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世界で一番近くて遠い恋  作者: 松風いずは
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第一章




   彼女は読み終えた銀河鉄道の夜を病室の机の上に隅に置いて目を閉じた。本を読み終えた後はいつもこうして目を瞑り余韻に浸るのが彼女の習わしだった。幼い頃から愛読していて、物語は嫌と言う程に頭に入っていると言うのに、何度読んでも感動することが出来た。いつか自分が死ぬ時はこの銀河鉄道に乗ってみたいものだと思っていた。そしてその思いは、病を患ってからより一層強まっていた。

 そっと目を開いて、病室の開け放たれた窓の外を見ると、そこには青く澄んだ空が広がっていて、そして時折、夏の終わりを知らせると共に、秋の気配を感じさせる涼しい風が優しく吹いている。ただ、どれほど澄んだ青空が目に入ってきても、この白い小さな世界の中にいる限りは気持ちは晴れない。そんな想いに耽っていると病室の扉をノックする音が聞こえた。

 「はい。どうぞ」

 扉の方に顔を向ける。

 「お邪魔~」

 元気な声と共に入ってきたのは、黒髪ショートの制服姿の女の子だった。

 「陽香。今日も来てくれたんだ」

 陽香は彼女と同じ高校に通っているクラスメイトだった。

 「当たり前じゃん。星の為なら毎日だってくるよ」

 彼女の名前は松宮星。星と書いてあかりと読む。ある意味、これ以上ないキラキラネームだ。

 髪は黒のロングでストレート。肌は雪のように白く。抱き締めるだけで折れてしまいそうな華奢な体つき。顔は少し丸っぽく頬がモチッと柔らかい。鼻は小さいが、低くはない。目は二重で大きすぎず小さすぎない綺麗な半月上になっている。

 「ありがとう。陽香」

 「体調はどう?」

 陽香はベッド脇に置いてあるパイプ椅子を取り出して、そこに座った。

 「今日は良いよ。とくに発作もないし」

 「そう。それは良かった。これお土産ね」

 そう言って陽香はコンビニの袋からお菓子を取り出した。入っていたのは、星の好きなチョコレート菓子だった。

 「陽香は私を太らせたいの?」

 「そのつもりはあるかも。星は痩せすぎだし。何より、これ美味しいからさ。つい買っちゃうんだよね」

 陽香は早くも袋を開けてお菓子を食べ始めた。

 「全く。こぼさないように食べてね」

 そう言いながらも、星もちゃっかり一つ食べた。口一杯に甘味が広がる。普段は味気ない病院食しか食べてないので、余計に美味しく感じる。

 星が患っている病は突発性拡張型心筋症と言う心臓病の一種だった。これは難病に指定されている。この病気を治す方法は一つだけ。それは心臓移植をすることだった。

 星がこの病を発症させたのは小学六年の頃だった。ある日、動悸が止まらなくなって病院に診断してもらった所、この病気であることが発覚した。症状的にはまだ軽い方だったので、薬の治療だけで済み、日常生活を送る分には問題なかった。しかし、激しい運動や過度に興奮してしまう場所に行くのは禁止されてしまったので、体育の授業は不参加を余儀なくされた。中学校も何度が発作など起こしたものの、無事に卒業をして聖泉学園の高等部に通っていた。しかし、高二の夏休みが終わる直前に発作が起こり、学校が始まった今もこの南雲総合病院で入院生活をしている。

 「そう言えば、優也くんは来ないの?」

 二つ目のお菓子に手を伸ばしながら、星は聞いた。

 「何々?私だけじゃご不満?」

 「違うよ。そうゆうことじゃないって。ただ、どうせなら優也くんにも会いたかったなって」

 「ほらー。それが本音じゃん。優也は用事で来れないって言ってた」

 「そっか」

 星は少し落ち込んだ顔をする。

 「もうそんな顔しないでよ。ちょっと遅くなるって言ってたけど、優也も来るから」

 陽香はやれやれといった感じで言った。

 「ほんと」

 星の顔に笑顔が咲いた。頬がほんのり赤身がかっている。

 「そんな喜ばれると私の立場が無いんだけどなぁ」

 陽香はわざと不貞腐れた言い方をする。

 「あ、ごめん。ほんと違うの。陽香と優也くんの二人がここに一緒に居てくれるのが一番楽しいから‥‥‥決して、陽香の事が邪魔だとかそうゆう事じゃなくて」

 星は慌てて釈明する。その姿に陽香はクスッと笑う。

 「ほんと可愛いなー星は」

 「可愛いはやめてってば」

 星は可愛いと言われる事に抵抗を示す。病弱な自分が可愛いだなんてあり得ないと否定しているからだった。しかし、可愛いんだから仕方ないじゃんと陽香は思っていた。

 「じゃぁ、綺麗」

 「こんなガリガリのどこが綺麗なの?胸も全然ないし」

 「でも、どっかの外国のモデルもそんな感じじゃん」

 「モデルと比べないでよ。あんな美しい人達は稀なんだから」

 「でも、痩せてるなんて良いじゃん」

 「なりたくてなった体型じゃないよ」

 星は体型や外見の話しになると途端にネガティブになる。

 「そうだよね。ごめん」

 「ううん。大丈夫だよ」

 話しが一段落着いたところで、再び病室の扉をノックする音が聞こえた。

 「はい。どうぞ」

 先程と全く同じセリフを言うが、少し上ずってしまった。

 失礼しますと律儀に答えて、ガラッと開けて入ってきたのはスラッとした背の男の子だった。彼が新生優也だった。

 「新生くん」

 星の顔がパッと輝く。先程までは下の名前で呼んでいたが、それはあくまで陽香と二人きりの時だけだ。本人の前では恥ずかしくて下の名前では呼びたくても呼べなかった。

 「松宮。元気か」

 「うん。来てくれたんだね」

 少しはにかみながら答える。

 「ちょっと私がいるの忘れないでくれる?」

 陽香が横槍を入れた。

 「忘れてないよ。悪いな遅くなって」

 「別に謝る事じゃないでしょ。それより、早くこっち来て座りなさいよ」

 陽香はもう一つパイプ椅子を取り出し、自分の椅子の横に並べた。空気を読んで優也が星の顔に近い方に座れるようにした。

 「ありがとう陽香」

 優也は腰をおろした。

 星は幸せに胸が一杯になった。親友の陽香、そして友達以上恋人未満の優也との三人でのお喋りの時間が星にとっての一番の至福な時間だった。この時だけは病に対する恐怖や不安を忘れる事が出来た。お喋りの時間と言っても、星は基本聞き役に徹する。特段、話すことが無いからだ。二人が話してくれる内容は本当に大した事はない。普通の人が聞いたら退屈で白けるだろう。他人とってはなんてことないありふれた日常の話しでも、星にとっては掛けがけのない話しに聞こえる。これも病に倒れ、日常を普通に過ごせる奇跡に気付いた故だった。

 星と優也の出会いは今から一年半前。春と夏の合間に訪れる穏やかな陽気に包まれた五月の頃だった。

 ある日曜日に同じクラスで仲良くなった陽香と県内で一番大きいショッピングセンターに出掛けることにした。二人が住む町は田舎で、特に遊ぶ所が無かったので、電車でゆうに一時間は揺られないと遊べる街に辿り着かない程の田舎だった。そして、二人で映画を観て、何気なくショッピングセンターを歩いてる所に、優也と偶然出会ったのだった。

 陽香と優也は幼馴染みで中学まで同じだったが、高校は別々になった。

 早い話、一目惚れだった。キリッときた眼に落ち着いた声。今でもその時の胸のときめきを忘れられない。最初は発作が起きたと思って、不安になった。結局、その場では挨拶しか出来ずに別れる事になったが、その日から優也の事が頭から離れなかった。

 優也の事を思うたびに胸が締め付けられ高鳴った。今まで心臓が高鳴ると言う事は星にとって嫌なものでしかなかったが、発作以外にも胸が高鳴る事を知れて嬉しくて堪らなかった。そして、初めて自分の心臓を好きになれる瞬間でもあった。

 陽香に優也にまた会いたいと相談しようと何度も迷ったが、恥ずかしくて言えなかった。自分の幼馴染みを一目惚れする女なんて嫌だと思われるのが怖かったからだ。しかし、何度目かの発作で入院した時に、思いきって打ち明ける事にした。いつ死ぬか分からない身だからこそ、後悔するような生き方はしたくない気持ちの方が勝った。

 打ち明けた時は、意外なほどあっさりと受け入れられてくれた。むしろ、もっと早く言ってくれれば良かったのにと怒られた。そして必ず優也を連れてくると約束してくれた。ある日、陽香は優也を連れてお見舞いにやってきてくれた。その時は初めて会った以上の緊張が星を襲った。興奮で発作が起きたらどうしようと不安でしょうがなかったが、不思議なことに優也といるときに発作が起きたことは無かった。ただ、嬉しい以上に恥ずかしかった。

 初めはお互い緊張して上手く会話が噛み合わなかったが、何度か会話をしていく内に打ち解けていった。退院した後も陽香の計らいで三人で遊んだりして、徐々にその距離を縮めていった。

 優也は名前の如く、優しい男子だった。学力が高い人間にありがちな傲慢さも垣間見えなかった。賢く謙虚で、常に星の体調を気遣った。

 そんな、優也と会って話していると、どんどん惹かれる自分がいた。これ以上好きになっても、悲しいだけと言い聞かせても優也への気持ちは強くなっていた。けど、告白するつもりは毛頭も無かった。こうしてお見舞いに来てくれるだけで嬉しかったし、何よりいつ死ぬか分からない身の人間と付き合う酔狂な男子は居ないと悪い意味で信じきっていた。

 陽香はもっと自分に自信を持つべきと言ってくれるが、二人が帰った後に、トイレの鏡で自分のあまりにも弱々しい体つきを見る度に溜め息が出た。そして病気とは言え、こんな魅力のない女子を相手にさせている事を申し訳なく思った。

 それでも、優也は星にとって心強い存在だった。この病気を治して優也に好きと伝えて付き合いたいと言う希望が星の心を支えてくれた。症状が悪化しても、こうして明るく振る舞えるのは二人のお陰だと改めて感謝した。

 「もうこんな時間か」

 優也はポケットからスマホを取り出して、時間を確認した。時刻は18時を示そうとしている。

 「そろそろ帰らないとね」

 面会時間は18時までとされている。

 「じゃぁ、またね。星」

 陽香が別れを告げる。

 「今日もありがとうね」

 星は精一杯明るく答える。

 「ん?それ何の本?」

 帰ろうとした優也が机の上に置いてあった本に目を向けた。

 「これ?宮沢賢治の銀河鉄道の夜だよ」

 「へぇ。好きなの?」

 「私の一番のお気に入り」

 「借りても良い?俺も久しぶりに読んでみたい」

 優也の意外な提案に目を丸くしたが、すぐに笑って本を優也に渡した。

 「ありがとう」

 優也は本を受け取りカバンにしまった。

 二人はそれぞれ別れの言葉を告げ、病室を後にした。残された星はたちまち寂しくなった。これから最も辛い時間が始まる。誰にも会えない孤独の時間だ。しかし、今日は少しだけ気分が良かった。それは優也に貸した本が理由だった。自分の物が好きな人の家に行くなんて嬉しく思う。いっそのこと本と代われたら良いのになと思った。

 18時半に夜ご飯が運ばれてくる。いつものように何の感動もなく食べ切る。ご飯が片付けられ、看護師さんがいつものように薬を持ってくる。それを飲んだら後はただ夜が更けるのを待つだけだ。


 21時にもなると、病院内は静寂に包まれる。ましてや、個室にいる星には他の患者の寝息一つさえ聞こえない。星は少しだけ窓を開けた。そして、病室の静寂を優しく破る秋のオーケストラに耳を傾けた。最近、この自然のオーケストラを聞くのが夜の楽しみになっている。以前は何とも思わなかったが、毎日聞いてる内に暗闇に潜むオーケストラが大好きになった。

 鈴虫達が奏でるハーモニーに耳を委ねる。どこか懐かしく感じるのは、自分の先祖もこのハーモニーを真剣に聞いていたからに違いないと思い始めていた。

 夏の蝉達を熱いロックと例えるならば、鈴虫達は情緒的なバラードと例えれば良いだろうか。ただ、蝉の中でもヒグラシだけは鈴虫達と同じ括りにすのか、それとも静かなロックとして扱うか本気で悩んでいた。

 自分と同じような儚い命を持つ鈴虫達の切ない音楽は不思議なくらい心に染み込む。この切ない音楽を後何回聞くことが出来るだろうかとつい自分の余命をつい考えてしまった。

 星は頭を振ってその考えを振り払った。余命を推し量るのは自分の命を繋ぎ止めてくれる医者や看護師、そして必ず治ると信じて支えてくれている両親や優也達に一番申し訳ないことなんだと最近になって気付いた。体は弱くてもせめて心は強く持つんだと固く誓った。

 星は窓を閉めた。窓の外に目をやると、夜空には星空が広がっている。都会で決して見ることの出来ない星屑までが瞬いて見える。星は優也の顔を思い浮かべる。今頃、自分が貸した銀河鉄道の夜を読んでいるだろうか。優也は読んで何を感じで何を思うのだろうか。早く本の感想を聞きたい。体が元気だったら、今すぐにでも会いに行くのに。しかし、行けるはずもない。しかも、明日はお見舞いには来れないと言っていた。星は優也に会える明後日が待ち遠しかった。



 昼休みのチャイムが鳴り、一斉に賑やかな声が教室内に生まれた。偏差値の高い高校も低い高校も昼休み前の授業の苦痛さは変わらないようだ。他のクラスメイトが各々グループを作って弁当を食べるのを横目に優也は自席で黙々とご飯を食べていた。

 優也の通う令羽高校は県内一の進学校としての呼び名が高い。特に優也がいるクラスは選抜クラスと呼ばれていて、一年生の時に抜群の成績を残した者しか入れないクラスだった。それ故、自らの頭を過信する者も多く、人を見下した態度を取る連中がいるのも事実だった。優也はそんなクラスの雰囲気に馴染めていなかった。

 ここでは学校のテストの順位がそのままクラスのヒエラルキーとして存在する。つまり、いくら顔が良くてもバカは相手にされない。逆に順位が高ければ祭り上げられる。優也は成績も良いのに加えて、顔も良かったので女子からの人気が群を抜いて高かった。それに嫉妬した一部の陰険な男子と優也に告白してこっぴどく振られたヒエラルキートップの女子がわざと馴染めない空気を出しているのだった。いじめといじめなのだが、優也も無視を決め込んだ。馴染めないと言うより馴染んだら負けくらいに思っていた。

 最も、これはクラス内の話しであって、他クラスには友人もいる。優也は学年トップクラスの成績を修めているが、性格も良いため人望も厚い。クラス内の人間も本当は優也と仲良くしたいのだが、標的にされるのが恐くて従っているだけだった。その気になれば、いくらでも反撃は可能なのだが、馬鹿馬鹿しくて反撃する気にもならなかった。

 弁当を食べ終えた優也はカバンから読み掛けの銀河鉄道の夜を出した。読む前にこの本を貸してくれた星の事を想った。今もこうして辛い闘病生活を送っている星の事を思うと、胸が痛んだ。

 ある日、陽香に友達のお見舞いに行くから付いてきてと半ば無理矢理連れていかれたかのが去年の秋頃。何故、自分なのかと優也はしきりに尋ねたものの、陽香は気にしないでの一点張りだった。病院に行って、星に会った時は驚いた。ショッピングセンターで陽香と一緒に居た女子だったからだ。実は優也もまた星の事を気にしていたのだった。

 ショッピングセンターで会った時の事を今でも鮮明に覚えている。陽香の後ろに隠れるように立っていた。全体を見たときは弱々しいと言う印象しか受けなかった。しかし、不意に目があった時は何とも言えない高揚感に包まれた。その目には見る者を惹き付ける何かがあった。陽香にどうしたのと声を掛けられるまで目を離すことが出来なかった。

 何故、あんなにも目が離せなかったのか優也自身にも説明出来なかった。ただ、星の見に纏う空気は明らかに他の誰かとは違う事だけは分かった。

 淡い恋心を胸に抱くも、優也はその気持ちから目を背けていた。恋心を認めた所で叶うことは無いと無意識に思っていた。しかし、会えば会うほどに星への想いを否定することは出来なくなっていった。

 優也は手に持っていた銀河鉄道の夜に目を向ける。昨日、本を読んだ時にある場所を思い出した。星が退院したら一緒に行きたい場所。この本が好きならば、必ず気に入ってくれるだろう。優也はその場所で星と二人きりで過ごす想像をした。胸が高鳴る。早く星に会いたくなった。

 

 星が入院している南雲総合病院は陽香と優也の住む町から電車で五つ離れた場所にあった。今日は土曜日なので、地元の最寄り駅に集合してから病院に向かうことになっていた。 

 駅の待合室で陽香を待っていると携帯が鳴った。相手は陽香からだった。

 「もしもし?」

 「あ、優也?ごめん。今日行けなくなっちゃった」

 「えっ?どうして?」

 「お婆ちゃんの具合が急に悪くなったの。それに今は私しか家に居ないんだ」

 陽香は両親とお婆ちゃんの四人暮らしをしている。陽香のお婆ちゃんは優也も知っている。と言うより、二人目の孫のように良くしてくれている。

 「そっか。それは仕方ないな。じゃぁ、今日は俺一人で行ってくるよ」

 「うん。そうしてくれる。ごめんね。ほんとに」

 「いや、気にしなくて大丈夫だよ。それよりお婆ちゃんの方をちゃんと面倒看ろよ。俺もお世話になってるし、心配してる」

 「ありがとう。そう言えば、星と二人で会うのは初めて?」

 「うん。まぁ、そうかな」

 触れてほしくない所に触れられてしまい、歯切れが悪くなった。

 「ま、頑張りなさいよ」

 「な、何をだよ」

 「分かってるくせに」

 電話の向こうでニヤついてるのが、ありありと浮かぶ。

 「電車が来るからもう切るぞ」

 「星によろしく言っておいてね」

 「分かった」

 優也は電話を切った。

 電話を終えた陽香は時計を見た。今は14時20分。次の電車が来るまでは後15分程ある。優也の嘘には気付いていたが、あえて触れずに電話を切った。それにしても、優也があんなにも動揺する様子を見せたのは初めてな気がした。陽香は一人微笑んで、祖母の世話をするため部屋に戻った。

 病室の前に着いた優也はいつになく緊張していた。一つ深呼吸をしてドアをノックした。中から「どうぞ」と聞こえてドアを開けた。

 「お邪魔します」

 「新生君」

 星が微笑みながら迎えてくれた。隣には中年の女性が立っていた。

 「あら、新生君じゃない」

 中年の女性が声を掛けてきた。背は低く丸っこい顔をしている為か、実年齢より若く見える。そして、常に人の良さそうな笑みをたたえている。 

 「おばさん。ご無沙汰してます」

 優也居ずまいを正した。優也に声を掛けたのは星の母である松宮里美だった。

 「相変わらず真面目で礼儀正しいわね。星にも見習ってほしいものだわ」

 里美は更に微笑んだ。

 「ちょっと、お母さん。変な事言わないでよ」

 星は顔を真っ赤にしてる。優也は思わず可愛いなと思った。

 「新生君。いつもありがとう。こんな子のお見舞いなんてつまらないでしょう」

 「いえ、とんでもありません。一緒に居て楽しいですし、何より来たくてここに来てますから」

 「あらあら、星には勿体無いくらいね」

 「本当に止めてってたら。もう早く帰ってよ」

 「はいはい。何か必要な物があったら言いなさいよ。じゃぁ、新生君。星の事よろしくね」

 「あ、はい」

 星の母は病室を後にした。

 「全く。余計な事しか言わないんだから」

 星は少し不貞腐れたように愚痴をこぼした。

 優也はベッドの側によって、パイプ椅子に座った。

 「かなり元気になってきたみたいだね」

 「うん。検査結果が問題が無ければ、今週中には退院できるって」

 「ほんとに!それは良かった」

 優也は無邪気な笑顔で心から嬉しそうに言った。

 星はその顔を見て、少し照れてしまった。

 「そう言えば、陽香はどうしたの?」

 「今日は急用で来れなくなったんだ」

 「そっか」

 星は少しそわそわしだした。まさか優也と二人きりになるとは思っても無かった。

 「あ、そうだ。まずはこれを返さないと」

 優也はカバンから本を取り出して、ベッドに備えてある机に置いた。

 「どうだった?」

 「面白かった。年齢を重ねて読み返すと、内容の理解が深まって、より感動するね。ただやっぱり、銀河鉄道に乗ってみたくなったのは今でも変わらない」

 星は優也が同じような感想を抱いた事に気分が高揚した。

 「私も同じ。そしてずっと夢に見てるの。銀河鉄道に乗って、星屑の夜空を駆け抜けてみたいって‥‥‥子供過ぎるかな」

 星は指をクルクルさせた。照れた時に見せる仕草だ。

 「いや、素敵な夢だと思うよ」

 「新生君は優しいから、そう言ってくれると思ってた。でもね、自分で分かってるんだよ。そんなことあるわけ無いって。でも、普通に過ごせない私は、普通の人が見ないような夢を見てたい。すぐにでも叶ってしまうかもしれないけど‥‥‥」

 星の声は沈んでいる。

 「そんな弱気になるなよ。必ず治るって俺も陽香も親も皆信じてるから」

 優也は励ますように言った。

 「そんな日が来るかな」

 以前、退院前が一番ナーバスになると星が言っていたのを思い出した。何でも、また発作が起こって、今度こそ退院できない程悪くなったらどうしようと言う不安と恐怖に駆られるそうだからだ。

 星の沈んだ表情を見て、優也の心は強い痛みを覚えた。それでも、優也は明るさを忘れず星に話し掛けた。

 「じゃあさ、病気が治ったらどんな夢をみたい?」

 優也の問いに星は戸惑った。いくら何でも、正直に言うのは恥ずかしすぎる。

 「何でもいいよ。バンジージャンプしたいとか、スポーツを思いっきり楽しむとか」

 「えっと、そうだな」

 何とか上手い返事を言いたいが、思い付かない。 

 「今は無かったら、無理に言わなくて良いよ」

 「ごめん」

 「謝ることじゃないよ。次会う時までに考えておいてよ」

 「えー」

 「やっぱり楽しいことを考えた方がさ、人生楽しくなるじゃん」

 ありきたりな理論だが、優也が自分を元気付けようとしてくれてる事を思うと、無下には出来ない。

 「分かった。たくさん考えておく」

 優也は嬉しそうに笑った。

 優也の笑顔は今の星にとって一番の薬だった。この笑顔を見ると、暗い気分がどこかへと飛んでいく。だからこそ、優也が帰って、一人になると余計に寂しさを感じる事にはなるのだが。

 それから二人は他愛もない会話を繰り返した。初めての二人きり時間はあっという間に過ぎ去り、面会終了時間となった。

 「もうこんな時間になるんだね」

 側の台に置いてあるデジタル時計を見た星がポツリと呟く。まるで、時間に恨みを込めたような言い方だった。それは優也も同じだった。もっと一緒に居たい。二人きりと言う事実も相まって、この部屋から出ていくのが嫌だった。優也は気紛らす為に窓の外を眺めた。

 「相変わらず綺麗だな」

 優也の目に飛び込んで来たのは、沈み行く夕陽とオレンジ色染まる世界だった。

 「そうでしょ」

 星が嬉しそうに優也の方を見ている。

 「今もこの景色を毎日眺めてるの?」

 「最近はたまにね。さすがにこれだけ入院するとどんなに綺麗でも飽きは来ちゃうみたい」

 「そっか」

 優也は少し笑った。

 「初めて入院してこの夕日を見たときは鳥肌が立つくらい感動した。それこそ、毎日眺めては祈ってたの」

 「なんて祈ってたの?」

 「二度とここから見れませんようにって。まだ叶えてはくれないみたいけど」

 星は寂しげに笑った。

 「もうすぐ叶うさ」

 「そうだと良いね」

 優也はもう一度夕日を見つめた。心の中では星の願いを強く願っていた。

 「新生君?」

 星の声に優也は我に帰った。

 「ああ。ごめん」

 「そんなに熱心に見つめて、何を思ってたの?」

 「いや、大したことは考えてないよ」

 「凄い真剣な顔してたけど」

 「真剣な顔をしながらでも、どうでもいい事を考えたりするの。それより松宮にお願いがあるんだ」

 「私に?」

 星は目を丸くした。

 「そう」

 「私が出来ることなら良いけど、大したこと出来ないよ?」

 「大丈夫。むしろ、松宮にしか出来ない事だから」

 「そんなことあるかな?」

 「退院したら、俺と一緒に行って欲しい場所があるんだ」

 「えっ‥‥‥」

 予想だにしてなかった優也のお願いに星は言葉に詰まった。それと同時に星の心臓が激しく鼓動し始めた。

 「松宮とどうしても行きたいんだ」

 「そ、それって二人でってこと?」

 「もちろん」

 優也は力強く返事をした。

 「どこに行くの?あまり遠くは行けないと思うから」

 答えは決まっていたが、敢えて即答はしなかった。

 「俺の地元だよ。そこに松宮にピッタリの場所があるんだ。行って後悔はさせない」

 「どんな所?」

 優也はフッと笑った。

 「それはまだ内緒。でも、必ず気に入る。体調の事もあるから松宮のタイミングに合わせるよ」

 「新生君がそこまで言うなら良いよ」

 星は顔を下に向けながらOKの返事をした。恥ずかしくて優也の顔を見れないのだ。

 「ほんと!ありがとう松宮」

 優也は心底嬉しそうに喜んだ。少し頬が紅潮している。星も釣られて照れ笑いを浮かべる。

 「じゃぁ、今日は帰るね。検査が無事に終わることを祈ってるよ」

 まだ頬を紅潮させている優也を見て、星は嬉しくなった。

 「ありがとう。それと、楽しみにしてるね」

 「うん。俺も。じゃぁね。また来るよ」

 優也はいそいそと扉に向かった。舞い上がってる様子が手に取るように分かる。最後に優也は星に手を振った。星も小さく手を振り返して優也を見送った。

 優也が病室から出たのを確認すると、星はベッドに横たわり顔を手に覆って今のやり取りを思い出した。こんなにも幸せに満ちた気分になったのはいつ以来だろうか。退院する事がこんなにも楽しみになったのは久し振りだった。入退院を繰り返す内に、次はいつ発作が起きて入院するのだろうかと言う憂鬱な気分の方が勝っていた。勿論、優也と出掛けられるのは明日の検査結果次第と言う事は忘れてないが、それでも今はこの幸福感に包まれていたかった。

 夜になりいつもの静寂が辺りを包み込む。いつものように秋の音色に耳を済ませる。どうやら、今日はソロコンサートのようだ。

 星は優也がどこへ連れて行ってくれるのかを考えていた。体の問題で遠くまでは行けないと言ったが、本心は優也とならどこへでも一緒に付いて行きたいと思っていた。

 こんな心臓じゃなきゃどこへでも優也と遊びに行けるのに、今更ながら自分の心臓を呪いたくなった。でも、と考える。もし、この心臓でなければ果たして優也と出会えただろうか。体の都合で高校も家から近い所を選らばざるえなかった。もし、自分が病気ではなかったら、高校も違う所に通っていたかもしれない。そしたら、陽香とは出会うこともなく、当然、優也とも出会わなかったはずだ。

 今の人生と優也に出会わない人生ならどっちが嫌かと問われると優也に出会わない人生の方が嫌だった。それほどまでに星は優也に惚れていた。

 何故、こんなにも優也に惹かれるのか自分でも分からなかった。これまで男に目をくれずに生きてきた。好きになってもなられても、辛いだけだと自分に言い聞かせてきた。お見舞いに来てくれる男子は優也以外にもいた。皆、良い人だし優しくしてくれた。でも、優也に会った時のような反応する人は居なかった。

 会えば会うほど好きなる。そんな人に出会える人はこの世に何人いるだろう。今までは普通に生きることを目標に闘病生活を送ってきた。しかし、今は変わった。とにかく優也と生きたい。例え、病気が治らなくても良いから、少しでも長く優也と一緒にいることが星の心の支えになってきている。

 耳を済ませると、ソロは終わり三重奏になっていた。星はそっと目を閉じて、静かに寝息を立て始めた。



 星は丘の上の草原に立っていた。まるで、ジョバンニが眠ってしまった場所のようだ。崖の縁に一人の男の子が立っていた。その後ろ姿で誰か分かった。優也だ。星は小走りで優也の元へ駆け寄った。隣に立って優也の顔を見る。その端正な横顔は星に気付く事もなくひたすら目の前を見つめている。目の前には何もない。空も雲も星も町も何も見えない。ただ黒い世界があるだけだ。声を掛けようとするが、声が出ない事に気付いた。星は優也の肩に触れようとした瞬間、目まぐるしく場面が変わった。

 先程の草原とはうって変わってベンチに座っていた。どこかの建物の中だろうかと星が前を見ると線路があった。どうやらここは駅のようだった。そう言えば、どことなく見覚えがある。もしかしたら、地元の駅かもしれない。今度は周りには誰もいない。独りぼっちだった。星は途端に怖くなった。堪らず立ち上がりホームの端から端へと誰か居ないかと探した。急に警笛のような音が鳴った。音の鳴った方に目をやったが、何もない。星はもう一度周囲を見渡した。すると、向かいのホームに誰かいた。顔は見えないが、星は胸を撫で下ろした。すると、顔の見えない誰かが星に手を振って、おいでおいでと手を招いている。その姿に星は独りぼっち以上の恐怖を覚えた。今すぐ逃げ出したかったが、出口が見当たらない。星は思い付いたように線路に降りて、全力で駆け出した。こんな急に走り出したら、心臓に負担がかかり発作を起こしそうなものだが、今はそんなことを気にしていられなかった。再び警笛が響く。地響きと共にすぐ目の前に汽車が迫っていた。星は足を止めた。ふと、横を見るとさっきの顔の見えない誰かが同じように手を招いている。迫る汽車に星は逃げる気力が失せていた。ぶつかる寸前に星は目をぎゅっと閉じた。

 そして、またも場面が変わった。星が目を覚ますと草の上に寝転んでいた。違うのは夜だと言うことだ。見上げている夜空には美しい星屑が群れをなしていた。あまりの美しさに息を呑んだ。地元の夜空で見える星は多い方だと思っているが、文字通り桁が違う。少しの間、星空に見とれていた。そして、ゆっくり体を起こした。見渡せばそこはさっきの丘の上の草原だった。どうやら、戻ってきたみたいだ。星は立ち上がり服についてるであろう草を簡単に払おうとしたが、服は全く汚れていなかった。

 また独りぼっちかと思ったが、前方の崖の縁に人影が見えた。星は恐る恐る近付く。まるで、近付いたのを察したかのように人影が星の方を向いた。星はその顔を見て腰を抜かすほど驚いた。何故なら、自分だったからだ。正確には自分の顔をした女の子が目の前にいた。

 これは自分?所謂、ドッペルゲンガーと言うものなのか?そもそも、ここはどこで私は何をしているのだろう。夢の中?それにしては意識があまりにもハッキリしてる気がする。しかし、現実なはずがない。何故なら、私は病室で寝ているはずだから。頭が混乱してきた。とりあえず、彼女が誰なのか知りたかった。星は意を決して声を掛けた。

 「あなたは?」

 今度は声が出た。しかし、星の顔をした女の子は何も答えない。ただ微笑んでる。星は手を振って見る。何の反応も無かった。ようやく、視線が自分に向いてない事に気付いた星は後ろを向いた。少し離れた所に人影があり、ゆっくり近付いている。星はその人影が誰なのか感づいた。そして、星の予想通りその人影の正体は優也だった。

 「新生君」

 星は思わず呼び掛けていた。しかし、優也も星の声に気付く風も無い。星はもしかしてと思い、近付いてきた優也に星は手を伸ばして触れようとしたが、優也は星の体をすり抜け、星の顔をした女の子の正面に立った。星は少し横にずれて二人の様子を窺った。自分の顔をした女の子からは微笑みが消え、今は開かれた瞳から涙が流れていた。優也の方は泣くでも笑うでもなく、その場に佇んでいる。ただ、その瞳には大きな覚悟を決めたような強い光が宿っていた。

 「新生君」

 もう一度声を掛ける。今度はさっきよりも大きな声で。しかし、反応は無い。星は泣きたくなった。ふと、背後に気配を感じた。後ろを振り向くと、そこには見知った顔が溢れていた。陽香がいる。両親もいる。クラスメイトもいる。それに私の担当医である高科先生がいて、その隣にはナースの倉本美咲がいた。何故、皆がここにいるのかも分からない。けど、共通して分かるのは決して楽しそうな顔をしてる人は一人もいない。

 何が起こるって言うの?星は大声で叫んだ。自分でもこんな大声が出るのかと驚いた。なのに、誰も反応しない。皆の沈んだ表情を見て星も声を掛ける事を諦めた。

 不意に、遠くから警笛の音が響いた。次の瞬間、目映いばかりの光に包まれた。星は咄嗟に目の周りに手で影を作った。星は目を見開いた。正面から汽車のような物が近付いてくる。汽車は急カーブを描いて、星達の前に停車した。

 星は開いた口が塞がらなかった。まるで、銀河鉄道の夜のような光景が目の前に広がっている。先程まで唸りをあげていた黒い鉄の塊は水を打ったように静まっていた。

 星は汽車を観察した。よく見るとその車体は黒ではなく深い紺色だった。車体には傷一つなく、空の星を散りばめたように銀色の光が輝きを放っている。まるで、星空をモチーフにしたようなデザインだ。その圧倒的な美しさに星は心を奪われた。

 我に帰った星は自分の方に目を向けた。汽車を背に微動だにしない。隣に立っている優也も同じように立っている。他の皆は啜り泣いていたり、顔を伏せていた。どうやら、誰かがこの汽車に乗るようだ。そして、それは私だろう。皆が泣いたりしてるのは、これに乗るのが何を意味するのかを知っているからだ。

 つまり、私は‥‥‥そこまで考えて恐怖に震えた。今までとは比べ物にならないくらいの恐怖を覚えた。星は夢中で自分に大声で叫んだ。

 「乗らないで。乗っちゃダメ」

 悲鳴にも似たような声だった。ほんの一瞬、自分と目が合ったような気がした。自分はもう一度微笑んだ。その微笑みはあまりにも悲しく切ない微笑みだった。そして、汽車の方にゆっくり体を振り向けた。そして、一歩踏み出す。

 「いやぁぁぁぁぁぁぁ」

 頭を抱え込んで叫んだ途端、星は目を覚ました。

 「大丈夫かい?」

 ベッドの横で心配そうな顔で声を掛けたのは高科誠一郎だった。高科は星の担当医だった。

 「ここは?」

 思わず口から出てしまった。 

 「病室だよ。さぁ、水を飲んで。そして、ゆっくり呼吸をして」

 変な質問にも冷静に答える。水が入ったコップを差し出した。星はコップを受け取り一気に飲み干した。

 「良かった」

 そうは言うものの、息遣いがまだ荒かった。加えて、汗で全身がグッショリ濡れていて、酷く気持ち悪い。星はまだ自分の体が少し震えている事に気付いた。

 「目が覚めて良かった。相当な悪夢を見てたようだね」

 「‥‥‥」

 「倉本さんが泣きながら僕の所に飛んできたよ。星ちゃんが痙攣を起こしてるって」

 倉本は星の担当ナースである。小柄で人懐っこい笑顔が可愛いナースだった。

 「すみません」

 「別に謝る事はないさ。病人に悪夢は付き物だからね。それにしても、どんな夢を見ていたんだい?」

 「私が死ぬ夢‥‥‥ただ、もう怖くて‥‥‥」

 また体が震えだした。声は涙声になっていた。

 高科はそっと肩を抱いた。肩に伝わる温もりが星の恐怖を少し和らげてくれた。

 「もう言わなくていいよ。嫌なことを思い出させちゃったね。すまない」

 高科は素直に謝った。

 「先生。私はもうすぐ死ぬの?」

 「何を言ってるんだい?君は生きてる」

 高科は窓にもたれ掛かった。

 「自分が死ぬ夢を見るなんて縁起が悪すぎます」

 「夢はあくまで夢だよ」

 高科は諭すように言う。

 「でも‥‥‥」

 「どんなに良い夢を見ようが嫌な夢を見ようがそれはただの夢だよ。気にしちゃいけない。まぁ君が予言者の末裔とかだったら、話しは別だけど」

 「それに悪い夢は起こるって言うなら、僕の今朝の素晴らしい夢も是非現実に起きて欲しい所だね」

 「どんな夢を見たんですか?」

 「僕の寝ている隣に某人気アイドルグループのセンターが横で寝てたって夢なんだけどね。僕はまだ独身だし、是非とも起こっていただきたいね」

 星はクスクス笑った。もう震えは収まっていた。

 「それは起こるわけ無いですね」

 「じゃぁ、君の夢も起こるわけ無いさ。嫌な夢は起こって良い夢は起こらないだなんて理不尽にも程がある」

 「そうですね」

 「それにもうひとつ。死ぬ夢は確かに嫌だけど、決して悪い夢とは限らないよ」

 「どうしてですか?」

 「夢の中で死ぬと言うことは、新しく生まれ変わる意味も含まれているそうだよ。つまり、君自身の中で何かが生まれ変わるのかもしれない」

 「生まれ変わる‥‥‥」

 「そう。そしてそれは、君の心臓かもしれない」

 「えっ」

 「つまり、君の心臓のドナーが近々見つかるかもしれない暗示かもしれない」

 「それは‥‥‥素直には喜べないです」

 「そうだね。まぁ、今のは非科学的な発想で何の根拠もない話しだ。何度も言うように夢はあくまで夢だよ」

 「はい」

 「夢はともかく君は生きてる。だから、あまり暗くなってはいけない。それに僕は朗報を持ってきた」

 「朗報?」

 「そう。検査の結果、特に問題は見つからなかった。明日一日様子を見て、何もなければ明後日には退院できる」

 「本当ですか?」

 星の声に明るさが戻った。

 「こんな嘘は言わないよ」

 「良かった。先生本当にありがとう」

 星は頭を下げた。高科には心から感謝をしている。自分がこうして命を繋ぎ止めてるのも高科のお陰だと重々理解していた。星が入退院を繰り返しても、強い心を保てるのに高科の存在は大きかった。

 高科は少し照れた様子を見せた。しかし、すぐ真顔に戻る。

 「まだ完治した訳じゃない。あまりはしゃぎすぎないように」

 「分かってます」

 星は頷く。

 「特にデートは控え目に。あまりドキドキさせるのは心臓に良くない」

 「なっ‥‥‥」

 星は驚きを隠せなかった。高科はニヤッ笑っている。

 「どうしてその事を?」

 「患者の些細な体調の変化に気付く為に、医者やナースの耳は地獄耳になってるんだよ」

 星は一気に体が熱くなった。

 「あの彼は本当に良い子だね。爽やかで礼儀正しいし、何より賢い」

 「話した事があるんですか?」

 星の記憶では二人が絡んでる姿は見たことがなかった。

 「ああ。少しだけね。星ちゃんが惚れるのも分かるような気がする」

 「そんな。惚れてなんか‥‥‥」

 「彼が来る前にいつも手持ち鏡で何度も髪を櫛で溶かすのはどこの誰かな?」

 「そんな所まで見てるんですか」

 「ナースも女子だからね。人の色恋には敏感なんだよ。ましてや、星ちゃんはナース達の間では妹みたいなものだから」 

 南雲総合病院は田舎の割には大きい病院で入院患者もそれなりにいる。ナース達の間で星は特に評判が高かった。元々、母性本能が強い人が多いナース達は星のように真摯に病気と向き合い、闘う姿に変な話しきゅんと来てしまうのだ。それに加え、星のピュアな性格にノックアウト。ナースの中には星を自分の妹のように可愛がるナースもいた。本来、どの患者にも分け隔てなく接するのがナースの務めとは言え、そこは人間。どうしてたって、贔屓にしたい患者の一人や二人がいるのは当たり前の事である。

 「そう想ってくれるのは嬉しいですけど、何だか恥ずかしいですね」

 「まぁ、あまり責めないであげてくれ。皆、君の幸せを願ってるのは確かだから」

 「はい。ありがとうございます」

 「さてと、僕はそろそろ戻るとするかな」

 「あ、ごめんなさい」

 「いや、謝らなくていいさ。何か体に異変が起きたら、すぐに知らせること」

 「はい。ありがとうございました」

 高科は頷き、手を上げて病室を後にした。

 星は一人になり、夢のことを思い出したそうとしが、既に大部分は忘れていた。ただ一つだけ。自分のあの微笑みだけは忘れられそうになかった。今も鮮明に思い出せてしまう。星は無理矢理頭から振り払った。

 

 翌々日の午前10時。昨日も特に異変が起こることは無かったので、無事に退院することになった。

 星は久し振りに私服に腕を通した。半袖の紺のブラウスに細身のデニムと言う至ってシンプルな格好だ。久々の私服だったので、見慣れるまでに少し時間が掛かった。

 昨夜、スマホで優也と陽香に退院する旨のLINEを送った。二人の文面から喜びが溢れていた事に凄く嬉しく思った。学校があるから、病院には来れないが陽香とは来週の月曜から学校で会えると思うとワクワクする。そして、優也とのデート。鏡の前で思わずにやけてしまった。丁度、別の患者さんがトイレに入ってきて、星は慌てて真顔に戻した。

 母と一緒に病院の正面玄関に出た。残暑が厳しい。風は無風で半袖一枚でもすぐに汗がジワッと湧いてくる。正面玄関には父正博が車で迎えに来ていた。正博は柔和な里美と反対で眉間に皺を寄せ、常に渋面を浮かべている。顔が表すように真面目で頑固な父親だった。しかし、星がこの病気に掛かったと医師から告げられた時は誰よりも嘆いた。そして告げられた日、夜遅くにトイレに起きたら、自室で泣いている父を見た。星の知る限りでは、父の涙を見たのはその時が初めてだった。

 「忘れ物はないか?」

 正博が星に確認する。

 「うん。大丈夫」

 「よし。じゃぁ、先生達に挨拶をしてきなさい」

 正博は正面玄関まで見送りに来てくれた高科先生の方を指差した。高科の後ろには星を担当したナース倉本美咲が控えている。星は荷物を正博に預け、二人の元へ近寄った。

 「皆さん。ありがとうございました」

 星は深くお辞儀をした。

 「おめでとう」

 高科はニッコリ微笑んだ。後ろの美咲も同じように笑顔を見せている。

 「先生。今回も大変お世話になりました」

 いつの間にか横に正博が立っていた。

 「いえ、私の力不足でまだ完治には至らず申し訳ございません」

 「いやいや、先生だからこそこの子もここまで元気になっているんです。本当に良い先生に恵まれました」

 正博も深々とお辞儀をした。

 「いやぁ、頭を上げてください。患者を完治させるのが私の仕事です。まだまだお礼を言われるには及びません」

 高科は少し頬を掻いた。

 「定期検診はこれからもペースを変えずに来てください。そして、少しでも異変を感じたら、直ぐに相談して下さい。どんな小さな事でも、決して軽く見てはいけません」

 「分かりました。ありがとうございます」

 正博はもう一度頭を下げた。

 「星ちゃん。何がともあれ、今を精一杯楽しむんだよ。それが一番だ」

 「はい。先生」

 「星ちゃん」

 今度は美咲が声を掛けた。

 「美咲さん。先日は心配をかけてごめんなさい」

 「ううん。良いのよ。それより、星ちゃんの退院は嬉しいけど、会えなくなるのが寂しいな」

 「私もです。美咲さんの明るさで救われた事もありました」 

 「そう?それだけでも、ナースになった価値があったな」

 「また定期検診の時に面白いお話し聞かせてください」

 「うん。まだまだあるから任せて。あ、それと」

 美咲は星の耳元に口を近付けた。

 「星ちゃんこそ、良い報告を待ってるからね」

 美咲はウインクをした。星は思わず下を向いてしまった。

 「さぁ、そろそろ帰ろう」

 正博が星を促した。星は後部座席に乗り、すぐにパワーウィンドウを下げた。

 「じゃあね。星ちゃん」

 高科と美咲が手を振る。星も手を振り返す。紺のクラウンが滑るように走り出した。星は窓から少し身を乗り出した。危ないから止めなさいと正博に嗜められたが、それでも止めずに最後まで手を振り続けた。

 皆の姿が見えなくなると、星はシートベルトを閉めて大人しく座った。

 南雲総合病院の側には星屑川がと言う名の大きな川流れている。その星屑川沿いをひたすら直進する。星は窓を開けっ放しにして、久々の外の空気を味わい始めた。入院中に外に出ると言っても、病院内の中庭ではどこか閉鎖的な空気が拭えず、外の空気を吸ったようには感じなかった。

 川に目を向けると、手前の河川敷で草野球の試合をやっていた。向かい側の河川敷ではバーベキューを楽しんでい和貝男女のグループが見える。恐らく、大学のサークルか何かだろう。キンと言う甲高い音が耳に響いた。見ると、空高く上がっている野球ボールが見える。綺麗な放物線を描いたボールは外野の頭を大きく越えて芝に落ちた。打ったチームは皆立ち上がり拍手なり、ハイタッチなり交わしている。声は聞こえないが、本当に楽しんでいるのがひしひしと伝わってくる。星は思わず頬を緩めた。

 普段何気なく見える景色も退院した後に見ると何倍も愛しく見える。星は改めて退院出来たことを嬉しく感じた。

 

 車を10分程走らせると家に着いた。星の家はそれなりの大きさを誇る一軒家だった。人の腰の高さほどの門扉があり、そこを入ると左手に小規模なバーベキューなら出来そうな広い庭がある。その庭には松宮家のペットである雄の柴犬のあしゅまるが尻尾を振って待っていた。

 「ただいま。あしゅまる」

 星はあしゅまるに近付いて膝をついて抱き締めた。あしゅまるは星の顔をこれでもかと言うくらいに舐めた。

 あしゅまるとの抱擁を終えた星は一ヶ月振りの自宅の扉をくぐった。改めて、我が家に帰ってこられた実感に胸が温かくなった。自室に入り、皺一つないベッドに倒れ込んだ。仰向けになり、天井を見つめる。明日からまた普通の生活が出来る。ご飯を食べ、お風呂に入り、学校に行き陽香とお喋りが出来る。窮屈な世界に居たからこそ、自由な生活に戻れる事に目一杯の感謝をした。無論、再発の不安は常にある。けど、高科先生の言うように今を思う存分楽しまないと。

 机の上に置いておいた、スマホが振動する。星はベットから起き上がりスマホを手に取った。陽香から着信が来ていた。

 「もしもし?」

 「星?退院おめでとう!」

 のっけからハイテンションな陽香に思わず笑ってしまう。

 「ありがとう。まさか電話をしてくれるなんて思ってなかった」

 「まぁ、LINEで言うより手っ取り早いしね。それに、星に確認したいことあったし」

 「確認?」

 「今日さ、最寄り駅まで出てこれないかな?」

 「どうしてまた?」

 「せっかくだし、会いたいなって思ってたさ。もちろん、無理なら全然良いんだけど」

 いきなりの遊びの誘いに面を食らったが、断る理由なんて無かった。

 「ううん。大丈夫だよ」

 「ほんと?誘ったのにこんなことを言うのもあれだけど。退院したばっかりだし、本当に無理はしてほしくはないんだけど。それにご両親も心配するだろうし」

 「私は平気だよ。親も説得する。私も陽香に会いたいし」

 「ありがとう!じゃぁ、学校終わったら、そっちに向かうね!」

 「うん!また後でね」

 「後、ちゃんと優也も連れていくから楽しみにしておいて」

 「えっ」

 「あ、授業始まっちゃう。じゃね」

 「ちょっと」

 陽香は待たずにそのまま電話を切った。

 星は少し呆然としたが、寝癖を直す為に急いでお風呂に向かった。

 お昼になり里美が用意してくれた素麺を食べた。9月の半ばとは言えまだ暑いので、丁度良かった。

 「ねぇ、後で少し出掛けてくるけどいい?」

 八割程食べ終えた星が話し切り出した。

 「今日くらいゆっくりしなさい」

 里美が間髪入れずに否定した。正博は会話には入らず、黙々と素麺を食べている。

 「駅までだから良いでしょ?」

 「今日はダメよ。高科先生も無理はするなって仰ってたでしょ」

 「でも、陽香達が来てくれるって言うんだもん」

 「ダメなものはダメ」

 星は唇を噛む。すると、正博が徐に口を開いた。

 「良いじゃないか別に」

 星と里美は驚いて正博の方を見た。

 「あなた何て言った?」

 里美が恐る恐る聞いた。

 「良いじゃないかって言ったんだ。星も元気そうだし、駅までなら無茶でも無いだろう」

 そう言って、正博は新聞のページをめくった。

 「でも、あなた‥‥‥」

 「心配し過ぎるのも星に良くない。好きに出掛けさせてあげなさい」

 「パパ‥‥‥」

 「ただし、19時までには帰りなさい。いや、私が迎えに行く。それが飲めないなら今日は止めなさい」

 「ううん。それでいいよ」

 「なら、好きにしなさい」

 「パパがそう言うなら仕方ないわ。陽香ちゃん達に迷惑掛けちゃダメよ」

 里美はまだ少し不満顔だったが、これ以上正博に逆らう事はしなかった。

 「うん。ありがとうパパ」

 「ああ」

 正博は照れからなのか、新聞から顔を上げずに答えた。

 昼食を食べ終えた星は部屋に戻り、二人が来るまでの暇潰しを考えていた。二人が来るまで2時間以上はある。勉強の気分でも無く、動画を見たい気分でも無かった。気分を落ち着かせる為に軽く出掛けようにも星の住む町には出掛けたくなる場所もない。完全なる手持ちぶさただった。星は仕方なくベッドに転がった。いつも見上げていた天井とは違う天井がそこにはある。

 星は寝転がりながら、先程の会話を反芻した。

 まさかパパが助太刀してくれるなんて。むしろ、絶対に反対されると思ってたのに。

 正博は妙に勘が鋭いと言うか、人をよく観察してる人だと日頃から思っていた。よく女の方が勘が鋭いと言うが、星の日頃の観察では里美の方が鈍感だと感じていた。

 恐らく、星の感じていた窮屈さを見抜いていたのだろう。だから、許可を下ろしてくれたのだと星は思った。

 自分の気持ちを父親に見透かされる気恥ずかしさはあるものの、何がともあれ陽香と優也に会えるのは星にとって大きな喜びだった。

 壁に掛かっている時計を見る。まだ10分しか経っていない。星はもどかしい気持ちで時計を睨み付けた。


 待ちに待った陽香からの連絡が入り、星はいそいそと出掛ける準備を整えた。ここ一ヶ月化粧を全くする必要の無かったので、化粧ポーチを見つけるのに五分も掛かった。化粧道具は一通り揃えてあるものの、ほとんど使っていないから全く減らない。いや、正確に言えば、使えていないのだ。学校は化粧を禁止にしているし、入院して化粧なんてしない。するのは陽香と出掛ける時にするくらいだった。

 そもそも、陽香に出会うまで化粧に興味すら湧かなかった。自分のような女にそんな華やいだ技術が必要だとも思ってなかったからだ。持ってる化粧品のほとんどは陽香が譲ってくれたものだったり、プレゼントしてくれたものだ。

 化粧をしない理由は更にある。星は鏡が苦手だった。化粧をするときは何十分も自分の痩せ細った体を見続けなければならない。それが嫌でもあった。だから、星の部屋には全身を映すような大きな鏡がない。化粧をするときは小さな手鏡だけを使うようにしていた。

 そう言えばと、陽香はしきりにその日本人離れした白い肌が羨ましいとしきりに呟いていたことを思い出した。

 自分からしたら不健康のシンボルにしか思えず、陽香のように部活で焼けた肌の方がよっぽど美しいと感じていた。

 結局、化粧はしないことにした。小さなショルダーバックだけ持って玄関に向かう。

 「ママー。行ってくるね」

 星が言うと、里美が少し心配そうな顔で見送りに来た。

 「気を付けて行ってきなさいよ。後、無理もしちゃダメよ」

 「もう分かってるって」

 星は煩わしく手を振る。

 「パパは?」

 「部屋で本を読んでるわ」

 「そっか。じゃぁ、行ってきます」

 扉を出ると、あしゅまるが尻尾を振って小屋から出てきた。散歩と勘違いしてるのかもしれない。星はあしゅまるに近付き頭を撫でながら囁いた。

 「ごめんねあしゅまる。散歩は明日からちゃんと行くからね」

 散歩じゃないと分かったのか、あしゅまるはくーんと一鳴きして、小屋に入りふて腐れたように丸まってしまった。このようにすぐ丸くなることからあしゅまると名付けた要因でもあった。

 星はクスッと笑い、鉄の門扉を開けて左に歩き始めた。いつもなら自転車を使うが、後で車で迎えに来ると言っていたので徒歩で向かう。駅までは約10分ほどで着く。

 こうして街の中を歩いてても、何気ない景色に目を奪われてしまう。公園では小さな子供が元気に走り回っている。カップルが手を繋いで歩いている。マラソンをしてる人もいる。皆一様に素晴らしく整った秋の天気の下で人生を満喫しているように見える。

 自分のようにいつ死ぬかも分からない恐怖とは無縁の人生を生きている。その事実が星の胸に刺さる。星はこれ以上変なことを考えてしまわないように、足早にその場を通り過ぎた。

 住宅街を抜けると田園風景が広がる地帯に出た。辺り一面には稲穂がビッシリと生え渡っている。星の家はこの一帯では名家で通っていて、収穫されたばかりの米を送ってくれる農家の方もいる。それに小さい頃から何度もこの辺を歩いているので、農家の顔見知りも多い。今の病を患ってからは出歩く事も少なくなってしまったが、今でも星のことを孫娘のように可愛がってくれる。

 車一台がやっとのことで通れる砂利道を歩いていると、左手に黙々と農作業をしているおじいちゃんの姿が見えた。見知った後ろ姿だ。

 「源じい」

 声を掛けたが、聞こえてないのか振り向く素振りが無い。星はもう一度少し大きめに声を掛けた。

 「源じい」

 声を掛けられた人物は一瞬肩をビクッと震わせ、振り向いた。険しい顔を向けるが星の姿を確認すると、目尻にシワを寄せて破顔した。 

 焼けた肌が逞しくとても70近いおじいちゃんには見えない。先程、言った毎年取れたての米を送ってくれる農家の人がこの宗方源一だった。小さい頃からの知り合いで、何かと星に良くしてくれる。聞いた話しでは20年ほど前に交通事故で一人娘を亡くしてしまったらしい。その娘さんのお腹の中には子供が居て、孫娘が誕生する予定だったそうだ。だからなのか、星を一番に可愛がってくれている。そんな愛情を向けられた星も出来る限り気持ちに応えたく、源一の家に遊びに行ったりしていた。

 「おう。星ちゃん。何、退院したの?」

 「うん。ついさっき」

 「さっき?出掛けて大丈夫なの?」

 「パパも許してくれたし、駅に友達が来てくれるから」

 「ああ。そうか。退院出来て良かったなぁ。婆さんと心配しちょったから」

 源一の妻は宗方みどり。面倒見が良く、料理が絶品だった。

 「源じいのお米がたくさん食べたくて退院したんだよ」

 「また上手いこと言いよって。そんなことあらへんだろ」

 といつつも、満更でも無い表情を浮かべている。

 「もうちょっとお喋りしたいけど、もう行くね」

 「ああ。気ぃ付けてな」

 「うん。またね源じい」

 星は手を振ってその場を後にした。


 星の町の最寄り駅である山室駅は殺風景でこじんまりとした駅だった。しかし、田舎の駅の割りには電車の本数がそれなりあるのが救いだ。周囲も殺風景そのもので、コンビニがかろうじであるくらいで、後は町の飲み屋が中心だ。

 北口の方が少し栄えていて、ビジネスホテルやカラオケ店、漫喫などあるが、その程度だった。大型のスーパーやショッピングセンター等は恐らく一生出来ないだろう。

 しかし、星はこの町が好きだった。確かに、大都市のような華やかさは無い。けど、町の人々の距離が近くアットホームな空気が星にはピッタリだった。一度、原宿に遊びに行ったことはあるけど、悪い意味で時間の流れが早く、誰もが何かに追われているような忙しない空気が耐えられなかった。ゆっくりと時が流れるように感じられる今の町の方が身体的にも合っていた。早い話、東京の中心に住んだら、とっくに死んでいたのではないかと本気で思ったりなんかしていた。

 不意に駅のアナウンスが構内に流れる。まもなく、陽香達が乗ってる電車が来る。星は待ち合い室のベンチに座り今か今かと二人を待ちわびた。


 「お待たせー」

 陽香が元気の良い声で待ち合い室に入ってきた。その後ろには優也が続いて入ってきた。

 「陽香。新生君」

 星は立ち上がり二人を迎えた。

 「退院おめでとう」

 陽香が星をいきなり抱き締めた。

 「う、うん。ありがとう陽香」

 強めに抱き締められたので一瞬息が詰まってしまった。背中越しに優也と目が合う。優也はやれやれと言った顔をして見せ、ニコリと笑った。

 陽香が星を離し、改めて優也と向き合う。

 「松宮。退院おめでとう」

 「あ、ありがとう」

 星は少しどぎまぎしながら答える。 

 「星。体調はどう?」

 「うん。今は全然平気だよ。むしろ、元気が有り余ってる感じ」

 「良かった。とりあえず、ここじゃ何だしどこかに移動しよっか」

 三人は駅を出て商店街に入り喫茶店を目指した。商店街とは名ばかりでほとんどがシャッターが降りていた。カフェなんてあるのかと不安になったが、それは商店街を少し進んだ所の古ぼけたビルにあった。小さな立看板には純喫茶「シュピエーレン」と書いてあった。ただし、店は二階となっている。

 三人はどうするか迷ったが、見渡しても他に選択肢がありそうに無かったので、その店に入ることにした。

 階段を昇り店の前に来ると、確かにスタバのような近代的なお洒落なカフェはではなく、旧き良き純喫茶と言った印象を星は受けた。

 レトロな雰囲気は中に入ってもそのままで、昭和を感じさせる店内だ。意外な事に、店内はそれなりに広く綺麗だった。客席は奥のカウンターと左側にしかなく、右側は本棚が並べらていて、その本棚には本が隙間なく埋められていた。表紙を見たところ日本の本では無さそうだった。インテリアの一つとして置いてあるのだろう。それにしては綺麗すぎる所はあったが特に気にすることは無かった。

 人の良さそうな顔をした店主が「好きなところに座っていいよ」と促した。三人は適当に窓際の四人テーブルに座り、メニューを選び始めた。メニュー表のサイズ表記はSMLで、訳の分からない横文字は存在しなかった。

 店主が三人分の水とおしぼりを持ってきてくれたので星はホットココア、陽香はアイスカフェオレ、優也はアイスコーヒーをそれぞれ頼んだ。

 「改めて、退院おめでとう」

 陽香が切り出す。

 「もうその言葉は十分だよ。でも、ありがとう」

 「学校はもう行けるの?」

 優也が質問をする。

 「うん。来週の月曜から行けるよ」

 「やったー。これで星と沢山お喋り出来る」

 「たまには、お喋りじゃなくて勉強しろよ」

 「うるさいな。学校なんて楽しければ良いの。ねぇ、星」

 「えっ。あっ、うん。でも、新生君の言うように勉強もしないと大学とか行けないよ」

 「星は優しいからどっちも否定しないのよ。良いんだよ?たまには、優也にもガツンと言ってやったて」

 「ガツンと言われるべきは陽香の方だと思うけど」

 陽香は下を出す。

 星は二人のやり取りをにこやかに見守っていた。こうして、三人で喫茶店でお喋りが出来る幸せをひしひしと感じていた。

 「お待たせしました」

 タイミング良く店主が注文の品を席に運んできた。それを手際よくテーブルに並べる。

 「後これサービス」

 そう言って置いたのは見るからに美味しそうなクッキーの盛り合わせだった。

 「えっ。良いんですか」

 「うん。最近は若い客がめっきり来なくてね。こう言うときにサービスしておかないとね」

 店主はニッコリ笑った。

 「ありがとうございます」

 陽香と優也がお礼を言う。星も少し遅れて頭を下げた。

 「君達はここら辺の学生かな?」

 「はい。と言っても、私とこの子が同じ学校で、彼だけ違う学校です」

 「良いなぁ。高校帰りに喫茶店に通うなんて、僕の時代には無かったから」

 「高校時代は今から何年前ですか?」

 初対面でもあまり人見知りをしない陽香が質問する。こうゆう時は本当に頼りになる。もし、一人だったら何も聞かずに終わってたはずだ。

 「何年前って言うか何十年前だね。もう三十年以上前だよ」

 店主が苦笑いしながら答える。

 「えっ?おいくつなんですか?」

 「僕?51才だよ」

 陽香が意外そうな顔を向ける。優也も少し驚いた表情をそる。無理もなかった。パッと見では40代前半でも通用するくらい若く見える。

 「若すぎません?」

 「そうかな?自分では年相応だと思ってるけど」

 「いやいや、私のパパの方が老けてますもん」

 陽香のこのセリフに皆笑った。

 「そう言えば、君は私服なのはどうして?」

 店主が星の方を不思議そうに見た。確かに、最もな疑問である。学校帰りなら制服でなければおかしいのに、一人だけ私服なのだから。

 「あ、これはその‥‥‥」

 星はどう説明しようか迷った。いくらなんでも、初対面の人に病気の事を話すのは躊躇われた。迷っている内に向かいに座っていた優也が口を開いた。

 「彼女は今日家庭の用事があったみたいです。それで、今日は学校には行ってなくて。でも、今日は皆で遊ぶ約束をしたので、彼女の地元に僕達が来たんです」

 「なるほどそうゆうことか」

 優也の淀みのない説明に店主も納得したみたいだった。

 「彼女もちゃんと学校通ってますから」

 優也が続けた。

 「責めてるつもりは無いよ。一人だけ私服だから、気になっただけだよ」

 「さてと、お邪魔して悪かったね。ゆっくりしていって」

 店主はそう言うと、またニッコリ笑ってカウンターに戻っていった。

 星達は早速飲み物を飲んだ。とても美味しくそしてそれはクッキーにも同様の事が言えた。

 楽しい時間はあっという間に過ぎ去った。間もなく、正博が迎えに来る19時になる。

 「いやー喋ったねー」

 陽香が少し伸びをする。

 「陽香は喋りすぎ」

 「良いじゃん。それに本来今日は星とお喋りする予定で優也はお飾りみたいなもんです」

 「はいはい。そいつはどうも」

 「二人とも今日は本当にありがとう。それに、わざわざ来てもらって本当に嬉しかった」

 「何、辛気臭い事言ってるの。星の為ならブラジルにだって行っちゃうんだから。優也が」

 「俺?陽香じゃなくて?」

 「二人でブラジルに行く意味ないでしょ」

 「いや、意味とかじゃなくて」

 二人のやり取りに星のクスクス笑いが止まらない。

 「とにかく、こっちは星の元気な姿が見れてよかった」

 「うん。ありがとう」

 「俺、お会計済ませてくるよ」

 「あ、ここは私が」

 「松宮の退院祝いなんだから、ここは俺と陽香持ちに決まってるだろ。ま、所詮町のカフェだけど」

 「そうそう、眠りから覚めた姫はゆっくり待機してくれれば良いの」

 「そんな。本当にありがとう」

 星の眼は少し潤んでいた。自分は本当に素敵な友人に恵まれたと心から思った。

 「じゃ、払ってくるから二人はそこで待ってて」

 優也はカバンを持って少し奥のカウンターに向かった。

 カウンターには誰も居なかった。優也は不用心だなと思った。

 「すいません」 

 優也が呼び掛けると、事務所から店主が出てきた。

 「はいはい。お帰りかな?」

 「はい」

 「えーと、三点で1163円だね」

 破格の安さだ。なのに、味のクオリティは抜群。何故、売れないのか優也は気になった。

 「何でこんなに安いんだって顔をしてるね」

 「いや、凄い美味しかったし、クッキーのサービスもあったのに、一人四百円もいかないなんてって思って」

 「それはそれはお褒めに預かり光栄ですね」

 「なのに、何て言うかその」

 「売れてないって?」

 「あ、いやその」

 「隠さなくていいよ。店の外観とか内装を見ればそう思われても仕方ないからね。でも、売れてない訳じゃないよ。売れてないように見せてるだけさ」

 「どうして?」

 「ま、色々あってね」

 店主はまたニッコリ笑った。しかし、どこか悲しげだった。

 「それより、少し気になった事があるんだけど聞いてもいいかな?」

 「あ、はい」

 優也は頷いた。

 「あの髪の長い女の子の名前は何て言うんだい?」

 「彼女に何かあるんですか?」

 優也はすぐには名前を答えなかった。今の時代、名前一つであらゆる事が筒抜けになる時代だ。

 「君は賢いね。その警戒心は実に大事だよ。いや何、随分と瞳が綺麗だったからさ」

 「瞳が綺麗?」

 想像の斜め上を行く言葉が出てきて、優也は呆気に取られた。

 「それが彼女の事を気になった理由なんですか?」

 優也はますますこの店主を信用して良いのか、分からなくなってきた。

 「そう。誰よりも済んだ眼をしてるなと思って。でも、長年生きていく中で、あのような瞳の持ち主には共通点があることに気付いた」

 「何ですか?」

 「病気持ちだ。それも、かなり重病のね」

 優也の体が硬直した。

 「その反応を見る限り、正解のようだね」

 「それだけで重病の病気持ちを判断するのは早計だと思いますけど」

 「彼女は心臓病を患ってるんじゃないかな?時折、胸をさする仕草があったから。人は患部をさする傾向がある。それが癖になってるってことは心臓に持病があり、割りと発作が頻発してしまうからかな」

 「あなたは一体何者ですか?」

 優也は驚きを隠せなかった。

 「悪いけどそれは明かせない。僕が怪しいのかどうかも君が決めればいい。それで、彼女の名前は教えてくれるのかい?」

 優也は迷ったが、教える事にした。完全に信用した訳じゃないが、この店主に少なからず魅了されてるのもあった。優也はチラッと後ろを見た。二人が何となく心配そうにこちらを見つめている。

 「彼女の名前は松宮星です。星と書いてあかりと読みます」

 優也は素早く少し声を潜めて言った。

 「なるほど。星ちゃんか。実にピッタリな名前だ。教えてくれてありがとう」

 「そう言えば、店主さんの名前は何て言うんですか?」

 「僕?名前も教えたくはなかったけど、フェアじゃないしね。僕は水原って言うよ」

 「下の名前は?」

 「下の名前は要らないでしょ。それとも、僕の事を下の名前で呼びたい?」

 水原はイタズラな笑みを浮かべた。

 優也は釈然としなかったが、引き下がる事にした。恐らく、問い質した所で決して答えてはくれないと踏んだからだ。

 「それもそうですね。二人に名前を教えても?」

 「どうぞ」

 「今日はご馳走様でした」

 優也は頭を下げた。

 「こちらこそありがとうございました」

 水原も丁寧に下げた。

 「あ、もう一つだけ」

 「はい?」

 水原は顔を近付け小声で囁いた。

 「星ちゃん君を見るときは、名前の通り顔が輝くね。頑張れよ」

 優也はまた硬直した。そして、心臓が激しく鼓動した。水原の方に顔を向ける。水原はウィンクした。

 優也は二人の所に戻った。案の定、陽香に遅くない?となじられた。

 「ごめんごめん。水原さんの話しが面白くてつい話しちゃった」

 「水原って言うんだ。優也が初対面の人とあんなに喋るなんて珍しいね。ねぇ、何話してたの?」

 「それはまぁ色々」

 「何?私達には言えない話し?」

 「えーと、まぁ」

 優也が答えに迷ってる所に水原が助け船を出しにきた。

 「そう。男同士の秘密の話し。だから、君達には言えないの」

 「あ‥‥‥」

 陽香が少し気まずそうな顔をする。

 「今日は楽しんだかな?」

 三人の顔を見渡す。

 「あ、はい。ココアもクッキーもとっても美味しかったです」

 星が答えた。不思議と水原には抵抗感が無かった。何と言うか素直に甘えられるような気がした。

 「ほんとほんと。私もあんなに美味しいカフェオレ飲んだと初めてです。水原さんのお手製何ですか?」

 陽香が乗ってきた。

 「そこまで言ってもらえると嬉し恥ずかしいな。もちろん、丁寧に真心を込めて作ってるます」

 水原は一礼した。

 「また皆で来ような」

 優也の言葉に星も陽香も強く頷いた。実際、星は一人でも来ようかなと思っていた。地元にこんな良店があるなんて知らなかった。

 「ねぇ、そろそろ帰らないと。星のパパもすぐに来るよ」

 「じゃぁ、水原さん。失礼します」

 「うん。皆いつでも来てね」

 水原はニッコリ笑い、手を振りかける。三人はお辞儀しながら、店を出た。

 

 三人が駅に着くと、正博が既に迎えに来ていた。正博は運転席で腕を組んで目を瞑っていた。

 星は車に近付き運転席の窓をノックした。正博が目を開けて星の方を見る。星に気付いた正博は窓を下げた。

 「来たか。お友達もいるのか?」

 「うん。すぐそこに」

 優也と陽香は少し離れた所で待機していた。

 「最後に少しだけ話してくるからもうちょっと待ってて」

 「分かった」

 星は優也達の元へ戻った。

 「おじさん待たせて大丈夫?」

 「うん。それに二人にはちゃんとお礼を言わないと。本当に今日はありがとう」

 星は深く頭を下げた。

 「もう改まって止めてよね。私と星の仲でしょ。これくらい当然よ」

 「そうだよ。もう良いから、頭を上げてごらん」

 優也に言われて頭を上げると、優也が小さな花束のブーケを持っていた。

 「これ。退院のお祝い。あの迷惑だったら、受け取らなくても大丈夫だから」

 優也の頬が赤くなっている。やはり、どんな理由でも女性に花を贈るのは恥ずかしいのだろう。

 その様子を隣の陽香が優しい目で見守っている。そもそも、花を渡すように提案したのが陽香だった。

 「そんな‥‥‥迷惑なんて‥‥‥」

 星は少し震える手で花を受け取った。見ればそこには綺麗にアレジメントされたオレンジや黄色などの花が可愛く咲き誇っている。入院中に花を貰うことはよくあったが、貰ってこんなに嬉しい花は初めてだった。

 「ありがとう‥‥‥」

 これしか言えない自分が情けなくなったが、それ以上は言葉が詰まってしまった。口を開くと泣いてしまいそうになる。

 「良かったね。喜んでもらえて」

 陽香が優也を肘で軽く小突いた。

 「ああ」

 優也が鼻を掻いた。その時、正博の乗っている車からクラクションが鳴った。そろそろ引き上げろと言う事だろう。

 「ごめん。そろそろ行かないと。本当はもっと一緒に居たいけど」

 「気にしないで。土日はゆっくりしてまた学校で会おう」 

 陽香が明るく言った。

 「うん。優也くんも‥‥‥」

 言ってしまってハッとなった。いつも陽香と二人の時に呼んでる名前をつい口にしてしまったのだ。

 「ごめん」

 星は恥ずかしさのあまり俯いてしまった。 

 「良いよそれで」

 「えっ?」

 星は顔をあげる。

 「下の名前で呼んでる良いよ。その代わり俺も星って呼んで良いかな?いつまでも名字も何となく他人行儀な気がして名前で呼びたかったんだ」

 「う、うん。新生君が‥‥‥」

 「新生君?」

 「あ、その、ゆ、優也くんがそう呼んでくれるなら、私は全然構わないから」

 嬉しいと素直に言いたいが、恥ずかしくて言えない。

 「ねぇ、私がいること忘れてる?名前で呼び合うくらい別に良いでしょ。私も下の名前で呼んでるし」

 確かにそうだが、やはり好きな人と下の名前で呼び合うのは特別だ。

 「あ、ごめんね陽香。じゃぁ、本当に行かないと。二人ともまたね」

 星は手を振る。

 「じゃぁね星」

 陽香が満面の笑みで振り返す。

 「じゃぁな星」

 優也も微笑みながら振り返した。星はドキドキしながら、正博の待つ車に戻った。助手席のドアを開けて車に乗り込んだ。

 「もういいのか?」

 「うん。さっき早くしないってクラクション鳴らしたでしょ?」

 「いや、あれは危ないタクシーが通ったから、鳴らしただけだ」

 「なぁんだ」

 星は拍子抜けした。サイドミラーを見ると、二人がまだ立っていた。星は窓を降ろし二人の方に顔を向けた。

 二人ともすぐに反応してくれて手を振ってくれた。正博はすぐに出発せず、少しエンジンを吹かした。星はそんな細かい気遣いをしてくれる正博に感謝した。

 「そろそろ出るぞ。シートベルトしなさい」

 「うん」

 星はシートベルトをして可能な限り窓から顔を出した。

 車がゆっくりと動き出す。次第に今の体勢では辛くなってきた?星は窓から顔を引っ込め、今度は後ろのリアガラスから二人を確認した。しかし、車はすぐにロータリーを出て左に曲がってしまい、二人の姿はあっという間に見えなくなってしまった。

 星は名残惜しそうに後ろを眺めていたが、すぐに大人しく正面を向いて座った。膝の上には優也から貰った花束のブーケを優しく大切に持っていた。

 「それは?」

 正博が聞いた。

 「二人がくれたの。退院お祝いにって」

 正博は一瞬だけ花を見て「そうか。良かったな」とだけ言った。

 「パパ」

 「ん?」

 「今日はありがとう」

 実際、正博が許可してくれなければこんな素敵な時間は過ごせなかったのだ。

 「別に。大したことはしてない」

 そう言う正博の口元は少し緩んでるように見えた。

 

 夜ご飯とお風呂を済ませ部屋に戻った星はすぐさま花を飾る位置を決めた。あっちに置いたりこっちに置いたりしたが、最後は机の上に落ち着いた。椅子に座って花を眺める。優也から贈ってくれたと言う事実だけで舞い上がる程嬉しかった。星はスマホを出して、飾った花を写真に撮り感謝の旨を伝えたLINEを二人に送ることした。

 新生君と打った所で消した。そして、優也くんと打ち直した。また慣れないが画面上ならそこまで恥ずかしくならなかった。 

 LINEを送った所で、ふと、カフェの店主を思い出した。確か水原だと優也が言っていた。優也は少し怪しんでいたように見えたが、星はむしろ好印象を抱いてた。近い内に、また行ってみようと思っていた。そう言えば、溌剌とした表情が誰かに似てるような気がしたいたのだが、その誰かが思い出せないでいた。

 それよりも何でこんな田舎でカフェなんて開いてるのだろうかと言う疑問も湧いた。あれだけ美味しいのなら、都会でも十分にやっていけるのでは無いかと思った。今度、行ったら色々と聞いてみようかなと思っていた。

 そんな思いも優也からの返信であっという間にどこかに吹き飛んでしまった。

 「写真ありがとう!綺麗に撮れてるね!とても自分があげた安物の花だとは思えないよ(笑)」

 「どんなに高い花でもこの花より綺麗な花はないよ。私にとっては、何物にも代えがたい花だから」

 「そこまで言ってくれると、贈って良かったって思えるよ。ありがとう」

 「優也くんがお礼ばっかり言わないでよ。お礼を言うのはこっちの方なんだから(笑)」

 「あ、ごめん。つい嬉しくなっちゃったから。そうだ、退院したら星と行きたい所があるって話し覚えてるかな?」

 星はまたドキッとした。忘れる訳がない。

 「もちろん。覚えてるよ」

 「良かった。じゃぁ、近い内に予定を合わせて行こうか?」  

 待ちに待ったデートの誘いだった。星として明日にでも行きたいが、そうはいかないだろうと分かっていた。

 「うん!って言っても私は特に予定とか無いから、優也くんに合わせるよ!」

 優也は弓道部に入っていた。部活をやっていない星が合わせるのは当然だった。

 「そうか!じゃぁ、予定が決まったら連絡するよ!」

 「分かった!楽しみに待ってるね!ありがとう」

 「こちらこそ!明日は朝から練習だから、もう寝るよ。改めて、退院おめでとう!」

 「練習頑張ってね!お休みなさい!」

 優也とのやり取りを終えた星は何とも言えない幸福感に再び包まれた。優也と二人で過ごせる日をどんなに待ち望んでいたのか、自分で再認識した。唯一の不安は言うまでもなく発作で行けなくなることだ。しかし、今はそんな不安さえも星の気持ちには影響が無かった。"今を楽しんで"高科先生の言葉が甦っていた。

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