密命
目立たず、特に取り柄もない平佐田玄海が、魂消るような大事に引きずり込まれます。
第一章 隠された宝
(一)
擦り切れた羽織の背を撫でる風が、僅かだが温かくなった気がする。
春になれば、ここ山川薬園は、色とりどりの花でいっぱいになる。咽せ返るような濃厚な香りと、色濃い花々を見ると眩暈がするが、精魂込めて世話をしているとやはり、元気に育って立派な実をつけて欲しいと思う。
虫食いや病い、萎れてしまう葉に肩を落とし、たわわに実をつけた姿を眩しく見るのは、きっと子を持つ親の心持ちなのだろうと、二十一にもなって、未だに親から援助を受けている薬園勤めの平佐田玄海は、少し胸が痛くなる。
(大丈夫。おいにだって、春は来る。そうすれば必ず芽吹く。この枳殻のように)
すっかりと葉を落とした枳殻は、春になれば瑞々しい若芽が芽吹く。
草花とは縁も所縁もないと思っていた平佐田が、同郷の幼馴染の口利きで、薬園師見習いとして働くようになって早二年。春の訪れを感じさせてくれる、この枳殻の芽吹きが、平佐田には一番のお気に入りとなっていた。
薬園師見習いとなって最初に配属された場所は、山の一角に据えられた小さな場所だった。
蘭学好きで有名な、薩摩島津家第二十五代当主の島津重豪公は、懇意にしているオランダ商館医シーボルトの影響を受け、藩内各所に多くの薬園がある。それが突然、廃園となったのは、財政建て直しのための経費削減対策の一環だと聞かされた。
今は孫の斉興公を当主として立てた重豪公だが、政の実権は重豪公にあるとは、赤子でも知っている事実。領内で重豪様が「大殿」と称されるゆえんだ。
そういう絶対権力者の大殿が抜擢した、調所広郷たる人物のすることに、さすがの大殿も文句は言えないらしい。廃園となった薬園の数は多く、多くの人たちが職を失った。それでも下っ端の薬園師見習いの平佐田が、領内一を誇る山川薬園に転属となったのは……
「おう。平佐田、それは駄目だ。そいつはな、他のヤツよりも、芽が出るのが遅い。大器晩成型じゃ。植物にもあるのかの、うん、まぁ、暢気なんじゃ」
間がいいのか、悪いのか。この人――田崎夢舟は昔から、こういうところがある。間を良くしては現れて、実に間の悪いことを平然と言う。
今はまた「実に世話になったよなぁ」と感謝の念を抱いていたところに、「おまんには、まだ、芽吹きは来んよ」と突き落とすようなことを言う。いい人なんだか、ひどい人なんだか。
「夢舟様」
急いで振り向き、それでも平佐田が頭を下げるのは、現在ではもう二人は、幼馴染ではないからだ。邪気もなく、からからと笑う姿は、「沢兄」「遥坊」と呼び合った頃と変わらないというのに。幼馴染の間で、「沢蟹」と呼ばれていた色黒の蟹のような顔もそのままだ。
が、今は田崎夢舟などという「らしくもない名」を名乗る田崎は、相変わらず海が好きらしい、平佐田の「玄海」の名付け親は、田崎だ。
「探しておった。ちいと付き合え」
ぽん。と肩を叩かれた平佐田は、背筋がぞっとするのを抑えられない。
(この人の「ちいと付き合え」は、ろくなことがないんだ)
培った経験に覚悟を決め、
(早く芽吹かんと、おいみたいになっちまうぞ)
田崎を真似て、枳殻の枝をぽん、と叩き、(いってらっしゃい)と頭を下げる枳殻に諦めた笑いを浮かべた平佐田は、大きな背を追って、落ち葉を踏みしめた。
(二)
「夢舟様、本日は非番だったのではありませんか?」
植物の記録を執るための小部屋へとあがる濡れ縁に、一足先に腰を下ろしている田崎に、平佐田は(そういえば)と思い当たり、訊ねてみる。
「そうそう。それなんだ。急に監査殿から呼び出されての。おまんがまた、なんぞしでかしたかと、大急ぎで出向いたんじゃが……まぁ、座れや」
監査役、平川善兵様とは田崎の上役だ。薬園師を監視する「監査」という役職は、あまり薬園に顔を出さない。名前だけは一通り覚えてはいても、会っただけでは分からないだろうと平佐田は思う。
ただ、下っ端である平佐田は、誰に会っても丁寧に挨拶をすれば良いだけであって、この二年間、それで問題はなかった。
「それは? おいがなんぞしでかしたかとは、夢舟様は、おいのことで、お呼びたてを?」
「そうなんじゃ、使いのもんが、そういうての。「夢舟の同郷として薬園師見習いをしておる平佐田玄海という人物について聞きたいことがある」と」
「聞きたいこと? 監査様が何故おいのことなど……」
「肝が冷えたぞ、まぁ、おまんのことはよう知っとるから、まさか「運び出し」なんぞはしておらんと思うたが」
薬園内で植物の世話を実際に手がけているのは、薬園師見習いだ。園内には高価なものもあり、また、知識なくして飲用すれば、危険なものもある。
よって薬園内への出入りには検査が厳しく、薬園師見習いへの監視も薬園師が担っている。だからこそ、薬園勤めには身元保証が必要なのだ。
「おいの疑いは晴れたんでしょうか? おいは夢舟様に感謝しちょります。決して、夢舟様に迷惑を掛けるようなことは……」
大きな蟹が、にたり、と笑う。ついでに大きく背を叩かれて、平佐田は濡れ縁から落ちそうになった。
「逆じゃ。平佐田、おまんが男になるいい機会じゃ。良く聞け、おまんに任務が降りた。硫黄島へ行くんじゃ」
しかも「宝探し」に。こっちは、小声で付け加える。
「おいが? どこへですって、はぁっ? 「宝探し」ぃぃ?」
素っ頓狂な声を上げる平佐田に、田崎は「しっ」と大きな口元に指を立てる。腕を組み、もっともらしく頷いた田崎は、さらに声を低くして、
「大殿の命令じゃ、嫌とはいわせん」と厳かに付け加える。
何がどう間違って、「大殿」からの命令が、おいに来るのか。「大殿」にとっては、この薬園内の雑草の一本に過ぎない平佐田玄海という男は、未だに半人前の未熟者、これは何かの間違いだ。
いいや、きっと、これは夢だ。ああ、もしかしたら仕事中に居眠りをしてしまったのか。さっさと起きないと、どやされるぞ。くらくらと回る頭を平佐田は抱え、ついでに、ばしばしと叩いてみる。
「何をしとるんじゃ?」
大きな蟹は、そのままである。どうやら、夢ではないらしい。「ちいと付き合え」は予想通りだったようだ。否、予想以上……
「何ゆえ、おいなのです? おいは、ただの薬園勤めですよ。しかも、今もって見習いにすぎません。大殿のご命令を賜るような器ではございません。他を当られたらいかがです。おいの性格は夢舟様が一番良くご存知でしょう。「おい」は「おい」のまま、「おいどん」にはなれません!」
「大きな声を出すな。これは密命だぞ。内々の命令だ」
「これが騒がずにおれますか? おいは郷にいても父上の跡は継げんと思うて、姉の婿に家を渡したのです。おいの郷での立場はご存知ですよね。いつまで経っても遥坊のままだ。言わせていただきますが、薩摩の男が全て、夢舟様のように薩摩男であるわけじゃあありません。おいのように……」
「〝おい〟に満足する男もおると、か。いかん、いかん、それじゃあ薩摩に明日はない。おまんは〝おいどん〟にならにゃあならん。でなけりゃ、うちの婆さんに負けたままじゃ、婆に負けて、くやしうはないか? 大殿は〝おいどん〟の中の〝おいどん〟じゃ。おまんも、ちぃと見習うがよか」
幼馴染の婆様に負けるのには、慣れている。豪傑で通る婆様は、女だてらに〝おいどん〟を称し、若衆を顎で使う強者だ。
「大殿は、この国の未来を案じておられる。公儀は、あの通り腑抜けだし、この国の未来はここ、薩摩にある。異国の情報も豊富、あの、体の知れない琉球国ですら、手に入れた我が薩摩は、オランダ国のもたらした蘭学すらも手の内だ」
「夢舟様、少々お声が。御公儀は油断なりません」
「批判」はご法度だ、江戸幕府はあらゆる場所に密偵を送り込んでいると伝え聞く。昔から、中央政権と異国という、二つの〝敵〟の目から身を守るために、〝外城〟というものが、薩摩にはあるのだ。
それでもは密偵は防ぎきれない。「御公儀批判」と「大殿の密命」など、物騒極まりない話だ。おぉ……
「すまんな、つい。だがな、腑抜けの御公儀は出島を手に入れたつもりで調子付いておる。が、それは間違いじゃ。全ては、大殿が長年に渡って築き上げた賜物。大殿は生粋の薩摩男だ。手に入れられるものは全て、手にしたいと願うておられる」
いつから。この人は、郷にいた頃は、随分と「島津批判」をしていたと思うが。国人を先祖に持つ我らこそが「薩摩の主」であると。
変わり身の早さには感心する。もっとも過去にこだわらず、ずんずんと先に進むのが〝おいどん〟が〝おいどん〟であるゆえんでもあるが。
それでも〝おい〟のくせに、国人としての誇りだけは持ち続けている平佐田としては、一言くらいは返してやりたいとは思う。
だが、ここは一つ我慢する。〝おいどん〟のおかげで〝おい〟はここにいる、〝おい〟もまた「変わり身の早さ」を、ちいとは身につけにゃあならん。
「もっともでございます。大殿は、かのオランダ商館医のシーボルト様とも、ご懇意だとか。頻繁に文なども交される仲だと聞き及びます。取次は、琉球国の船、だとか。薩摩からの荷を、内々に御公儀の船に積み込んでいるのでしょう? 我が薬園に保管される〝秘〟も、その中にあるのだとか、ないのだとか」
ほぅ。
「おまん、思うたより大人じゃの、じゃが、〝神の草〟は、おまんの知るとおり、かなり入手が困難だ、そうであろう?」
〝神の草〟と園内で称される秘薬は、かの大陸の高麗人参にも匹敵する、否、それ以上の効果を秘めているという薬草だ。既にその秘力を蘭学から学んだ大殿は、密かにその栽培を進めているという。
領内の薬園に運ばれる数はそのほんの一部だといわれ、多くは北の地で育てられていると聞く。
ただし詳細についてはただの下っ端である平佐田には知る由もなく、〝秘薬〟は〝秘薬〟として頭に叩き込んでいる、知らなくていいことは、知っていていいことはない。
「ならば話は早い。おまん薩摩のために一肌脱げ。それで全て方がつくのだ」
言ってることが分からない、〝秘薬〟と〝密命〟……どちらも大殿が絡んでいることだけは分かるが。
「『質問本草』は、知っておるな」
「はい。聞き囓りですが。琉球国辺りの植物を、大陸の師に問い合わせ、薬草署が纏め上げるとか。
大殿がシーボルト様に刺激され、領地の監視を兼ねて既に数人が出向いていると。実命を受けているのは琉球の人物だと聞きますが、近辺諸島には本土からも数人が出向いておると。
御公儀も植物の研究に関しては、口は出さないようですね。ましてや〝秘薬〟が更に増えれば……軟弱な江戸者には、朗報でございましょう。それが?」
わけの分からない〝密命〟は嫌だ、それでも『質問本草』には興味がある。平佐田は国人として、薩摩のために己の義を尽くしたいのだ。
薩摩の地に生きる人々、薩摩を愛し、薩摩と共にあること。それは郷にいた頃、幼馴染と相撲をとって、大地に叩きつけられた時に、つくづくと思ったことだ。
――おいは、ここがすきじゃ――
仲良しの朋輩を投げ倒した幼馴染、囃し立てる郷人の声、怒鳴る親父の声も、悲鳴を上げる母親の声も、それを聞きながら、土に叩きつけられる遥坊も……全部が薩摩という大地に包まれる。遥坊が生まれるずっと前、何代も何代もの昔から、この薩摩に守られて過ごしてきた一族の思いがまた、遥坊を育み、育てていく……
しみじみと感じた遥坊は、あれから、大人になった今でも「薩摩のために生きたい」と願っている。
郷士として外城を守ることはできなくなったが、何かの役には立ちたい。薬草を懸命に世話をしているのも、この薬草が薩摩の大きな収入源となっているからだ。
それに、聞き囓った『質問本草』には、大いに興味がある。薩摩の領内に育った草花が一冊の本となる。
なんと素晴らしい事業だろう。薩摩の地はこれほどまでに豊かで、神の恵みを受けている事実を、江戸を始め、他国の人々に知らしめることができるのだ。
おいも、そんな大事に加わってみたい――たかが薬園師見習いである平佐田に、そんな話は夢以外の何物でもないが、まだまだ製本まではかなりの時を要するという『質問本草』に、平佐田がわくわくするものを感じていたのは事実だ。
「ほぅらな。乗ってきた。おまんが『質問本草』に興味津々なのは、知っておった。いい話じゃろうが。やるな? 硫黄島へ行け」
蟹の鼻から勢い良く息が吐き出され、平佐田はまじまじと田崎を見た。
(密命って、それ? 薬草の研究には、御公儀は寛大だ、わざわざ大殿が密命を出すこともないはずだぞ。それに、秘薬を探す役目なら、おいよりも田崎様のほうが適任、まだ見習い中の下っ端に、そんな大事を任せるだろうか)
「おいに……ですか?」
平佐田はもう一度しつこく聞いてみる。
「くどい!」
「宝探しとは新薬の発見ですか?」
「そ、そうとは申しておらん」
田崎の声がちょっと小さくなったことに、平佐田は眉を寄せる。
「おいが選ばれた理由は? おいは、名もない見習いです。とても大殿に指名されるような……」
「馬鹿者! 大殿がおまんなんぞ知っとるはずがなかろう。適任者を探すように命を受けたのは、監査様じゃ。だから、おいどんが呼ばれたんじゃ。おまんの身元保証人じゃからの。安心せい、信頼できる者じゃと太鼓判を押しておいた。それならばと、おまんに白羽の矢が立ったんじゃ」
随分と急な話だ。〝密命〟ならば、もっと人選には気を配るはずでは。
殆ど話も交わした覚えもない平川監査役が、何故に平佐田を選んだのか。人員が減った薬園の人不足で、下っ端の見習いに「余分仕事」をさせるのなら話は分かるが、大殿の命というのが引っ掛かる。
数いる見習いの中には、平佐田よりも家格が上の者もいる。本来ならばまず、そっちを当るのが妥当だろう。たかが郷士の倅、大殿にとっては田舎者に過ぎないはずだ。
何かあるぞ……。胸騒ぎを覚えた平佐田に、〝おいどん〟が畳みかける。
「行くのか、行かんのかっ。『質問本草』に関われるかも知れんのだぞ。大殿の気に留まれば『質問本草』が製本の折、いずこかに、おまんの名が書き記されるやもしれん。
薩摩の誉れじゃの、ここ、山川薬園もまた、大いに薩摩に貢献したことになる。おまんは〝おいどん〟に昇格じゃ、ほらな、おまんが硫黄島に行けば、全てが綺麗に片付くんじゃ、な、頼む! 行ってくれ」
目ん玉をひんむくような状況だ。昔から「わが道を行く」人だった田崎だが、「無理強い」は一切したことはない。豪快で太っ腹、すぐにかっとなるのが薩摩男だが、相手の立場は、常に心の底にある。
相手を無視して、己の気持ちを強制するのを、一番嫌うのが〝おいどん〟だ。器が大きくなくては〝おいどん〟にはなれない。相手を良く知っているからこそ、平佐田には迷いがある、だが……。
――『質問本草』じゃ……
囁かれた甘言に、平佐田は大きく頷いていた。
(三)
「平佐田さん、本当に大丈夫なんですか? どこか悪いところ、あるんじゃなかですか。医者に診てもらいました? 診てもろたほうがよかですよ、手遅れにならんうちに……」
(いやいや、もう手遅れなんだよ。だってね、おいは〝密命〟という毒に冒されてるんだ。きっともう、余命幾許もない。短い間だったけど、世話になったね……)
枳殻の木に、おそらくは他から見ればへばりついているように見えるだろう体を何とか起こし、事実を語れない平佐田は、親切な同僚に振り返る。
「平気だよ、どこも悪くはない。健康そのものだよ、ね?」
無理に笑って、ぶんぶん、と腕を振り回して見せようとして、再び枳殻の木に倒れ込んだ。
「あ」と遠慮がちな同僚の声が、耳に痛い。
「やはり……わし、泰山様を呼んできます。本日はもう、お帰りください。こんな様を見れば、きっと泰山様だって、帰るようにいいますよ。何か薬草だってくださるかもしれません」
「いや、いい。こんな様を見られたら、おいはここを追い出されてしまうよ。後生だから、黙っていて。おいは本当に、どこも悪くないんだ」
泰山様とは薬園師の一人だ。田崎の同僚にあたるが、二人は仲が悪い。
涼やかで美男子の泰山は、物腰も穏やかで、田崎とは正反対だ。見習いの間で人気のある泰山だが、平佐田に対しては、とても意地悪だ。
田崎の息の掛かった平佐田が気に入らないらしい。こんな様を見られたら、いったい何を言われるか。
「あいつはな、見てくれはあれじゃが、腹黒い。騙されるなよ。人は見かけで判断しちゃあいかん」とは、田崎の言葉だが、
「見てくれどおりの人もいるのでは?」と平佐田は田崎に言い返してやりたい気分だ。
「本当ですか? だったら……どうしてそんなに痩せてしもうたんです。何か悩みごとでも? あ、もしかしたら恋わずらい?」
暢気なことを言う。そんな思いなら、してみたい。平佐田に想う人はいない。唯一、思いたくなくても浮かんでくる顔は……。
今のこの、悲惨な現状の元凶となった、でかい顔だ。あんなのに間違っても恋わずらいはしないし、したくもない。
「おお~い、ちょっと、こっちを手伝うてくれんか~」
薬園は人手不足だ。ちら、と振り向いた同僚は、「わし、行ってきます、平佐田さん、少し休んでください」言い残して背を向けた。
(いいやつだ)と、つくづく平佐田は思う。それに引きかえ……
にたっ、と笑ったでかい顔が脳裏に浮かび、平佐田は蝿でも払うように手を払った。
『質問本草』に釣られ、ついつい首を縦に振ってから半月。平佐田は連日の悪夢に魘され、すっかりと食も細くなった。元々、貧相な体が、ますます貧弱になっていく様を、平佐田自身、情けなく思っていた。
それでも平佐田に為す術はなく、同僚が堪らなくなって声を掛けてくるほどに痩せ衰えた。
ちなみに、何故、平佐田が枳殻の木にへばりついているかといえば、ほんの僅かに春の気配を含んだ突風が、平佐田に「お久しぶり」とばかりに元気良く飛びついて来たからだ。
常ならばおおいに歓迎した平佐田だが、痩せ衰えた体では受け止めることができず、親切にも平佐田に向って手を差し伸べた枳殻の助けを借りた次第だ。
(別に……おいは〝密命〟を嫌だというわけじゃあないぞ、男が一度は引き受けた仕事だ。んんん、まぁ、不本意ではあるが。それをいつまでも、ぐちぐちと悩むほど、おいは情けない男ではなか。問題は、そこじゃあない、〝密命〟がなんたるかを知らないところにあるんだっ)
そもそも、何がどうして現在の状況を作り上げたかと言えば、事の元凶は、あのでかい顔の蟹だ。
不本意にも再び脳裏に浮かぶでかい顔に、平佐田は八つ当たり気味に誓う。二度と蟹は食うまい。と。
田崎から〝密命〟の話を持ちかけられて数日の間、沙汰が下りるのを待つ、罪人のような心持ちで、平佐田は過ごした。
大いに興味がある『質問本草』にほだされた平佐田も平佐田だが、肝心なことを語らずじまいとした田崎も田崎だ。平佐田が頷いたのと同時に田崎は立ち上がり、「監査様に報告せねばならん」と、さっさと背を向けてしまった。
上役である田崎に、それ以上しつこく食い下がるわけにはいかない平佐田は、ただ田崎の背を見送るしかなかった。
何の音沙汰もなく過ぎていく日々に、平佐田は不安を通り越し(もしかしたら担がれたのか?)と思うようになっていった。
「大殿の密命」であらば、すぐにでも沙汰があるに違いない。それがない以上、もしかしたら他に適任者が見つかったか、もしくは〝密命自体〟が取り消されたか。或いは……
――いつまでも「おい」から抜け出せずいる幼馴染が、ここ数年でどれだけ肝を据えたかと、もっともらしい話をでっち上げたか――
平佐田にとって最後の考えが一番の信憑性のあるものに思えた。
田崎には昔から、そういうところがある。決して、悪気はない。可愛がっている幼馴染を心配しているのだ。
しかし、それが可愛い幼馴染を目一杯「びびらせる」という事実も、知っている。本当にいい人なんだか、ひどい人なんだか、わからないのが田崎という男だ。
だが、今回ばかりは、そうであって欲しい――必死に願う平佐田の胸の内も知らず、顔を合わせても「なんじゃ、お前はちぃとも変わらんの」豪快に笑い飛ばしてくれる気配もなく、ただ虚しく日々が過ぎる。ついには
(密命とは、おいにも話せんほどの怖ろしいものなのか。あの田崎様ですら、口に出すのも烏滸がましいほど……)
話さなければ何をすればいいかわからんという、当然の事実すらも忘れて、平佐田がどんどん痩せ細っていった半月を数日過ぎた今日、今まさに親切な同僚の言葉と、手を差し伸べてくれた枳殻の木に、平佐田は決心した。
(もう、やめよう。気に病むのは疲れた)
これ以上ああだこうだ悩んだって、仕方ない。忘れることだ。こんな状態でいつまでもいたら、そのうち泰山から突かれるに決まっている。
〝密命〟が今なお生きているのか、はたまた取り消しになっているのかは皆目わからないが、平佐田の職場は今、山川薬園だ。ここを追い出されては、行く当てもない。
仕事も失い、親に食わせてもらっているだけでは、いつまで時が経っても、〝おい〟のままだ。
(とりあえずは、考えないことだ。少しは体を労わらなくては。薬園は、人手不足で忙しいんだ。猫の手も借りたいくらいなんだから、痩せ衰えてばかりもおれん)
平佐田は、くたり、としゃがみ込む。
別に疲れたわけじゃない。地面に元気良く蔓延り出した雑草を取ろうとしたのだ。体力が落ちていても、草取りくらいはできる。
草取りは怠けると、とんでもない事態を招く。大切な草木のため、まずは外敵を駆除してやる配慮が大切だ。
(おいは、きちんと仕事をしてるぞ)と自身に言い聞かせ、一心不乱に草を抜く。
(うん。いい調子だ)
夢中になって草取りをしているうちに、体も少し温かくなり、平佐田の気分も晴れてくる。
〝無心〟という、武道の師の講義は、ちっともわからなかったが、「これこそが〝無心〟だ」と平佐田が思う草取りは、余計な考えを取り除いてくれる。
草を抜く度に、平佐田の頭の中から〝密命〟やら〝蟹〟やら〝大殿〟やらが抜け落ちていく心持ちがして、徐々にすっきりとした気分を取り戻しつつあった。それこそ鼻歌でも出てきそうなほどに回復し始めた平佐田故に、背後に聞こえ出した、耳慣れない音に気が付かなかったのも、道理だった。
「おう、こげなとこにおったか。精が出るの」
正直、このときばかりは、平佐田は振り向いて、思いっきり拳を振り上げたい気分だった。せっかく忘れかけていたというのに。
それでも、上司である田崎には、逆らえない。もっとも、平佐田のへなちょこ拳なぞ、田崎は指先一本でいなすだろうが。
「探しておったんじゃ。喜べ。やっと決まったぞ。いゃあ、めでたい、めでたい」
たぷん。耳慣れない音に重なり、がははは……と豪快な笑いが平佐田の全身を硬直させる。同時に思い切り背を叩かれて、平佐田は抜いた雑草の山に突っ伏した。
「何しとるんじゃ?」邪気のない声で、平佐田の襟を子猫のように掴み上げ、田崎は「ちぃと付き合え」平佐田に向って恐怖の言葉を投げかける。
(間がいいんだか、悪いんだか……)
再び振り出しに戻った平佐田は、やはり……「こくり」と頷いていた。