聖域
(二十五)
「あと少しですよって」
滋子の案内で、平佐田は未踏の山奥を歩いている。意外にも道は緩やかで、草木も多く研究材料になりそうな薬草も、そこかしこに、ちらほら。
が、本日の平佐田は、大事な研究材料らを無視する。前を行く着物の裾から見える、白く美しい足首も、だ。ともかく、聖域に達しなくては意味がない。
「あの……ここらは、まだ、島の人たちも……」
「いいえ。そやけどほんまはあかん。けど結構、みんな来る。道は緩やかやし、あまり、人来ぃひんちゅう安心感もあって。逢い引きにはもってこいどす。島の若いもんなら、大抵知ってます」
けろり、として滋子は言う。
(逢引か……)
平佐田としては、気に掛かるところだ。
「滋子さんはよう、ここに?」「へぇ」
誰と……
聞きたいが、聞けはしない。まさか、本当はお館様と上手くいっているとか……
邪推も甚だしい平佐田の〝もやもや〟を、滋子は、あっけらかんと打ち破った。
「好きどすねん、ここ。なっこう、落ち着く感じがして……」
見渡せば、山の奥とは思えぬほどに視界は平坦で、潮の香りが好ましい。海風に靡く草花は、元気のいい子供みたいだ。
「聖域に近いから、でっしゃろ。ここには神様が寝てるような気がして。うちは、ここが島一番の場所や思うて。ここでは、嘘はつけまへん、島神様が見てるんや……」
滋子が足を止める。平佐田もまた、足を止めた。〝子供たち〟が潮風にさらさらと笑う。
「好きどすねん……」
小さな肩が震えている。
「使いが来ました」と、滋子が振り返る。
どこか頼りなげな顔は、平佐田が初めて見る滋子だ。平佐田の胸が、きゅん、と鳴った。
「婚儀が決定どす。お館さんから使いが来たんや。うち、さかしまらいきれまへん。けど……どないもならしまへん。好きどすねん、うち……」
ふわり、と倒れ込んだ肩を抱けば、平佐田の胸が熱くなる。
すべては、予想がついたはずの出来事だ。滋子の想いが限りなく嬉しくもあり、また、重くもある。おいは……
「滋子さんが好きです。初めて会うた時から。好きで好きで、どうしようもなく、おいは滋子さんを……」幸せにしたい。
言いたい言葉は喉に詰まる。言うは簡単だが、
己に、それができるか――
平佐田は、言葉を飲み込んだ。できはしない。
先生は近く、全員が本土へと帰るのだ。長く続いた島の仕来りに、高々本土の〝使いっ走り〟が、太刀打ちできるはずもない。
(滋子さん、おいは……)
「近いうちに本土へと帰らにゃあなりません」言わねばならぬが、言いたくはない。すぐにわかる話ではあるが、今は。
「迎えに来ます。待っとってください」などと言えば、いい加減な男に思われる。
迎えに来られる確証は、一切ない。ならば、
「一緒に行きましょう。幸せにします」言えればいい。
だが、本土へ戻っても、あてはない。薬園師見習いでは、一人で食っていくのがやっとだ。
「せんせは……うちを、どない思うてはりますのん?」
いつも溌剌とした滋子の、絞り出すような声が余計に愛おしい。平佐田は胸が潰れる思いを持て余し、ただ、ぐっ、と細い肩を抱く手に力を込めた。
(そうそう。ここは、ぐっと押しの一手。後のことなんぞ、考えとっちゃあ、いつまで経っても〝おいどん〟にはなれんぞ)
化け物蟹の囁きには耳を貸さず、押し戻された滋子が、切なさを湛えた目を平佐田に向けた。滋子さん……
「おいには、大事な仕事があります。おいは……」
ばしっ――。
言いかけた言葉は潮風に攫われ、熱い頬をいずこかから飛んできた草が撫でる。
見る間に滋子の背は、どんどんと遠ざかって行った。
(二十六)
(最悪じゃ)
へたり込みたいが、腰がそうはさせない。山登りで疲れ切った腰は、緊張のため伸びきっている状態で固まり、少しでも屈めば、ぐしゃり、と崩れ落ちてしまいそうだ。
さわさわと笑う〝子供たち〟に、平佐田も所在なく口の端を曲げた。どうにもならない。心底、情けなく思う。
とはいえ、どうにもならないものは、ならない。悔しさが込み上げ、手の甲で強く目をこすった。
じっと悔しさと情けなさを堪えていると、遠く漣が平佐田の心に囁き掛ける。
「大丈夫、大丈夫だよ」
さらさらと〝子供たち〟の声が平佐田の背を叩く、
「しっかり、しっかり」
神様は、ここにいる――
「よし」
平佐田は滋子への想いを胸の奥に押し込み、痛む腰をいたわりながら、聖域を歩き始めた。
本日、ここへ来た目的は、一つ。智次の足取りを掴むためだ。
段々と空気の冷ややかさが全身を覆うように押し迫る。
(神様の場所じゃ)
平佐田は感じていた。
気がつけば、辺りは鬱蒼とした木々に囲まれ、平佐田は生まれて初めて〝足が竦む〟という経験をした。
へなちょこ時代の経験の比ではない。頭の中すら〝足が竦む〟のだ。
(頭は、足じゃなかよね)
思いながらも、一歩も進めなくなっていた。
立っているのか、へたり込んでいるのか、それすらもわからない。かなり興奮しているようで、それでいて心は静か。
周りの気配に抑え込まれ、身動きができないような、周りと一体化していきつつあるような、不思議な感覚だ。
「もうい~か~い」
子供の声がした。不思議と現実的な声が、平佐田を呼んだ。
ゆっくりと振り返る。木立の陰に細い子供が一人。立ち止まって、平佐田を見ている。黒く陰った顔に、きらきらと輝く目が丸い。
「智次坊?」
そんなはずはない。この一年の間に、智次は随分と背が伸びた。だが、木立の陰に立ち竦んでいる子供は、智次よりもずっと小さい。一番最初に平佐田が会った時よりも、ずっと。
それでも妙にこの聖域に馴染んでる姿に、平佐田は智次を感じていた。
「わっ」
平佐田の呼びかけに、子供は驚いたように声を上げ、くるり、と背を向けた。
「待って!」
平佐田は子供を追いかける。
慣れた足取りで、子供は走っていく。まるでこの聖域は自分の庭であるかのように。
(島の子か?)
どうやら智次ではなさそうだと気が付いた平佐田は、必死に後を追う。
もしかしたら子供は、智次の事情を何か、知っているかもしれない。本来であれば、入ってはいけない聖域にいる子供だ。
(もしかして、あれが黒御子様?)
ちら、と考えが頭をよぎる。
が、迷心は、すぐに打ち消した。またまた足が竦んでは、智次の足取りが掴めなくなる。
前を走っていた子供が、脇に逸れた。平佐田は慌てて向きを変える。と――
いきなり子供の姿が消えた。
「うわっ」
同時に、足元の地面も消える。
うっかりと足を滑らせれば、断崖から海に真っ逆さま――
島人から聞いた聖域の恐ろしさを思い出す。
(聖域を犯した罰じゃ)
手を広げて待ち構えるかのような磯の香に、平佐田は覚悟を決めた。
――終わりじゃ。
すべてが最悪のまま終わるなんて悲しい。やはり、神も仏もないのかぁ、と少し罰当たりなことを考える。
が、もう、どうせ生きてはいないのだから、罰は当たらんと、開き直る。
へなちょこは、へなちょこなりに、自身を正当化しなくては世知辛い世の中には、いられないのだ。
(ま、これが最後だけど)
思ったとたんに吹き付ける風が止んだ。
ぼわん。体がふわり、と浮き上がる。
(あれ?)
何度か体が浮いては落ちを繰り返した。頭がくらくらする。
平佐田は、そこで初めて、自身の身が何かに包まれている事実に気が付いた。ちょっと魚臭い。
「一丁上げ―。ちゅさらいなんかするからやっさ―、うひぐゎ―やあがっみ―んかい合うとゆたさん。ないさん、へ―く。わんなや奴、捕まえのみぐさぁ~」
上から聞こえてくる声は、〝天の声〟か。ならば、理解できる言葉で言って欲しい。何を言っているのか、ちぃともわからん……。
「あちゃあ……」
間延びした合いの手は、どこかで聞いたような……
「石坊、ばっぺーさぁ~。あぬひゃーやちゅさらいなんかあんに、わんぬ知ってからいるちゅだしよ、しぇんしぇ~ぬ~が。あぁ、いかん、せんせ、平佐田せんせ! 怪我しとらんかぁ~」
神様が心配してくれている。ありがたいことだ。
が、何だか頭がくらくらするし、地に足がついていない現状は、何とも不安だ。だが〝どこかで聞いたような記憶がある〟神様の声に、返事はしなくてはならん。
そこで平佐田は首を上げて……
ぐきっ! 腰が恐ろしい音を立て、きん――脳天を雷光が貫いた。
「□〇×△……」
言いたい言葉がどこかへ飛んでいった平佐田は、そのまま魚の臭いに包まれて、目を閉じた。
編集により、事の発端からここまでを第一部とします。現在、第二部で完結となっている部分は最終部となりますので、続きは第二部としてアップします。最終部を第三部とします。ご迷惑をおかけしますが、続きは新しくアップする第二部でお読みください。よろしくお願いいたします。m(_ _)m




