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隠れ里  第一部  作者: 葦原観月
20/28

島神様と神隠し

     (十九)


 かた……。


小さな音が平佐田の腰を刺激し、ほんの少し目を開ける。まさか本当におかしな生き物が、闇に乗じてやってきたとは思わぬが、へなちょこ歴が長い分、ついつい敏感になっている。


「おい、気をつけろよ」と腰から命令が下り、平佐田の神経がひょこり、と辺りに気を配る。

(静かだ)


適当に気を配って、再び目を閉じた平佐田に、

「ふふふ……」柔らかな含み笑いが、耳を擽った。

「お待たせしたんや……」高く柔らかな響き。

「うちを待ってはりましたやろ?」鼻に掛かった声は、甘い。

「あぁ、そのまま、そのまま。うちが按配ようしてあげまっしゃろから、じっとしてておくれやす」


 そっと乗せられた手は小振り、ふっくらと掌が温かい。背に乗せられた掌が軽い重みを乗せたままに、だんだんと下に降りていく。

 絶妙な力加減と、微妙な動き……平佐田の腰が、躾けられた犬のように〝伏せ〟をする。


(あぁ。これが、かの有名な……)


〝夜這い〟というものか。うっとりとしながら平佐田は思う。女子に体を触れられた経験は……郷にいた頃に、姉が着替えを手伝ってくれた時以来だ。


 勿論、平佐田とて、男と女の営みは当然、知っている。あの心外な〝人生の師〟は、心外にも妙に、女子との経験が豊富であったからだ。薩摩の女子は、蟹が好きらしい。

ゆえに経験のないくせに、平佐田は女子の体の隅々まで、思い浮かべようとすれば、思い浮かべることができる。


(腰は大事だからな。〝夜這い〟は、腰が命だ。大事の折に腰痛で腰が立たねば、せっかく〝立ったもの〟も、宝の持ち腐れとなってしまう)


 勝手な解釈をして、平佐田は満足する。せっかく痛いところを癒してくれているのだ。先を思えば、今は大事。慌てることはない。夜は、まだ長い。眠気と心地よさと次なる行為への期待が、平佐田の胸を膨らませる。

おいもやっと〝男〟になれる――


「おいどんになるにはまず、女子を知らにゃあいかん」

 沢蟹に無理やり引っ張られ、放り込まれた安茶屋で、暗闇に座した妖怪のような女の毒気に圧され、立つものも立たなくなって情けない思いをしたあの日以来、無理に男になる必要はないと、思い続けていた。だが、いよいよ……来るべき時が来たのだ。


「どないな感じでっしゃろ、気持ちええどすか?」

「は、はい……それはそれは、もう。まるで極楽におるようで……」

 どぎまぎしながら平佐田は答え、そこで、はた、と考える。

(ちぃと、話が上手すぎはせんか。大体じゃ、なんで、〝滋子さん〟がおいのところに〝夜這い〟に来るんじゃ。誤解とは言え、おいは滋子さんに嫌われておるんじゃぞ。気ぃの強い女子じゃという滋子さんが、引っ叩いた男のところに〝夜這い〟なんぞ、するもんじゃろうか)


 京訛りというだけですっかり、相手は滋子だと思い込んでしまった平佐田だが、果たして本当に滋子当人だろうか。

 島に来て見かけた若い娘たちとは、会釈くらいしか、した覚えがない平佐田は、他にも京訛りの女子がいるかどうか、わからない。

(ひょっとしたら、狐か狸の類かもしれんぞ)

何せ神様がいるのだから、化け狐くらいいても、おかしくはない。


(狐の嫁さんの話は、ようある。この際、狐でも構わんか)

滋子のような別嬪は、どうせ平佐田には高嶺の花。一夜の夢と思って、化かされるのも悪くない。たとえ偽物でも、あの滋子と、うっとりするような夜を過ごせるのであれば、騙され甲斐もあるというものだ。

   

(それに狐と縁を結んでおけば、〝宝探し〟を手伝ってくれるかもしれん……)と、ずるいことも考える。平佐田はこれで結構〝密命〟には律儀なのだ。


「せんせ、うちのこと、好き? うちは、せんせが好きや……」

 平佐田の耳元で柔らかな言葉が可愛らしく響く。あぁ、もう……

 狐でも狸でもいい。神様でもなんでも。滋子であれば、なんだって……舞い上がった平佐田は理性を失っている。もぞもぞと股間が騒いだ。


「滋子さん……」思わず呟いた言葉に、

「くくくく……」滋子が堪えた笑い声を漏らす。

「ちっと、ずういぞ」すっ、と橙色が闇を渡って近づき、

「ひっ」平佐田は思わず起き上がった。

「うわっ」滋子が後ろで声を上げる。

「と、と、智次坊?」

 ようやく狐の正体に気が付いた平佐田に、

「〝夜這いごっこ〟は、終わりじゃ。兄ちゃん、ほんに滋子さんが、好きなんか?」

 火皿を手にした時頼が、眉を顰めて訊ねた。

         

    (二十) 

「だってな、智次が間違おらん、ちゅうんじゃ。わしは絶対に、そげんこたあんと……」


 言いながら、時頼がずるずると引きずっているのは布団だ。

 智次は新しい火皿を机の上に置き、消えた火皿を細い紙縒で丁寧に拭いている。ほんの少しでも残った油を無駄にしないためだ。


「兄ちゃんは滋子さんが好き。間違いなか。文を書けばよか。わしが滋子さんに渡しちゃる」

 智次が振り向いて、にかっ、と笑う。

 怒るに怒れない平佐田は、ちょっと口を尖らせ、知らん顔を決め込むつもりが、自分でも驚いたことに、かっかと顔が熱くなるのを感じていた。

(なんで、年端のいかん子供と、〝夜這いごっこ〟なんぞ、せにゃならん)

 情けない思いに打ちひしがれつつ、それよりも、智次の言葉に驚かされていた。

(おいは、滋子さんが好きだったんじゃ……)


 たった一度、会ったきり。しかも、衝撃的な出会いだった。あの後、確かに平佐田は滋子の姿を探して、島を歩き回ったりもした。もしも会えたら、あれは誤解だと、説明するつもりだった。

悪気があったわけじゃない。何せ、ひどい船酔いであったから、言い訳も何もなかったし、かといって、誰かに言伝を頼むのも気が引けた。

 何だか、余計に言い訳じみている。気の強い女子と言うからには、言伝などしたら、余計に腹を立てそうだ。


「女子とは上手くやれ」

田崎の言葉を守っただけのつもりだった。

 島の女に嫌われては、〝密命〟も果たせないような気がしていた。秘密裏に動く者に、悪評は宜しくない。


至って平凡で人当たり良く、目立つことはせず、淡々と日々を過ごす――。


そんな地味な人柄こそが、大事な大役を果たす隠れ蓑となる。平佐田はそんな地味な人柄が、自分の素であることには思い至らない。

 ところがやはり、平佐田に運はなかった。滋子には出会うことなく、本日に至っている。


 時折ふと、ぱしっ、と叩いた女子の顔を思い出し、何だか胸が痛くなるわけは、てっきり誤解されたままでいることが、心苦しいからだと思っていた。それが……


(好きだったのか……これが、女子を好くいうこつか。初めて知った……)

 よりにもよって、子供相手に胸をときめかせ、興奮した事実を棚に上げて、平佐田は妙な感動を覚えている。


 黙り込んでいる平佐田に、さすがに年長である時頼は、

「母ちゃんがな、先に寝う言うんじゃ。それでは、わしら、堪らん。母ちゃんの鼾は、大風よりもすごい。いつもは、わしらが寝てしもうてからのことじゃから、平気じゃが……先に寝られては、わしらは徹夜じゃ。わしら子供だって寝不足は辛い。昼間、寝とるわけにはいかんからの。それで、兄ちゃんとこで寝る言うたんじゃ。母ちゃんはいいと言うたが、『もしも、せんせが、いかん言うたら、戻ってこい』言うんじゃ。で、わしは兄ちゃんにも、約束があるんかのと思うて……」

 気まずく感じているのだろう。珍しく饒舌だ。が、「約束」と言ってから、もごもごと口を濁らせた。


「女子じゃ。兄ちゃんも隅におけんのと。わしは、ぴん、と来た。滋子さんじゃ、言うたら、兄ちゃんが……」

「滋子さんは、きつい女子じゃ。わしらにも容赦ない。いつか重定が、滋子さんちの柿を取って、追いかけられたことがある。そりゃあもう、えらい剣幕で、箒で散々に尻を叩かれた言うて、あの重定ですらも、あ、」


 時頼の言葉が止まった。反射的に見た時頼が、しゅんと目を伏せた様に平佐田は戸惑う。

「滋子さんは、よか女子じゃ。気がきついんじゃなく、いかんことはいかん、とはっきりしとるだけじゃ。悪さをせにゃあ、箒で叩いたりはせん。いかんことをするから、罰が当たるんじゃ、重定兄は、間違うとる。滋子さんも、兄ちゃんも、悪くはない」

 智次が後を継ぐ。が、時頼が顔を上げ、智次を睨んだ。



 なんだか険悪な雰囲気となってきた。結局、子供にからかわれたのは平佐田だが、滋子の話が、重定坊の話に移っていくのは、何だか、まずい気がした。ここで兄弟喧嘩が始まっても困る。


「はは。つまり、おいはからかわれた、いうこっか。酷いなぁ。だが、大人をからかうなんて、いかんぞ。大体、滋子さんに失礼じゃ」

 できるだけ、さらり、と言って、割って入る。時頼は重定を心配していて、智次はそんな時頼を心配している。喧嘩をするのは間違いだ。ところが――

「わしは、兄ちゃんをからかってなんぞ、おらん! 兄ちゃんは滋子さんが好き。滋子さんも絶対に兄ちゃんを好きになう。守女は」


「智次!」


 段々に声が高くなる智次を、時頼が黙らせる。確かに、こんな夜更けに子供が大声を上げれば、寝ているという内儀はともかく、おばばさんが心配するだろうだが……


 平佐田としては、また、新たな智次の言葉が気に懸かる。〝もりめ〟とは、なんだろう。この島は、謎ばかりだ。


(でも、きっと、時頼坊は智次坊にこれ以上は喋らせたくなかったんだ。だったら、ここで無理に色々と聞くのは、やめたほうがいい)

 すっかりと子供に担がれ、だが、そのおかげで、初恋に気が付いた。

 何とも情けなく、へなちょこな見習いの平佐田ではあるが、一応は大人だ。しかも仮にも「先生」であるのだ。子供の扱いくらいは、きちんとできなくては、今度は「先生見習い」となってしまう。


「いいよ。別に、怒ってなんかいない。ちょっと驚いただけ。子供は結構いろんなことを知っているんだな、って。そういえば、そうじゃな。おいも、坊らくらいの頃、大人のすうこつに、興味を持っとった。祭りの日なんかに……」


 平佐田は自身の経験を語ってみる。わくわくした祭り、多くの人が浮足立って、普段は難しい顔ばかりの父親が珍しく赤い顔で、上機嫌に息子の頭を撫でたこと。遠い昔を懐かしむように、円となって互いを慈しむように見つめ合っていた年寄りたち。妙に爛々と目を輝かせ、食い入るように娘たちに見入っていた青年たち。そわそわと、落ち着きのない娘たち……

 神様をもてなす祭りは、無礼講。酔いが醒めれば、誰もが「ちぃとやりすぎた」と反省する乱痴気騒ぎは、おそらくは冷めた目で見ればとんでもない行いがあちこちで起こっているのであろう。

 だが、誰もそれを止めはしない。異様な熱気に包まれ、皆が一つになるのが祭りだ。すべては神様のため。不思議と、誰もそれに不安も、疑問も感じない。


「全部、神様が仕組んだことじゃ。男と女が通い合って、子が生まれる。そこに日常が生まれて、人は生きて神様に感謝する。その元が、子供じゃ。神様は子供が好きなんじゃな」


 一人で頷いて二人の顔を見れば、智次は、ぽかん、とした顔をして、時頼は何とも言えない顔をしていた。それでも、平佐田の視線に気づいて俯いた。うん、それでいい。

 大人になって気づいたことだが、子供とはとても柔軟で、事実をそのままに受け入れる。変な先入観がないために、真理をそのままに受け入れているのだ。綺麗な物も、汚いものも、同じ(、、)も(、)の(、)として受け入れる。大人のように、綺麗な物だけを受け入れ、汚いものは目にするのも拒むようなことはないのだ。

 やはり……神に近いのだと思う。神様はやはり、そんな子供が何よりも愛しいのだろう。


 が、かといって成長した子供は、神様の懐だけには留まらない。己の足で歩いた分だけ、欲も情も身につけている。だからこそ、人はそれぞれで世の中は面白い。

 全員が同じように、すべてを受け入れ、欲も情もなければ、人の世はただ、平坦な野っぱらのようであろう。神様がそこで子供を愛しむとは思えない。


「だから神様は、子を隠すんじゃろ。智頼さんたちは、今夜も〝かやせ、戻せ〟をするんか?」


 二人の子供が同時に顔を上げた。まったく同じであるのが面白い。おそらくは、搖坊も不意のことには、姉とおんなじ顔をしたのであろう。神様は実に、面白いことをする。


「兄ちゃん……かやせ戻せを、知っとるんか」

 目を一杯に広げて食いついて来たのは、時頼だ。

「知っとるよ。おいの郷でも、あった。大人の男たちが、大きい音が出るもんを持って、山に入って騒ぐんじゃ。いなくなった子供を返してくれ、と。神隠しに対抗する人の知恵じゃ、皆が心配しとるけん、子供をかやしてほしい、とな」

 あぁ、それで〝神隠し〟と……時頼は呟き、

「重定坊は神隠しに遭ったんだね?」

平佐田の問いに、

「うん……いや」

曖昧に応えて黙り込んだ。



 智次は、〝時頼は、重定を止められなかったことで自分を責めている〟と言った。

 何を止められなかったのかは不明だが、あの悪戯な重定が、どこか危険な場所に出向くか、あるいは危険な企みを実行しようとしたのを、止められなかったのではないか。

 時頼坊は心優しい子供だ。口数が少なく、無愛想な時頼だが、常に弟の智次に気を配っている。

何をするにも、智次は時頼の後を追っていく。時頼もまた、あまり弟を気にしていない風に見えて、智次の姿が見えないと、そわそわと落ち着かなく歩き回る。

「兄ちゃん!」の声に、「どこ行っとったんじゃ! はよう来んかっ」との遣り取りは、平佐田がここで厄介になるようになって、欠かさず耳にする日常だ。だから――


 時頼はきっと、弟を思いやるように、仲のいい友人を大切にしているに違いない。また、智次も……


 平佐田が智次に目を転じれば、自分の言葉が兄を傷付けてしまったと、泣きそうな顔でじっと兄を見つめている。

 智次は智次なりに兄の背負った荷物を軽くしてやろうと思っただけだ。面と向かって言えなかった言葉を、平佐田という第三者がいる前で口に出したわけは、そのほうが言いやすかったからだろう。平佐田は、そんな兄弟を羨ましくも思う。

 島人の信仰心がいかほどのものであるかわからぬ以上、滅多なことは口にせぬほうが良い。

 とはいえ、大人の余所者である平佐田には、今の二人に言ってやれる内容は一つだ。

 慰めとはわかっていても、仲のいい二人がいつまでもぎくしゃくしている様子は、見ている平佐田としては、辛い。少しは希望を持ってくれるといい、と平佐田は口を開いた。



「おいの郷では……これは爺さんからの受け売りじゃが……『かやせ、戻せ』は神様に「かやしてくれ」いうだけじゃなく、別の意味もあるんじゃ。こっそりと子供を攫った悪い奴や、ただ、遊びに夢中になって道に迷った子供に、「皆が心配しとるぞ。こうして皆で探しに来た。はよう出てこい」と知らせるためでもある。男衆がやいやいと騒ぎ立てたのに驚いて、悪い奴は子供を返し、道に迷った子供は騒ぎの元を辿って皆の元に戻る――ってな。重定坊だって、もしかしたら道に迷っているだけかもしれない。ほら、この白だから……」

「違うんじゃ! 兄ちゃん。誘いを懸けたんは重定兄のほう。これは神隠しじゃ。間違いないんじゃ」

 智次が涙声で、意外なことを言う。


「逆なんじゃ、兄ちゃん。居王様は怒っておられう。荒神様の居王様は〝お友達〟なんか欲しがらん。〝お友達〟が欲しいのは、御子様じゃ。重定兄は見つからんほうがええんじゃ。そしたら〝隠れ里〟の一員となれる、それに……」

「やめいっ、智次!」


 投げつけるような言葉は、ほんの少し掠れている、ぐっと手を握り締めている時頼は、涙を堪えているようだ。


「兄ちゃん、兄ちゃんは悪ぅない、兄ちゃん、兄ちゃん、もう……」

 うわあぁぁん。


とうとう智次は泣き出した。平佐田は、どう対応していいかわからず、ただおろおろするばかりだ。それでも飛びついてきた智次の背を撫でてやり、平佐田は時頼に言う。

「んん……おいは島の事情は、ようわからん。だが、智次坊の気持は、わかるよ。それに、時頼坊の気持もだ。二人とも立派なおいどんじゃ。優しうて勇気があう。「止められなかった」とは、説得はしたんだよね?」

 はっとした顔で平佐田を見た時頼の目は潤んでいたが、ぐっと唇を噛んで、こくり、と頷いた。

「だったら。大事な友人の話を聞いても、自分を通したんは重定坊じゃ。どんな結果になっても、それは重定坊のしたこと。時頼坊が責任を感じる必要は、全然ない」


 じっと時頼に目を置いたままに平佐田が言えば、時頼は何か言おうと口を開きかけ、やはり閉じた。平佐田を見返す目に、ほんの少しほっとした色が宿り、「うん」と頷いて、目をごしごしとこすった。それに……

「智次坊は、大好きな兄ちゃんのことを心配して、色々と言ったんだ。本当は時頼坊だって、わかっているんだろう? だったら、許してあげて」

 言えば智次が、しゃくり上げながら、顔を上げる。時頼は手を伸ばして智次の頭を、ぽん、と叩いた。二人には、それで通じるらしい。智次が嬉しそうににこり、と笑った。


       (二十一)


「で、兄ちゃんは、ほんに滋子さんが好きなんか?」


 仲直りした二人は、部屋の隅に引きずってきたままに放り出していた布団を、 ずるずると引っ張ってきて、平佐田の布団を挟んだ。

 そのまま、ごろり、と横になり、他愛ない話を繰り返していた。が、ふと、意を決したように、時頼が訊ねた。


「え?」

 ただ二人が仲直りしたことが嬉しく、間に入って兄弟の会話に耳を傾けていた平佐田は、事、自分の話題に至って、言葉に詰まる。

 男兄弟のいない平佐田にとって、突然の「二人の弟」は、なんだか浮き浮きする。硫黄のおかげで、閉ざされた世界に共にいる二人が、何となく身近に感じる。

 こうして共に枕を並べれば、実の兄弟のような気がして、心があったまるのだ。


勝手な言い分ではあるが、郷を出た平佐田は、いつも一人だ。薬園近くに間借りしている料理屋には、大勢の人が出入りしているが、全員が他人だ。

心安く話をする人もいないし、共に食事を摂る人もいない。

島に来て、滞在先であるこの家の人と、寝食を共にする生活が、平佐田にはとても嬉しかった。皆、とても親切で、温かい。特に、いつも傍にいる時頼と智次は、平佐田にとって、家族に近い存在となりつつある。二人は大好きだ。


「好きに決まっとう。滋子さんは別嬪じゃ。せんせたちが騒いどるん、兄ちゃんも知っとろう?」

 けどな、あん人は、きつうていかん。兄ちゃんには、もっとこう……優しい女子が……。何ぃ言うとる。兄ちゃんには、しっかりもんがよか。優しい同士じゃ、つまらんじゃろ。喧嘩するんも仲いいしるしじゃと、母ちゃんは、いつもいうとる……

 弟たちは勝手な話で盛り上がる。わかっている。

(余所もんのおいを、心配しておるんじゃ。他のせんせと違って、一人で島に来たおいが、知り合いもなく一人でおることが気になるんじゃろう。滋子さんは、おいが島に着いて、初めて関わった島人じゃ)


若く綺麗な滋子と仲ようなればいい、と智次は思い、友人の重定の尻を箒で叩くような女子では心配だと、時頼は思っている。

 二人は決して悪戯半分に、平佐田をからかったわけではない。心配だからこそ、真意を知りたかったんだろう。平佐田も真剣に答えなくてはいけない。


「んんん……。実のところ、ようわからん。おいは恥ずかしながら、女子を好きになった経験がないんじゃ」

「えぇぇぇっ」

「ほんとか、兄ちゃん」


 正直に言えば、子供はまた正直な感想を述べる。なんともやりにくい。が、ここは一つ、大人を利用して……

「家がな、厳しかったんじゃ。まぁ、一応、郷士という立場を、親父は重んじとった。だから、女子とはあまり……関わりがなかったんだ。親の決めた女子との縁組も嫌だったし、早々に家を出た。で、先生になるこつにしたんじゃ」


 ちょっと嘘つきだとは思うが、大人に嘘はつきものだ。先生として島にいる限りは、それなりに立場がある。郷士は嘘ではないし、縁組も事実。郷士として家を固めるために嫁候補として上がったのが、あの沢蟹の妹で、これがまた嘘みたいに沢蟹にそっくりだった。

気質がまた、女だてらに〝おいどん〟を名乗る婆様によく似ていて、縁談が纏まる前に、平佐田は早々に郷を逃げ出した次第だ。

「うん。まぁな、おまんの気持ち、おいどんも、わかる気はする。妹ではあるがあれはな……いい奴じゃが、嫁にはしたくなかろう」

 珍しく、沢蟹と意見が一致したものだ。


「そうか……兄ちゃんは郷士だったんじゃな」

 二つの目がきらきらと輝くと、平佐田としては何とも居たたまれない。おそらくは二人の中の〝郷士〟とは、鹿児島衆中、つまりは「城下士」を指しているのだ。


 辿り辿れば現在、「城下士」として名を馳せている家に何とか辿り着くらしい平佐田の家は、今では上級郷士の小作人をしている無高郷士に過ぎない。

母と姉は縫い物と染物をしながら、小さな庭の小さな畑で一家が食べるものを育て、父は神社や寺の庭木の手入れをしながら、ちょっとした大工仕事をしたりして、忙しく日々を送っている。郷士とは名ばかりの家だ。

 そういった郷士の事情は、武士階級であればともかく、一般的にはあまり知られてはいない。特に、本土から離れた島では、郷士といえば城を守る勇士としての認識が強いらしい。それもまた、婆様からの受け売りである。


山川薬園から赴任してきた先生が、元が百姓であるか、郷士であるかは、結構、大事なところだ。何の取り柄もない、へなちょこの見習いせんせにしてみれば、せめて知らぬ土地での地位だけは確保したい。

(おいもずるかね)

 少し胸は痛むが、まるきりの嘘でもないのだから、と自分に言い訳をする。それでもやはり、尻の座りが悪いから、さっさと話題を逸らせることにする。


「ま、それはいいんじゃ。おいは元々郷士には向かん。だから、郷を捨てて、せんせになった。薬草の研究が好きなんじゃ。朝から晩まで、薬草とつきあっとった。じゃから、女子と出会う暇もなかった。薬草は生き物じゃ。きちんと面倒を見てやらんと、あっという間に枯れてしまう。女子に夢中になっとっては、研究なんぞ、できはせん、いうこつじゃな」


「ほー」


二人が同時に感心したように声を漏らす。今さっき担がれたばかりである平佐田としては、名誉挽回だ。別に威張りたいわけではないが、弟たちに尊敬されることは、大事だと思う。


「凄かぁ」

「兄ちゃんは偉い人じゃったんじゃな」


 実に素直に二人が感心し、平佐田の頬が少し赤くなる。

「別に……凄くはなか。勝手をして家を出た、親不孝もんじゃ。こんなんでは、女子にも好かれまい。滋子さんも、相手にはしまいよ」

 自分で言いながら、ちょっとがっかりする。まぁ、それでも……

(おいには〝密命〟があるんじゃ、女子にうつつを抜かすわけにはいかん)

 ちょっと男らしく自分を戒め、

(おい、かっこよか)

自画自賛だが、平佐田は少し気分が良い。


「そしたら、わしら、ここで寝てもよか? 〝夜這い〟の約束は、ないんじゃな」

 今更のように時頼が聞き、「うん」苦笑いをしながら、平佐田は答える。

 ふわぁ、と欠伸をした智次が、ぱさり、と布団に倒れ込んだ。それを見て時頼も布団に転がる。


(子供と一緒に寝とるような男に、〝夜這い〟を懸ける女子なんぞ、おらんじゃろうな)

 どんどんと女子から遠ざかっていく自分に、空しさを感じながら、平佐田は火皿の火を吹き消した。



      (二十二)


「うぅぅぅっ」


 何度目かの子供の足に押し殺したうめき声をあげ、いささか疲れ切って平佐田は智次の布団を掛け直した。


 今しがた時頼を布団に戻したばかりだ。二人の間に寝た平佐田は、両側からの「攻撃」に息をつく暇もない。

(この寝相の悪さと、大風よりも凄いという鼾……智頼さんは、いつも寝不足なんじゃろうか)

 色黒のでかい顔を、思い浮かべる。がはがはと元気よく笑う姿は、とても、毎日が寝不足の顔じゃない。むしろ、生気が漲って有り余っているかに見える。


(おぉ、そうか。酒を飲むんじゃったな)


 船の中で見た智頼は、大きな船揺れにもお構いなしで、大鼾を掻いていた。あぁでなくては、一家の主は務まらぬのであろう。

やはり己には所帯は、まだまだ持てんと、再び飛んできた時頼の手をよけながら平佐田は思う。


 うとうととし始めてからすぐ、二人の攻撃が始まったため、すっかりと寝そびれてしまった平佐田は、攻撃に備えながら、島の謎に思いを馳せる。

 できれば今すぐに机に向かい、〝報告書〟の下書きとして謎を書き並べてみたい。何故だか頭の中がもやもやとして、繋がりそうで繋がらない謎は、一晩寝れば色褪せてしまうように思えるからだ。


 だが、子供がすやすやと寝ている傍で、灯りを点けるのも気が引けるし、油は貴重だと知っている平佐田に、無駄遣いはできない。謎が解けているわけではないのだ。

 貧乏が板についた平佐田としては、〝居候〟を抱え込んだ家に、さらなる負担は掛けたくない。


(それにな……)


 せっかく智次坊が揉んでくれたおかげで、すっかりと息を潜めた〝腰痛〟が、再び目を覚ますことを恐れたからでもある。実はこれが一番の理由であると、平佐田自身もわかっている。

 だが、ちょっとかっこいい自分を褒めたばかりだから、事実は心の奥底に仕舞っておくことにする。


「兄ちゃん、これは酷かろう」「気にするな、お前にやる……」


 実に気の合った寝言を最後に、二人は、ぴたり、と静かになった。同時に……

 

きんきん、かんかん……


 夜の底から何かがやってくるような音が、平佐田のわずかに残った眠気を押しのける。

「神隠し、か……」

 重定坊が神隠しに遭ったようだとは確認できた。大人たちはそのために「かやせ、戻せ」をしているのだ。

 普通はここで、友人である時頼は無事に重定が戻ることを願うであろうし、兄の友人の無事は当然、弟の智次も願うはずだ。

 ところが、時頼は友人の無事よりも、〝止められなかったことを悔いている〟という。高々十二の子供が、それほどまでに友人の悪巧みの阻止を願うだろうか。

 搖坊は一度だって、沢坊の悪巧みを阻止しようとした記憶はない。むしろ、無関係であるのに知らず内に主謀者にされて、叱られた記憶ばかりが残っている。


 止められなかったことに深く傷つく時頼、又さらに、「戻らんほうがいい」と言う智次……智次の性格を考えれば、信じられない言葉だ。

「居王様が怒っている」とは、この白い硫黄を指しているのであろうとは、想像はつく。自然神を奉る民は、天変地異に神の意志を見出すものだ。

 人の考えの及ばぬところ、そこに神の意志がある。神様が怒っておられるから、民人は自粛し、お怒りが収まるまで静かに過ごす。それは別段、さほど驚くような行動ではないが……


「居王様は〝お友達〟なんか欲しがらん。〝お友達〟が欲しいのは、御子様じゃ」

智次の言葉が気に掛かる。


 確かに、神様は〝お友達〟なぞ、欲しがらんだろう。神隠しの子供が、神様と遊んで暮らしているというのは、人の想像にすぎない。

 特に相手が荒神様であれば、とても子供を愛しんで遊んでいる姿は思い浮かばない。むしろ隠した子供をいたぶり、殺してしまう姿が思い浮かぶ。

 人の命など、何ほどにも思わぬのが、神という存在だ。人の倫理は、神には通じない。だからこそ、人の倫理に染まる前、良いも悪いも同じものと受け入れる子供を、神は好むのだ。


(ちぃとも、わからんじゃないか)


幾分か闇に慣れた目に映る天井の梁に目を置いて、

(あぁ、月が出ているんだな)と、ぼんやりと思う。そろそろ満月か。ならば、全部の説明がつく気もする。

島神様が本当にいるかどうかは、島人ではない平佐田には、わからない。だが、満月の異変は、どこにいても耳にする。この国の三柱の神のお一人、「月」は、大いに人の気を狂わせる存在なのだ。


(そうだ、それ。満月だよ。月が欠ければ、また、何事もなかったかのような平穏が訪れる。重定坊はただ、悪戯でどこかに隠れていただけで、納屋かどこかからひょっこり出てきたところを母親に見つかって、大いに叱られる。「かやせ、戻せ」は打ち切られ、だぁれも神隠しの話なんか、しなくなる)


 いささか勢い込んで平佐田は自分自身に言い聞かせ、未だに解決を見ぬ疑問をねじ伏せる。

もりめも、みこさまも。いずれも月の御使いだ。


 平佐田の苦しい言い訳自体、既に「神様への畏怖」だと、平佐田自身も心の底では重々わかっている。人はやはり、神様の支配からは逃れられないのだ。

 ふーと息を吐き、平佐田は目を閉じる。

 遠く聞こえる、きんきん、かんかん以外、耳に届くのは子供たちの小さな寝息だけだ。寝返りを打とうと身を返した平佐田の袖が、くいっ、と引っ張られた。

(またか)

 おそらくまた、智次が布団を蹴り、足が平佐田の袖を踏んでいるのだと、そっと袖を引っ張る。が、袖は軽くなるどころか、反対に引っ張れた。

(ん?)

 引き寄せられた袖に伸ばした手を、ひやり、と冷たい手が掴む。

「いいっ!」やはり、へなちょこの平佐田は、思わず声を上げる。

「しいいっ」むくり、と起き上がった智次が、口の前に指を立てた。

「なんじゃ、智次坊……起きたんか? しょんべんか?」

「んんんん……」反対側で時頼が唸り、ころり、と寝返りを打った。

「静かに。兄ちゃんを起こさんように」

 智次は、よちよちと赤子のように這って、うっすらと明るい廊下へと向かっていく。

 ぼんやりとそれを見ている平佐田に、くるり、と振り返っておいでおいでをした。平佐田は後を追うしかない。



 かたり、と開けた障子の向こうは、異世界だった。平佐田は大きく目を見張る。

 よちよちと這っていく智次が、そのまま異世界へ行ってしまうような気がして、慌てて足を掴んだ。均衡を崩した智次が、べたり、と廊下に伏す。

 真っ白を月明かりが照らした庭は、ふわふわと幻想的で、ゆっくりと白が渦巻いている様が何となく恐ろしい。そのうちどれかが不意に形をとり、こちらに向かって「にたり」と笑うのではないかと、平佐田を怯えさせた。

 恐ろしくて目を逸らせたい。が、それでいて、目が離せない。何とも不思議な光景だ。


「兄ちゃん、兄ちゃん、離して」

もぞもぞと手の中で動く足に我に返り、平佐田は掴んでいた足を離した。智次はそのまま立ち上がって、そっと障子を閉める。


「凄かろう?」


智次の言葉に、平佐田はこくり、と頷いた。昼間も確かに凄かったが、夜はさらに壮絶さを増している。

妙に冴え冴えとした月明かりがそうさせるのか、白が昼にも増して白く見え、ゆったりと渦を巻く様が、不思議な生き物のように見える。神様があの世から、亡くなった人たちを解き放ったかのようだ。

 平佐田の視線の先で、巻いた渦が人の顔を形どり、「ひっ」小さく息を呑んだ。


 これを見せるために、わざわざ、智次は起きて来たのだろうか。意図を計りかねた平佐田は智次に目を向けた。智次はじっと白を見たまま、口を開く。

「これがね、居王様のお怒りの験。島のもんは居王様のもんじゃ。昔から島人は居王様を敬ってきた。わしらが生きていけるんは、居王様のおかげじゃ、居王様は島人を遠い昔から守ってきた。わしらが今あるのは、居王様のおかげじゃ。ほんで居王様が神様となったのも、わしらの想いがここにあるからじゃ」


 真摯な顔で智次は語る。平佐田と違って、智次は目の前の白に怯える風もなく、どことなくうっとりとした顔で、白を見つめている。

「どうして居王様は、怒っとる?」

平佐田が聞けば、

「御子様が勝手なこつをすうからじゃ。元々、神隠しは島神様の恩恵じゃ。硫黄と火山灰は島神様の験。なのに御子様は、勝手に神隠しをする。お友達が欲しいからじゃ。御子様は、お友達を探しておられう」

 やはり、よくわからん。島神様が居王様なのはわかる。だが、みこ様とは……

(やっぱり、あれか?)

 智次の言う〝みこ様〟たるものが名前でない限り、平佐田が知るみこ様とは、ただ一人。

 だが平佐田の知る〝皇子様〟が、神隠しをするようなお方だとは、信じがたい。海底に沈んだ憐れな幼子、大人の勝手に振り回されて、抗いも許されずに自ら海に沈んだという……


(あの御方の後日譚は、この辺りにはあちこちに残っている。おいの郷の近くにも、〝落ち武者〟が住んでいたという荒屋がいくつか残っていると、婆様も言うとった)


 それが事実だとは、誰も信じちゃない。ただの言い伝えだ。実際に住んでいたのは、名も知れぬ流れ者であったり、賊の類が手傷を負って身を寄せただけの一時の隠れ家に過ぎないのかもしれない。だが――

「悲劇の皇子様。島には、皇子様にまつわる伝説があるそうじゃ。琉球王は、大いに興味がおありらしい。ともすれば大きなお宝……皇子様と一緒に沈んだという「宝剣」かあるいは……」


 薩摩を揺るがすような大きな「お宝」が、絡んでおるのかもしれんな……


 別れ際に、ぼそりと呟いた田崎の言葉が、平佐田の耳には残っている。

 いい加減、酔った後の囁きではあるが、数少ない〝密命〟の手がかりの一つでもある。

(捨て置くわけにはいかんな)

せっかくの好機だと、平佐田は訊ねてみる。


「智次坊、みこ様って……」

「わかっちょる。御子様が悪いとは思わん。ただ〝お友達〟を探しておられるだけじゃ。ただな、わしが思うんは……」

 気がつけば、白が少しずつ薄くなり始めている。平佐田の目に、正面に見えるはずの柿木の大きな幹が、白の中から、ちらちらと顔を出し始めた。


「島神様は居王様じゃ。そもそも、島の始まりは……」

 平佐田の疑問などまるで意に介せぬように、智次は何かに憑かれたように薄れゆく白を見つめたまま、恍惚と語り出した。

「いつの頃かはわからんのじゃ。海が広く波打っていた頃。今よりずっと昔の話じゃとしか、言いようがない……」


        *


 ゆらゆらと揺れる海面からひょっこりと顔を出した岩は、亀のように小さかった。心地よく波に揺られていた〝亀〟が、耐えきれなくなった熱いものを吐き出した。それが波に優しく宥められ、〝亀〟は一回りも、二回りも大きくなった。


 いずこかから鳥が舞い降り、〝亀〟の身をつつく。そのうち、草が生え、木が茂る。海から這い出でた生き物がそれを食い、排泄したものから、また新しい草が生え、打ち寄せる波が〝亀〟の形を変え……長い時を掛けて、大きな島となった。緑豊かな命に満ち溢れた島だ。生き物が島に養分を与え、島は命に溢れていく。


争いを逃れた人々が島に辿り着き、人々は恵み豊かな島を愛し、子孫を増やして細々と暮らし始めた。

 そこへ渡ってきたのが大陸の侵略者たちだ。恵み豊かな島を奪おうと、島人を脅かす。大人しい島人は戦を嫌い、山深くに身を隠した。侵略者たちがそれを追う。ところが――

 あと一歩というところで、島が白煙に覆われた。右も左も分からない白い煙は、島自体を覆い隠す火山灰だ。

侵略者たちは右往左往し、大騒ぎとなった。誤って谷底に落ちる者、更に深い山に入り込んで帰れなくなる者、獣に食われる者もいた。


 這う這うの体で戻った侵略者たちは、火山灰が収まるのを待った。ようやく青い空が戻ってきたのを機に、再び島人の潜んだ山奥に行ってみると、生活の後を残したまま、島人は忽然と消えていた。あまりにも不気味な事の成り行きに、侵略者たちは恐れをなして島を離れた。「(おに)の住む島」と言われるようになったのは、それからのことだ――


 智次は諳んじるように語る。うっとりと前を見据えた目が、平佐田から言葉を奪った。


(智次坊?)


 白が智次の周りを包むように覆い、平佐田は咄嗟に手を伸ばした。

「これが最初の神隠しじゃ」とつり、と智次は言い、平佐田は弾かれたように手を引っ込めた。


 噂が広まり、誰も島には近づかないようになった。ところが隣島に嫁いだ娘が、両親を心配して夫と共に島を訪れた。驚いたことに、誰もいないはずの島には、以前と全く変わらず島人が暮らしていたという。

 娘の両親いわく、居王様が「隠れ里」に招待してくださった。と、嬉々として語った……


 平佐田の見る前で、智次の体が傾いでいく。薄れつつある白が、智次の体に吸い込まれていく。


「智次坊!」


 再び手を伸ばした、平佐田の体が大きく傾いだ。強い硫黄の臭いがする。腐った卵のように強くむせ返る臭い……

 めまいを感じた平佐田は、廊下に手を突いた。ぐにゃり、と歪んだ廊下が、平佐田の手を掴む。


      *


「兄ちゃん、おしっこじゃ」

廊下が言った。

(へっ?)

平佐田は眉を顰める。

「漏れちまう。はようしてくれ」

 それは困る、と平佐田は、さっさと立ち上がる。ともかくにも手を引いて廊下に出れば、冴えた月が庭を照らしていた。柿の木が平佐田の目に飛び込む。

(むむむ……)

思いながらも、とりあえずは〝おしっこ〟が一番だと、改めて繋いだ手を辿れば、時頼が寝ぼけ眼をこすっている。

 ぱたん。

厠の戸の音を聞きながら、満月を見上げ、頭の中を整理しようと額に手を当てた平佐田は、


「もういいか?」

声に振り返った。


「わしも、おしっこ。兄ちゃん、もういいか?」

智次が股間を押さえて、そわそわと体を揺すっている。

「おう」

ぼそぼそと言って厠から出た時頼に代わり、智次がよたよたと平佐田の前を通り過ぎた。強い硫黄の臭いが平佐田の息を詰まらせた。



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