、おいどんは泣き出してしもうた――」
あの婆様を一睨みで泣かせるとは……たいした男がおるもんじゃと、平佐田は随分と感心したものだ。
さすがに、大人である平佐田が、目の前の子供を見て泣き出すような失態はなかった。とはいえ(なるほど)と婆様の言葉が嘘ではなかったと知る。
体を大きく揺すりながら、灯かりを梁に引っ掛け、荒縄を手繰っている子供の色黒い肌が、てらてらと光っている。
背は小さいが、着物から飛び出している手足が、ひょろりと長い。おどけたように見張った目がぐるりと回って、(絡繰人形か)と平佐田の度肝を抜いた。
(これが、島の子か)
本土に程近い島――本土にいる者には、島の情報は少ない。島津の領地には、たくさんの島がある。だが、本土と密接に関わる島は、奄美群島や琉球国等、特産の品が取れる島に限られる。
故に必然的に誰もが、その辺りの情報には詳しいが、領主が特に関心を示さない、特産品のない島は、本土の者たちの話題に乗ることはない。よって島にどのような人が住み、どのような生活をしているのかは、想像の域を出ない。
何の情報もなく、単身〝密命〟を受けて乗り込んでいく「ひ弱な平佐田」には、今のこの大揺れに揺れる船よりもずっと大きく心を揺すっている不安は、あって当然だったろう。
「おまんは「薩摩男」を背負うとるんじゃと思え」
田崎の言葉が重くのしかかる。目の前の子供が島の子供であれば、気を引き締めなければならない。いつまでも船に酔って、情けなく身を横たえているようでは、「本土の男はへな猪口じゃ」と笑われる。それでは〝密命〟どころか、先生にも金輪際なれはしない。
(おいは……おいどんの名を汚すわけにゃあ断固いかんっ。いずれ、おいも、おいどんになるんじゃ。おいどんの名が汚れてしまったら、おいは何になればいいんじゃっ)
何かちょっと違う気もするが、ともかく。平佐田は「このままではいかん」と立ち上がる。ぐわん、ぐわんと回る頭、頭の奥でちかちかと雷が光る。ふらふらと頼りない足を踏ん張ると、胃の腑で大戦が始まった。
「えぇぇぇぇっ」
子供が大きな声を出す。見ろ、これが薩摩男じゃ。船酔いなぞには負けんわ。がはははは。
笑ったかどうかは覚えていない。ただ平佐田は、右に左に、前へ後ろへと、引っ張られるように傾ぐ体を必死に堪え、こんな時は――
「一の太刀を疑わず、二の太刀は要らず……髪の毛一本でも早く打ち下ろせ、キィエーイ!」
と、無我夢中で繰り返し繰り返し、唱えていた。
「うわぁ。てそかじゃ! 父ちゃん、父ちゃんっ」
大慌てで叫ぶ子供の声を、平佐田は遙か遠くに聞いたような気がした。