恋する神の子は転職予定[5分で読めるインスタント恋愛小説]
通いつめていた。
あの日も、今日も、いつも。
「ここ、書かなきゃいけないの?」
「貸出簿をお作りになるんでしたら、はい」
「そうなんだ。案外、厳しいんだね」
「時々、貸した本が返ってこないことがあるんです」
「じゃあ必要だよね」
小筆で一通りを書くと、司書は軽く頷いて言った。
「輝久さんというんですね。いつもいらしてるのに、貸出簿もお持ちじゃないなんて思いませんでしたよ」
「いつもここで読んでいくから、必要なかったんだよ」
何気ない振りをして答えながら、ちらりと視線を奥にやる。
彼女は今日は、奥書庫の整理をしている。
「では、どうぞ。大切に読んでくださいね」
「承りました」
俺が書を受け取ると、司書はすぐに次の客の応対を始めた。
神の子の中で髪が短いのは、俺だけだ。
他の者は遠目から見ても神々しさがあるように、飾りをつけやすいように、と髪を伸ばしている。神殿の神の像が長く豊かな髪をしていることも関係するだろう。
ただまあ仮に俺が望まなくても、俺に長い髪や華やかな色は似合わないから、どうせ俺の髪は切られていただろうとも思う。
神の子の中で、周囲に埋没できる容姿なのも俺だけだ。
子どもの頃はそこにコンプレックスを感じたこともあったけど、今はただ、幸運に思う。
焦げ茶や濃紺の反物の似合う平凡な容姿と、ほんの少しの周囲からの信頼のおかげで、俺は一人歩きも許されている。
だからこうして平凡な片思いを続けることも許されている。
たとえばこうして、日差しの強い窓辺で目を細めながら本を捲っていると、彼女はやってくる。
何も言わず窓際に日除けを作り、冷茶を置いていく。
「ありがとう」
と言うと、にっと誇らしげに笑って、手で読書の続きを促して、簡単に頭を下げる。
地味な女だ。最初は目に留まらなかった。
体型もぽっちゃりしていて、分厚い前髪が野暮ったくて、ただ、髪の編み込みは得意なようだった。
彼女がここで働き始めたのは、俺がここに通い始めたのよりも後だ。
いつからか、書物の順番違いが減っていることに気付いた。
それからしばらくすると、俺は気に入りの窓際の席に座っていながら、自分で光の調節をすることがなくなった。
物を読んでいて、光や、音が気になって顔を上げると、その先にはいつも彼女がいた。
人より先に気づいて、人より先に対処する。俺以外の客はみな、読みふけるままでまだ気づいていない。
俺は、書を読む振りをして彼女を見ていた。
彼女は時々さぼっている。人が少なくなると、よく他の司書と立ち話を始める。
真面目な方じゃない。何かをし忘れたと言って、よく司書長に怒られている。
でも、お喋りに花を咲かせたり、整理する振りをして本を読み込んでいるときにも、俺が茶碗を置くとこちらに目を向ける。
どこがよかったのかと考え直すと答えにくいが、見慣れてくると、可愛い女だ。
田舎から出て、一人暮らしをしているらしい。牛蒡に凝って、昨日は掻き揚げにしようかと他の司書と話していた。親に見合いを勧められているが、まだ都での生活が楽しく、断っているらしい。
俺は彼女に声をかけない。
ずっと、実のない片思いをしていられるのは、神殿暮らしの特権だ。誰に結婚しろと言われることもない。
神の子は総じて結婚を禁じられているのだから。
俺が神の子じゃなければ。
そんなことはあり得ないが、神の子じゃなければ、こう何年も何もせず手をこまねくこともなかっただろう。
でも神の子じゃなければ、こんなに彼女を見続けることもなく、こんなに好きになることもなかっただろう。
俺は神の子である自分を気に入っている。
俺は神の子という地位は気に入っていても、神殿というものを気に入ることはできない。
彼女と幸せになる想像はできない。
神殿を抜け出し、女に養ってもらうのも、真っ平だと思っている。
だから、彼女と結ばれないのも、こうしてただ見ているだけなのも、自然なことなのだ。
ずっと、このままいられるのなら、それもいい。
決して負け惜しみなんかじゃないからな。
「閉館時間ですよ」
掛けられた声に、バッと頭を上げる。
彼女だ! 今日はいい日だ。
「ああ、失礼。今片付けるよ」
平静を装って読んでいた本を閉じ、読書机に平積みした二冊の本と一緒に持ち上げると、彼女が本に目を落とした。
「読んでいる最中でしたら、借りていきますか?」
今日貸出簿を作っていたでしょう、と加えて。
気づいていたのか。
俺を認識してくれていたのか。
感動で謎の液体が頭から吹き出しそうだ。いや、これは緊張による汗だ。
今日貸出簿を作ったのは貴女の後ろ姿を眺めたかったからだよ、とは言えない。
「借りていこうかな」
少しでも話をしてみたくて、捻り出した答えはそれだった。
一冊を抜き出して手渡すと、丁寧に両手で受け取ってくれた。
「承ります。カウンターまでどうぞ」
笑顔で誘導してくれる彼女の隣を歩いて、気を引ける言葉を考える。
「いつも本を読みやすくしてくれてるの、貴女だよね」
彼女がきょとんとした顔で振り向き、ついで「はあぁぁ」と声を上げて飛び上がる。
「あれは、その。その……」
ガードするように本を両手で持って真っ赤になるのが非常に愛らしい。
この反応はなんだ。期待していいやつじゃないのか。
やっぱり負け惜しみだった。
このままいつか結婚が決まって退職していく彼女を涙を飲んで見送るのは虚しすぎる!
「あれってもしかして、俺だってわかってやってくれてた?」
反応次第では、なーんて、と軽い男風に付け加える算段をしながら構いたてると、
「気づいてたんですかぁ」
と彼女が本を持つ手をすすすと上げて顔を隠した。
今後の人生について考えたのは一瞬だった。
「お礼させてくれないかな」
「お礼だなんて」
「外のベンチでその本読みながら待ってる。夕食ご一緒しましょう」
今から自分が貸し出し処理をする本と俺の顔を交互に見比べながら口をパクパクさせる彼女に、断る隙を与えないことを決めた。
嫌がる女はナンパ男のことをもっと生ゴミをつまむような目で見るものだ。
「仕事終えて出てくるまで返事は考えててくれていいから。はい、これ貸して」
彼女の慣れた作業だろう貸し出し処理をさせながら、俺は自分の強心臓っぷりに感謝した。
失敗したらもう二度とここに顔を出せない。
毎度の行き先が神殿併設の図書館である『ここ』であるから俺の自由な一人歩きは許されているのだ。俺にとって死活問題だ。
ドキドキしながらも面の皮を厚くして待つ俺に、彼女が本を差し出してきた。
「どうぞ。……輝久さん」
初めて彼女に呼ばれた名前に、耳が妙に熱い。
「どうも。じゃああとで」
しつこくならないようさらっとカウンターから離れたが、一連のやり取りが頭の中をぐるぐるする。
だめだ。全然平静になれない。
彼女は来てくれるだろうか。断られるだろうか。
いや、そんなことより予約がいらなくてデートに向いた店ってどこだ!
百面相しながら重い図書館の扉を開くと、夕焼け空と共に涼やかな風が気持ちよく吹いた。
なんにせよ、俺はもう動き出したんだ。
神から授かった特別な力を見出された日から過ごしてきた神殿の方角に目を向ける。
神殿のシルエットが夕日を背に浮かび上がって見える。
神の子と持て囃されてきた。
神殿政治に巻き込まれて師もいれば弟弟子もいる。
退屈だが不自由のない世界。
持った力を当たり前に振るうだけで感謝される環境。
思い返して、何も悪いことはなかった。けれど。
「転職しよ」
俺は固く決意し扉から手を離した。