春風はグルタミン酸
SFな日常小説です。春の日を描いています。
わたしはポストから新聞を取って深呼吸。
冷たい春の朝の空気が清々しい。
この季節は一年のうちで一番、空気が美味しいように感じる。
ダイニングテーブルにもどり、白磁の皿を並べ、朝食を準備する。
目玉焼き、オレンジ、コーヒー、サラダ。
ベーシックながら上出来な朝食だ。
チンっとトースターのベルがなり、ポンっとパンが跳ねる。
このパン焼きトースターはやたらバネが強い。
天井にぶつかりそうになるほど飛びあがる。
このアトラクションはイタズラ好きな彼女の仕業だ。
機械に強い彼女は、こういうロクでもない改造が大好きだ。
わたしは宙を舞ったトースターをどうにかキャッチする。あちち。
焦げ目をつけたトーストをかじり、コーヒーの香りを楽しむ。
ひとりの朝食は静かで、窓越しにスズメのさえずりが聞こえる。
そのうち、さわがしい彼女が目覚め、この食卓もにぎやかになるだろう。
「おはよー」
「おはようございます博士」
眠い目をこすりながら台所に降りてきた彼女は、同居人であり、わたしの上司とも呼べる女性だ。
低い背丈、柔らかい背骨、小さなお尻。
若い・・・というか、幼いと表現してもいいくらいだが、成人しているらしい。
いったい何歳なのだろうか。
彼女は詮索を好まない。
だからわたしも無理して聞く気はない。
わたしにだって言えない事情があってここに住んでいる。彼女だって同じだということだろう。
わたしたちはお互い気遣いながら生活している。
しかし、今、彼女がトースターに入れているモノについては、ツッコミせざるを得ない。
「ねぼけてます? それ、スルメですよ? パンじゃないですよ?」
「なんか今朝はスルメの気分」
彼女はパン焼きトースターに、乾燥したイカの頭をぐいぐい押し込んでいる。
彼女はこう見えて天才博士である。
パン派やごはん派などという枠組みに収まらない大物だ。
しかし、イカの乾物を朝餉に食すという奇行は、ちょっと想像の範囲を超えている。
わたしの呆れ顔など意に介さず、彼女はスルメをセッティングする。
あくまで一般的な食パンを焼くためのトースターだ。この北海道で水揚げされたイカの全身がトースターに収まるわけがない。
イカというのは結構大きな生物であり、食パン3枚分並べても足りないくらいだ。
案の定、収まったのはせいぜいアタマまでだ。胴体より後ろはデロンとはみ出している。
見ようによっては生け花なのかもしれない。
トースターに咲いたゲソという花。前衛芸術にしてもおぞましい。
タイマーを3分ばかりに設定する。
歯車とゼンマイの原理を巧みに応用したアナログタイマーは、ジジジジジジと小さく唸る。
タイマーにとってはパンを焼くのもスルメを焼くのも同じなのだろう。冷静沈着に時を刻み続けていく。
彼女はコーヒーなんぞをすすりサラダを頬張りながら、メインディッシュが焼きあがるのを待ち続ける。
食卓に芳醇なコーヒーの香りと、スルメの生臭いニオイが充満する。
本来、出会うべきでない両者の相性は良いはずもなく、わたしはたまらず窓を開ける。
季節は春。
薫風に乗ったツツジの香りが、スルメ臭を吹き飛ばす。
チン、とベルが鳴って、焼き上がりの合図。
盛大にスルメがジャンプする。
天井にぶつかりそうになったスルメはひらひらと風に乗る。
しばし風に乗って泳ぎ、そしてリビングダイニングをスィーと滑空する。
イカは足のほうに向かって泳ぐらしいが、空中では頭を先にして進んでいる。
スルメは円を描きながら落ちてゆく。
紙ヒコーキよりも滑らかな空気の捉え方だ。
同居人は床に落ちる前にそれをキャッチする。
器用な子だ。
フリスビードッグにもなれるかもしれない。
頭の三角形――それをヒレ肉と同居人は呼ぶ――を引きちぎる。
スルメはヒレ肉から食すのが作法であるらしい。
「裏千家の作法に則った食事法だよ」
と彼女は宣う。
スルメの喰い方に表千家も武者小路千家もあってたまるものか。
彼女はイカの繊維にしたがって、ひれ肉を一口分を引きちぎる。
「うっ・・・うまい!」
と彼女は目を見開いた。
「いつものスルメがなぜこんなにも美味しく? まるで海から釣り上げたばかりでピチピチのまま乾燥させたみたいだ!」
天才の言うことはわけがわからない。
「ちょっと食べてみたまえ! ちょっとちょっと!」
「け、けっこうです・・・遠慮します・・・」
朝からこの生臭い乾物を食べる趣味なない。
「いいから! いいから食べてみーたーまーえ!!」
グイグイしつこくスルメを押し付ける同居人である。
しかたなくわたしは口を開き、彼女の指先にふれないように、その乾物の欠片を舌に乗せる。
やれやれ。
なんの因果で朝っぱらからスルメなど・・・
「・・・美味しい・・・!」
朝スルメってGOODだね!
手のひら返して宗旨替えせざるを得ないほど旨い。
わたしのリアクションに気をよくしたのか、同居人は「でしょっ」とニッコリ笑う。
「でもなんで・・・?」
首をひねるわたしに博士は人差し指をピッとたて、
「仮説を立てよう」
と考察を始める。
テーマは「春風に舞うスルメはなぜ美味しくなったのか?」である。
「人間の味覚が感じ取れる基本味は5つ。甘味、酸味、塩味、苦味、うま味だ。知っているね」
「はい。学校で習ったと思います」
「基本味のうち、スルメのもっとも大きなファクターは、うま味だ。スルメ自体は甘くも辛くも無い。うま味に特化した食べ物といえる」
「お出汁になるくらいですからね」
わたしは頷いた。
「うま味には動物性のイノシン酸と、植物性のグルタミン酸がある」
「そうですね。料理マンガとかで読んだことがあります」
主にラーメンマンガで頻出する単語である。
「スルメは動物性アミノ酸・・・イノシン酸だね」
「はい」
「それに対して春風はグルタミン酸・・・植物性のうま味成分だ」
「えっ?」
素っ頓狂な発言だ。博士の理論は急に飛躍するから困る。
「春風にうま味成分が含まれているんですか!?」
「もちろんなのだよ」
初耳である。
「春は植物が芽吹き花が咲き乱れる。そのときに発せられるグルタミン酸が風に乗り、われわれの味蕾に届く。だから、この季節は空気が美味しいのだよ」
博士は堂々と宣う。
いやいや、その理屈はおかしい。
たしかに春は空気が美味しいが、しかし、それは気分的な問題であって、別にうま味成分とかそういう化学物質は関係がないような・・・
「しかし、春風が動物性だったらイヤだろう?」
「なんかベタベタしてそうでイヤです」
「では植物性のグルタミン酸でいいじゃないか」
博士は理屈になっていない説得でわたしを黙らせ、考察を続け独自の理論を深めていく。
「うま味の相乗効果というのを聞いたことがあるだろう? 動物性と植物性を組み合わせると、飛躍的に美味しく感じるという効果だ」
「カツオ出汁と昆布出汁を合わせると、料亭の味ってことですね」
「そのとおり、今回はスルメと春風のうま味成分が相乗効果を起こしたというわけだね」
「・・・そうなんですか」
理屈は色々と納得できないが、美味しくなったことも事実であった。
博士はスルメをもぐもぐしながら、ふむ、としばし黙考し、
「実証実験を始めよう」
と宣言した。
「野外でたっぷり春風に当てたのなら、より美味しくなるに違いない」
* * *
あーるーはれたーひーるーさがりー・・・である。
天気は上々、五月晴れ。
風は穏やかに吹いて、雲がゆっくりと東へ流れている。
河川敷の公園はにぎわっている。
草野球、サイクリング、バーベキュー。
みな思い思い、この五月の行楽日和を楽しんでいる。
ここで、これからスルメ焼き実験を開始するのである。
変な目で見られないかと心配になるが、彼らはサークルの中で内向きに燃え上っており、片隅で行われる多少の奇行などは目に入らないようだ。
わたしたちは公園の隅っこにトースターを設置する。
中古のパン焼きトースターなどではない。博士の超人的なIQをフル活用して発明した、スルメ焼き専用のスーパートースターなのである。
見た目はパン焼きトースターを巨大にしただけであり、その機能もパン焼きトースターを強力にしただけである。
これなら、すっぽりとスルメの身体が収まる。アタマからゲソまでムラなく焼きあがるという寸法だ。
さっそくタイマーをひねり、焼きあがるのを待つ。
・・・待つ。
・・・待つ。
焼けない。
「電源忘れた」
「そうですか」
コンセントは野原に所在なく転がったままである。
さしものスーパートースターも電気がなければ何も出来ない。
「ねぇねぇ」
博士はわたしのシャツの裾を引っ張る。
「わかりましたよ」
そんなわけで自転車にまたがる。
もう慣れたものだ。
貴女はいつもこういうとき、いつも、わたしを電源代わりにするのだから。
トースターのコンセントを自転車につなぎ、彼女はかわいらしく小首をかしげ、上目遣いでこう宣った。
「1500Wで3分、おねがい」
・・・きつい!
わたしの経験上、1500Wを自転車で発電するには、ものすごいケイデンスが必要だ。
たとえるなら、世界新記録を目指して100メートル全力疾走するのと同じくらいの足の回転が必要だ。
ウサイン・ボルトでも10秒もたないエネルギーを3分間ひたすら出し続ける。超人的な苦行である。
「だめ?」
「だめじゃないです」
それでも、可憐にお願いされてしまっては、断ることもできない。
わたしは博士の助手である。その表情を曇らせることなど、死んでも許されることではない。
わたしは自転車をスタンドで立たせ、後輪を宙に浮かべる。
このスタンドも博士の発明品で、新聞屋やヤクルトレディの業務用自転車より頑丈に作られている。
ダイナモも特別製だ。本来、ライトに使われる電力をコンセントに伝えることができる。しかも、そのまま家電製品に活用できる。AC/DC/いい感じ。
わたしは一つ深呼吸。そして覚悟を決めて、せーので勢いよくペダルを回し始める。
全力でこぐ。
発電機の摩擦に抵抗を感じながら、それでもギアをあげていく。
飛べ! 走れ! ダイナモ回せ!
フルチャージ! フルチャージ!
すべての電力は回転によって作られる。
原子力だろうが水力だろうがダイナモ回して電力を作っているのだ。
乾電池? 例外的存在ですね。
太陽光発電? 知らない子ですね。
とにかく、わたしの責務は自転車をひたすら回転させて、ダイナモ回してトースターに電気を届けてスルメを焼くことである。
わたしのフトモモは張り裂けんばかりのピッチピッチだ。
ジリジリと電熱線に熱が溜まり、スルメの焦げた香りが鼻腔をつつく。
しかしそれを楽しむ余裕は私にはない。
シャカリキにペダルを踏み続ける。
回せ! 回せ! ケイデンスを上げていけ!
「がんばれー助手ーがんばれー」
「がんばります!」
肺が破裂する。ふとももの筋線維はバッチンバッチン切れていく。
わたしはわたしの身を破滅に追い込みながらスルメを焼いていく。
「あと3秒!」
「3」
「2」
「1」
チーン!!!!
しゅぽーんと気の抜けたような音とともに、スルメは大空へ羽ばたく。
スーパートースターのバネは超絶最強。まるでロケットのようにテイクオフ。
スルメは上昇気流を掴んで宙に舞う。
成層圏までいきそうなスルメを、あらかじめ結んでおいていたロープが引き留める。
スルメ青空に張り付き、そして遊泳する。
その姿は、まるで凧だ。
イカなのにタコだ。
それを言いたかっただけだ、聞き流してくれ。
わたしは苦役から解放されて土手にうずくまる。
ああ、ケツからハムストリングまでパンパンだ。
そんなわたしを彼女は見ない。
貴女は宙に舞うイカに夢中だ。
彼女は大変に気まぐれで自分勝手。
苦労したわたしのことなんか一瞥もしない――そんなところが素敵だ。
ふとももは超回復し競輪選手のようにより強く生まれ変わることだろう。ふとももは博士への愛の結晶である。
わたしはクーラーボックスから冷えた缶ビールを取り出す。
幸い車で来たわけではない。
自転車も飲酒運転は駄目だって?
押して帰りますよ。
一口、口に含む。
ホップの香りが爽やかだ。
運動をした後のアルコールは筋肉に溜まった乳酸を解放させてくれるようだ。疲れが取れる。
ああ、つまみが欲しい。
酒精に刺激された舌ベラが塩味を求めている。
この期に及んで、わたしはスルメについての分別を捨ててはいない。
スルメは朝ごはんでもディナーでもない。
酒のつまみだ。
百歩譲っておやつだ。
彼女はいつまでイカを泳がせているのだろうか。
風にそよびく麦色の細い髪を眺めながら、わたしは麦酒をすする。
そう多く持ってきたわけではない。
大切にちびちび消費するわけだが、はやくも一本空けてしまった。
うっすら湿った地面から、甘い土の香りが昇る。
ヨモギの葉が揺れる。
タンポポの綿毛が青空に消えてゆく。
川面に鯉が跳ねる。仕舞い忘れた鯉のぼりが元気にはためいている。
2本目も空けてしまったころ、そろそろ満足していただけたらしい、
ようやく彼女はわたしに振り返る。
「おろしてくれたまえ」
「お嬢様のお気に召すままに」
わたしはスルメにつないだタコひもを慎重に手繰り寄せて地上に降ろす。
春風にさらされたスルメは冷静な顔のままであった。
まるで大冒険を成し遂げた達成感を感じない。海産物特有の何考えているのかよくわからない表情を浮かべたままだ。
このスルメは、海に生まれ、陸で乾き、大空に羽ばたいた。
陸海空を制覇した大物に違いないが、そういう人生経験が表情に反映されていない。
ただのスルメにしか見えない。
まあ、あの程度の冒険など彼の人生に一抹の変化も与えなかったということだろう。
自分探しにインド旅行した大学生みたいなものだ。
「はやくはやく」
とせっつく彼女に渡してあげる。
彼女はまるでクリスマスプレゼントをもらった少女のように抱きしめて、そしておもむろにヒレをちぎる。
彼女は裏千家の作法に従うけれど、わたしはわたしの流儀に従いたい。
一般的に、スルメのヒレはロールスロイス、胴体はカローラ、ゲソはジープに例えられる。
わたしの好みはゲソ。
あの荒々しいワイルドな舌ざわりが大好きだ。
左右端のデロンとした長い足。
この先っちょの粒々した吸盤をねぶって食うのが醍醐味だ。
わたしはゲソをちぎって口に含む。
それは薫風。
芽吹いた土の匂い。
咲き乱れる花々。
新緑がそよぐ清々しさ。
そして、隠しきれないイカ臭さ。
「ふむ、予想通りうま味が増しているね」
と博士もヒレ肉をもぐもぐする。
「そして風味がよい。磯臭さと青臭さ。海と山の相反する香りが太陽光に中和されアンサンブルを奏でている。フレッシュで爽やかなアクの強さが最高だ」
博士の食レポは暴論に近い。
満足していただけたようでなによりだ。
そういえば風味とは「風の味」と書く。
夏の風はまた別の味わいなのだろうか。
春風はグルタミン酸を含み、少し甘くて、心がおどる。
夏風はきっとイノシン酸で、少し塩っぱくて、切ないのだろう。
わたしたちはイカを食い、ビールを飲む。
食い破り、噛みちぎり、そしてしゃぶり尽くす。
海の王が八つ裂きにされて我々の胃に堕ちていく。
乱痴気騒ぎはすぐ終わる。
わたしは自転車にトースターとクーラーボックスを乗せて網でしっかり荷台にくくる。
酒の回った彼女の手を引きながら自転車を押して家路につく。
少しだけ太陽は傾いているけれど、お昼寝を楽しむにはまだ遅くない。
五月のある晴れた一日のことであった。
5月なのに、もう夏日が記録されてしまいました。
もっと早くに投稿するべきでしたね。
本作は博士と助手シリーズの2作目にあたります。
お気に召したのなら1作目も読んでみてください。
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