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世界で一番近くて遠い恋  作者: 松風いずは
3/3

第三章




   「星。体調はどう?」

 優也はベッドの横のイスに座った。

 「うん。良いよ。三日前はどうなるかと思ったけど」

 星は右腕を差し出した。優也は差し出された手を優しく握った。

 三日前。いつものようにシュピエレンで過ごしていた所に星は発作を起こしてしまった。その場に居合わせた水原の適切な応急処置により何とか一命はとりとめたものの、すぐに退院できる訳もなく、とりあえず検査が終わるまでは入院することになっている。

 昨日までは家族以外は面会謝絶だったので、面会が許可された今日は優也はいの一番に駆けつけた。

 優也は目の前で発作を起こした星の姿を前に何も出来なかった自分を責めていた。もしあの時、水原がそばに居てくれなければと思うと背筋が凍った。

 星の発作を知らされたご両親が病院に駆けつけて自分にお礼を言ってくれたが、自分にはそんな資格はないと思った。一緒に病院まで付き添った水原も優也に優しい言葉を掛けてくれたが、星の苦しんだ表情を思い出す度に心が痛み、何も出来なかった自分をますます情けなく思った。

 「ごめんね」

 「何を謝ってるんだ?」

 「心配かけちゃって」

 「そんなこと。俺の方こそごめん。星が倒れた時、何も出来なくて」

 優也は握った手に力を込めた。今も星が倒れた時の恐怖は忘れられなかった。

 「そんなことないよ。優也くんの声が聞こえたから。苦しくても優也くんが私を呼んでくれたから頑張れたんだよ」

 「星‥‥‥」

 「でも‥‥‥」

 「でも?」

 「ううん。何でもないの」

 優也は星が何を言おうとしたのか追及したかったが、体調を慮ってそれ以上は聞かなかった。

 「そう言えば、水原さん来ないかな?ちゃんとお礼をしたいのに」

 「今日から面会出来ることは電話で伝えておいたけど、いつ来るとは言ってなかったよ」

 「そう。お父さんとお母さんが代わりにお礼を言いに行くって言ってたけど、やっぱり自分の言葉できちんと伝えたい」

 「そうだね。俺も改めてお礼を言いたいから来てくれたら嬉しいんだけど」

 「あー早く退院して水原さんの淹れたレモンティー飲みたいな」

 「そうだね」

 「それにしても、水原さんは何者なんだろうね。高科先生が驚いてた。こんな完璧な応急処置は見たことないって」

 水原が何者なのか優也も日頃から疑問に思っていた。だが、今回の応急処置の手際と星から聞いた水原の過去を照らし合わせてある仮説を立てた。そしてこの仮説は恐らく当たっているだろうと思っていた。その事を星に話そうとした時、病室の扉をノックする音が聞こえた。二人は顔を見合わせた。

 「はい。どうぞ」

 星が答える。

 「お邪魔するよ」

 軽快な口調と共に入ってきたのは水原だった。

 「水原さん」

 星と優也は同時に名前を呼んだ。

 「星ちゃん。お見舞いに来たよ。体調の方はどう?」

 水原はベッドの近くに寄って、優しい笑顔で聞いた。

 「あ、今は元気です」

 「そうよかった。優也くんもかなり心配してたからね」

 優也の方にチラッと視線を向けた。

 「水原さん。今回は本当にありがとうございました」

 星は深く頭を下げた。優也は立ち上がり一緒に頭を下げた。

 「いや、よしてくれよ。当然のことをしたまでだよ。そんなにかしこまれちゃうと照れるな」

 水原は後頭部を掻いた。

 「でも、水原さんの応急処置のお陰だと先生も言ってました」

 「大袈裟なんだから。僕も無我夢中だったから、どんな処置をしたか覚えてないんだけどね」

 優也は自分の出した推測をぶつけようと思ったが、またしても扉がノックされた。

 「どうぞ」

 星が答える。

 扉を開けて入ってきたのは担当医の高科だった。

 「星ちゃん検査の‥‥‥」

 そこまで言いかけて来客の顔を見た途端、高科の動きが止まった。そこには驚きと困惑に満ちた表情が浮かんでいた。

 「おっと、僕はこれで失礼するよ。星ちゃんが元気そうで良かった。治ったら、また店に顔を出してね」

 そう言うやいなや水原は足早に病室を去っていた。高科は最後まで水原から視線を外さなかった。

 「先生?どうかしたんですか?」

 星が話しかける。

 「あ、いや。何でもない。それで検査結果のことなんだけど‥‥‥」

 優也は二人の間に漂った微妙な空気の正体を察していた。

 

 自販機で飲み物を買い一口飲んで適当な椅子に腰を降ろした。先ほどの検査結果を聞いたときから優也の心には暗い影を落としていた。検査の結果、今回の発作によって心臓に大きな負担が掛かってしまい当分の入院生活を余儀なくされてしまった。星はどこか諦めたような表情で頷き少し一人にさせてほしいとだけ言った。本当は側に居てあげたかったが、今の自分が何を言っても虚しいだけだと思い病室を後にした。そのまま帰っても良かったのだが、もしかしたら星に呼ばれるかもしれないと思い、面会時間が終わるまでは病院内に残ることにした。適当に院内を回っていると循環器外科の診察室の前に辿り着いた。星の担当医である高科はこの循環器外科だった事を思い出した。扉に備え付けられた小さな札は休診となっていた。休憩中なのだろうかと思って、そのまま通りすぎようとしたら星の名前が聞こえた。優也は慌てて足を止めて聞き耳を立てた。

 「まさかあなただったとは思いもしませんでした。水原先生」

 「先生は止めてくれ。今はもう医者じゃない」

 優也は思わず声をあげそうになった。そして、自分の推測が当たっていたことに対して一種の興奮を覚えた。こんな所を誰かに見られたらと気になったが、それでも話しの内容の方が気になった。

 「聞いた所によりますと、カフェを営んでらっしゃるそうですね」

 「そうだ。悠々自適で楽しいよ。今度、君も来てくれよ」

 「どうして先生ほどの医者がカフェを開くことにしたんですか?」

 「君には関係ないことだろ。それにしても、よく僕の事を知っていたね」

 「この循環器外科の人間で水原栄治の名前を知らない者はいません。ましてや、僕はあなたの後輩です」

 「てことは、君も帝一の出身なのか」

 「はい」

 帝一とは京帝第一病院のことで、要は国内でトップの病院であった。限られた医者にしか入ることは許されず帝一出身と言うだけで、大体の医者からは畏れられる存在だった。ただし、一度外に弾き飛ばされた者は二度と戻ることは許されない。

 「君の方こそどうして帝一捨てた?あそこにいれば一生安泰じゃないか」

 「純粋な医者では生きられません」

 国内の病院でトップと言うことはそれだけしがらみも強い。もちろん優秀な医者も存在するが、やはりと言うか権力欲に飢えた者が権棒術数の限りを尽くすこともままある。いわゆる、高科のような実力はあっても、患者目線の優しい医者では生きづらさが蔓延る場所でもあった。

 「純粋な医者ね。それで君は帝一ブランドを投げ捨て田舎の病院に来たと言う訳か」

 「自分の選んだ道が間違ったとは思ってません」

 「僕は別に君の生き方に文句をつけるつもりは一切ないから安心してくれ。ただ、気になるのは何故この病院を選んだんだ?」

 「分かりません」

 「そうか」

 「先生こそ何故?」

 水原は一拍置いて答えた。

 「分からない。でも‥‥‥」

 「でも?」

 「もしかしたら、星ちゃんと出会うためにここへ導かれたのかもしれない」

 星の名前が出てきて優也の鼓動は更に速くなった。

 「似てるんですね?」

 「知っているのか?」

 「帝一時代に噂で聞いたことがあります。水原栄治は最愛の女性の手術を失敗したがために医者を止めたと」

 「その噂はほぼ正確だね。ただし、手術は失敗してない。何故なら、受けさせられなかったから」

 「そうでしたか。辛い過去を持ち出してしまって申し訳ありません」

 高科は頭を下げた。

 「いや、良いんだ。それより星ちゃんの病状はどうなんだ?」

 高科は唇を噛んだまま押し黙った。

 「そうか」

 水原は高科の態度で星の病状の重さを悟った。

 「先生はもう医者へは戻らないのですか?」

 「僕にはもうメスを持つ資格はないよ。もっとも、大切な人を救えなかったからね」

 「星ちゃんを自らの手で救おうとは思わないんですか?」

 「星ちゃんは君の患者だ。僕がどうこう言う問題ではないし、君が治すんだ」

 「医者として愚かな事を考えてるとは分かっていますが、何故よりによって星ちゃんのような子ばかりが難病にかかってしまうのだろうって思ってしまいます」

 「優しいから病気にかかったのではなくて、病気にかかったからあんなにも優しくなれたのかもしれない。だからこそ、医者はその命を救わなければならない。その優しい心がこの世界から消えてしまわないように」

 「そうですね。さすがに、水原さんです。今の言葉肝に命じます」

 「止めてくれって。君は僕より遥かに良い医者になれる。期待してるよ」

 「ありがとうございます」

 高科は立ち上がって深くお辞儀をした。

 「さて、僕はもう帰るよ。今度、息抜きにでも店に遊びに来てくれ。あの可愛いナースと一緒に」

 水原はウインクした。

 「止めてください。彼女はそんなんじゃありませんから」

 水原は笑い、扉を開けて診察室を出た。廊下の角を急いで曲がる影が見えた。見覚えのある影だった。

 「聞かれてしまったかな」

 水原は一人呟いたが、その顔にはどこか満足感があった。

 

 急いで病院の中庭に来たため息が乱れていた。深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。今しがた聞いてしまった話しは衝撃的であり、そして優也の推測が見事に当たっていたことを証明していた。自らの口から聞くことは出来たが、カンニングしてしまったみたいで今更ながら盗み聞きをしたことを恥じてきた。水原が医者であることに驚きは無かったが、まさか伝説の医者のような扱いをされてることには驚いた。名医であることは何となく思っていたが、高科の敬意溢れる発言で本当に凄い医者であったことはヒシヒシと伝わってきた。本来なら黙ってるべきなのだろうか、一刻も早くこの事実を星にも教えてやりたいと思った。ただ、水原の悲しい過去については黙ってるつもりだった。そんな話しをすれば星は傷付いてしまうだろうし、水原も良い顔はしないだろう。優也は来た道を戻り星の病室へと向かった。

 病室の前につき扉をノックした。しかし、返事は無かった。嫌な予感にとらわれた優也は扉を開けて病室に入った。ベッドの回りには水色のカーテンが引かれて星の姿を隠していた。優也はそっと近付きカーテンを可能な限りゆっくり静かに避けた。

 星は穏やかな寝息を立てて眠っていた。優也は胸を撫で下ろし星の寝顔を見つめた。頬には明らかに涙の跡と思われる筋が出来ていた。そして、瞳にはまだ溢れきっていない涙が瞳の端を濡らしていた。優也は親指で涙を優しく拭った。一人で泣いていたことを思うと、優也の胸に鋭い痛みが走った。

 「星」

 声にならない声で名前を呼んだ。星は規則正しい呼吸を繰り返すのみだった。優也は何かに誘われるかのようにそっと顔を近付けた。そして、無防備な唇にキスをした。何故キスをしたのか自分でも分からない。星は変わらず眠ったままだった。おとぎ話しのように王子のキスで目覚めることはなかった。優也はカバンから銀河鉄道の夜を取りだし備え付けの机に置いた。そして、カーテンを閉めて静かにその場を去った。

 「優也くん‥‥‥」

 星は寝言を呟いた。

 「優也くん‥‥‥ダメ。いかないで」

 「どうして」

 その一言と共に星の瞳から一筋の涙が頬を伝った。


 目を覚ました星は一瞬ここがどこだが分からなかった。ゆっくりと周囲を見回してここが病室であることを思い出した。とても鮮明な夢を見ていたはずなのにその一切を覚えていなかった。それなのに、果てしないどこかに旅をしていた気分だった。とても気持ちよくどうして覚めてしまったのだろうと恨めしく思った。ふと、唇に妙な感覚を覚えた。何かに触れたような感じがした。だが、不思議と嫌ではなかった。むしろ、心地よく優也とキスをしたあの夜を思い出した。

 机の上に置かれている本が目に入った。星は手に取りその本が自分が優也に貸した銀河鉄道の夜であったことに気付いた。恐らく、優也は一度病室に戻って来てくれたのだろうと分かった。ここ最近の不眠と泣き疲れによって熟睡してしまった事を申し訳なく思った。それに優也に寝顔を見られたと思うと、急に恥ずかしくなった。

 星は気を紛らすかのように銀河鉄道の夜をパラパラとめくり、ジョバンニが丘の上で眠ってしまう場面でページを止めた。星の脳内にあの夜の星空が鮮やかに映し出された。あの夜から一ヶ月が経とうとしてるのに、何度思い返しても美しく色褪せることはない。この先幾千の夜を越えたとしても、あの日の夜に勝る星空は見られないと半ば本気で信じていた。もっとも、今は明日の夜でさえ迎えられるのか分からない。せっかく、夢を見つけ愛する人と一緒になれたと言うのに、病魔は容赦なくその未来を断たんとその鼓動を止めようとしている。いつまで持つんだろう。ドナーが見つかるまでに生きていられるだろうか。発作で入院ならまたかと言う気持ちなったかもしれない。しかし、遂に優也の前で倒れてしまった。そのことが星の心に影を落としていた。優也や陽香に後何回会えるだろうと数えてしまう。その度に、怖くなり涙が止まらなかった。今日、高科が検査結果を言いにきた時に、自分の命が外で健気に鳴いてる秋の虫のように時間が無いことを悟った。高科は態度を気を付けていたようだが、普段の快活さは薄れ何か言いにくい事を我慢してることは星の目には明白だった。二人の前では強がって泣かなかったが、独りになった途端に止めどなく涙が溢れた。本当は優也に側に居てもらいたかった。何故、あのとき側に居てと言えなかったのだろう。優也に甘えたかった。思いっきり自らの運命を呪って彼にすがりたかった。けど、そうした所で何も解決はしない。それでも、自分が生きたいと願う

一滴の涙が手に持っていた本に落ちた。星は慌てて濡れた箇所を袖で拭いた。涙で濡れた箇所の"銀河ステーション"の文字が濃く写し出された。星は思わずその先を読み始めた。銀河鉄道の汽車がジョバンニの間の前に出現する描写が書かれていた。優也と出会う前までは本気で乗りたいと信じていた汽車。生きる価値を知らず生きることを知らずに諦めていた自分自身を思い出した。

 再び止めどなく涙が溢れた。ここ最近は一度溢れだした涙が止められなくなった。膝を抱えてその間に顔を埋める。嗚咽がこぼれる。

 「優也くん。会いたいよ」

 星の願いは無情にも届かず、夜はただ更けていくだけだった。


 「新生。大丈夫か」

 守川和樹が優也の肩を小突いた。

 「ん?あ、ああ」

 「今の話し聞いてたか?」

 「いや、悪い。聞いてなかった」

 「全く。まぁ、しょうがねぇか。今は修学旅行所じゃないもんな」

 優也が通う令羽高校は間もなく修学旅行を控えていた。場所は沖縄だ。県下一の秀才高校でも修学旅行には他の高校生と変わらずテンションが最も上がる数少ない行事である。しかし、優也のテンションは周りのテンションと反比例して低かった。守川の言う通り星が入院してる現在何を修学旅行に集中できるだろうかと思ったいた。今の班でどこに出掛ける話しも上の空で星のことしか考えていなかった。

 「こっちで勝手に決めちまうけど良いよな?」

 「ああ」

 「現地に行って文句言うなよ」

 「言わないよ。好きに決めてくれ」

 「じゃ、好きなこと考えてろ」

 「どうも」

 優也は完全に話し合いから外れた。他の班のメンバーは優也の態度を変に思ってたが、特に触れたりはしなかった。

 話し合いから外れた優也は周囲を冷めた目で見ていた。星が入院して苦しんでると言うのに、何を修学旅行で楽しめと言うのか。星の通っている高校も修学旅行の時期なはずだが、星は行けない。それなのに自分だけ楽しめるはずもないし、沖縄に行ってる間に何か事態が起きれば間違いなく沖縄から帰還するつもりだ。もし、星が行ってほしくないと言えば喜んで星の側に居るつもりだった。ただ、星がそんなことを言うわけないことは分かっていた。人の楽しみを奪うような考えは決して持たないからだ。

 無用と思われる時間だけが過ぎていく。早く病院に行って星に会いたい。今はそれ以外の時間が無駄とすら思えた。一刻も早く学校が終わってほしいのに、黒板の上にかけられている時計は何かに縛られたかのように遅く思える。

 退屈な授業を終えた優也は部活もサボって病院に向かった。病院の入り口で陽香が待っていた。

 「陽香」

 優也が声をかけると、陽香は顔をあげた。

 「優也。今、LINE送ったんだけど見てない?」

 「何かあったのか?」

 「うん。ちょっと二人に話しておきたいことがあって」

 そう話す陽香にはいつもの明るさが影を潜めていた。

 「話しって?」

 「それは星の病室に着いてから話したいから」

 優也は陽香の態度を妙に思ったが、とりあえず病室に向かうことにした。

 病室の前に着くと、扉に入室禁止の張り紙があった。

 「どうして?」

 陽香が声を出した。優也も同じ事を思った。何かあったのだろうか。嫌な予感が頭を駆け巡る。

 「陽香ちゃんと新生くん?」

 二人は同時に振り向いた。そこには星の母親の里美が立っていた。

 「おばさん。こんにちは」

 陽香が挨拶をした。優也もそれに続いた。

 「こんにちは。今日もお見舞いに来てくれたのね?」

 「はい。でも、入れなくて」

 陽香が張り紙を指差した。すると、里美の顔が曇った。

 「実は、ついさっき発作を起こしちゃったみたいなの」

 「そんな」

 優也はショックを受けた。

 「星さんは大丈夫なんですか?」

 「高科先生はきっと大丈夫だとは言ってくれたけど」

 里美も心配そうな声を出した。

 中から高科の声が時折聞こえるが、何を言ってるのかは分からない。優也も陽香と立っていることが出来ずベンチに座った。今は星の無事を祈る他なかった。

 病室の扉が開き高科と倉本美咲が出てきた。三人は立ち上がり質問を浴びせた。

 「先生。星は大丈夫なんですか?」

 「会っても良いですか?」

 「まぁまぁ、とりあえず落ち着いて。まずは親御さんに説明しなきゃいけないから君達はまだここで待ってなさい」

 高科は苦笑いをしながら二人をなだめた。

 「はい」

 「では、お母さん。中へどうぞ」

 里美は頭を下げて病室に入った。

 10分程経過すると、高科が一人で出てきた。

 「ごめん。お待たせ」

 「星は大丈夫なんですか?」

 「今回の発作は特に命に関わる程では無かったから安心して大丈夫」

 優也と陽香は顔を見合わせてホッとした顔つきをした。

 「ただ、油断は出来ない。ここから発作の感覚がどんどん短くなっていくこともあり得るからね」

 優也は拳を握り締めた。

 「先生。会ってはダメですか?」

 陽香がもう一度聞く。

 「会いたい気持ちは分かる。けど、今日はご家族以外は安静にさせてあげてほしい」

 「分かりました。ありがとうございました」

 優也は頭を下げた。

 高科は優也の肩を優しく叩き、その場を後にした。

 星に会うことが叶わなかった二人は終始無言のまま帰宅の途についた。

 家が近い二人は自然と同じ道を帰る。鮮やかな夕日が二人の背中を照らしてた。

 「何かこうして一緒に帰るのも久しぶりな気がするね」

 陽香が徐に口を開いた。

 「そうだな」

 確かに星と付き合ってから、陽香と一緒に帰った記憶がない。三人で遊ぶことがあっても、陽香は先に帰り優也は少し残ってから帰ると言う構図になってしまった。悪気は無いとはいえ、気を使わせてることを申し訳なく思った。

 「ごめん」

 「何で謝るのよ。別に責めてる訳じゃないよ」

 「陽香を蔑ろにしてるつもりはないんだけど」

 「止めてよ。そりゃ少しは寂しいなって思ったこともあったけど、二人が幸せそうな姿を見るのは好きだし、何より星のことを思ったら、側に居てあげるのが当然よね」

 「ありがとう」

 陽香の優しさに今更ながら胸が打たれた。

 「そう言えば、話しってなんのことだったんだ?」

 優也が思い出したように言った。

 「ああ。今日は良いの。さっきも言ったけど、星も居る時に話したいから」

 明らかに陽香の声のトーンが下がってるので、決して良い話しではないことを悟った。

 「そうか。なら、今は何も聞かないよ」

 「ありがとう」

 「ねぇ、優也。星の誕生日知ってる?」

 重たい空気を振り払うように陽香は明るい声を出した。陽香のそんな声を聞いたら不思議と優也の気持ちも明るくなった。

 「そう言えば、知らないな」

 「やっぱり。星のやつわざと黙ってたな」

 「いつなの?」

 「明後日よ」

 「え?ほんと?」

 「嘘なんてつかないわよ。どうするの?」

 「そんな急に言われても‥‥‥」

 「じゃぁ、急いでプレゼント考えなさい」

 「何が良いかな?」

 「私に聞くのは無し。それじゃ意味ないでしょ」

 「誕生日か。星はどう思ってるかな」

 「どうって」

 「今の状況を考えたら、素直に喜べないような気がする。もしかしたら、最後の誕生日になるかもしれないって考えたりして思い詰めてるかもしれない。そんな中で祝うなんて迷惑じゃないかなって思ってしまう」

 「そうね。でも、それがなんなの?」

 陽香の口調はいつになくキツい。

 「そりゃ星はそう考えるに決まってるじゃない。だからこそ、優也は星を喜ばせる為に動かないと。星だって大好きな優也に誰よりも祝ってもらいたいって思ってるに決まってる。不安や恐怖と闘ってるからこそ、優也が幸せにしてあげるのよ。例え、最後の誕生日だとしても星にとって永遠に忘れられない想い出をつくってやるくらい言ってみなさいよ。何のために星の側に居るって決めたのよ。そんなしょうもない弱音を吐くなら今すぐ別れて。あんたみたいな男に星を幸せにすることなんて出来やしないわ」

 「陽香‥‥‥」

 「ちょっと、言い過ぎたけど、私はそう思うよ」

 「そうだな。陽香の言う通りだ。俺が間違ってた。ありがとう」

 「今優也が出来ることを考えて祝ってあげなさい。絶対に喜んでくれるはずよ。星は人の細やかな努力もきちんと見ててくれる優しい人だから」

 「ああ。そうだな。帰って早速考えてみる」

 「まぁ、頑張りなさい」

 「それにしても、綺麗な夕日だな」

 優也は眩しそうに夕日を眺めた。

 「あの時と一緒だ」

 「あの時?」

 「星が優也とデートする前日に夕日を見たのよ。ほら、小学生の頃見つけた場所あるでしょ?あそこに連れていってナーバスになってた星を元気付けたの」

 「そんなことがあったのか」

 優也は笑った。

 「感謝しなさい。この夕日と私が居なかったらあなたたちは出会ってなかったのよ」

 「一生忘れないよ。星もそう思ってる」

 「冗談で言ったのに、何か照れるじゃない」

 「星はあの場所からこの夕日を見てるかな」

 「きっと見てるよ。星は強いもの」

 そうだ。星は誰よりも強い。今もこの夕日を眺めて病気を治すと強く願ってるはずだ。その願いはいつ叶うか分からない。誰が叶えてくれるかも分からない。もしかしたら、叶わないかもしれない。それでも、僕は星を愛し続けるはずだ。

 ふと、横を見ると陽香の頬に涙が伝わっていた。優也にはその涙が何を意味するのかは知る由も無かった。二人は夕日が沈むのをずっと眺めていた。


 静寂に包まれた病室。星は眠れない夜を過ごしていた。窓を少しだけ開けていつものように秋の虫達によるコンサートに耳を傾けていた。時折吹く冷たい風がもうじき冬を連れてくることを感じさせる夜だった。眠れない理由はただ一つ。間もなく星は誕生日を迎える。しかし、独りぼっちの誕生日だ。明日になれば優也達がお見舞いに来てくれるはずだ。それでも、大部分の時間はこの冷えきった病室で過ごすことなる。初めて優也と誕生日を迎えることを楽しみにしていた。誕生日は伝えて無かったけど、本当は出掛ける約束をして優也と過ごしたかった。誕生日を伝えなかったのはプレゼントをねだってるみたいで伝えづらかったからだ。だから、優也と会うことがプレゼントとすることにした。他のカップルから信じられないようなプレゼントかもしれないが、今の自分には優也と過ごす時間こそ何よりも欲しいものだった。形通りのプレゼントなんて要らない。優也の声、手、笑顔、優しさその全てが愛しかった。しかし、現実は病室で独りぼっち。明日になれば会える。けど、誕生日おめでとうと言われても素直に喜べる自分が想像できない。これが最後の誕生日だと考えると、祝うことに意味があるのかと思ってしまう。高科先生や美咲さんはおめでとうと言ってくれるだろう。でも、自分は笑顔で受け取れるだろうか。時計は0時一分前を指していた。星はじっと針を見つめる。カチ。カチ。少しずつゴールであり始まるでもある12に近付いていく。星は心の中で数を数え始めた。

 3、2、1、0。遂に0時を回った。星は17才を迎えた。スマホも無いので、誰かから誕生日LINEが来ても知ることはできない。ただの今日が始まるとしか思えなかった。起きたら少しは気持ちが晴れてれば良いけど。

 「Happy Birthday。独りぼっちの私」

 一層寂しさが増し、呟いたことを後悔した。星は窓を閉めてふて寝するかのように布団に潜った。

 その途端、扉をノックする音が聞こえた。星は驚いて体が固まってしまった。空耳だろうか。耳を済ます。すると、小さくコンコンと鳴った。不審者?一瞬恐怖が体中を駆け巡った。ナースコールに手を伸ばしかけた。しかし、不審者が律儀にノックなどするだろうかと思い手を引っ込めた。星は静かにベッドから降りて忍び足で扉に近付いた。

 「誰?」

 声が少し震えた。星の心臓は緊張で鼓動が早まっている。

 「僕だよ」

 星の全身に衝撃が走った。

 「ゆ、優也くん?」

 更に声が震えた。何が何だが全く理解できなかった。何故、こんな夜中に優也が扉の向こうにいるのか。それとも、誰かの質の悪いイタズラかと思った。

 「そうだよ。鍵を開けてくれないか?君に会いにきたんだ」

 星は震える手で鍵を開けて扉をスライドさせた。そこには紛れもなく本物の優也が立っていた。会いたくて会いたくてたまらなかった優也が目の前に立っていた。

 「どうして?」

 それだけ言うのが精一杯だった。心臓の早鐘が止まらない。でも、不思議と不安にはならなかった。

 「ごめん。こんな夜中に会いにきて。びっくりしたよね?」

 「びっくりって言うか、何が起こってるのかまだ理解できてないみたい」

 「とりあえず、中へ入って良いかい?説明するから」

 「うん」

 星は脇に避けた。優也が病室に入った。扉を閉めて二人はベッドの元へいく。星はベッドに腰掛け優也は立ったままだった。

 「さて、何から説明しようかな。まずはここへ来た理由を言おうか」

 優也は軽く咳払いをした。

 「星の誕生日を祝うために来た」

 星は虚をつかれ返事が出来なかった。少しの間を置いてようやく返した。

 「私の誕生日を祝うため?」

 「そう。星に会って誕生日を祝いたかった」

 「そうだとしても、何でこんな夜中に?そもそも、どうやって来たの?こんな時間に病院に入れないのに」

 「もちろん、許可を取ったよ。先生とそして星のご両親にも」

 「嘘‥‥‥」

 あのパパが許可をするとは思えなかった。

 「当然、君のお父さんは難色を示したけど、陽香が一緒になって説得してくれた」

 「でも、なんで?どうして私の誕生日を知ってたの?」

 「一昨日、星が発作を起こした時に陽香と病院で会ったんだ。そして、その帰りに教えてもらった」

 「それで夜中に来ようって思ったの?」

 「夜中に来たのは星に話したいことがあって、その話しは夜じゃなきゃダメだから。それに星に会いたかった」

 「優也くん」

 夢にも思ってなかった展開で星の気持ちが追いてなかったが、徐々に幸せが込み上げてきた。

 「ごめん。やっぱり、強引すぎたかな」

 「ううん違うの。あまりにも驚いて反応が出来なかったの。でも、今は凄い嬉しい。まるでアラジンのジャスミンになったような気分」

 星はディズニー好きと言う訳ではなかったが、アラジンだけは大好きだった。アラジンとジャスミンが魔法の絨毯で夜の世界を旅するシーンが星のお気に入りだった。恐らく、どこか銀河鉄道の夜のジョバンニとカムネパルラが銀河を旅するシーンに重ねていたのかもしれない。

 「僕はアラジン?」

 「うん。魔法の絨毯はないの?」

 「ごめん。魔法の絨毯は持ってないんだ。でも、君を外に連れ出しに来た」

 「え?」

 「今から星を見に行こう」

 「でも、大丈夫なの?」

 「大丈夫。僕を信じて」

 優也は手を差し出した。

 「うん」

 星は優也の手を握った。

 

 病院の屋上にやって来た二人は果てしない星空に目を奪われていた。丘の上で見た星空とはまた違う美しさだった。丘の上は周りが木に囲まれていたこともあり、星空が凝縮されていたが、ここは360度全てに星空が見渡せた。

 「星。寒くないか」

 「うん。平気」

 優也と居ると寒さすらも忘れてしまう。

 「綺麗だね」

 「うん」

 ほんとに美しい星空だ。何度も見ても飽きない。病室の窓から眺めるだけでも十分綺麗だと思っていたのに、こうして屋上から眺める星空は別格だった。それとも、優也と一緒に見るから更に輝いて見えるのだろうか。

 「不思議だな」

 「何が不思議なの?」

 「こうして、二人で見てるとこの星空を見てるのは自分達なだけに思えるのに、星はどこからでも見えるから不思議だなって」

 言われてみればそうだ。一人占めしてるように思えるが、日本ならどこでも見えるのだ。いや、日本だけではなく世界中で見ることが出来る。空気の汚れのせいで見えなくても、その先で常に輝いてる。

 「星はどの星が一番好き?」

 星は返答に困った。そんなことを考えたことも無かった。特に思い入れのある星があるわけではない。星単体と言うより広い意味で星空が好きだった。

 「決められない」

 「決められない?」

 「私は星空が好きなの。全ての星がこの星空を創ってるって思うと、どれが素敵でとかじゃなくてどれも素敵でこの美しい星空を創るために存在してるんだって。だから、一つの星を好きって決められない。明るく輝く星も微かに瞬く星も全部好きなの。ダメかな?」

 優也は少し呆気にとられたが、すぐに笑った。

 「ううん。素敵な答えだ。そっか。全部好きか。そう言われると、星達も輝き甲斐があるってものだね」

 「優也くんは好きな星はあるの?」

 「あるよ」

 「どれ?」

 「今、僕の隣にいる」

 「ま、真面目に答えてよ」

 星は顔を伏せたが悪い気はしなかった。熱くなった頬に冷たい風が心地よかった。

 「真面目だよ。僕が世界一好きな星は君だ」

 「でも、その星はもうすぐ輝きを失っちゃうよ」

 「失わないさ。僕の中でずっと輝き続ける」

 「いいの。色褪せても。優也くんには新しい星を探してほしい。私のような淡い光じゃなくて、誰よりも光輝く星が見つかるよ」

 「例え、君がいなくなってしまっても僕は君に恋をし続ける」

 「やめて。そんな人生を縛るような真似。死んだら終わりだから、優也くんが誰かを好きになっても恨んだりしないよ」

 「違う。死んで終わりなんてことはない。僕は君と恋をしていたい。例え、世界で一番遠い遠距離恋愛になろうとも」

 「優也くん‥‥‥」

 星の切ない瞳が優也の目を捉える。

 「この星空に誓うよ。僕は君を想い続ける。この地球から君に愛を捧げよう。世界で一番遠い遠距離恋愛でも構わない。それでも、僕は星と共にいたい」

 ついに耐えきれなくなった瞳からは溢れんばかりの涙が流星群のように星の頬を伝った。優也は星を優しく抱き締めた。あの夜も泣いた。でも、今日の涙はあの夜とは違う涙だった。溢れでる涙と裏腹に星の心には深い愛情が生まれていく。決して、色褪せることのない愛情が二人の間に生まれた瞬間だった。

 目一杯泣いた後の星空は更に輝いて見えた。そして、こんな素敵な人を贈ってくれた神様にお礼を言いたくなった。最高の誕生日。永遠に忘れられない誕生日。星は今の自分の幸せを噛み締めた。

 「優也くん」

 「うん?」

 星は優也の唇に自分の唇を重ねた。優也は目を見開いた。

 「今日のお礼」

 優也はニッコリ笑って手を差し出した。

 「さぁ、戻ろうか」

 星はさっきよりも強くその手を握った。


 昼食を食べ終えて勉強をしていたら、倉本美咲が病室を訪ねてきた。

 「星ちゃん。誕生日おめでとう」

 星に会うやいなや可愛い笑顔を見せて祝った。

 「ありがとうございます。美咲さんお仕事は?」

 「今はお昼休憩よ」

 「そんな。わざわざ来てくれるなんて」

 「気にしないで。星ちゃんともお喋りしたかったし。あら、勉強してるの?」

 「はい、一応」

 「偉いなー。私だったらYouTubeばっかり見ちゃうのに」

 「私も本当はそうゆうの見たいんですけど、パパに怒られちゃうから」

 「それでも偉いよ。あら?その袋はなぁに?」

 広げたノートの横には丁寧に包まれた薄い紙袋が置いてあった。

 「あ、これは、その‥‥‥」

 星はしどろもどろになった。実は優也からの誕生日プレゼントだった。

 「あ、照れてる。可愛い」

 星の初々しい反応で分かったのか、美咲は星を少しからかうように言った。

 「照れてません」

 そう言う顔は真っ赤だった。

 「中身はなんだったの?」

 「本です」

 「本?」

 美咲は目を丸くした。

 「はい」

 「何の本?」

 「星空の写真集です」

 帰り際に優也がくれたのは世界の星空の写真集だった。魔法の絨毯で見せてあげることは出来ないけど、せめて、この本で世界の星空を旅してほしいと言ってくれた。中身はまだ開けずにいた。夜になったら開けて時間を掛けて人ページずつじっくり見るつもりだった。

 「へぇー。素敵。星ちゃんにピッタリだね。良かったね」

 「はい」

 星は笑顔で答える。

 「良いなぁ、好きな人からのプレゼント」

 美咲は遠くを見つめるような表情をした。

 星は美咲の恋模様を聞きたくなった。今までは年上のお姉さんにそうゆうことを聞くのは失礼だと思って遠慮していた。

 「美咲さんは、その、恋人とか居ないんですか?」

 「居ないよ」

 「そんな。美咲さんとても綺麗なのに」

 「ありがとう。でも、縁がないみたい」

 「でも、美咲さんはモテると聞いたことがあります」

 「うーん。それは私には判断できないかな」

 美咲は笑いながら言った。

 完全に否定はしないので、恐らく告白されることはあったはずだと思った。

 「まぁ、縁がないと言うより、縁をスルーしちゃってる方が正しいかな」

 大分、遠回しな言い方ではあったが、星には美咲の言わんとしてることを何故か理解出来た。

 「それってつまり、好きな人がいるってことですか?」

 「そうねぇ、気になる存在ではあるかな。放っては置けないと言うか」

 「上手くいくといいですね」

 美咲の気になる存在が誰なのか気になったが、これ以上は失礼な気がして控えた。

 「うふふ。ありがとう。そんなわけで今日は星ちゃんの幸せを分けにきてもらいに来ました」

 二人がじゃれあってるとノックが聞こえた。

 「はい」

 扉を開けると高科が入ってきた。美咲を見ると目を丸くさせた。

 「倉本君。ここで何をしてるんだい?」

 「休憩です。先生はどうされたんですか?」

 「僕は出勤したから、星ちゃんに誕生日おめでとうって言いに来たんだ」

 「ありがとうございます」

 星は頭を下げた。

 「倉本君。休憩終わったら、僕の診察室に来れるか?303号室の工藤さんの事で話しがあるんだ」

 「あ、はーい。すぐ行きます」

 「ありがとう。僕はもう戻るけど、星ちゃんに負担を掛けすぎないように」

 「分かってます」

 美咲はしっかり頷いた。

 「じゃぁ、星ちゃん。また後で」

 「あ、先生」

 星は呼び止めた。

 「なんだい?」

 「昨夜はありがとうございました。本当に先生が担当で良かったです」

 星は先程よりも深くお辞儀した。

 「僕からの誕生日プレゼントだと思ってくれたら嬉しい。最初は不安に思ったけど、まぁ彼だから大丈夫だろうと判断した。星空は綺麗だったかい?」

 「はい。とても」

 星は力強く答えた。

 高科は嬉しそうに微笑んで頷いた。

 「じゃぁ、僕はいくよ」

 「あ、私も戻ります。またね星ちゃん」

 美咲は星に手を振って高科の後を追い掛けた。

 三咲を笑顔で見送った星は再びノートに向かった。

 一方その頃、病院の中庭では陽香が浮かない顔をしてベンチに座っていた。いざ、中に入ろうと思ってもこれから星と優也に話す内容を思うと躊躇ってしまう。しかし、これ以上先に延ばす事も出来ない。間もなく、自分はここから去ってしまう。そのことを二人に告げに来たのだった。しかし、誕生日にこんな話しをしていいのかと迷いもあった。でも、ここで言えなければずっと言えないような気がした。しかし、いざ病室に向かおうと思っても、どんな顔をして入れば良いのか分からなくなった。誰よりもお祝いしたい気持ちがあるのに、今は笑うことが辛い。

 「陽香ちゃん?」

 背後から自分の名前を呼ばれてびっくりした。いつの間にか水原が目の前に立っていた。

 「こんなところで何をしているんだい?」

 「水原さんこそどうなさったんですか?」

 「僕は星ちゃんの誕生日を祝いにきたついでに中庭に寄ってみたんだ。そしたら、陽香ちゃんが居て驚いたよ」

 「もう祝って来たんですか?」

 「まだだよ。陽香ちゃんは祝ってきたのかい?」

 陽香は首を黙って横に振った。そして、視線を下に落とした。

 「何か深刻な悩みがあるみたいだね」

 「私のことは放っておいて大丈夫です。早く星を祝いに行ってあげてください」

 「はーあ。ここまで来たから疲れちゃった。少しだけ座らせてもらうよ」

 水原は空いていたスペースに腰を下ろした。陽香は横目で睨んだが、水原はどこ吹く風で気にも止めなかった。

 暫し、無言の状態が続いた。

 「最近つまらないんだ」

 水原は唐突に話し始めた。

 「そんな風には見えませんけど」

 「いや、本当に。何せ陽香ちゃん達が店に来てくれないから。あんなに賑やかな時間を過ごしたのは久々で楽しくて嬉しかった。早く皆でまたお喋りに来てほしいって常に思ってる」

 陽香は黙って聞いてる。

 「こんなことを言うのもあれだけど、僕はね陽香ちゃんのことを一番気に入ってるんだよ。決して変な意味じゃなくて人として一番素敵な人だと思ってる」

 「私が?」

 「うん」

 「星じゃ無いんですか?」

 「もちろん星ちゃんも素敵だし、優也くんも素晴らしい青年だけど、陽香ちゃんが一番だよ。今の三人が一緒に居られるのは間違いなく陽香ちゃんのお陰だもの」

 「それは違います。二人が私に気を遣ってくれてるだけです。私が居ない方が二人も気兼ねなく付き合えると思います」

 「でも、二人が出会えたには陽香ちゃんが居たからこそだよ。二人ともそれを十分に分かってるさ」

 「それは分かってます。二人が私に本当に感謝してくれることは。でも、もういいんです。二人が私が居ることをどう思ってるかなんてどうでもいいんです」

 「どうゆうことだい?」

 「私、この町から居なくなるんです」

 水原は驚きで目を見開いた。

 「だから、二人と過ごすことも無いですし、水原さんのお店にも行けません」

 「いつ引っ越すんだい?」

 「明後日です」

 「この事を二人には?」

 「まだ伝えてません」

 「それであんなに暗い顔をしてたのか」

 「黙っててすみませんでした」

 「いや、謝ることなんて何もないよ。そっか。凄い寂しくなるな。陽香ちゃんの明るさに何度も元気を貰ってきたのに」

 水原の声はいつになく落ち込んでいた。

 「ありがとうございます」

 「二人も大いに嘆くだろうね。特に星ちゃんは当分落ち込んでしまいそうだね」

 「そんなこと無いと思います。星には優也が居るから」

 「いいや。陽香ちゃんがこんなにも悲しんでるんだもの。星ちゃんだって同じくらい悲しむさ」

 「‥‥‥」

 「別れを告げるのが怖いのは分かるよ。相手のことが大好きなら尚更だよね」

 「自分がこんな臆病者だなんて思ってなかったです。もっとアッサリと告げて二人の前から居なくなって、二人の幸せを祈れると思ってました。けど、私が居なくなっても二人はずっと一緒なんだって思うと、何だか無性に寂しくなって、それで黙って消えれば楽かなって思ったりしちゃうんです」

 「陽香ちゃんは臆病者なんかじゃないさ。誰よりも優しくて周りの人の為に行動できる子だもの。僕はね、陽香ちゃんが同い年くらいの友人だったらって思うことがあるよ。そしたら、また違った結果を手に入れられたかもしれないから」

 「どうゆう意味ですか?」

 陽香は顔をあげて不審げな目を向けた。

 「正確に言うと、僕の恋人に陽香ちゃんみたいな友人が居てくれれば助けられたのかもしれない」

 「水原さん恋人いるんですか?」

 「居たよ。とっくに亡くなったけど。陽香ちゃんだけ僕の過去を知らないのはフェアじゃないな。少し長くなるけど、聞いてくれるかな?」

 「はい」

 陽香は興味津々の顔で頷いた。

 「以前、僕の店で写真を見たでしょ」

 陽香は思い出すように頷いた。確か、星は入院着を着てると言っていた。

 「その写真の女性が僕の恋人。いや、婚約者だった人。高岡ルカって言うんだ」

 水原の口から語られた高岡ルカとの切ない恋愛に陽香はただひたすら胸が締め付けられた。この優しい笑顔の裏にこんなにも辛くて悲しい想いを秘めていたのだと思うとその強さに感服さえもした。

 「ルカには親友と呼べる女性は居なかった。もし、陽香ちゃんがルカの親友であればルカはまた違う決断をしたかもしれない。星ちゃんは以前こんなことを言ってたよ。陽香が居なければ何を目指して生きていいのかずっと分からずじまいで生きていたかも分からない。優也くんと同じくらい、いやそれ以上に感謝してるって」

 陽香は溢れる涙を止められなかった。両手で顔を覆ってもその手からは大粒の涙がこぼれ落ちている。水原の優しい言葉も星の気持ちが陽香の心に痛いほど刺さる。水原は香の頭をポンポンと優しく叩いた。

 「水原さんありがとうございました」

 まだ目に浮かんでいる涙を拭いながら、陽香はお礼を言った。

 「お礼を言われることなんてしてないよ。どうするんだい?」

 「今から星に会ってきます。そして、ちゃんとお別れを告げたい」

 「大賛成。でも、その前にくしゃくしゃの顔を整えないと。星ちゃん心配して引っくり返っちゃう」 

 陽香はクスッと笑って勢いよく立ち上がった。

 「水原さんは行かないんですか?」

 「僕は遠慮しておくよ。さぁ、行っておいで。星ちゃんが待ってる」

 陽香は黙って頭を下げて駆け足で病院の入り口へと向かった。


 「えっ‥‥‥」

 陽香の話しを聞いた星は思考が停止した。側にいる優也も驚きに満ちた顔で陽香を見ていた。

 「嘘だよね?」

 そんな無意味な嘘を陽香がつくわけないと分かっていてもそう言わざるをえなかった。陽香が引っ越してこの町から居なくなるなんて想像もしてなかった。

 「嘘じゃないよ。おばあちゃんの介護のためにもう少し都会に引っ越すの。ここじゃあまり住みやすいとは言えないから」

 「でも、そんな」

 いくら言葉を探しても出てこなかった。深い悲しみがたちまち胸を侵し始めた。

 「い、いつ引っ越すの?」

 星は自分の声が震えているのに気付いた。

 「明後日」

 かき消えそうな声で陽香が告げた。

 星は言葉を失った。

 「ごめん」

 陽香が頭を下げた。

 「本当はもっと早く言わなきゃって思ってたの。でも、言えなかった。告げるのが怖くて‥‥‥」

 陽香の声は涙声になっていた。

 「私のこと恨んでるよね。いきなりこんなことを告げられて」

 「馬鹿なこと言わないで」

 陽香はハッと頭をあげた。見れば星の頬には涙が伝っている。

 「陽香を恨む?恨まれるなら私の方だよ。ずっと、親友が悩んでいたことに気付かないで、のほほんと自分の幸せに浸っていたんだから。私の方こそごめんね」

 「星‥‥‥」

 「陽香‥‥‥」

 陽香がベッドの上の星に抱き付いた。それから二人はただ泣き合った。

 涙を拭いながら離れた陽香は椅子に座った。

 「この話しは優也くんは知ってるの?」

 「ううん。まだ知らない。このあと話すつもり」

 「優也くんも寂しがるだろうな。優也くんと話すときは必ず一回は陽香の話しになるから」

 「何か背中がむず痒くなる。むしろ、邪魔者だと思ってたから」

 「そんなわけ無いじゃない」

 さも心外そうな顔で星が言った。

 「分かってるよ。でも、やっぱり私の立場からするとそう思えちゃうの」

 「陽香はね。私からしたら天の川のような人なの」

 「天の川?」

 「うん。あの真っ暗な世界で織姫と彦星が出会えるのは空に天の川が輝いてるからだと思うの。他の人は天の川せいで会えないって言う人もいるけど、私はそうは思わない。天の川があるから二人は出会える。何よりも明るい道標なんだって。だから、私にとって陽香は天の川のよう存在なの。誰よりも明るく私の道を照らして優也くんと出会わせてくれたから」

 「そんなこと初めて言われたわ」

 「こんなこと恥ずかしくて普段には言えないもん」

 「そんな風に思ってくれてたなんて、嬉しくて言葉も出ないわよ」

 また少し泣いた。

 「陽香には甘えてばっかりだったね。本当に本当にありがとう」

 「私の方こそ。自分の弱い部分を見せられたのは星だけだもの。それでも星はいつも私を励まして勇気付けてくれた。本当に星に出会えて良かった」

 「私も。陽香。元気でね」

 「星もね。思いっきり遊べる日を楽しみにしてるから」

 「うん」

 「それと、優也と幸せにね。天の川として応援してるから」

 「ありがとう。陽香も素敵な男の子見つけて幸せになってね」

 「さぁ?気が向いたらね」

 「見送りに行けないのが本当に残念」

 「星の気持ちが伝わったから何も寂しく無いわ。離れてても私たちはずっと親友だからね」

 陽香は手を差し出した。星はその手を強く握った。

 「じゃぁ、私行くね」

 「バイバイ」

 星が言った。

 「バイバイ」

 陽香も言った。

 さようならは言わなかった。いつかまた会える日が来ると信じて。

 「陽香そろそろ出発するわよー」

 一階から母親の声が聞こえた。

 「うん。もう行くよ」

 空っぽになった部屋を見て意外と広くて綺麗なことを実感した。狭いだの汚いだのと文句を言っていたが、何てことはない自分で物を増やし汚くしていただけのことだった。皮肉なものだと思う。大人になればなるほど体は成長する。そして、持ち物も増えていく。なのに、部屋は狭まる一方だ。新しい部屋はもう少し綺麗にしようかなと思った。

 下に降りて玄関へ向かう。靴を履くのも今日で最後かと思うと、急にこの家が愛しく思えた。17年間過ごしてきた家に最後のお別れを済ませ車に乗り込む。親はおばあちゃんと一緒に車で新居で向かい、陽香は一人で駅で電車を乗り継いで向かうことにした。車より電車からの風景を眺めたかった。田舎臭さ満点の電車だが、色んな思い出を乗せてくれたこの電車が好きだった。

 駅のロータリーにつき一人で降りる。家族が乗る車を見送りホームへと向かう。正直、この町を離れたくなかった。だからと言っておばあちゃんを恨む気持ちは更々なかった。おばあちゃんは大好きだし、長生きしてほしいからもっと施設の整った場所に移るのは賛成だった。それでも、この町での生活は素晴らしいものばかりで手放すのは惜しかった。何より星と優也に会えなくなるのが寂しかった。改札をくぐろうとしたら、「陽香」と後ろから呼び止められた。

 振り返ると優也ともう一人意外な人物が立ち並んでいた。

 「優也、水原さん。どうしてここに?」

 「決まってるだろ。見送りに来たんだよ」

 「水原さんも?」

 「うん。陽香ちゃんの旅立ちだもの。見送らないわけないでしょ」

 水原は柔和な表情を浮かべている。対照的に優也は少し固い表情をしていた。

 「ありがとうございます」

 「寂しくなるな。こうなったら陽香ちゃんの街にカフェを作ろうかな」

 「あ、是非そうしてください。毎日通いますから」

 陽香は笑った。

 「その笑顔を忘れないでね。陽香ちゃんなら大丈夫。絶対、皆の人気者になれるよ。僕が保証する」

 「水原さん。ありがとうございました。最後の最後で水原さんに出会えたのが私的には最高のプレゼントになりました。ここに遊びに来たときは必ず寄りますから」

 「うん。待ってるよ。もっと美味しいお菓子用意しておくから」

 二人は自然と握手を交わした。

 「陽香。君は僕にとって最も大切な存在に出会わせてくれた。本当にありがとう。どこへ行ったって僕達は幼馴染みで親友だ。何かあったら呼んでほしい。助けに行くから」

 「私はね、優也に嫉妬してた。だって、あっという間に星の中で一番の存在になっちゃったんだもの。でもね、そんな想いもすぐに消え去った。二人があまりにも幸せそうに居るから、そんなことを思うのが馬鹿馬鹿しくなっちゃったの。いつの間にか、二人の幸せな姿を見るのが私にとっての幸せになったわ。星を幸せにしなさいよ。もし、泣かせたら地獄に突き落としてやるから」

 「ああ。約束する。破ったら僕を煮るなり焼くなり好きにしてくれ」

 「まぁ、何も心配してないわ。二人は出会うべくして出会ったんだもの。幸せになる以外他ないわ」

 「陽香も幸せになってくれよ。星もそれを願っている」

 「任せておいてって伝えておいて」

 「そうだ。これ餞別に持っていってほしい。昨日、星から頼まれて急遽買ったものなんだ」

 優也が差し出した紙袋は中々に分厚かった。陽香はそれを受け取ると感触で何が入ってるのかすぐに分かった。紙袋から取り出すとスパイクが入っていた。以前から陽香が欲しいと思っていたスパイクだった。しかし、高校生の財布からしたら高くて諦めていた代物だった。

 「そんな。こんな高い物受け取れない」

 陽香は返そうとした。

 「悪いけど返却不可能だ。星から断られても絶対に渡してって厳命されてる」

 「でも‥‥‥」

 「もし、陽香に受け取ってもらえず、星の元へ持っていったら星は悲しむし、贈りたいから贈ってるんだ。星と僕からの感謝の印として」

 「ありがとう。大事にする」

 陽香はスパイクを紙袋に戻した。

 「あ、そうだ。これ渡すの忘れてた」

 水原は名刺を渡した。そこにはシュピエレンの電話番号が書いてあった。

 「大会に出るとき教えて。応援に行くから」

 「そんな。遠いのに大丈夫です」

 「遠くても大丈夫。僕には時間もお金もあるからね」

 三人は笑った。

 「水原さんは何故この町に来たんですか?」

 不意に思い付いた疑問をぶつけた。

 「さぁ?もしかしたら、ここが僕にとっての天の川だったのかもね」

 優也はよく分からないと言う顔をしたが、陽香はニコッと笑った。

 「もう時間だ。二人とも本当にありがとう」

 陽香は今まで一番深いお辞儀をした。

 「じゃあね陽香ちゃん」

 「またな。陽香」

 ここでも誰もさようならとは言わない。最後のお別れではないから。

 「優也。星に伝えて。手術が成功したらいの一番に会いに行くからって」

 「ああ。星も会いたがるはずだ」

 陽香は大きく手を振り改札の中へと消えていった。

 電車に乗り荷物を隣の座席に置いた。親友から貰った大事な贈り物だけは膝に抱えた。もう一度、中身を確認する。鮮やかなオレンジ色が光輝いてる。電車がゆっくりと動き出し少しずつスピードを上げていく。窓を開けて車窓から見える見慣れた風景に思い出を並べる。そのどれもが美しく愛しい。

 「またね。皆」

 陽香は小さく呟いた。また少し涙が溢れそうになった。しかし、風が拭い去った。風は陽香の過去を乗せて、電車は陽香の未来を乗せて走り続ける。

 

 夜中にふと目が覚めた。全身には嫌な汗をかいている。何故か分からないが全身に悪寒が走っていた。風邪を引いたのかと思ったが、どうも風邪を引いたときは違うような感じがした。優也はベッドを降りて部屋の明かりを付けた。眩しさに目が馴れるのを待って机の右側の引き出しを開ける。綺麗に整頓された中にはノートと一つの封筒が入っていた。そして、その封筒からある物を取り出した。優也は取り出した物を見つめる。優也の手に持っていたのはドナーカードだった。星と付き合う少し前から、もしものためにドナー登録をしていた。使う日が来ないことを願ってはいるが、万が一使う日が来たとしたら、星の命を救うために使われてほしいと願っていた。優也はドナーカードを封筒にしまうのではなく、掛けてあった制服の内ポケットにしまった。そして、眠気に誘われるように再びベッドに横になった。

 

 「明日から修学旅行だね」

 星は寂しさを感じさせないように明るい声で言った。

 「うん。まぁあまり気乗りしてないけど」

 優也の高校は明日から三泊四日で沖縄へと修学旅行へと旅立つ。

 「どうして?高校生活で一番のイベントなのに」

 優也が気乗りしてない理由は星にはお見通しだったが、そのことを敢えて触れないようにしていた。

 「そうだけど、星はいけないのに自分だけ楽しむ訳にはいかないし」

 やっぱりと星は思った。優也のことだから、恐らく自分に気を遣って楽しめないと予想はしていた。

 「優也くん。そうゆうのは止めて」

 「星」

 「優也くんが楽しめないと私が罪悪感を感じちゃうの。自分が健康体じゃないせいで誰かの楽しみを奪ってるのが心苦しくて辛いよ」

 「でも、星だって修学旅行楽しみにしてたはずなのに」

 「もちろん、行きたかったよ。でも、これは誰のせいでもないし、仕方ないことだって分かってるの。これで優也くんが行かないなんて言い出したら、もう優也くんとは会えないよ」

 優也は自分の言おうとしていたことを見抜かれてドキリとした。その反応が顔に出ていたのだろう星はクスクス笑った。

 「やっぱりそう思ってたんだね。ダメだよ行かなきゃ。私に気を遣って行かないなんて許さないんだから」

 「ごめん。そうだよね。沖縄に行かないなんてただの自己満足だった。星の分まで目一杯楽しんでくるよ」

 「うん。帰ってきたらお土産話したくさん聞かせてね」

 「ああ」

 「ただひとつやってほしいことがあるんだけど」

 星は少し恥ずかしそうに言った。

 「なに?」

 「あ、でも、やっぱりいいの。くだらないことだから」

 「言ってごらん。絶対に笑わないから」

 「えっと、その夜になったら夜空を見上げてほしいなって。そんな長い時間じゃなくてほんの一瞬でもいいの。その一瞬だけでも私を思い出してほしくて。やっぱり離れるのは寂しいから‥‥‥」

 星は恥ずかしさで俯いてる。

 優也は星のことが可愛くて堪らなくなった。

 「ごめん。忘れて。言うんじゃなかった」

 「分かった。必ず夜空を見上げるよ。約束だ」

 優也は右手の小指を差し出す。

 「優也くん」

 二人は指切りを交わした。

 「さて、まだ準備があるから今日はもう帰らないと」

 「うん。気を付けてね」

 「お土産楽しみにしてて」

 優也は手を振って病室を後にした。

 星は優也が去った後指切りを交わした左手の小指を口に当てて、優也が何事もなく帰ってくるように祈った。


 翌日いつものように病室で勉強をしていると、廊下から慌ただしい声が聞こえてきた。言葉は聞こえないが、その声には一様に切迫したものがあるのが手に取るように分かった。気になった星は病室を出て何があったのか探りに行った。

 「ごめんなさい。そこを退いて」

 後ろから物凄い勢いでストレッチャーを走らせた救急隊員の人達がやってきた。星はすぐに脇に避けてストレッチャーに乗ってる人を見た。一瞬しか見えなかったが、自分と同じくらい若い男の子だったのは分かった。嫌な予感を持ちながら怒号の飛び交う場所へと向かう。そこにはたくさん医者が集まり皆厳しい顔をして何やら指示を出しあっていた。他の患者も不安そうにその様子を見つめている。

 「何があったの?」

 星の前に居た中年女性が隣に居た女性に聞いた。

 「私も詳しくは分からないけど、何でも事故があったそうよ」

 聞かれた女性は眉を潜めている。

 「何の事故よ?」

 「高校生を乗せたバスが事故を起こしたって聞いたけど、それ以上は分からないわ」

 星はドキッとした。一気に不安が襲いかかってきた。まさか優也くん。心臓の鼓動が早まるのを止められなかった。星は少しふらつく足取りで高科を探した。次々と運び込まれる患者はいずれも若く先程の女性が言ってたように高校生を乗せたバスが事故を起こしたのは想像できた。しかし、私服なのでどこの高校なのか分からない。ますます大きくなった嫌な予感を無理矢理拭いつつ闇雲に探し回った。そして、見つけた。遠くからでも険しい顔つきなのが分かった。付き添っている美咲の顔も見たことない真剣な顔つきだった。それだけに事態の深刻さが窺えた。星が近付いてるのに二人は全く気づく様子もなく会話を続けている。すると、こんな会話が聞こえてきた。

 「この事はまだ星ちゃんには言わない方が良い」

 「でも、高科先生。いずれは分かることです。ここで隠して後で知らされたら星ちゃんはもっと傷ついてしまいます」

 「しかし、優也くん達を乗せたバスが事故にあって、危篤の状態にあると知ったら心臓にどんな影響が出るか分からない」

 星の体中に衝撃が走った。最悪な予想が的中してしまい頭が混乱してきた。自分の力で立っていることが出来なくなり壁に手をついた。その物音で気付いたのだろう高科と美咲が振り向いた。二人とも驚きに満ちた顔をした。星は更に膝から崩れ落ちた。

 「星ちゃん!大丈夫?」

 美咲が駆け寄り星を支える。

 高科も急いでやって来て星の様子を観察している。

 「先生。今の話しは本当なの?」

 敬語を忘れてしまうくらい動揺していた。

 高科は顔を苦痛に歪ませて頷いた。

 「先生。優也くんは助かるよね。先生なら助けてくれるでしょ。ねぇ先生」

 星は高科の腕を強く掴んですがりついた。

 「残念ながら僕は執刀できない。でも、安心してくれ。外科医にも素晴らしい医者はいる。きっと助けてくれる」

 高科は星の肩を掴み言い聞かせた。

 「どうして優也くんが‥‥‥」

 星は体の震えが止まらず、立つこともままならなかった。呼吸も酷く乱れ始めた。 

 「倉本君。車椅子を持ってきてくれ」

 「はい」

 美咲はすぐさま駆けていった。

 「星ちゃん。落ち着いて。ゆっくり深呼吸して」

 星が深呼吸をしようとすると絶叫がこだました。

 「和樹!!!」

 生徒の誰かの母親らしき人が両手を覆って泣き崩れていた。その様子は星の動揺を加速させた。急激に心臓が苦しくなってきた。呼吸が出来ない。星は心臓を押さえてうずくまってしまった。

 「星ちゃん!」

 高科が呼び掛ける声が聞こえる。しかし、反応が出来ない。高科の声には怒気が帯びていた。なのに、星には段々と声が遠くなっていった。薄れゆく意識の中ひたすら思ったのは優也の命が助かるそれだけだった。

 

 目を覚ました星の目に飛び込んで来たのは美しい星空だった。星はさっと起き上がり周囲を確認する。病院で倒れたはずの自分が何故こんな所にいるのか戸惑った。星は立ち上がりもう一度辺りを見回す。そこは優也と来た白銀の丘にそっくりだった。まだ混乱しているが、徐々に落ち着きは取り戻していた。やがて、崖の近くに立っている人に気付いた。その後ろ姿は星が誰よりも愛してやまない優也のものだった。星は嬉しさで胸が満たされた。

 「優也くん」

 声を弾ませ優也に駆け寄った。

 振り返った優也は微笑みを浮かべて星を迎えた。

 「優也くん。良かった、生きてたのね」

 優也は何も言わない。ただ星を見つめるだけだ。

 「どうしたの?どこか痛いの?」

 優也はゆっくり首を振った。

 突然、優也の後ろから目映いばかりの光が二人を包み込んだ。そして、深い濃紺の汽車が二人の前で停車した。星は驚くも強い既視感を覚えた。この汽車を見たことがある気がした。

 「これに乗るの?」

 星は優也に聞いた。

 優也は頷く。

 「でも、どこへ行くの?」

 「乗るのは僕だけだよ」

 優也が初めて言葉を発した。

 「私も一緒に行く」

 「ダメだよ。星は乗れないんだ」

 「どうして?どうして優也くんは乗れるの?」

 「僕は乗らないと。その前に星に最後の贈り物をあげる」

 「最後ってなに?そんなもの要らない。私も一緒にいく」

 「星。」

 「要らない。私もいく。お願い。いかせて」

 星は泣きながら拒絶し懇願した。

 優也は自分の右手を胸に当てた。そして、その右手を星の胸に近づけた。星はその右手をなぎ払おうとしたが、無情にも手はすり抜けた。優也の右手が胸に当たるとほんのりと暖かくなるのを感じた。

 「僕からの最後の贈り物。星の側にずっといられるように」

 優也は星から離れて汽車へと向かう。

 追いかけたいのに走れなかった。下を見ると足が消えていた。

 「そんな待って!優也くん!」

 涙が止めどなく溢れている。なのに、頬が濡れている感触がしなかった。

 「星。君に出会えて良かった。愛してるよ」

 優也を乗せた途端に汽車はゆっくり滑り始めた。

 「あ、あ。そんないかないで‥‥‥」

 声にならない声が漏れる。そして、星は気を失った。

 

 目を覚ました星の目に飛び込んできたのは星空ではなく真っ白で無機質な天井だった。

 「星」

 里美が星を抱き締めた。泣きながら娘の名前を連呼していた。

 「お母さん」

 「お前。一旦離れなさい。先生が診察出来ないだろう」

 「いえ、お構い無く。星ちゃん何かあったか覚えているかい?」

 「私は倒れて‥‥‥」

 そこまで言って思い出した。そして、急激に不安がもたげてきた。

 「先生。優也くんは?」

 星の質問に全員が表情を固くした。誰もが口をつぐみ下を向いている。

 「ねぇ?優也くんはどうなったんですか?助かったんですよね?先生助かるって言ってたもん」

 「星。落ち着いてよく聞きなさい。優也くんは亡くなった」

 正博が言ったことが理解できなかった。

 「死んだ?嘘よ。何でそんな嘘をつくの」

 「星。本当のことなんだ。優也くんは頑張ったが、病院に来たときには‥‥‥」

 「嘘よ!嘘よ!!嘘よ!!!何でそんな嘘つくのよ!」

 星はベッドから降りようとした。正博が押さえようとするのも必死で抗った。

 「星。どこへ行くんだ」

 「優也くんに会いにいくの!どこにいるの?教えてよ」

 「星。落ち着きなさい!優也くんはこの病院にはもういないんだ」

 「離して!お父さんの顔なんてもう見たくない!優也くんは死なない。私の側にずっといるって約束したんだから」

 高科が助勢に入った。

 「星ちゃん。落ち着いて。お父さんの言ってることは本当なんだ。優也くんはもうこの世にはいない」

 「どうして先生まで嘘つくの?先生は助かるって言ったじゃない。会わせてよ!優也くんに会わせてよ!」

 「会わせてあげたいけど、出来ないんだ」

 高科の声は苦痛で歪んでいた。

 「どうしてよ。先生の嘘つき!先生の役立たず!」

 そう言った途端平手打ちが星の右頬を襲った。

 頬を押さえて星が見ると美咲が立っていた。その目には目一杯の涙を浮かべていた。

 「倉本くん‥‥‥」

 「先生がどんな思いで‥‥‥」

 「倉本くん止めなさい」

 「あなたの心臓は‥‥‥」

 「倉本くん!」

 高科が大声を上げた。美咲はグッと口を閉じた。そして、病室から走り去った。

 「星ちゃん大丈夫かい?」

 高科は努めて優しい声で聞いた。

 「先生。本当に優也くんはいないの?」

 高科は星の目を見るのが辛かった。しかし、逃げてはダメだと見据えて「そうだよ」と答えた。

 星の心に果てしない悲しみが襲った。膝を抱えてうずくまり、大粒の涙がみるみる布団を濡らしていく。立ち去る足音が聞こえても顔を上げることもなく、ひたすら泣いていた。

 病室から出た高科と星の両親の顔には悲痛の二文字が漂っていた。

 「先程は倉本がお嬢様に大変申し訳ないことをしたことを謝ります。指導医としてキツく叱っておきます」

 高科は深々と頭を下げた。

 「いえ、星の言葉も過ぎました。先生は私達の娘を救って下さった。こんなことを言うのもあれですが感謝しかありません」

 「救ったのは私ではありません。彼の意志を繋いだまでです」

 「星にはあの事をいつ伝えるおつもりですか?」

 「隠し通せることではないので、近いうちには必ず。でも、今はそっとしておいてあげましょう。それでもよろしいですか?」

 「先生に全てを任せます。よろしくお願いします」

 正博も頭を下げた。

 

 優也の死から三日が過ぎた。死者7名重軽傷者32名を出した大事故は令羽の悲劇として全国に発信された。そのため連日マスコミが押し寄せて遺族や被害者家族、バス会社のコメントを取るために躍起になっていた。バス会社は即座に謝罪会見を開き、誠心誠意謝ったが被害の甚大さを考えれば恐らく未来は無いだろうと誰もが思っていた。この先は被害者側にいくら慰謝料を払うかのかと言う問題に発展していくのが見えている。

 そして星は無気力なまま一日を生きていた。ご飯は手付かずで最低限の会話もしない。美咲が頬をぶったことを謝りに来たが、そんなことはどうでも良かった。ただ、優也と出会ってからの思い出を遡っていた。どんな些細な会話も仕草もその全てが愛しく優也に会えるなら何も要らないと思っていた。今ほど銀河鉄道の汽車を望んだ事はない。何故そのバスに自分が乗っていなかったかと恨みさえした。心に空いた大きな空洞は埋まることはなく、何をしても悲しみが癒されることはなかった。

 唯一の救いと言えば優也の亡骸を見ずに済んだことだった。今日の午後に葬儀が行われると聞いた。本来ならば参加するべきなのだが、何故か一向に参加したいと言う気持ちが湧かなかった。最初は亡骸を見たくなさだと思っていたが、それでも彼女として優也の最後を見送りたい気持ちにならないのが不思議で堪らなかった。まだ優也が死んだと信じられない気持ちがそうさせているのだろうと思った。

 外はどしゃ降りの雨が降り続いていた。星はただ窓に打ち付けられる雨をボーっと眺めていた。病室のドアがノックされても何の反応も示さなかった。ガラッとドアが開いてようやくそちらの方に目を向けた。見れば水原が黒いスーツを着て立っていた。肩のところが少し濡れていた。

 「水原さん」

 予期しなかった訪問客に星は困惑した。黒いスーツを着ていると言うことは優也の葬儀に行ったことを示している。

 「やぁ、体調はどう?」

 星はふいと横に向いた。今は水原でさえ話すのが億劫だった。

 「そこに座っても良いかな?」

 星は黙りを決め込む。水原はパイプ椅子に座った。

 「優也くんの葬儀に行ってきたよ」

 星は耳を塞ぎたくなった。そんな話しなんか聞きたくなかった。

 「辛いよね。僕ですらとても心が痛んでいるのに、星ちゃんの痛みは計り知れないくらい痛んでるよね」

 「何しに来たんですか?」

 つい声が尖ってしまう。しかし、今は優也の話しなんてしたくない。

 「星ちゃんに真実を話しに来た」

 星は水原の方を見た。その顔は真剣そのものだった。手術する前の顔もこんな顔になるのだろうかと関係ないことを考えてしまった。

 「真実?」

 「星ちゃんは優也くんの死因を聞いたかい?」

 「やめて下さい」

 聞きたくない。何でそんなことを言うのか水原を恨ましく思った。

 「優也くんは‥‥‥」

 「やめて!聞きたくない。知りたくない。それ以上そんな話しをするなら出ていって下さい」

 「星ちゃんは知らなければいけない。優也くんが最期に君に何を残したのかを」

 「残した?」

 「そう。星ちゃんの人生を救うために文字通り命を懸けて残したものがある」

 「それと死因に関係があるんですか?」

 「大いにある。だから、聞いてほしい。優也くんも願ってるはずだから」

 そう言われると弱かった。星は観念して話しを聞くことにした。

 「ありがとう。本来は主治医である高科先生の役目だが、僕が伝えることに許可は頂いてる。だから、話しを聞き終わった後に彼を責めないでほしい。高科先生もこの上なく苦しんだから」

 「分かりました」

 星の心臓は緊張の糸が張り詰めた。

 「まず優也くんの死因だけど、脳挫傷による脳死だった」

 「脳死‥‥‥」

 予想だにしていない死因に星は戸惑った。

 「顔は綺麗だった。かすり傷はあったものの、それ以外に目立った外傷は無かったそうだ。ただひとえに打ち所が悪かったと聞いてる」

 「じゃぁ、優也くんは苦しんでは無かったんですか?」

 ずっと死因を聞くのを拒んでいたのは優也が最後まで苦しんでいたことを聞くのが怖かったからだ。痛みでのたまわっていたらと想像したらそれだけで胸が張り裂けそうになった。

 「ずっと昏睡状態だったから、怪我の痛みで苦しんでいたことは無かったそうだ」

 星は少し救われた気分になったが、それでも優也が死んだことに変わりはない。悲しみは依然として消え去ることはない。

 「星ちゃん。最近心臓の調子はどうだい?」

 「えっ?」

 あまりにも急な方向転換の質問に星は困惑した。

 「息苦しいとか急に鼓動が早まるとか違和感を感じたことはある?」

 「いえ、特には」

 水原の質問の意図が理解できなかった。何故、優也の死因の話しをしていたのに急に自分の心臓の質問をしてきたのか。そう言えばと星は思った。ここ三日は薬を飲んでいない。自分は優也を失った悲しみで失念していたとはいえ、高科先生や美咲さんが薬を持ってきたことはない。

 「それは良かった。まぁでも星ちゃんが優也くんを拒絶するはずがないもんね」

 「一体どうゆう‥‥‥」

 「ここからが大事な話しになる。心して聞いてほしい」

 星は唾を飲み込んだ。とんでもない話しをされるのは察知がついた。

 「優也くんを運んできた救急隊員の方が制服の内ポケットにあった生徒手帳からあるものを見つけた」

 「あるもの?」

 「これだよ」

 水原はスーツのポケットから一枚の小さな紙を出した。受け取った星はそれを見て驚愕した。

 「これはドナーカード」

 「そう。優也くんはドナー登録者だった。高科先生に確認したよ。そしたら、数ヵ月前に登録したとのことだった。もし万が一があったときに星ちゃんを救えるようにと思って登録したそうだ」 

 ドナーカードを持つ手が震えていた。この先水原が何を言おうとしているのか分かった。

 「脳死にドナーカード。この二つが揃ってると言うことは何が起こったかは想像つくね?」

 星は答えたくなかった。

 「優也くんの死は何人かの人生を救うために役立てられた。そして、その一人は今僕の目の前にいる」

 「えっ‥‥‥」

 全身に鳥肌が立った。まさか‥‥‥そんな‥‥‥

 「今の星ちゃんの心臓は優也くんの心臓が移植されたものだ」

 星は言葉を失った。

 「高科先生は最後まで迷っていた。星ちゃんに黙ったまま手術をするべきかどうかを。でも、星ちゃんを救いたい気持ちは優也くんと同じくらいあった。だから、優也くんの最期の想いに応えて心臓を移植した。高科先生を決して責めないであげてほしいそれが高科先生の使命だったから」

 星は高科を責めるつもりなど一切なかった。むしろ、亡くなった事を聞かされた時に酷い言葉を浴びせた自分を恥ずかしく思った。

 「優也くん‥‥‥」

 星は無意識に自分の胸に手を当てた。力強い鼓動が掌に伝わる。

 優也の心臓がここにある。星は混乱で自分がどう思ってるのか分からなくなってしまった。

 「星ちゃんの言う通りだ。優也くんは死んでいない。星ちゃんの中で確かに生きている」

 水原は泣いていた。

 星は静かに泣いた。

 いつの間にか雨は上がっていた。


 優也の心臓が移植されてたから一週間が経ち星は退院の日を迎えた。外は日差しが優しく照りつけ冷たい風が微かに吹いていた。秋の背後に冬の気配が迫ってるのを感じられる天気だった。

 今までの一時的な退院とは違い、余程のことが起こらない限り星はもうこの病院に入院する日は来ない。来たとしても、今まで苦しめられてきた心臓病で入院することはない。文字通り星の新たなる人生の始まりでもあった。そうにも関わらず星の表情は冴えなかった。それもそのはずで退院出来るのは優也の尊い犠牲のお陰であり、恋人だった星が素直に退院を喜べるはずもない。星は高科には感謝しかないと分かっていても、今も心臓病が治らなくても良いから優也を返してほしいと思っていた。

 外に出た星は一つ大きく深呼吸をした。冷たい空気が肺を急速に冷やす。その感覚が妙に気持ち良かった。振り返ると高科に美咲が微笑んで星を見ていた。

 「星ちゃん。退院おめでとう」

 高科は爽やかな声で言った。そこには星の退院を心から喜んでるのが伝わった。

 「高科先生。本当に何て言ったら、高科先生が担当してくれて本当に良かったです。本当にありがとうございました」

 星は頭を下げた。高科への感謝は本物だ。高科が居なければ自分は死んでいたのかもしれない。それだけでも高科がこの病院に居てくれたことは星にとって大きな幸運だった。

 「星ちゃん。命を大切に。そして、これからはを存分に楽しんで」

 星は高科の言い回しが少し違うのに気付いた。今までは今を楽しんでと送り出してくれたが、今回はこれからをと言った。星は少し複雑な気分になった。この先自分の人生を楽しめるのだろうか。

 「星ちゃん。本当に‥‥‥ごめんね‥‥‥あの時、星ちゃんを叩いたことを後悔してて、本来なら首になってもおかしくないのに。星ちゃんは許してくれて」

 美咲はぐしゃぐしゃに泣いていた。

 「美咲さん。もうその話しは無しですよ。もし、私が美咲さんの立場でも同じように叩きました。先生に最低なことを言った私が悪かったんですから」

 「ありがとう‥‥‥星ちゃん。たまには顔を見せに来てね」

 「行きますよ。美咲さんに会いたいですから。本当にお世話になりました」

 美咲にも頭を下げた。

 車に乗り込み、ショーウインドウを下げる。高科と美咲の姿が見えなくなるまで手を振った。一抹の寂しさが胸を浚った。車の中で正博と里美がいやに明るく話しかけてくれたが、星は空返事を繰り返すばかりだった。完治して退院出来た嬉しさはある。しかし、高科達との別れの寂しさ、何より優也の居ないこれからの人生への不安と悲しみで胸は溢れ今もなお気持ちは晴れてこなかった。

 「お父さん」

 星は外の景色を眺めたまま言った。

 「なんだ?」

 バックミラー越しに星を見た。

 「駅で降ろしてくれる?」

 「どうした?」

 「行かなきゃ行けない場所があるの」

 「どこだ?」

 「優也くんの家」

 正博は驚いて星を見たが、運転中なのですぐに目線を戻した。里美は不安そうに正博をチラッと見た。

 「今日は家でゆっくりしたらどうだ。優也くんへの挨拶は私達と一緒に行こう」

 「嫌。今日行く。それにまず私が一人で優也くんとご両親に会いに行きたいの。お父さん達の前では私に言いたいことが言えないかもしれないじゃない」

 星は優也の両親に一人で会いたかった。どんなに罵倒されても全て甘んじて受けるつもりだった。

 「しかし‥‥‥」

 正博は渋った。

 「お願い」

 今度はバックミラー越しにしっかりと見て訴えた。

 「分かった。駅で降ろそう」

 「ありがとう」 

 病院からの最寄り駅で星は一人で降りた。

 「とりあえず、私達の分までお礼を申し上げてくれ。そして、改めてお伺いしますとも」

 ショーウインドウ越しに正博が言った。

 「うん」

 「星」

 今まで黙っていた里美が口を開いた。

 「何?」

 里美は何か言いたげな目でじっと見つめた。

 「どうしたのお母さん?」

 「ううん。あまり遅くならないようにね」

 「心配しないで」

 星はフッと笑って駅に向かった。

 

 優也の家の住所は陽香が教えてくれた。優也が亡くなってから陽香とはまだ会えていない。電話で一度話したが、陽香も悲しみにうちひしがれていたのは伝わってきた。新しい環境に新しい生活で大変なはずなのに今月には必ず一度こっちに来てくれると言ってくれた。今の星には唯一の希望だった。陽香が教えてくれた住所をマップに打ち込み導き出された順路をゆっくりと歩いてく。もしかしたら、同じ道を優也も歩いていたのかと思うと胸が苦しくなった。どうして、もっと優也の住んでいた町を知ろうとしなかったのだろうと後悔した。何度も町には来ているのに、行き先は決まって白銀の丘一つだった。何度見ても見飽きない星空を見ては夢を語り、優也との思い出を作っていた。

 色濃く残る優也の残像に星の胸は締め付けられていく。途中で歩くのを止めて引き返したくなった。しかし、ここで引き返してしまえばこの町には来れないような気がした。止まった足を前に動かしとうとう優也の住む家に辿り着いた。優也の家はごく普通と言っては失礼だろうが、どこにでもありそうな一軒家だった。ここで優也は過ごし育ったのかと思うと、一層切なさが込み上げてくる。ドアの前に着き少し震える手でインターホンを押した。これ以上になく緊張していた。ややあって「はい」と言う返事が来た。女性の声だった。恐らく、優也の母親だろうと思った。

 星は名乗ろうとしたが声がつっかえてしまった。

 「どちら様?」

 女性の声に不信感が入り交じっていた。

 「あの、松宮星です」

 数秒の沈黙。やはり、息子の心臓を奪った人間の顔など見たくないのだろうか。

 「入ってきてください」

 ややあってそう返ってきた。声が冷たく聞こえるのは後ろめたい気持ちのせいだろうか。

 星は自分を奮い立たせて玄関のドアを開けた。ドアを開けると玄関に細面のスラッとした女性が立っていた。

 「初めまして。優也の母の早苗です。あなたが優也の恋人の星さんなのね?」

 星は声が出ずに固まってしまった。

 「そんなに緊張しないで。さ、上がって」

 早苗はスリッパを用意した。

 「お邪魔します」

 星は靴を脱いでスリッパを履いた。

 早苗の後を付いていきリビングに通された。

 「何か飲む?」

 「あ、いえ大丈夫です」

 リビングは整理整頓されていて無駄なものがなく質素な暮らしぶりが想像できた。優也の遺影はどこだろうと思わず探してしまった。

 「優也ならそっちの居間にいるわ」

 星の心を読んだかのように早苗は隣の居間を指差した。星は行きたいような行きたくないような気持ちになった。優也の遺影を見るのが辛かった。

 「是非、会ってちょうだい。優也もあなたの顔を見たいはずだから」

 早苗に背中を押されて星は居間の扉をスッと開けた。そこには仏壇が置いてあり中央に笑った優也の遺影が置かれていた。星は一歩ずつゆっくりと進み仏壇に近付いていく。笑った優也の顔を見ると涙が出そうになった。しかし、必死で堪えた。座布団の上に正座をして線香を立てた。合掌しながら星はひたすらありがとうと伝えた。目を開けて遺影を見ると優也の声が聴こえてくるような気がした。最後に会ってから二週間も経ってないと言うのに、一緒に笑って過ごした日々が遥か昔のように感じられる。優也が亡くなったことを更に実感し心に暗い影を落とす。いくら自分の心臓に優也が居ると思っていても、見える訳でもない。感謝はあれど優也の温もりや優しさに触れることは出来ない。それに、優也の親への罪悪感で今にも押し潰されそうだった。明るく振る舞ってくれてはいるが一人息子を亡くした喪失感は計り知れないものがある。安易に訪ねてしまった自分自身を責めたくなった。謝罪と感謝の言葉を述べてすぐに退散しようと思った。

 「それにしても、今日は驚いたわ。退院するのは知っていたけど、まさか訪ねて来てくれるとは思ってもなかったから。優也もとても喜んでるはずだわ」

 そう言って早苗は遺影の優也に向かって微笑んだ。その顔は驚くほど優也にそっくりだった。

 「星ちゃん」

 「は、はい」

 「ありがとうね」

 「えっ」

 「優也を受け入れてくれて」

 「そんな。お礼を言うのは私の方です。それにごめんなさい。優也くんの心臓を私なんかの為に‥‥‥」

 「ううん。優也はあなたの中で生きてるのよ。お陰でああして優也の遺影を見ても希望が持てるわ」

 星は勿体無い言葉に恐縮するばかりだった。どんな罵声を浴びせられても文句は言えない立場だと思っていた。

 「それにしても、優也にこんなに可愛い彼女が居たなんて知らなかったわ。あの子そうゆうことに全然興味ないと思ってたのに」

 「そんな。優也くんのような人は私には勿体無いくらいでした」

 「あらあら。嬉しいわ。息子をそんな風に言ってくれて」

 「あの‥‥‥」

 「なに?」

 星は聞こうか聞くまいが迷っていたが聞くことにした。

 「私のことを憎んだりしてないんですか?」

 早苗は一瞬虚をつかれたような顔をしたがすぐに微笑んだ。その顔をは優也にそっくりだった。

 「何であなたを憎むの?」

 「私は優也くんの心臓をもらい受けて生きてます。大事な息子の心臓を奪ったと思われても仕方ありません」

 「決してそんなことはないわ。私と夫にとっては星ちゃんは希望の光なの」

 星は胸にずしりと重荷を乗せられたような気持ちになった。自分はそんな風に思われる資格なんてないと思った。

 「ごめんね。余計なプレッシャーをかけるつもりはないのよ。あなたはあなたらしく生きてほしいの」

 星は自分らしさを見失っていた。優也を失い何を支えに生きていけばいいのか分からない。ずっと暗闇をさ迷っている

 星は下を向いた。天文学者を目指すことを諦めようと思った。優也と一緒だったから見つけることのできた夢。しかし、優也を失った今天文学者を目指すことに何の意味があるのだろうかと思った。優也はもうこの世にはいない。夢を語り合うことも手を繋ぐこともキスをすることも出来ない。物言わぬ存在となって星の中にいるが、星にはまだこの心臓が優也であることを完全には認められなかった。その事が自己嫌悪に繋がり自分と言う存在を否定してくなった。

 これ以上はこの場に居るのが辛くなった星は辞去の意を示した。

 「ちょっと待って。星ちゃんに渡すものがあるの」

 早苗は慌てて二階へと消えた。

 一分も経たない内に戻ってきた。その手には封筒が握られていた。

 「これ。優也から星ちゃんへの手紙よ」

 星は目を見開いた。

 「こんなこと言うのもあれだけど、もしかしたら優也は自分の死期を悟ってたのかもしれないわ」

 星は震える手で封筒を受け取った。表には松宮星様へと書いてある。紛れもない星への手紙であり最初で最後の手紙だった。

 「星ちゃん。優也をよろしくね」

 早苗の頬には涙が伝っていた。


 優也の家を後にした星は一人白銀の丘向かい、眼下に広がる町並みを眺めていた。その手には優也からの手紙が握られている。改めて封筒を見る。優也からの最後のメッセージがここに記されている。認めたくは無かったが、星は早苗の言った優也は自分の死期を悟ったと言う考えに納得した。裏を見ると丁寧に日付が書かれていた。日付は修学旅行の前々日となっていた。つまり、前日の見舞いに来てくれた時には既にこの手紙を書いていたと言うことになる。会った時の優也はいつもと変わらない優しくよもや自分の死を考えているような素振りは一切見えなかった。

 手紙を読む怖さはある。しかし、この手紙を読まなければ何も進まない気がした。星は恐る恐る封を切った。三折にされた便箋を広げる。そこには紛れもない優也の時が並んでいた。そして、手紙にはこう綴られていた。


            星へ

 星がこの手紙を読んでいると言うことは、ある条件が満たされたと言うことだね。その条件とは僕の心臓が星の心臓へと移植されたことだ。星の健康になった姿を見られないのは残念だけど、僕の心臓が星の新たなる人生の幕開けになったと思うとこの上ない喜びを感じるよ。でも、星のことだから心臓が治っても簡単には喜びはしないだろう。それよりも僕の死を大いに悲しんで傷付いていると思う。だから、この手紙を君に残すよ。少し恥ずかしいけど、僕の本音を書き記したこの手紙を読んで星が本当の意味で一歩踏み出せるのことを願って。

 星との出会いは今でも鮮明に思い出せる。直接は言えなかったけど、こんなにも美しい瞳を持っている人がいるのかと驚いた。正直、恋愛なんてくだらないと思ってたけど、星と出会ってその価値観がひっくり返った。そして、この人となら生涯を共にしたいと本気で思った。その気持ちは陽香から星の病気のことを知らされても何一つ変わらなかった。むしろ、そんな辛い病気を抱えながらも必死で生きている健気な星に更に胸を打たれて強く惹かれた。発作が起きて入院する度に何も出来ない自分が悔しくて情けなくて仕方なかった。それでも、一番辛いはずの星はそんな気配を微塵も見せずに僕や陽香に誰よりも優しく接してくれた。気付けば、本来は元気付ける立場なのに僕が元気付けられていた。

 星と過ごせた全ての時間は美しい銀河となり、一つ一つの瞬間は煌めく星となって僕の魂の中で輝き続ける。僕はこんなにも素晴らしい女性と巡り出会えて恋が出来て本当に幸運な男だった。本当にありがとう。

 星には天文学者になると言う夢を叶えてほしい。天文学者になって本の世界ではなく現実の世界の世界中の星空を旅してほしい。そして、誰も発見したことない君だけの星を見つけてほしい。星ならなれるし出来ると信じてる。

 誕生日の夜に話したことを覚えてるだろうか?もし、星が居なくなっても君を想い続けると僕は言った。そして、世界で一番遠い遠距離恋愛をしようって。その気持ちも変わらない。きっと僕は星のことを想い続けてるはずだから。それに僕は星の側にもいる。手を握ることも抱き締めることも出来ないけど確かに側にいる。だから、悲しまないで前を向いて進んでほしい。君は独りじゃない。星の行く先には必ず僕もいるから。

 さようならは言わないよ。必ず会えるから。輝く銀河の果ての駅で星と会える日を待ち詫びてる。


        星空の彼方から愛を込めて。新生優也より。


 星は何度も何度も読み返し、優也の最後の優しさに触れた。止めどなく頬を伝う涙が地面に降り注ぐ。もはや、立っていることも叶わず膝を付き声を震わせた。優也との思い出が頭を駆け巡る。その全てが愛しい。優也に会いたかった。声を聞きたかった。逞しい腕でもう一度抱き締めてほしかった。どんなに願っても叶うことはない。優也の体はこの世から消え去ってしまった。

 「優也くん。会いたいよ」

 その瞬間心臓が妙な反応した。何故か自分の意思に反して鼓動が大きくなったような気がした。星はハッと泣き止んで胸に手を当てた。一定のリズムの鼓動が伝わってくる。気のせいだろうかと思った。しかし、もう一度名前を呼んでみた。

 「優也くん‥‥‥?」

 ドクン。間違いなく鼓動が強くなった。星は信じられない面持ちで胸を見た。

 「そこにいるの?」

 また一度強くなった。微かな鼓動の変化だが星には分かった。優也は確かにここにいた。その事が急激に実感として湧いてきた。優也は間違いなく星の側にいる。再び涙が溢れた。

 「優也くん‥‥‥優也くん‥‥‥」

 星は胸を押さえ嗚咽を漏らした。

 どらくらい泣いていただろうか。ようやく涙に別れを告げて顔をあげた時には薄暗い夜空に星が微かに瞬いていた。星空を見つめる星の目には先程までにはない強い光が帯びていた。優也を失った悲しみが消えたわけではない。乗り越えるまでにはまだ少し時間がかかるだろうと分かっていた。だけど、この先にどんなに辛いことが待っていても決して泣いたりはしない。何故なら、優也が最後に残してくれた手紙と心臓が自分の行く道を明るく照らし幸せへと導いてくれると信じているからだ。

 「ありがとう優也くん。私、頑張るから。だから、ずっと側で見守っててね。約束だよ」

 その言葉を待っていたかのように遠い星空に一際輝く流れ星が光を放った。

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