古の神隠し
(十五)
「宗せんせ。上がって飯ぃ食わんか。まだ仰山ある。せっかくの御馳走じゃ。平佐田せんせも食わんか」
さすがに平佐田は「もう食えません」と断った。散々に食ってきたばかりだ。宗爺はといえば、
「わしも先に〝挨拶〟に行ったばかり。しかも、どの患者の家でも、御馳走が出てくる。腹が減る暇もないわい。後、三日ほどは食わんでも生きていけそうじゃ」と、くしゃり、と顔を皺寄せて笑った。
「あぁ、じゃあ……」
内儀は一旦そこで家に入り、ほかほかの芋を持ってきた。
「土産じゃ。せんせ、ほんにありがとうございました」と丁寧に頭を下げた。
体中が痛む平佐田が、内儀の後を追って家に入ろうとして、
「せんせ、ちぃと付きおうてもらえんか」宗爺の呼び止めに、やはり嫌とは言えない平佐田は、そのまま陽だまりに腰を下ろす羽目となった。
「せんせも、えらい目におうたな」
「はぁ」
ほくほくと湯気を立てた焼き芋を手にしながら、平佐田は〝好々爺〟と向かい合っている。
(滋子さんがいたらいいのになぁ)
散々に振り回されたくせに、平佐田はもう、滋子に夢中だ。その滋子は、向かいの〝好々爺〟が手渡した薬を手にして、さっさと平佐田に背を向けた。
遠ざかる華奢な背を、うっとりと、また、淋しい思いで見送った平佐田だ。
滋子の言う宗爺とは、見るからに優しげな好々爺で、年の頃は智次のお爺さんと似たり寄ったり。島のたった一人の医者だという。
「爺は元気か? 近頃ちいとも会うておらんが。偏屈になりおって、ふん、年寄ると、頑固になっていかん」
言いながらも顔は穏やかで、ひとしきり皺が深くなる。
(ほんとは仲がいいんだ。お爺さんは藪だなんていってたけど……)
「薬を届けに来たんじゃ。咳が出ると聞いてな。お内儀が心配だから、来てくれと。あれは、いい嫁じゃ。智頼は果報もんじゃ。餓鬼の頃は手の付けられん悪餓鬼じゃったが。人は変わるもんよ。変わらんのは神様だけじゃ」
あの智頼が、手の付けられん悪餓鬼だったとは……とても信じられない。おおらかで、面倒見がよくて、頼りがいのある餓鬼大将、皆を引率して悪戯の数々はこなしそうではあるが、大人たちの手に余るほどの悪さをする姿は想像できない。
子供たちから厚い信頼と尊敬を受ける智頼は、島人の信頼も厚く、常に島人の輪の中心にいる。誰からも慕われる存在だ。
「人の時は短い。変らにゃあ、生きていけんのよ。子供のまま……皆が無垢な子供のままであったなら……秩序なんてものは、存在せん」
思い出したように宗爺は、ぱくり、と芋を頬張り、もぐもぐと口を動かす。平佐田も少し口に入れて、じわり、と口に広がる甘さを味わった。
「せんせは……お館様と話をしたちゅうこっだな」
宗爺の言葉に、平佐田は飲み込みかけていた芋が喉に引っ掛かる。
けほけほと咽せる平佐田に、宗爺は竹筒を差し出した。平佐田はそれをぐびぐびと飲み干す。
「今しがたすれ違ったお館様の用心棒から、話を聞いた。お館様は大層せんせを気にしておられたと言うとった。珍しいこっちゃ。お館様はあまり、他人に興味を示されん。せんせは本土の郷士の出だと聞くが、ご先祖にその昔、京の都で一世を風靡したお方がおられはせんか?」
またまた咽せるようなことを聞く。郷士とは言えど〝無高郷士〟の平佐田家に、遠い昔とはいえ、そのような立派な血が存在したなどあり得ない。大きく首を振る平佐田に、
「そうか。ま、遠い昔じゃ。一度は叩き潰された家じゃから、その血統を辿るは難しいじゃろうよ。んだがま、滋子のこつもあう。あの滋子が誰かを頼るなんぞ……これもまた珍しい。せんせ、これに懲りず、滋子と仲ようしたってくれ。あれは、根はいい子なんじゃ、ちいと意地を張っとるだけ。きっとこれは神様の縁じゃ。滋子は、せんせを好いておるのやもしれん」
「へっ?」
まさかの言葉に平佐田の顔が熱くなる。
にたり、と笑った宗爺は、
「せんせも、まんざらでもあるまい。滋子は島一番の別嬪じゃ。本土から来なすったせんせ方も、まずは最初に滋子に目をつける。それが、ことごとく袖にされ、わしらとしちゃあ、見ていて実に面白い。本土の人を悪う思うてはおらんが、島人は島人としての誇りがあう。全部が本土のいいなりにはならん、と心の底では思うておるんじゃ。本土から来たせんせ方は、いずれもどことなく横柄じゃ。せんせのように穏やかで優しいお人は、珍しい。あの智頼が褒めちぎり、内儀も大層、気に入っているとの噂が広まって、皆、せんせのこつを気にしておるんじゃ。だから智頼は、お館様にお目通りさせようと〝挨拶〟にせんせを向かわせたんじゃろ。で、お館様は大層せんせを気にしておられう」
良くはわからぬが、智頼さんはただ、手が足りないから平佐田を使っただけではなさそうだ。
島に迎え入れようとしてくれている――
平佐田には、それがとても嬉しかった。
「あの……お館様とは。〝取次様〟と呼ばれておられましたが……」
聞いてもいいだろうか、と思いながら、せっかくだからこの好々爺に色々と尋ねてみたい。
わざわざ誘ってくれたこの島人は、平佐田に島の話を聞かせてくれるために、神様が遣わしてくれた人物のように思える。ここは神のいる島だ。
「ふむ。その話をするには少々時を遡らねばならん。そうじゃなぁ……」
宗爺はきらきらと輝く海に目を眇め、そのまま静かに目を閉じた。
じっと動かぬ様子に、(寝とるんか?)平佐田は、不安になる。こんな場所で居眠りをされても困る。平佐田は今、腰を痛めている、爺を背負って家の中に運び込むのは結構難儀だ。
「懐かしい話をしてみるか。わしと、この家の爺、時盛の子供の頃の話じゃ。わしらは、とても仲が良かった。暇があればいつだってつるんでいて、親兄弟よりも深い繋がりを感じていたほどじゃ。あれはそう……」
今の時頼と同じくらいの年頃だった。
時頼は爺さん似だ。もっとも、時頼の顔のでかさは母親譲りだが、と、言葉を繋いだ宗爺に、起きていたかと、平佐田は、ちょっとほっとする。
昔から年寄りに馴染んでいる平佐田は、〝年寄りの不思議〟には慣れている。突然に居眠りを始めたり、突然に話が他へ飛んだりは、よくあることだ。
今もまた、目の前の好々爺は、居眠りはしなかったものの、話が他へ飛びそうだ。ここで話の腰を折るのは失礼だから、平佐田は黙って聞くことにする。
我が身の〝人の好さ〟の原点は、年寄りの友人が多かった事実に基づくものだと、今更ながら納得する。
じっと耳を傾ける平佐田に、宗爺は穏やかに笑い、
「夕刻の隠れん坊が、事の発端なんじゃ。重定坊もやった。で、〝隠れ里〟に招かれたというわけじゃ」
平佐田が大きく目を見張る。心の隅に引っ掛かっていたものが、一気に飛び出してくるような感覚に陥った。眩暈がする。
「夕刻の隠れん坊――島では昔から、禁忌の遊びとされておる。それは神隠しの誘いだからじゃ。昼と夜が混ざり合う不思議な刻……昔から恐れられておる刻じゃ。昼と夜、光と闇、現実と夢幻、神と魔物……何もかもが曖昧となり、混ざり合う。そこでは、不思議は常識となり、常識が不思議となる。なんとも奇妙な歪みじゃ。だが、人はそれを恐れると同時に、憧れもする。その隙を突いて、神隠しが起こるのやもしれん」
夕刻とは、逢魔ヶ刻ともいう。文字通り「魔に逢う刻」なのだろう。
昼をじわじわと侵食していく闇は、魔が神を冒涜しているようにも見える。神聖なものを汚す行為は、何故か人の心を引きつけるものだ。逢魔ヶ刻に何故かそわそわと落ち着かぬ気持になるのは、子供だけとは限らない。
「はぁ、それで……子供らぁが夕刻に外へ出んのですね。おいは不思議に思うとりました。夕刻と言えば、子供らも仕事が一段落し、遊ぶ時間ができる頃です。
おいも夕刻には、よう遊びました。母親が「はよう帰らんかっ」と呼びに来るまでね。それが島では、夕刻に子供が外で遊んどる姿を見ん。家の中にはおりましたが。重定坊はよう、家に来て、時頼坊らと遊んじょりました。おいも何度か、話をしたこつがあります」
「そうか。そうか」と、宗爺は頷き、淋しそうに笑った。
「子供らが夕刻に家におるのは、おそらくは親の言いつけ。子供ちゅうんは、予想がつかんこつをしう。皆で集まれば気が大きうなるんも事実じゃ。誰かが「禁忌の遊びをしよう」と言えば、誰もが嫌とは言うまい。駄目だと言われれば、逆らいたくなるのが子供というもの。特に男子は、そうじゃ。せんせもわかろう?」
確かに。へなちょこであっても、男は男。まぁ、それに気弱というおまけがついた搖坊に、大胆な反抗はなかったものの、「ちんちんが腫れるから、絶対にミミズにしょんべんを掛けちゃいかん」という言葉に逆らい、ミミズを見るたびに、出もしないしょんべんをひっ掛けた覚えはある。
だが、何故か本当にちんちんが腫れ、〝その類の駄目〟には従順になった。重定坊は〝ちんちんミミズ〟に逆らって神隠しに遭ったというわけか。
(えらい〝ちんちんミミズ〟じゃ)と平佐田は眉を顰める。
「わしと時盛も、そうじゃった。あれは、暑い日じゃったな。重惟、時定、清重、隆平……いずれも、なんとなく集った友人じゃ。虫取りをしとった。誰が捕ったのが一番でかいか、どいつのが一番強いか。比べながら、遊んでおったんじゃ。それが――ふいに一匹が飛び立って逃げてしまい、それを追うように次々と逃げてしまった。不機嫌になったのは一番でかいのを捕まえていた重惟だった……」
その重惟が「隠れん坊しようや」と言い出したのだそうだ。腹いせに「いかん」言うことをしてやろうという腹だったのだろう。
そろそろ夕刻に近い時間で、宗爺……当時の宗坊は、ちらり、と他の子供たちの様子を窺った。誰もが不安を顔に張り付けていたが、やめよう」と言う者はいなかった。
それは、わかる。男の子は意気地なしだと思われたくはない。あの搖坊ですらも、そんな意地だけは持っていた。結果、散々な目に遭ったのも、事実ではあるが。
暮れてゆく陽、じわじわと這い寄る闇が、ひんやりとした空気を吐き出して、子供たちは、それから逃げるように走り出した。
「も~い~かい」
聞き慣れた友人の声が、背を追って来て襟首を掴みそうな……そんな気がして、童の宗爺は気が気じゃなかった。日が暮れれば、あまり遠くへ行くのは危険と、わかってはいながらも、何故か宗爺の足は止まらなかった。
「気がつけば、辺りは白くけぶっておって、恐怖に身が竦むという経験を、初めてしたな。長年、生きちょるが、あれほどの恐怖を感じたことは、今までにない。子供の頃に一番の恐怖を経験しちまったわけじゃ。おかげで、度胸だけは据わったの。そう思えば悪い経験でもなかったちゅうこつだ」
(ふぅん。あの白じゃな)
あれには、誰でも魂消るだろう。
大人でも身を縮めてやり過ごすあれに、子供が山の中で出くわせば、竦み上がるのは当然だ。おそらくは噴火口に近い山の中では、白はさらに深く、硫黄の臭いも、ただならぬものであったろう。
「立ち止まった場所がどこであるか……まるで分らんかった。何しろ、白一色で、はぁ、夢の中よりもずっと夢に近い感じがしたの。わしは恐怖に体を包み込まれたようじゃった。暑かったはずなのに、背筋が、ひゃっ、として、夜になってしもうたんじゃ、と思うた」
「おっ、宗爺。往診は済んだんか? 酒があるぞ、飲んでいかんか?」
隣の惟清、定清が荷車を引いて通り過ぎる。宗爺に声を掛け、平佐田に親しげに会釈する。二人とも親睦を深めている平佐田は、「お疲れさん」と声を掛けた。
「おう。今は、せんせと大事な話をしちょる。酒は、今はいかん。明日の朝一番で届てくれんか。朝酒は、いいもんじゃ。ほっとするもんよ」
からからと笑う好々爺に、二人の顔が釣られて笑う。
惟清、定清は年子で、十八と十七。島ではいっぱしの大人だ。同じく漁師をしている二人には、「そろそろ嫁候補を探さねばならん」と、智頼も奔走している。当の二人はおかしげにそれを見守り、大いに若さを満喫している。年の近い二人は平佐田にとって、島の若者の倣いを教えてくれる師でもある。
「せんせ、年寄りの話は長い。腹ぁ括って付き合わにゃあならんよ。飽いたら家に寄って。宴会でもしようや」
二人の引く荷車には、一番下の忠定がくうくうと眠っている。誰もが皆、重定がいなくなった事実に、日常を狂わされている。忠定の頬に、いく筋かの跡が木漏れ日に輝いた。
(十六)
「もう、いいかい」
二人が家の中に入った後姿を見ながら、宗爺が呟いた。
弾かれたように見返った平佐田の目に、宗爺の皺が日を受けて光った。
「甲高い童の声じゃ。あの日、集った連中のものじゃない。もっと、こう……澄み切った、例えれば冬の朝の空気のような、厚く張った氷の底から出てくる泡のような……とても人が発することなどできないような、澄み切った声じゃった」
それが白い中を楽しげに漂ったという。
ともかくにも、生まれてこのかた、一番の恐怖を感じていた宗坊は、身を縮めて、へたりこんだ。
「すぐ前にあった木にしがみついた気もするが、よくは覚えておらん」と宗爺(、、)は頭を振った。
「それが年のせいなのか、その時の恐怖のせいなのかは、神様だけが知ることじゃ」情けなさそうな顔をして。
搖坊であれば、間違いなく後者だ。
「見つからんように、見つからんように……。ともかく、それだけを祈った。何故かは、わからん。見つかったら最期じゃと思うたんじゃ」
「もうい~かい。もうい~よ」
澄んだ童の声が木霊し、宗坊は耳を塞いだ。
と、不意に声がやみ、ざっ、ざっ、と足音が聞こえた。こわごわと顔を上げれば、重惟がふわふわと目の前を歩いていく。
(わぁ。これはいかん)
理由はわからないが、宗坊の本能が騒ぎ出した。
ところが声を出したくても、声が出ない。体は縮こまったまま、全く動かない。全身に汗がびっしょりと噴き出して、体を押さえつけているような気がした――と、宗爺は身震いした。
「するとな、儂の後ろから、いきなり何かが走り出たんじゃ。あぁ、もう、魂消たのなんの。心ノ臓が口から飛び出るかと思うた」
だが、そのおかげで宗坊の呪縛が解けた。
(いかん)と思ってその後を追った。走り出た何かが、時盛だと気が付いたからだ。
なにが〝いかん〟のか、どうして、そう思うのか、その時は考えもしなかった。ただひたすらに時盛を追いかけ、飛びついた。
宗爺は足の速さに自信があった。少なくとも、時盛に負けたことはない。
「うわっ」
時盛もまた驚いたようだった。じたばたと手足を動かして逃れようとする。乱暴に振り回した手が、宗坊のでこに当たった。
「いてっ、何するんじゃ、儂じゃ、儂。宗兼じゃよ」
急におとなしくなった時盛が、「は?」と首だけを巡らせて宗坊を見、すぐに立ち上がって走り出そうとする。
「どこ行くんじゃ」「重惟がいかん!」
時盛もまた、宗坊と同じものを感じたらしい。ただ違うところは、時盛は、恐怖に身が竦んでいなかったことだ。宗坊は今一度、時盛に飛びつき、ぐっと地面に押さえつけた。
「そらもう……暴れる暴れる。体は小さい割に、昔から力があった。で、すぐに頭に血が上るやつじゃから、もう無茶苦茶じゃ」
ただ、少し体のでかい宗坊に分があった。
何とか押さえつけた時盛は、悪態三昧。
卑怯者――。
ろくでなし――。
おまんは友人を見捨てるんか――。
「時盛は重惟と仲が良かった。一番の友人じゃったのかもしれん。だが、ここで時盛を行かせたら、二人とも帰らんような気がした。だから、儂は時盛を離さんかった」
そのうち二人とも疲れ果て、いつの間にか寝てしまっていたらしく、大人たちの声に目が覚めた。
「かやせ、戻せ」という大声は、二人にとって天の声に聞こえたらしい。
「それからじゃ。時盛は儂を避けるようになった。もう何十年も昔の話なのにな。あれは結構な頑固もんじゃ」
懐かしむような、悲しい思い出を語るような、何とも言えない表情で、宗爺は口を閉じた。




