アンナの計画
パパが日本の高校の資料を持って帰ってきたのは、アンナがユニバーシティに通いだして半年ほど経ったときだった。
「日本では16歳になる年の4月には、ほとんどの人が高校へ行く。アンナも今年で16歳になるから、日本のことを知るためにも日本の高校へ行った方がいいだろう」
パパはアメリカにいてもリモートで授業を受けられる高校の資料をくれた。
スクーリングは提携しているアメリカの日本人学校の高校で受けることができると書いてある。
その資料を見ているうちに、アンナは自分が行ったこともない国で全然知らない男の人と結婚をして暮らさなければいけないということに、だんだん不安になってきた。
両親が自分のことを考えてくれているのは疑っていない。だが、お嬢さんは知っていてもその息子のことを知っているのだろうか。
お嬢さんの息子さんというのはどんな方なんだろうか。
「お父様、私のフィアンセがどんな方かご存知なんですか?」
「ああ、少し大人しすぎるみたいだが、優しくて真面目な子みたいだ」
パパが分厚い封筒をアンナに渡した。
封筒の表の下部には東京探偵社とう会社名と住所と簡単な地図が書いてある。
封筒の中には、ブレザーを着て、鞄を持って歩いている学生風の男の人の写真や『調査報告書』と書かれた分厚い書類が入っていた。
この写真の人がフィアンセだろうなとアンナは思った。
凹凸の少ないのっぺりした顔をしている。美男子ではないが、大人しく真面目そうな感じは受ける。
報告書には家族構成、体格、周囲の評判、1ヶ月の行動などが事細かに書かれていた。
アンナはその報告書を見て、許婚の名前が澤田隆司ということを初めて知った。
家族は両親と本人の3人家族。きょうだいはいない。
身長160センチぐらいと書かれているので、アンナより10センチは低いようだ。
私立の中高一貫校に行っていて、部活には入っておらず、学校の行き帰りにほとんど寄り道などはしない真面目な人らしい。
友だちはそんなに多くないが、仲の悪い人もいないようだ。喧嘩をしたことがなく穏やかな性格みたいだ。
成績は真ん中ぐらいで運動はあまり得意ではない。体は丈夫らしく遅刻や欠席などはほとんどなく、近所の評判もすごくいい。
「どうだ?」
パパが報告書から目を上げたアンナに問いかけてきた。
「いい人みたいですね」
「そうだろう。そんなに心配することはない。きっとアンナを幸せにしてくれる」
たしかに、報告書を見る限りは周りの評判もいいし、いい人そうだということが分かる。
この時はパパの言うとおりだと思って、アンナは納得した。
1年ほどは、ユニバーシティの勉強、日本の高校の勉強、空手の稽古を平日はこなし、土曜日は友だちに誘われて地方劇団に入ったので稽古がある。アンナは忙しい毎日の中で許婚のことをあまり考えなくなった。
劇にはあまり興味がなく、友だちとの付き合いで始めたものだった。しかし、いろいろな役を演じているうちにだんだん面白くなってきてのめり込んでいった。
州の演劇コンクールでは、アンナが主人公を演じた劇が優秀賞を取り、アンナは主演女優賞に選ばれた。
アンナの演技を見ていた芸能事務所から女優にならないかとスカウトまで来た。
アンナは演技をすることは好きだが女優にまではなろうとは思っていない。
家に訪ねてきた芸能事務所の人に、パパが18歳になったら『アンナは日本に行くから無理だ』と言って、断ってくれた。
それを聞いて、アンナはもう少ししたら結婚するんだと再認識をした。そうすると、また不安が頭をもたげてくる。
「お父様、フィアンセにお会いすることはできませんか?」
「会うことはできるだろう。ただ、こちらから日本に行かなければならないだろうから、向こうの都合とこちらの都合を合わせないといけないからすぐには無理だろうな」
「そうではありません。私がフィアンセだということを隠して会いたいんです」
「どういうこと?」
パパと一緒に聞いていたママは不審げな顔をした。
「報告書ではフィアンセはいい人のように思えます。でも、本当にそうでしょうか?」
「何が言いたい? 探偵が向こうに買収されて嘘の報告書を書いたとでも言うのか」
パパが怒ったような顔になった。
「ごめんなさい。怒らないで。別に探偵さんを疑っているわけではないの」
「じゃあ、なんだ」
「サイコパスやDVをする人の中には、普通の人に見えるし真面目で近所の評判がいい人もたくさんいました」
所属している劇団はミステリーものを主に公演している。その中には、実際に起こった事件を題材にしたものもあった。
そういう劇に出演するときには、アンナは実際の事件のことをパソコン、新聞、雑誌などで調べて演技の参考にしている。
劇の題材には異常犯罪者の犯罪を扱ったものもあったので、調べたことがあった。
「澤田君がそういう人だと?」
「そうは言っていません。あるいは、お父様の財産が欲しくていい人の振りをしているだけかもしれません」
「まさか。馬鹿なことを」
パパが苦笑した。
「可能性の話をしているだけです。ただ、人の目じゃなく自分の目で確かめたいんです。許婚のアンナではなく、別の人間になってフィアンセがどういう人か確かめたいんです」
「別の人間?」
ママが首を捻った。
「お父様はフィアンセの通っている学校の理事長を知っているとおっしゃてましたよね」
「ああ」
まったくの偶然だが、パパとフィアンセの通っている学校の理事長とは大学の同級生だったそうだ。
「フィアンセと同じ学校に編入してフィアンセのことを自分の目で見たいんです」
「なんだって。日本で高校に通うというのか?」
「はい。アンナ・タカツではなく、まったく別の人間である石野樹里になって通いたいんです」
「だが、私たちは一緒に日本で暮らせないぞ」
それは分かっている。パパは農場や牧場の仕事をしないといけないし、ママはパパや従業員の方の世話をしなくてはいけない。
「分かっています。日本で一人暮らしをします」
周りに気を使い、人の気持ちを推し量って行動する優しく穏やかなお嬢様育ちのアンナ・タカツでは一人暮らしは無理だろう。
だが、気が強く我が道を行く石野樹里という女の子を演じれば一人暮らしはできるはずだとアンナは思った。
アンナは演劇で舞台に立っている間はその役に完全に没入し、表情も声も性格もすっかり変わってしまうことができる。
劇団の人たちに教えてもらったり、ユーチューブを見たりしながら勉強して、自分とはまったく違う別人のような顔にメイクができるようにもなった。
舞台を見た人たちには『アンナがやっているとは思わなかった』、『まったく別人がやっていると思った』とよく言われるまでになっていた。
「一人暮らし……」
パパとママは顔を見合わせた。
「はい。だめですか?」
アンナが両親の顔を見ると、二人は同時に首を横に振った。
「ダメだ。アンナに一人暮らしなんかさせられない」
パパにそう言われるとアンナは諦めるしかなかった。
アンナが正体を隠してフィアンセに会うという計画を諦めかけたとき、想像もしていなかった事件が起きた。
白人至上主義は大人だけではなく、若者たちにも影響を与えていた。
白人至上主義者の若者たちの中にはチームを作って、東洋人や黒人などの有色人種の若者を襲い、怪我をさせたり金品を奪ったりするものもいた。
それに対抗するためにお兄ちゃんのジョゼフ・ユキオ・タカツは東洋人のチームを作り激しい抗争を始めた。
お兄ちゃんは飛び級をして20歳でユニバーシティを卒業すると、家に帰らなくなり、チームのアジトに入り浸るようになっていた。
学生時代に日本の講道館で柔道を習っていたパパは腕に覚えのある牧場の従業員やボディーガードを連れてアジトに乗り込んでお兄ちゃんを連れ帰った。
だが、お兄ちゃんは両親の目を盗んですぐに家を飛び出して戻らなくなる。
そんなことを何度か繰り返しているうちに、白人チームと東洋人チームの間で大きな抗争が発生し、多数の負傷者が出てしまうという事件起きてしまった。
警察が出動して、お兄ちゃんを含めて両チームのほとんどの構成員が捕まってしまう。
そのことをマスコミが嗅ぎつけ、取材と称してアンナたちの家にまで連日押しかけてきた。
アンナが外に出ると、マスコミにしつこく付き纏われ、だんだん怖くなり大学にも行けなくなって、家に閉じこもるようになっていった。
ある日、アンナはパパに呼ばれた。居間のソファに座ったパパとママは毎日のようにマスコミの対応に追われて憔悴しきった顔をしていた。
「今、この家にいたらアンナも大変だろう。アンナが前に言っていたように日本に行きなさい。その方がいいと思う。理事長にはよく話をしている。住むところは理事長に頼んでセキュリティのしっかりしたところを探してもらった」
パパは苦渋の表情で言った。
「お父様とお母様は大丈夫ですか? 一緒に日本へ行きませんか?」
アンナはパパとママのことが心配になった。こんな大変なときに自分だけ逃げるように日本へ行くわけにはいかない。
「仕事をほっておくわけにはいかないからな。私たちのことは大丈夫だ。だが、アンナのことまで手が回るかどうか分からない。今はここにいない方がいい。もう少しすればこのバカ騒ぎもすぐ収まるだろう」
パパは力なく笑った。
「アンナは自分のことだけを考えなさい。日本には私が連れて行くわ。すぐに戻らないといけないけど」
ママがアンナの横に座って抱きしめてくれる。
アンナは自分がいるとかえって足手まといになるのだと理解した。
「分かりました。自分の目でフィアンセがどんな人か確かめてきます」
高校2年の2学期が始まるときにアンナは石野樹里として、日本にやってきた。