滋子
(十四)
「せんせ、すまんが、荷車を持って帰っちゃくれんか」
酒臭い息で、突然、後ろから声を掛けられた平佐田は、飲みかけの汁をひっくり返してしまった。
(智頼さんも人が悪か)と、思いながらも、
「構いませんが……子供らは、どうします? 荷車に乗せて帰りますか?」
慌てて飛んできた女衆に会釈して、受け取った手拭いで濡れた衣を拭った。
子供たちは二人とも、満腹と酒のおかげで、くうくうと寝息を立てている。
平佐田の言葉に、智頼は、くぃ、と顎で部屋の隅を示した。
平佐田が目を向けると、そこに、内儀らしき女子が鎮座し、何とも言えない顔で、二人の寝顔に見入っていた。平佐田の胸が痛む。
「子供らは心配ない。お内儀が見ててくれるじゃろう。今、上掛けを、清子がとりに行った。今しばらく、ここにおらせちゃろう思う」
なるほど、それもいい。おそらくは二人も、しばしばここに遊びに来ていたはずだ。智次の家でもそうであるように、この家の人たちにとっても、二人は家族のようなもの。遊び疲れて、ああして三人で寝たこともあっただろう。今は空いてしまった二人の隣に、家人は重定の姿を見ているのかもしれない。
こくり、と頷いた平佐田に、智頼は、ほんのりと笑んだ。
「せんせは、ほんに、ええお人じゃ」
一人で荷車を引く平佐田は、島人の恰好の暇つぶしとなり、帰り道はかなりの時間を要した。ようやく島人の姿も見えなくなって、さすがの平佐田も、ほっとする。
(あと少し……あの坂を下りたら、家が見えてくる。お内儀は今頃、隣の内儀と〝亭主の悪口〟に興じていようか)
「亭主の悪口はお茶請けにちょうど良か。せんせ、わしらだって息抜きが必要なんじゃ」
従姉妹だという二人が、豪快に漬物を食い、からからと笑う姿は、よく見かける。
隣の内儀の顔の大きさは、智次の母親の半分ほど。並ぶととても、血の繋がりがあるようには見えない。それでも平佐田を見て、にかっ、と笑う顔は、よく似ていて、放っておけば何年でも、話し込んでいそうなほど、二人はとても仲がいい。
(まぁ、あれだけたくさんの御馳走じゃ。二人が好きなだけ食っても誰も文句は言わんじゃろ。もしかしたら、智頼さんたちは……)
お内儀二人が存分に、鬱憤晴らしができるよう、多めの御馳走を準備したのかもしれん。島の中だけで生きる島人は、互いに支え合わなくては生きられない。小さな愚痴や悪口は、溜めずに出してしまうことが大切だ。
様々な疑問を抱えた平佐田は、木々の向こうに広がる海を眺めて足を止めた。
高々人の悩みなど、意にも介さぬ海は、でかい。へなちょこの平佐田が持つ悩みなど、「くだらん」と言って泡と化してくれる気がする。
滞在先からほど近い、この場所から見る海が、平佐田の一番のお気に入りだ。
すぐ脇に大きな木が立っている。
見張りの木と、子供たちが呼ぶ大木は、天まで届いていそうなほど、高く伸びている。特に謂れがあって、祀られる木ではない。
ただ、この木の先には、島のあちこちへと続く道が広がっていて、島人には馴染み深い木であり、子供たちには、待ち合わせの場所でもあるらしい。
そんな大木を、子供たちは親しみを込めてそう呼ぶのだろう。古くからその愛称で親しまれているらしい。
そしてこの大木には、たくさんの文字が刻まれていることに、平佐田は最近になって気が付いた。以来、平佐田はこの木にひときわ親しみを感じ、この場所がなおさら好きになったのである。
見張りの木を埋め尽くす文字には、時代を超えた子供たちの思いがある。
各々に、一番大切な友の名を刻む素直な心は、大人になっても変らずにここにある。
平佐田にも覚えがある。沢坊と登った大きな木、記念にと刻んだ名は、子供の頃だけの思い出だ。今なら間違っても「夢舟」の名は刻まない。
そこかしこに、いくつもの名が刻まれている。平佐田はそれを眩しく目でなぞる。そして、下のほうに刻まれた名に目が留まり、思わず目を背けた。
重定、時頼、智次……
三人の名が他のいくつかと混ざってそこにあると、平佐田は知っている。子供たちはこの木と共に成長する。風雨に晒されながら逞しく。
島は島人とともにある――。
ちょっと目頭を押さえて、平佐田は荷車の持ち手をぐっと握った。下り道だ。荷物がない分、押さえを利かさなければ、へなちょこの平佐田は、あっという間に荷車の下敷きとなってしまう。
逞しいお内儀に救い出され、
「せんせ、なにしちょるね。寝るなら部屋で寝たらよかろ」と、背に担がれる姿は、想像の域で収まりきらない。
一歩、一歩をしっかりと。
上手くいかないことばかりだが、全ての基本はそこにあると、平佐田は慎重に坂道を下る。なかなかいい調子だと、口の端が少し緩んだ頃……
(あれ?)
誰かが坂を駆け上がってくる。
(誰だろう)
小柄な姿は、子供?
時頼と智次は重定の家で寝ているし、隣の子供もまだ、振る舞いの中にいた。まだ、家には戻ってはいないはずだ。
ものすごい勢いで駆け上がってくる姿に、ちょっと怯んだ平佐田だが、その正体に気がついて、さらに腰が引ける。
(な、なんで、あん人が、ここに来うんだ……)
まったく島は、謎だらけだ。嬉しいような、照れくさいような、何となく怖いような……説明のつかない思いを持て余しながら、とりあえず平佐田は立ち止まった。
空ではあるが、荷車は結構な重さがある。油断をすれば、坂を一目散だ。
「あんはん、平佐田せんせ? ちょい、一緒にお越しやす」
はぁはぁと息を切らして平佐田の手を掴んだのは、滋子だ。どきっ。平佐田の胸が破裂せんばかりに躍り上がる。拍子に足が滑った。
「わぁ」
「きゃあ」
がたがたがた……
あっという間に家の前に到着し、平佐田の尻と腰が、じんじんと痛む。
「うぅぅぅっ」唸る平佐田に、
「何じゃ、せんせ。そげに急いで帰らんでもよかに。あぁ……そうか。そんで滋子さんが……。まだ、その辺におろう、せんせも隅に置けん」
お内儀は、大きな口でからからと笑う。一体全体、何がどうなっているやら。
荷車に押された形で坂を滑り降りた平佐田は、何とか下敷きにはならずと済んだ。それだけは感謝することにする。
頼りなく立ち上がった平佐田を、意味深な目で、ちらり、と見て、内儀は含み笑いをしたままに、さっさと荷車を庭へと引きずって行く。
「いけん? なんぞ、あった?」
平佐田の予想通り、隣の内儀の声が庭先から掛かり、
「なんも。若い人は気が早か。せんせが大慌てで、すっころんだ」
「そやそや、てそかこっだ」
『あはははは……』
何が楽しいんだか、二人は良く似た大声で笑う。
(あ、そうじゃ、滋子……)
どうやらあちこち擦りむいたらしく、ひりひりと尻やら足やらが痛む。だが、今はそんなことを言ってる場合じゃない。ぎくっ、と痛む腰を庇って、へっぴり腰のまま平佐田は、滋子の姿を探した。
(怪我、しちょらんじゃろな、咄嗟に手を払ったつもりだが……)
何せ、いきなりのことだから、何をどう行動したかは覚えていない。ただ、掴まれた手を払って、体を立て直すつもりが、荷車の勢いに押され、そのまま滑り降りた次第だ。
見れば滋子は、勢いよく坂を下りてくる。心配してくれているのだろうか、(なかなか優しいお人じゃ)と、平佐田の頬が緩む。が――
「この……助平おとこしっ」
緩んだ頬が熱い。またもや、滋子に叩かれた平佐田は「踏んだり蹴ったりとは、このことだ」と、つくづく情けなく思う。
「頼みの綱はあんさんやと、わざわざ訪ねてみれば、いきなって、胸をいらうとは、失礼かてほどがおます。人の弱みに付け込んで、無体なことをしはるとは、なんごと。本土の男衆とは、そないゆうもんか。うちは、島の女子どす。島の女子は、男衆の勝手にはなってまへん。島女子を田舎もんとあほにせんといてっ」
柔らかな物言いで、きんきんと捲し立てる。怒っているようだが、平佐田には何のことか、ちっとも……
「ほぅ。乳を触りよったか。日の高いうちに……せんせもやうの」
いきなり話に加わるお内儀二人は、手に手に芋を持っている。
「まぁまぁ。滋ちゃん。好いた男のするこっちゃ、許してやいなさい。男っちゅうもんは、せっかちなもんじゃ」隣の内儀がいい、
「せんせ。気持ちはわかうが、まだ日は高い。そういうこつは、もちっと暗うなってから。島の女子は繊細じゃ。わしらを見たら、わかろう」
とても繊細には見えない島女二人は、それぞれに勝手なことを捲し立て、滋子も平佐田も言葉を挟む余地がない。〝お内儀〟という女子は、特別な生き物のように見える。
「それより、滋ちゃん。あんた、せんせに急ぎの用事があったんじゃなかね。随分と慌てとったろ」
「あ」言われて滋子は、何かを思い出したらしく、
「えらいや。失礼は今回やけ、許しまっせ。二度と、しいひんこと。この次は絶対に許しまへん。二度と女子に無体ができんようしてやるんや」
平佐田としては身に覚えはないが、滋子の勢いに、股間が縮まる思いがする。
島女は怖い。三人の島女は囲まれては、平佐田としてはしゅん、となるしかない。
「わかれば、よろし。ほなら一緒にお越しやす」
再び手を掴まれ、一気に走り出す滋子に引きずられ、平佐田は痛む足腰に顔を顰めながらも、一緒に走りだした。
「おぅおぅ。仲がよかねぇ。せんせ、頑張りや~」
何を頑張るんだか。からからと笑う二人を後に、滋子は山に向かって走った。
「ちょ、ちょっと……待ってください」
山奥に入っていく道を選んだ滋子を、平佐田が止める。先ほど平佐田が転がり落ちた坂の上、見張りの木の前だ。
「何どすか。まさか、行けへんやらなんやら、言うんちゃうやろね。助平な上に、甲斐性無ほな、男衆とは言えまへんな」
さすがの平佐田でも、これには、むっと来た。
そもそも、全部が滋子の勝手な誤解だし、ろくに理由も言わず、いきなり引きずってきて、山道を登ろうとする。
平佐田としては擦り剥いた傷は痛むし、ようやく治まっていた腰痛が、またぶり返し、先ほどから悲鳴を上げ始めている。このまま山になんぞ登れば、腰が立たなくなるのも時間の問題だ。
じきに日が暮れる山奥で一人、置き去りにされるのはごめんだし、もしも滋子が誰かに助けを求めてくれたとして、腰の立たなくなった平佐田が、山の奥で島の若い女子と何をしとったかと疑われるのも、納得がいかない。疑われるようなことは何もないのだ。
身に覚えのないことで、悪評がたってはかなわない。それに。好いた女子にこれ以上の誤解はしてもらいたくはない。
「お言葉ですが……先ほどから失礼は、あなたのほうではありませんか。そもそも、何故においは、あなたと一緒に出掛けなくてはならぬのでしょう。今しがた、重定坊の……ええと、あれです、供え物を届けに出向いたばかり。特にそう、忙しい身ではありませんが、暇でもありません」
理由も聞かされず、山登りに付き合う義理はない。今し方の事故で、自分は腰を痛めている。山登りなどすれば、途中で動けなくなる可能性もある。
何の用かは知らぬが、後日、日を改めていただきたい。そして。
「おいは助平でも、甲斐性無しでもありません。あなたの体に触れた覚えはありません。あなたを巻き沿いにしないよう、咄嗟に手を払っただけです。けれど、それが気に食わぬと仰るのなら、謝りましょう」
平佐田はきっぱりと言い放った。滋子の顔色が変わる。戸惑いと不安の混ざった表情が、平佐田を少し後悔させるが、間違いは間違い。きちんと正しておかなくては後々の付き合いにも響く。滋子が怒って、平佐田を嫌うのなら、それはそれ、最初から縁がないのだ。
(そもそも。こんな別嬪と、縁があるはずもない。最初から高嶺の花なんじゃ。ただ、もっとこう……普通に出会っていたら、少しは希望も持てたかもしれん)
何とも気まずい感じだが、知り合いでもなければ友人でもない平佐田に、これ以上は何も言うことがない。
後ろ髪を引かれる思いで、平佐田は背を向ける。ともかく、腰が痛いのだ。〝密命〟を受けている以上、体は大事だ。やらねばならぬことは、たくさんある。
さっさと立去るつもりが、どうしても足が前に出ない。
どんなにいきり立ってみようとしても、やはり……心根の優しい平佐田は自分よりも先に、人の心配をしてしまう。
「だから、おはんはいつまでも一人前の男にはなれんのじゃ。時に鬼になってでも、人を蹴倒していく勢いがなくては、おいどんにはなれん」
常に平佐田を蹴倒してばかりの沢蟹の言葉を聞くつもりはない。だが、今は……
気になる思いを振り切って、平佐田が一歩、足を踏み出そうとして、
「うぅぅぅっ」
密やかな嗚咽に、やはり、足が止まった。
「かんにんえ。うち、ともかく、妹が心配で。説明はこれからしはるつもりでした。ともかく、お薬が必要どすねん。せんせはお薬草に詳しいと聞きたんや。そやさかい、せんせにお薬草を探してもらこうと……」
途切れ途切れの柔らかな物言いが憐れを誘う。ここで振り切れないのが、平佐田がへなちょこと言われる由縁である。
(やれやれ)と思いながら振り返れば、へたり、と座り込んだ滋子が、うなだれたまま袖で目元を覆っている。
(泣いてる? わぁ、大変だっ。女子を泣かせるなど、男として、許せんことじゃ)
痛む腰を我慢して、平佐田は膝を突いて、こわごわと滋子に手を伸ばす。ばくばくと心ノ臓が熱く騒いだ。
「あの……滋子さん?」
ようやく絞り出した平佐田の言葉に、
「おぉぉっ? 滋子じゃなかね。どげんした、腹痛か?」
呑気な声が重なった。うなだれていたはずの滋子が、ぱっ、と勢いよく顔を上げ、がつっ、平佐田はまたまた顎を直撃されてうぅぅ。と唸る。
「宗爺、どこをほっつき歩いとったっ。時子がまた、発作を起どした。お薬が切れてしもたさかい、仕方なく、智次坊に聞おいやしたせんせに、お薬草を探してもらうつもりやった。うちは、えらい目やった。しんどい目に遭ってこうして……」
元気そうな滋子が捲し立てる。
「わかった、わかった」
のんびりとした声が、それを制し、
「そこの御仁、大丈夫か? どうやら、えらい目におうたようじゃな。けど、滋子に悪気はありません。許してやってくいやんせ」
痛む顎に痛む腰、涙目となった平佐田に、穏やかな笑みを向ける好々爺。平佐田は、思わず頷いた。
「堪忍」
白い手を合わせ、ぺろり、と桃色の舌を出した滋子には……
(可愛い……)
平佐田ただただ、うっとりと見惚れていた。




