第一章 出会い
20年ほど前……
帝都から少し離れた町、アルバスク。
いつもなら行商や町ゆく人々でにぎわうこの街だがいつものような活気はなく、
叩き付けるような大雨の跳ねる音だけが町にこだましていた。
バシャッ、バシャッ、と水たまりを蹴る音が聞こえてくる。
その音の主は1人の小柄な少女だった。
サファイアのような美しい瞳に整ったきめ細かい顔立ち、
華奢な体つきをした可愛らしい美少女だ。
しかし服はぼろぼろにすり切れ、顔や体にはいたるところに擦り傷があった。
髪は金髪のロングヘアーだが、泥や汚れで黒く薄汚れていた。
そして両手には、一本のバゲットが抱えられていた。
少女は、何者かから逃げているのだ。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ……!」
少女は埃と雨でドロドロになった髪を揺らしながら追っ手から逃げる。
後ろを振り向くと、男が怒号とともに鬼の形相で迫ってきていた。
「この糞ガキィ! うちの商品を返せぇ!!」
少女は前を向き力の限り走った。
もうここ数日何も口にしていないせいか足に思ったように力が入らない。
後ろから男の声が聞こえてくる。
「てめぇが噂の盗人か! 憲兵に突き出してやる!」
唾を飛ばしながら男はこう続けた。
「知ってるかぁ!? お前の首に懸賞金がかかってんだよ!
小汚い蒼目金髪の盗人娘情報求むってなぁ! さっさと首吊られて楽になりな!」
死んで……たまるか……!
首吊りという単語に自分の見るも無惨な姿を想像した少女だったが、
すぐにその妄想を振り払った。
生きたい。その思いだけが少女を前に突き動かしていた。
「ッ……!」
少女は路地裏に逃げ込むと積み上がった酒樽を蹴り飛ばし、通路をふさいだ。
落ちてきた樽が男の頭に命中し、うめき声をあげる。
「ぐあぁっ!! この糞ガキィィィ!!」
「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ……!」
後ろを振り返らず少女は走る。
少しずつ少女の体にも限界が来ていた。
足の裏の皮膚はさかむけ血が滲み、体は軋んで悲鳴を上げていた。
それでも少女は、生きるため必死に前を向いて走った。
大雨のなか路地を抜け、人っ子一人いない大通りに出ると少女はふと思った。
どうして、こんなにも生きたいって思うんだろう?
どうせ、生きていたっていいことも何もないのに。
死んじゃったほうが楽なのに。
「どう……して……?」
そう尋ねてもだれも答えてくれなかった。聞こえてくるのは雨の跳ねる音だけ。
気づけば少女は立ち止まっていた。
訳も分からずこみあげてくる悲しみに少女の体は震えた。
「誰か……教えてよ……!!」
「いい加減にしろよ……このガキィィィ!!」
何とか追ってきた男は道端に落ちている石ころを拾うと、
勢いよく立ち止まっている少女に向かって投げつけた。
ガンッッッ!!
「ッッッ!」
男の声に驚き振り向いた少女は男の投げた石をもろに額に受けてしまった。
少女はあまりの痛みにのけぞった。
その瞬間、少女は足を滑らせ、体は宙に浮いていた。
すぐ目の前には大きな川が広がっていたのだ。
ドボンッッ!!
川の水は冷たく、深く、どんどん少女の体温を奪っていく。
川の流れは急で、少女の体は水流にもてあそばれた。
消えゆきそうになる意識の中、少女は必死に体を動かした。
なぜ生きたいのか、その答えを探すかのように。
死んで……たま……るか……
――少女は必死に意識を保ち、やっとのことで浅瀬まで這い上がった。
体はずぶ濡れになり、がたがたと震えが止まらない。
額がズキズキと痛む。触ってみると額が割け赤く血が出ていた。
少女は力を振り絞りよろよろと立ち上がった。
あ。
ふと少女は両手に抱えていたバゲットがなくなっていることに気が付いた。
「パン、落っことしちゃった……」
少女は満身創痍で声を震わせながらつぶやいた。
「食べ物……さがさなきゃ……」
キョロキョロとあたりを見回すと、男の姿は見当たらなかった。
ホッと胸をなでおろすと、少女は自分の左手で体を支えながらふらふらと歩いた。
いつの間にか日は暮れ、空は暗くなっていた。
町は静寂に包まれ、雨は絶え間なく降り続けている。
彼女は何とか前に、前にと体を動かした。
すると突然体の力がスッ、と抜けたかと思うと、
華奢な少女の体は糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちた。
あ……れ……?
「からだ……うごかないや……」
少女の体は、とうに限界を超えていた。
いつの間にか体の震えは止まり、自分の体が冷たくなっていくのがわかった。
額から流れ出た血が目にかかり、視界を紅く染めていく。
痛みも、苦しみも、もはや何も感じなかった。
あたし……死ぬのかな……
消えゆく意識の中で少女は自分の死を悟った。
短い人生だったなぁ、と自分の人生が走馬灯のようによみがえる。
物心ついた時から両親はおらず、物乞いや盗み、果てはごみも漁って生きてきた。
自分と同じ境遇の孤児たちの死体が、
何人もまとめてゴミのように焼かれるのを見てきた。
子供たちの焼けるにおいが、今でも忘れられない。
少女は震えながら泣いた。
怖かった。自分もあんな風に誰ともわからない燃えカスになるのが。
そして悔しかった。どうして自分が生まれて来たのかわからないまま死ぬことが。
少女は生きたかった。
「死にたく……ないよぅ……」
少女の声は誰にも届かない。少女は、孤独だった。
「おかあ……さん……」
会ったこともない母を呼ぶと同時に、少女の意識は完全に闇にのまれていった。
――痛みもなく、体が軽い。
温かい何かに包まれ心地がいい。
もしかしたら、ここが天国なのかもしれない。
いい、においがする。そういえば何も食べていなかった。
ふと前を見ると、遠くに二人の男女が見える。
顔は良く見えなかったが二人は少女に微笑むと、さらに遠くへと歩いていく。
お父さん!? お母さん!? 待って! 置いておかないで!
少女は必死に叫んだ。だが二人はどんどん少女から遠ざかっていく。
あたしを……一人にしないで……
少女はゆっくりと涙でぬれた蒼く美しい目を開けた。
「あ、目が覚めましたか?」
少女は、その時見たものを一生忘れないだろう。
なぜなら、奇妙なマスクをかぶった男が四つん這いの体勢で彼女にまたがり、
彼女の顔をゼロ距離で覗き込んでいたからだ。
「ぎ……」
「ぎ?」
「ぎゃあああああああああ!!」
「グボァッッッ!!」
少女は大声で叫ぶと、男のみぞおちに渾身の蹴り上げを食らわせた。
男は吹き飛びながら宙を一回転し、
グチャッとグロテスクな音を立てながら首から着地した。
「ハァ、ハァ……!!」
動転する気持ちを落ち着け、少女は辺りを確認した。
部屋はきれいに整頓され、いくつかのベッドが置いてある。
自分はどうやらベッドの上で布団にくるまり眠っていたようだ。
また不思議なことに体中の傷はすべてきれいに治っており、
額の傷に至っては痕すら残っていなかった。
男は床に膝をつき、自分のみぞおちをさすり小刻みに震えながら、
「あれほど弱っていた幼女が、これほどの力を出せるとは……
やはり私の目に狂いはゴニョゴニョ……」
と、なにやらブツブツと独り言を言っている。
はっきり言って、かなり不審者だった。
な、なんなのこいつ……?
あたしに何かしようとしてたわけ……!?
ていうか、幼女っていうな。
少女の警戒度MAXだった。
ジーッと少女が男を睨んでいると、訝しげに思われていると察したのか、
男はパッパッとスーツについた埃をはらいながら立ち上がると、
「そういえば、自己紹介がまだでしたね」と言い、
右足を引き脱いだシルクハットを胸元にあて、
お辞儀をしながら自己紹介を始めた。
さっきの奇妙な言動とは打って変わり、その姿は紳士そのものだった。
「私はエルシン。エルシン・シュナーベルと申します。
こう見えて医者をしております。
お嬢さん、あなたのお名前は?」
突然の礼儀正しい自己紹介に驚いた少女だったが、
しぶしぶエルシンと名乗る男の質問に答えた。
「ア、アリシア……だけど……」
「アリシア……」
エルシンは彼女の名前をつぶやくと、自分の皮製の手袋をはずし、
「あなたにぴったりの素敵なお名前ですね。どうぞよろしく」
と手を差し伸べた。
それが握手を求められていると気づくとアリシアは
得体の知れない男に対する警戒心と、
気恥ずかしさから握手をためらったが、
エルシンのやさしい声色に引き寄せられるかのように恐る恐る握手した。
エルシンの手は男性の手とは思えないほどきめ細やかで白く、
そして何より温かかった。
これがアリシアとエルシンの、初めての出会いであった。