ある朝、帝都冒険者ギルドのとなりの酒場にて
「その日は朝から快晴だった。まぁ普通、こうやって話を聞かせるときはもう少し言葉を飾るもんだとは思うんだけどな、俺の記憶の中で断トツに印象深い快晴がそんときだから、どっちかっつうと、その日の空が、俺にとっての快晴の意味なんだ。君らは取りあえず、今日の朝みたいな空……いや、そうだな、これから話すことは、今日これから君らに起こることだと思えばいい」
白髪の男は椅子の上で少し考える素振りを見せつつ、話を続けた。
「今日はいい天気だ。そんなに暑くもない。こんな日に出発するっていうのは、ま、気分がいいもんだ。その日の俺も、数人のパーティーメンバーと一緒に意気揚々と出発したんだ。目的は、それぞれ新調した靴の履きならしだった。その一月後に、遠征を控えてたんでな。何日か草原で履きならした後、森でも、ってことだ。俺もパーティーメンバーも若かったが、ギルド馬車ですぐのそこの森には何回も行ったことがあったし、ゴブリンから逃げ切れないようなヒヨッコでもなかった」
ここで白髪の男は、テーブルを囲む聴衆の中に、ゴブリンから逃げる、の部分に怪訝そうな者がいないことを確認してから、調子を変えずに語り出した。
「で、森に入って、ゆっくり歩きつつ、時々早歩きになったり、あえて足場の悪いところを歩いたりした。その靴で森を歩くのは初日だったからな。で、だ。しばらくそうやって靴の感触を確かめてたんだが、パーティーメンバーの一人で、一番目が良かった奴が、あるものに気付いた」
白髪の男は眉間に刻まれたしわを一層深くしながら、ゆっくりと告げた。
「木に刻まれた、大きな爪痕だ」
話を聞いていた革鎧姿の男たちは、白髪の男の腕によってすでに森の中に引きずり込まれていたようで、一様に表情を硬くした。
「そう、風爪熊の縄張りの印だ。俺たちはいつのまにか、予定よりも深く森に入っていたわけだ。靴を履きならすだけなら、そんなに深く入らなくてもいい。今思えば、良い天気と良い靴で臆病さが薄められて、さらに普段よりも森の中が明るくなっていたから、自分たちが深く入っていることに気付けなかったんだろうな。ああそれと、靴の感触に集中しすぎてたってのもある」
白髪の男は軽く表情を歪めて見せて、すぐに戻した。
「とはいえ、風爪熊は夜行性だ。すぐに危険があるってわけじゃあない。俺たちは太陽の位置で方角を割り出して、最短で森から出る方向へと焦らずに歩き出した」
白髪の男は硬い表情のまま、わずかに抑揚を大きくしながら続ける。
「しばらく歩いたところで――全員が一斉に足を止めた」
革鎧の男たちも、動きを止めた。息を止めた者もいる。
「一拍で、空気に恐怖が充満した。比喩じゃねぇし、気のせいでもねぇ、事実だ。そのまま恐怖が濃厚になってゆくと、ふいに、木が軋んで折れる音が聞こえてきた」
白髪の男が浮かべたわずかな恐怖が、革鎧の男たちに広がってゆく。
「ゆっくりと、音が近づいてくる。もう息もできなくて、恐怖の泥の中に沈んでいるような気分になってきたとき、ふと、その音が止まった。俺は全力を振り絞って、目線を音の止んだ方に向けた。そこにいたのは」
白髪の男は一拍息を止めて、押し殺すように言った。
「俺を一口に飲みこめそうな、デカすぎる大蛇だった」
「蛇竜……」革鎧の男たちの中から、震える声が聞こえた。
「そう、蛇竜がそこにいた。距離は数十メートル。俺は途端に正気を失いそうになった、が、そこで、なんとか一つの対処を取れた。それは、力の限り、叫ぶことだ。初めの数秒は殆ど声が出なかったが、すぐに話声くらいは出るようになって、次の瞬間には出したこともねぇような大声を出せた。そんで、ほかのパーティーメンバーも、俺と同じように叫びだした」
白髪の男は、大きく抑揚をつけ始めた。
「叫ぶ意味がわかんねぇって奴はいねぇな? いたらもう一か月死ぬ気で学びなおせ。で、しばらくしたら息が抜け切って、声が途切れ、力が抜けて地面に崩れ落ちた。俺が最後だった」
白髪の男は、やや悲しみをにじませながら、それよりはるかに大きな恐怖を顔に張り付けて続けた。
「もう死んだ、そう思ったさ。そのときだ」
白髪の男の表情が、一気に安堵に変わった。
「空気に、穏やかさが充満した」
革鎧の男たちは、やや戸惑いつつも、表情が緩まってゆく。
「これも比喩でも気のせいでもねぇぞ、事実だ。で、次の瞬間、蛇竜の頭が斜め上に跳ね上がった。轟音と同時に、数本の木を吹き飛ばしながら、な。そして、蛇竜の頭があったところには、白いフード付きのローブを着た女が立っていた。女だって分かったのは、フードを脱いでいたからと、その後すぐに近くに飛んできたからだ。文字通りな。彼女は俺たちを背に庇い、そのすぐあと、蛇竜もこっちに飛びかかってきたんだが――その直後の光景は、いまでも鮮やかに思い出せる」
白髪の男は、わずかに笑みと憧憬を浮かべながら、熱を込めて語った。
「斜め上から突っ込んできた蛇竜の頭の方向に、放射状にすべてが吹き飛んだのさ。残っていたのは、大穴が開いた森と、首から上が千切れて無くなった蛇竜だけ。そして」
白髪の男は、表情を深めて語りかけた。
「目の前には、快晴の空が広がっていて、その中で、彼女はこちらを振り向いた」
おぉっ、と、革鎧の男たちから声が上がる。しかし、白髪の男は大きく笑った。
「ハッハッハ、そこから先は秘密だ」
え、と革鎧の男たちが動きを止めたが、白髪の男はそのまま続けた。
「そんなことより、自分の心配をしろ。で、今の話を聞いて不安に思ったんなら、もう一回全て確認しろ。何も不安に思わなかったんなら、冒険者にゃあ向いてねぇ」
白髪の男はそう言い放つと、これにてお開き、と告げて、椅子を立ち、カウンターに向かった。同じテーブルを囲んでいた革鎧の男たちは、しばらく動けないでいたが、自分たちが周りの酒の肴になっていると気づいた者から、酒場を去って行った。
「最高だったな」
髭面の男が白髪の男の隣に座り、木のジョッキを置きながら言った。
「ああ、そりゃ俺だからな」
白髪の男はニヤリと笑い、ジョッキを傾けながら返した。
「ハッハ、そうだな」髭面の男もジョッキを傾けた。「ぷはっ、でもまぁ、なあんにもなかったからなぁ。ゴブリンが寄ってくるから早く帰れ、って言われただけだ」
「ああ。男女逆だったら一夜ぐらいはあったかもだな。ま、俺はあのおかげで、今の女房を選べたがな」
白髪の男はニヤニヤと笑いながら言った。
「はっ、お前が『青空が似合う女をようやく見つけた』っつってたまたま通りかかった村の娘をいきなり口説きだしたとき、俺たちがどんだけ変な目でみられたことか」
「そりゃお前、惚れた女を口説く方が、お前らが恥かくよりよっぽど大事だろ」
「ちげぇねぇなぁ」
髭面の男の笑い声は、いつも通りに、酒場の喧騒の一部となった。