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作者: 村坂幸介

日本人は自然をコントロールするのではなく、自然のままに、自然の中に身を置き、そこに美を求めるものだというのは諸々の芸術を見つめていれば明らかなことであるが、その性質が災いし、不利益、もしくは不具合が起こっていることを感じる今日この頃である。


とある外国の友人にこんなことを言われたことがある。「日本は、階層を破るための壁が厚く、私が期待していたようなチャンスが全く転がっていないし、人々にもそのような心意気が感じられない。」と。彼は上昇志向の強い人であるのだろう、実際知識、経験共に豊富であり、日本に大いなる希望を抱き渡ってきたようであるのだが、いとも簡単に打ち滅ぼされたようで、秋風すさぶ中、印象的な溜息をついていた。


自然を受け入れるというのは、言い換えれば、環境にうまく馴染むということであろう。適合するともいえるが、なんとなくかたっ苦しい、理論的なものではないように感じるため、馴染むという言葉を用いたい。


日本人の現状を考えてみれば、大概の人が、栄養失調で命を落とすことはなく、特段の理由がなければほぼすべての者が中学、果たして高校までも修めることができる。見えない貧富の差や、就職難等、個人の経済事情に関する問題は多々あれども、それなりの生活水準で生活できてはいるはずである。傍から見れば裕福で物質的に恵まれた国であるといえるだろう。


こんな状況の中で暮らす日本人が多いことは事実であるとして話を進めていきたい。果たしてこのような環境に置かれたとき、太古より培われてきた我々の馴染むという感覚はどのように作用するのかと考えれば、おのずと明らかになることがあるではないだろうか。生命の危機に瀕することなく、ある程度安全な社会に、環境になじんでしまった我々の精神は、果たして、リスクや面倒事を冒してまで挑戦し、道を切り開くことがあるのだろうか。


先に書いた外国の友人が感じた壁というものは、我々のそういった意識が生み出す、無意識の壁に他ならないのではないかと考えるのである。何か意図的に上流階級の特定の人物によって作成されたものならば、打ち破る目標のようなものができるのかもしれないが、独力でこの社会に流れる雰囲気というものに立ち向かっていくというものはなかなかに骨が折れるものである。


ドラマ、映画等でこういった雰囲気を打ち破り、何かを成し遂げるような人々のことを描く物語があるが、正直、人々が、主人公がそう言った雰囲気に立ち向かう独力に感激しているような節はないように思える。人々は、彼ら彼女らの持つパワーに真に感激しているのではなく、打ちのめされて、立ち上がるところにこそ感動しているのではないだろうか。いうなれば、雰囲気を打破するパワーの一つ前に必要なパワーである。


つまり、人々の先頭に立ち、道を切り開くことのパワーというのは、存外、我々には想像しにくいのではないかと言いたいのである。


日々のつらいこと、理不尽だと思うことに打ちのめされて帰ってきても、「よし、でも切り替えて明日も頑張ろう」というのが我々日本人である。決して、「畜生、何とかしてこの理不尽をどうにかしてやろう」と思うものではないのだ。この場合の頑張ろうというのは、打ち破ろうとか言ったものではなく、上手にやり抜こうといったたぐいのもので、解決法というよりは。対処法を見出すような性質のものである。


然し、この社会において、対処するだけで受け流しきれるものが多いとはいえ、そうでない事柄も多くなってきていることは事実であるのだ。いくら自分の手札を切ろうとしても、そもそも手札がないなんてことも起きて来る。個人の力ではどうしようもないこと等ざらにあるだろう。


自殺等のニュースにおいて、そういうことなら職場や家族に相談すべきとの意見が出て来るし、それは尤もだと思うのだが、生来の日本人のそういった気質が強い人に、現状を打開するために動けない人にそのようなことが、果たしてできるであろうか。外部の人間に不満を聞かれてはっきりと答えられるであろうか。


筆者はあまり海外のことについて明るくはないためご了承願いたいが、日本はこう言ったことが他国に比して多いように思えるのだ。


今後、このような国民性はどうなっていくのだろうか。いまや、海外の文化が即座に日本に入ってくる時代となり、Me too運動や、LGBTに関する運動のように、活発的に自分の権利を主張するような流れが大いに流入してきている。先述の映画にしろそうであるかもしれない。解決、打開、主張、尊厳。そう言ったものは人間として、個人として、自由かつ魅力的に生きるには往々にして必要な物であろう。


触発された、若い世代によって、文化、労働、はたまた政治に至るまで、様々なことが変化していくのやも知れない。


ただ、それもまだまだごく一部の人間のような気がしてならないのである。


筆者は世界が真に一つになるためには、より大きな外敵の存在が必要であるなどと、あちこちで吹聴してまわる性質であるが、それほど、人というものの性質は全く持って変わらないものであると信じているのだ。


第二次世界大戦後にGHQの支配下となった経緯や、戦国動乱の世にあった時期もあったが、他民族に支配され、生命や尊厳の危機に陥るという経験をし、闘争の上で民族の独立を勝ち取ってきたような遺伝子を含まない我々日本人が果たして、変わる日が来るのであろうか。


そういった意味では大きなコミュニティである日本という国に足して、このコミュニティにより自らの尊厳が保たれており、この国が誇りであるというような思想が色濃くあるような若年層が一体いかほど存在しようか。


筆者とて、あまりそういった意識はないのであるが。


馴染む我々にとって、その限界点が来るのはいったいいつのことなのだろうか、そして、そうなった場合、我々はいったいどういった風になってしまうのだろうか。


ふと想像してみると、なにやら恐ろしいのである。

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