平佐田の災難
ぼそりと言ったまま、時頼は智次を連れて行ってしまった。あとに残された平佐田は――鶏に餌をやるしかない。
こっこっと鳴きながら首を動かし餌を啄む鶏を、平佐田はただじっと見つめていた。
(なぁ、もういいか? おいも、そろそろ部屋に戻りたいんじゃ)
夕刻の陽は、微かな明かりだけを残すのみとなった。
拾い集めた餌があっという間になくなり、鶏の世話を久しくしていない平佐田には、その数の違いもあって、餌が足りているのかどうなのかも、さっぱりわからない。
しかし、餌のある場所は、新参者の平佐田には見当もつかない。しんと静まり返った家で、鶏の餌のありかを探すのも難儀だし、子供たちは今、頼りにはできない。
あの、〝頼りがいのありそうな母ちゃん〟も時頼の言葉に反して、きっと今は不在だろう。でなければあの、時頼のただならぬ叱咤の声に、飛んでこないはずはない。
(絶対に何かあったんだ)
いくら呑気な平佐田でも、この夕刻の静けさには、違和感を感じずにはいられない。
子供たちが外へ出ない分、家の中が何とはなしに騒がしい雰囲気が、平佐田が島に来てからの、夕刻時の常だった。今日は、嘘のように静かすぎる――
「はい。もう、おしまい。今日は、これで我慢して。明日の朝、智次坊がきっと、倍の餌をくれるから。おやすみ」
そそくさと鶏舎を出れば、すっかりと姿を消した夕闇に代わり、じわじわと広がる、夜の帳が、平佐田を迎え入れた。
壊れた桶を縁の下に入れ、ぱんぱんと足を払って、真暗な家の中に目を凝らす。
だが平佐田の期待した〝小さな足音〟は聞こえない。
ふっ、と息を吐いた平佐田は渋々と、暗い廊下を間借りしている部屋へ足を運んだ。
(九)
こんもりと丸い山。山自体が、一つの大木のように見える。
緑の茸が仲良く寄り添って見える風景は、可愛らしい。
(一つ、手に取ってみようか?)平佐田が悪戯心に思っていると、
「搖坊。康太を、知っとるか」
間が良く、合いの手が入った。
(ふぅん。やはり、そうか)
平佐田は合点する。未だに間がいいのか、悪いのかわからない田崎は、童の頃から変わらぬと思っていたが、それだけでなく、どんな(、、、)状況下(、、、)でも変わらないらしい。
急激に緑の茸が近づいて、平佐田の目に、海紅豆の赤い花が飛び込んだ。郷に多く咲いていた花だ。その下に、二つの小さな影がみえる。
一つはがっしりとした体つきで、童のくせに親父のような面構えをしているでかい顔……田崎の幼少時代、沢蟹の異名を持つ、沢坊だ。あと一つは……
「うん。いつも、沢の魚を捕うやつじゃろう? 小さいくせに、偉そうじゃ。おいは好かん。一度、沢に落とされたことがあう。おいはなんもしとらんに。ただ沢を歩いとっただけじゃ。あれは、いきなりおいに走り寄って、黙って沢に突き飛ばした。おかげで、おいはびしょびしょじゃ。母ちゃんに「いったい何をしてきたんじゃ」って、えらい怒鳴られた」
いかにもひ弱そうなほそっこい体に、これまたどこと言って特徴のない顔。すれ違って目が合っても、三歩ほども歩けば、顔を忘れてしまうほどに印象が残らない、何とも影の薄い童……我ながら情けなくも思うが、平佐田の幼少時代の、搖坊だ。
「うん。あれはな、〝おし〟じゃ。口が利けんのよ。その康太が、いなくなった。神隠しじゃなかかと、大人たちが騒いどる」
さわさわと木々が揺れる。産土山の登り口、お地蔵さんの前。沢坊はよく、お地蔵さんの供え物を頂戴した。そうだ……
(あの日は、確か……大工の棟梁が初孫の誕生祝いに、餅を供えに来るからと、畑仕事の途中だったおいを、無理に引っ張って行ったんだ。後で、こっぴどく叱られた。晩飯を、食わせてもらえなかったっけ)
康太という少年とは、ほとんど付き合いはなかった。爺さんと二人で、人気のない湿った土地に、掘立小屋を建てて暮らしていた。
地元の者ではなく、いずこかから、爺と二人で移ってきた。口数が少なく、人と関わろうとしない爺を、胡散臭いと嫌う者は多かったが、康太が〝おし〟だとは、ついぞ知らなかった。気味の悪いやつだと思っていた自分を、搖坊は少し反省する。
「それじゃあ、もしかしたら……」
「おうよ。祭りが始まる。わくわくするの」
田舎ではありながらも、人が多い土地では、意外と〝神隠し〟は多い。ただ、それは人がそう口にするだけで、本当の〝神隠し〟がいくつあるのかは、誰も知らない。
そのほとんどが〝人攫い〟である事実は、童である搖坊でも承知だ。もっとも、〝本当の神隠し〟の証拠など、ありはしないと、誰もが知ってはいるものだが、それでも――
「沢兄、神隠しは祭りじゃなか。不謹慎じゃ、そげなことを口にすれば、沢兄が神様に連れていかれう。おい、そんなんは、嫌じゃ」
今では口が裂けても言わない可愛げのある言葉を、当時の搖坊は真剣に口にした。大人しくて内気な搖坊にとって、大柄で乱暴だが、〝おいの搖坊〟を厭うことなく連れ歩いてくれた沢坊は、頼りがいのある兄貴だった。
「おまんは、馬鹿か。大人たちが真面目な顔で、夜通し練り歩く騒ぎを、祭りじゃなかとは。神隠しは、光栄じゃ。じゃから「お返しください」とお願いに上がるんじゃなかか。神様を盛り上げるんじゃ。そいを〝祭り〟と呼ばんと何と言う。康太には気の毒じゃが、あれは元々が神様の僕じゃ。お迎えに来られたんじゃ、あれにとっては誉れな話じゃ」
おそらくは〝婆様の受け売り〟である言葉には、やはり、合点がいく。体や知能のどこかに、他と違うものが生まれつきにある者は、〝神様の僕〟だと昔から言われている。
他と一緒では神様も見分けがつかんとか、他と違う境遇を持って、世に生まれる者は、神様の思し召しだと言う者もある。
そしてそんな人は、寿命が短い。神様からほど遠い人から見れば、実に不遇な生涯であると見える。だが、神様に近くなった年寄りたちは、それこそが〝神様の恩恵〟なのだと、口を揃える。
それでも、ひ弱でへなちょこな搖坊は、(そんなのは間違っている)と思う。人は生きるために、生まれてくるのだ。
「ともかく。あれ(、、)が始まる。おいどんたちはまだ参加できんが、男衆が騒ぐぞ。おいどんは、あれ(、、)が始まると、わくわくとするんじゃ。
なぁ、いずれ、おいどんたちも、あれ(、、)に参加することになう。神様は、来るんじゃろうか。神隠しの子を取り戻したら、英雄じゃな。おいどんはきっと、取り戻してみせる。な、搖坊。おまん、神隠しされい!」
何でじゃ……。おいは、ひ弱で、へなちょこで、意気地なしで泣き虫じゃが――
特に日常に困るような、〝目印〟は、ない。おそらくは神様ですら、気にも留めないほどの小さな存在だ。まかり間違っても、神様はおいを攫ってなど、いかないだろう。きっと神様は、そんなに暇じゃない……
*
(随分と、昔の話だな)
まだ半分ほど夢の中の平佐田は、ぼんやりとそんなことを、思っている。
(なんだ? 何で、こんな昔の話を? 神隠しなんか、とうの昔に忘れ去った御伽話だ)
結局、康太は山の中の滝壺で見つかり、沢では物足りずに山の奥へと入り、沢とはまるで加減の違う滝壺の水の冷たさに、体がいうことを利かなくなって死んだのだ、と大人たちは言い合った。遥坊が初めて目の当たりにした〝神隠し〟は、水難事故だったのだ。
沢坊はおおいに「つまらん」を連呼し、あれ(、、)は一日で終わった。臆病者の遥坊は、神隠しなんてものは、決してないのだと胸に刻み、以来、あれは、大人たちのただの儀式なのだと理解するようになった。
それでも。
あれが静まって後、村中に漂った線香の臭いだけは、深く心に残っている。
(線香か?)
平佐田を、うつつに引き寄せるにおいは、どこか懐かしい。
だが、それが何なのかが、今ひとつわかりそうで、わからない。理由はおそらく、まだ平佐田自身が、半分目覚めていないからだろう。
薬園師見習いに馴染んだ体に、山野の散策はきつい。加えて、慣れぬ土地での慣れぬ暮らしに、平佐田の心は疲弊しきっている。よって、島にきてからというもの、夢たるものとは無縁で過ごした。久々に見た夢が、記憶の彼方のお伽噺とは、何とも解せない思いだ。
それでももし、今、平佐田の鼻を刺激する臭いの正体がわかれば、夢との関連性が掴めそうな気がする。
故に、平佐田は〝くんくん〟を、試してみる。目覚めているときのように、上手くいくかはわからないが、目が覚めたら今度は、夢を忘れてしまいそうだ。
(違うな)
試してみた〝くんくん〟の結果、微かに感じる(ような気がする)臭いは、線香ではない。つんとする強い臭いではなく、まったりと生臭いような臭いだ。
(うーん、なんだろうな? どこかで嗅いだことがあるような気もするけど)
もう一度、試してみようと、平佐田は、大きく息を鼻から吸い込んだ。
(十)
「うわっ」
自身の声に平佐田は、飛び起きた。心ノ臓がばくばくいっている。
見開いた目が、少しずつ闇に慣れ、見覚えのある机を認めて、平佐田はほっ、と息を、吐いた。
(あっ、そうじゃ)
平佐田を目覚めさせた、臭いの元は何なのか。鼻の穴の感触と、どこかで嗅いだような臭いはきっと、現実だ。
平佐田は、急いで辺りを見渡した。
もしかしたら、島には変な生き物がいて、夜中に人を襲ったりするのかもしれない。
なにしろ、ここは神のいる島だ。神様以外にも、平佐田の知らない生き物が、たくさんいても、ちっとも不思議じゃない。
(ん?)
平佐田の目に、小さく盛り上がる影が映った。ばくばくと心ノ臓が騒ぐ音を聞きながら、平佐田は、それに近づいた。
闇の深さから、今はまだ夜中だ。いくら、へなちょこな平佐田でも、さすがに、夜中に家人を起こすような不躾はできない。
もしも正体が〝変な生き物〟であったなら、多少の騒ぎも許されるだろう。平佐田は島人じゃない。
だがもし、平佐田にも、馴染みの生き物であったなら、平佐田の、今後の島生活に支障をきたす。道場が始まる前に、ひ弱な先生の評判は断固困る。まがい物ではありながらも、島の子にとって、平佐田は、先生には違いない。
子供たちに尊敬はされないまでも、せめて馬鹿にされない先生には、なりたいと思う。
それでも。怖いものは怖い。変な生き物ならば、助けを求められると思えばつい、変な生き物であることを、祈ってしまう自分が情けない。さらに、変な生き物でなかったなら、何なんだと、別の不安も膨らんでくる。
びくびくと腰が引けながらも、平佐田は影に近づいていく。飛びついてきたら、一目散に逃げ出す心構えはできている。
(おいは薬草の先生じゃ、体術ん先生じゃなか)
胸の内で言い訳しながら、近づいた影が布団だと知って、平佐田は大きく息を吐いた。
馬鹿馬鹿しい。変な生き物など、そうそういるはずもない。いればきっと、漁師の宴会に出てくるはずだ。
酒のつまみになれば、何でも食うのが、島の漁師だ。平佐田は、島に来て半月の間に、得体の知れない物を随分と食わされた。おかげで、二日酔いと腹下しで、常よりもずっと、へなちょこになっている。
(いかんいかん。おいには密命があるんじゃ。布団なんぞに、びくびくしてどうすっ。もっとでん、と構えんな)
ほっとしたら一気に疲れが出た。欠片も見つからない密命の謎と、慣れない島の暮らし。
連日のように引っ張り出される宴会は、下戸の平佐田にとっては、〝試練〟以外の何物でもない。師と仰ぎたい智次の父親にも相手にもされないし、大好きな子供たちの機嫌も損ねてしまった。
(もう、寝よ)
溜まりすぎた疲れが、ひときわ気を昂ぶらせているのだ。ぐっすり眠れば、布団なんぞにびびったりはせんぞと、自らに言い聞かせ、小さく盛り上がった布団の小山に、にまっ、と笑う。
自分で作った布団の小山、中に作った空洞を、ぱふっ、とやるのが面白い――。
金持ちの田崎に教えられた遊びは、煎餅布団の平佐田家では、なかなか難しかったが、それでも童の頃にいっとき、二、三度、小山潰しをやって、そのまま寝入るのが楽しかったことを覚えている。
色々あったが、心機一転。不本意ながらも、与えられた新天地で自分を変えてみたいと、びびる心を押しやって、幼子の思いを取り戻し――。
えいっ。
全身を投げ打った平佐田は、
ええええっ!
驚愕に目を剥いた。小山がむくり、と起き上がる。
ごつん――。
したたかに打った、額に、(うぅぅぅっ)と、唸った平佐田は、冷たい畳を転がった。
「せんせっ! うちの子らを、知らんかっ!」
雷のごときな大音声に、「母ちゃん……」
呟くような声が、闇に溶ける。
「せんせ。こげな時じゃけん、儂も気が立っとる。余計なこたあ、せじほしか。智次も、時頼も、儂の大事なこどんじゃ、誰にもくれてやうつもいはん」
意味不明の言葉が、布団をめくって、どすどすと、重い足音が遠ざかった。
まさしく、大風の後のような静寂が、平佐田を包んだ。




