やまびこかえし
「やっぱり、山の空気は違うよなぁ。新鮮っていうのかなぁ。こう、空気の質が違うっていうか。やっぱり良いもんだよなぁ。」
パパはそう言うと、テレビドラマのアットホームな父親がよくするような、大きな深呼吸をした。
さっきからこの調子だ。今日で何度目だろう。どうせこの後に、何度か僕の方をちらちらと覗き見て、僕と目が合うと、はにかみ混じりのぎこちない笑顔で、ああ言うに決まっている。
「なぁ、やっぱり山登りに来てみて正解だったろ。」
ほら、きた。
パパはどうやってでも、この山登りを正解にしたいらしい。馬鹿だよなぁ。正解も不正解もありえないのに。僕は小さくため息を吐いた。
僕のため息を勘違いしたのだろう、
「なんだ、なんだ。もう疲れちゃったのか。だらしないなぁ。剛は男の子なんだから、もっとしっかりしなくちゃいけないだろ。」
と、笑いながら、水筒の麦茶をおいしそうに飲んだ。
「男の子だからって、しっかりできるって保障はどこにもないよ。」
僕はそう言って、パパと同じように麦茶を飲んだ。 「いや、しっかりしなくちゃっていうのは、そういうことじゃなくて。しっかりっていうのは、何ていうのかな。頑張るっていうか。…ちがうな。一生懸命っていうか。いや、今のままで良いっていうか。いや、そうじゃなくて…。しっかりってことなんだよ。」
自分で言った言葉に気がついたのだろう、パパは慌てて言い直した。言い直しても、結局何も変わっていない。どれだけ慌てているのかなぁ。もしも、国語の作文のテストだったら、パパは完璧0点だろうなぁ。でも、パパのあの慌て様を見るかぎりでは、多分、僕みたいな人に『しっかりしなくちゃ』っていうのは絶対使っちゃいけない言葉なのかもしれない。
そんな事を思いながら、僕は麦茶を音をならして飲み込んだ。キンキンに冷えた麦茶は胸の辺りに、ストンと流れ込んだ。それがとっても気持ち良い。
もう一杯、この気持ち良さを味わおうと、水筒に手を伸ばすと、
「あんまり飲み過ぎて前みたいにお腹壊すなよ。あと、おねしょしちゃうかもしれないぞ。」
と、やんわりと注意された。
「もう、そこまで子供じゃないよ。」
そう言ってみたものの、お腹を壊すのは恐いから、麦茶を飲むのはもうやめた。おねしょなんて、もっと恐くて、恥ずかしい。
「そうだよなぁ、もう剛は小学3年生だもんなぁ。」
パパは当たり前のことを当たり前のようにつぶやいて、また深呼吸をした。来るぞ、あのお決まりフレーズ。
「なぁ、やっぱり山登り来てみて正解だったろ。」
ほら、やっぱり。
もしかしたら、ぼくには予知能力があるのかもしれない。そしたら、こんな現実なんか歩まなくてすむかも。そしたら、僕はもっとすごくて、かっこよくて、素敵で、すごい人間になれたのかもしれない。もしかしたら、雪ちゃんとも仲良くなれて、付き合えて、遊びに行ったりなんかしちゃって…。
「どうしたんだ、剛。さっきからニヤニヤしちゃって。」
パパにそう言われて、僕は慌てて笑みを隠した。
「別に。山登りって楽しいなぁーって。」
急に言ったわりには、ずいぶんと気の利いたことが言えた。パパにはこの言葉が嬉しいはずだ。
「だろ!やっぱりそうなんだよ。うん。山登りっていうのはさ、心が綺麗になるっていうか、人間的に成長できるっていうかさー。うん、そうなんだよ。素晴らしいんだよ。うん。やっぱり剛にも、そういうのが分かるんだよなぁ。パパ、それが分かってほしかったんだよ。なぁ、山登りっていいもんだろ。いやぁ、山登りって最高だなぁー。」
思っていた以上だった。やっぱりパパって単純だ。どうせこの山登りだって、パパが考えだしたことなんだ。ママに僕のことを相談されたときに、『よし!剛と二人で山登りをしよう!』と即効で決断したに決まっている。
本当にパパって、子どもっぽいんだから。今時の小学生のほうが、よっぽど大人だ。ちょっとは見習ってほしい。
「なぁ、剛。」
突然、パパがつぶやいた。今までとは、声が違う。パパの本気モードだ。
「なに?」
「一緒に、向こうの山に叫ばないか。」
「はぁ?」
いきなり何を言いだすんだろう。これが本気モードでいうこと?だったら、パパって本当に子ども。
「いや、だからさ、お腹の先から声を出してさ、思いっきり叫べばさ、なんか、こう、何かが変わる、いや、そんな簡単に変わりはしないんだけどさ、変わるきっかけになるというか、剛にとってプラスになると思うんだ。」
なるほど、そういうことか。やっぱりパパは全部、完璧に把握済みなんだ。これが今日のメインイベントなんだな。
「いいか。こうやって叫ぶんだ。パパがお手本見せるからな。」
そう言って、パパはおもむろに立ち上がって、回れ右をして、何度か深呼吸を繰り返して、叫んだ。
「うぉぉぉぉー!ハゲ課長、お前なんて大嫌いだぁー!!」
僕は、慌てて周りを見渡した。大丈夫。誰もいない。『うぉぉぉぉー!』なんて馬鹿みたいに叫ぶパパを誰かに見られたら、もう恥ずかしくて、僕は生きていけない。パパだって会社の誰かに見られたら、実際問題、生きていけない。本当にパパって旨く生きるのがヘタクソ。だから、僕だって…。 ちょっと遅れて、パパの叫び声が返ってきた。改めて聞くと、余計に恥ずかしい。本当に恥ずかしい。
「ふぅ。」
パパはため息を吐いた。とっても満足そうな顔をしている。『父親として息子に接しています』。顔を言葉に表すと、多分、いや絶対、そんな感じ。本当に、パパって馬鹿がつくほど単純なパパ。
「なぁ、こうやって思いっきり叫べば、気持ちがスゥーとするぞ。剛もやってみろよ。」 ほら、やっぱり。
絶対、パパって変な宗教に引っ掛かって、変な壺とかすぐ買わされそう。僕がパパのパパだったら、ちゃんとそういうところを教育するのに。
「ほら、立って立って。」
「い、いいよ。僕は。」
「何言ってるんだよ。気持ちがスゥーとするんだぞ。」
「だから、僕は大丈夫だから。」
「そうか。剛はちゃんとお手本見てなかったんだな。よし。パパがもう一回やってやるからな。」
「わ、分かったよ。今やるよ。」
もう!強引すぎるよ!本当に強引。もしかしたら、パパには壺を売り付ける側のほうがお似合いなのかもしれない。
僕は仕方なく立ち上がって、ゆっくりと回れ右をした。目の前には大きな山がそびえ立っていた。僕達が登った山よりもはるかに高い。
できればあっちの山を登りたかったなぁ。そんなことを考えてしまう僕は、もう山登りに、はまってしまったってことなのかなぁ。ってことは、パパの血を脈々と受け継いでるってこと?やだなぁ、そういうの。でも、やっぱり、そういうのって、ちょっぴり嬉しい。
大きく深呼吸をして、僕は声を出した。
「あー。」
自分でもびっくりするくらい小さな声だった。メジャーリーガーが投げるフォークみたいに、僕の声は向こうの山に届く前にカクンとどこかに落ちてしまった。
「だめだ、だめだ。そんな小さな声じゃ。もっと腹の底から声を出さなきゃ。」
すかさずパパからダメ出しがとんだ。
「さぁ、もう1回叫んでみろよ。」
僕はもう1回声を出してみた。
「あー。」
「ダメ、ダメ。もう1回。」
「あぁー。」
「全然ダメだ。ちゃんと朝ご飯食べてきたんだろ。」
もう。パパってば、学園ドラマの見すぎなんだってば。あんなのテレビだけの世界だよ。あんなことしただけで、今の僕の生活なんて、そう簡単に変わるもんか。
「あぁー。」
「ダメ。もう1回。」
「あぁぁー。」
「もう1回。」
「あー。」
「ほら、最初の頃に戻ってるぞ。自分の日頃の思いなんかも込めるんだ。さぁもう1回だ。」
もう、こうなりゃ、やけくそだ。もう、どうなったって、知るもんか。悪いのは僕じゃない。僕が悪いはずなんて、あるもんか。僕は大きく深呼吸をして、お腹の底から、有りったけの声で、パパへのちよっとの怒りも添えて、日頃の思いも全部注ぎ込んで、思いっきり、叫んだ。
「ウヴァァァー!!学校の皆なんて大っ嫌いだぁー!!」
パパよりも、もっと大きな声で、もっと高い声で、もっと怒りがこもった声だった。僕からこんな声が出たんだ。びっくりした。でも、びっくりするのはまだ早かった。
「ウァァー!何で僕ばっかりいじめるんだぁー!」
僕の言葉じゃない。違う。僕の言葉なんかじゃない。
いつも思っていたことだけど。いつも言いたかった言葉だけど。
でも、今、叫びたかったわけじゃない。山登りをして、麦茶を味わって、思いっきり叫べば解決する、そんな簡単な問題じゃないって分かっていたはずなのに、分かりきっていたはずなのに。いつも心の中に、そっと、しっかり、誰にも見られないように隠しておいたはずなのに。
「なんで僕ばっかりいじめるんだ!」
僕の言葉であって僕の言葉じゃない、悲しい言葉が、また僕の口から吐き出された。僕はそれをただただ聞くしかない。ちらっとパパのことを見た。パパは、笑ってるのか泣いているのか分からない顔をして、僕のことをじっと見ていた。
「なんで僕ばっかり殴るんだ!」
「なんで僕ばっかり蹴るんだ!」
顔が熱くなってきた。多分湯でダコみたいに真っ赤っかだろう。
喉も乾いてきた。麦茶が飲みたい。でも、言葉がそれを邪魔してしまう。
「なんで僕ばっかり笑うんだ!」
「なんで僕ばっかり掃除当番なんだ!」
「もう、いいから。」
パパは優しくそう言って、僕の肩に手を置いた。
なんだい。パパがやれって言ったんじゃないか。僕だって言いたくないよ、こんなダサくて、格好悪くて、恥ずかしくて、秘密にしていたことなんか。でも、どう口を閉じればいいのか分からないんだ。どうやったら声が止まるのか分からないんだ。だって、僕の言葉は今、暴走しているんだから。
「なんで僕の靴ばっかりなくなるんだ!」
「なんで僕の教科書ばっかり落書きされるんだ!」
「なんで僕の体操服ばっかりゴミ箱に捨てられるんだ!」
「なぁ、もうやめようか。なぁ。」
僕の肩に置いた手の握りが少し強くなった。
急に鼻がツンとした。わさびとは違うツンとした感じ。でもまだまだ、それでもまだまだ、僕の言葉は止まらない。
「なんで僕ばっかり陰口を言われるんだ!」
「なんで僕の机にばっかり『死ね』って書かれるんだ!」
「なんで、なんでだよぉー!!」
突然、パパに抱き締められた。
「もう、いいから。もうやめよう。なぁ。もう分かったから。もう、大丈夫だから。大丈夫だから。」
そう言って、パパは僕の背中をそっと撫でてくれた。
でもでも、それでも、僕の声はまだ止まらない。涙き声交じりの僕の声はまだ止まらない。
「なんで、先生は皆を叱ってくれないの?」
「なんで、ママは学校に何も言ってくれないの?」
「なんで、パパは何も言ってくれないの?」
「なんで…。なんで誰も助けてくれないの?」
「うぉぉぉぉー!!」
パパがいきなり叫んだ。
びっくりして、僕の声が、止まった。
パパはそっと僕の肩から手を離して、僕を睨んだ。
怒られる。
そう直感した。
だってパパの顔が、僕を怒るときの顔にそっくりだったから。この後は決まって、お説教。『男っていうのは…。』とか、『人生っていうのは…』とか、どっかのドラマからの受け売りみたいな事を言われる。それか、有無を言わさずのお尻ぺんぺん、またはゲンコツ。とにかく、この時のパパは、熱血の先生みたいで本当に恐い。パパって本当にテレビの見すぎ。
僕はビクッと体を丸めた。でもパパは、そんな僕を気にせず、くるっと回れ右をして、山を睨み付けて、何度か深呼吸をして、また叫んだ。
「うぉぉぉー!」
〔うぉぉぉー!〕
向こうの山から、パパの雄たけびが返ってきた。まるで向こうの山が叫んでいるみたい。
パパはやまびこを確認すると、大きく頷いて、また叫んだ。
「パパが、お前の事を絶対に守ってやるからなぁー!!」
〔パパが、お前の事を絶対に守ってやるからなぁー!!〕
本当にパパって単純。
「剛の『つよし』は強しのつよし!!」
〔剛の『つよし』は強しのつよし!!」
本当にパパってお子ちゃま。
「剛はクラスの誰よりも強いんだからなぁー!!」
〔剛はクラスの誰よりも強いんだからなぁー!!〕
本当ににパパって・・・。
パパは一呼吸置いて、僕をチラッと見つめて、そしてまた大きく深呼吸して、今日の中でも特別大きく、叫んだ。
「俺は剛のことが大好きだぁー!!!」
〔俺は剛のことが大好きだぁー!!!〕
またちょっぴり涙が出た。なんか、こんなんで泣くなんてガキみたいじゃん。パパのお茶目な子供っぽさに恥ずかしかったから。僕はそう自分に言い訳をした。
でも、それもあんまり意味がなかった。
だって振り返ったパパが泣いているんだもん。それも大号泣。ほんとにパパって子供で、大人で、単純で、すごくよく考えてて、怒りっぽくて、すごく優しい。
ちょっとだけ意地悪したくなっちゃった。そう思った僕は、ゆっくり立ち上がって、大きく深呼吸して、お腹の底から、本気で、叫んだ。
「僕もパパが大好きだぁー!!!」
返ってくるはずの山びこは、僕の耳には届かなかった。
だって僕とパパはぎゅっと抱き合って、二人して大きな声で泣いていたんだもん。
パパと僕って、本当に子どもなんだから。
俺は剛のことが大好きだぁー!!!
僕もパパが大好きだぁー!!!
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