7
来栖さんは固まったまま、しばらく動かなかった。
もちろん、私は恥ずかしさで死にそうだ。頭に血が昇ったこんな状態では、とても来栖さんの話を冷静に聞くなんてこと、出来そうにない。少しインターバルを置かなければ。
顔を火照らせたまま、急いで立ち上がる。
「あの、な、何か、温かい飲み物とか、買ってきます、から」
上擦った声でそれだけ言い、身体の向きを変えようとした途端、何かに引っ張られてつんのめった。
私の手を掴んでいるのは来栖さんだった。目線は前方にある川に向けられているのに、がっちりと掴んでいる手はびくともしない。こちらから見える横顔は、赤絵の具で刷いたような色をしている。
「……あのねナオさん」
ぼそりとした、低い声だった。
「は、はい」
「最初に興味を持ったきっかけが、それだというのは否定しません」
「……はい?」
「土手なんかで一人ぼっちでぽつんと座っているのに、やけに楽しそうに筆を動かしている女の子を見つけてね、咲みたいな子がいるんだなあと思ったのは確かです。そういう軽い興味を抱いて、土手を下りました。それは本当です」
「……はい」
「けどね」
突然、来栖さんがくるっとこちらを向いた。なんだかまた、怒ったような顔をしている。でも、握られた手は断固として離れない。
「けど、それだけで普通、こんなにしつこくつきまとったりしますか、大学生の男が! 高校生の女の子を妹の代わりに見立てて楽しむって、めっちゃ気持ち悪い! そんな男がいたらワタシのほうが見てみたいですよ! そういう少女漫画みたいなことを勝手に考えて口にするあの女も大概アホですが、それをすんなり信じ込むナオさんにも衝撃でした! ナオさんもしかして、ワタシのことをそんな変態だと思ってたのかって!」
「…………」
私はたぶん一分くらい、思考が停止していたと思う。
変態って……いやその、ちょっと変態っぽい言動はあるにはあったような気がするんだけど……来栖さんが言うのは、どうやらそれとは違うことであるらしい。
「……えーと、じゃあ、妹さんの身代わり人形とかっていう、あの話は」
「そんなわけあるか」
来栖さんはものすごく苦々しい表情で言い捨てた。
「あの時、ワタシが何を話しかけても、ナオさんの耳にはぜんぜん届かなかったでしょう。それくらい、絵を描くことに集中してた。じっと熱心に目の前の景色だけを見て、ひたすらに筆を動かして、すごく楽しそうだった。目がキラキラ輝いていて、頬っぺたが薄っすら色づいて、でも口許はぐっと結ばれていて。強くて、一途で、綺麗で、全身から生命力が溢れているみたいに見えた。そんなの目の当りにしたら、どうしたって惹きつけられるに決まってるでしょう。こっちの呼吸まで止まりそうでした。もうこの際だからぶっちゃけて言いますが一目惚れですよ。その時までそんなもん、鼻で笑って馬鹿にしてたこのワタシがですよ。ずーっとすぐ近くでこの人を見ていられたら幸せだろうなあ、とか思っちゃったんですよ。あーもう! クソ恥ずかしいからなるべく言いたくなかったのに!」
ほとんど間も置かず迸るように言ってから、来栖さんはやっと私の腕を離して、地面の上に倒れ、ゴロゴロと悶えるように転がった。
私は茫然とした。
今、なんて?
一目惚れ、って単語が聞こえたような。
「だ、って、来栖さん、私のこと、何も聞いてこないし……絵を描いている時以外の私には、興味がないからだと」
「だから、それは!」
叫ぶように言って、むくりと来栖さんが起き上がる。急にぶすっとした顔になって、胡坐をかいた膝の上で頬杖を突いた。
「……ナオさんが、『人が苦手』って言うから。その時まで、名前もケータイの番号も住所もついでに通う高校も聞きだすつもり満々でした。正直どうやったら少しでもお近づきになれるかなって、わりと悪どい作戦も立ててました。ていうかワタシ、最初からかなり露骨に、言葉でも態度でも自分の気持ちを表明してたと思うんですけどね」
「…………」
あなたに会いたかった、って。
じゃあ、あれは……
「私を見ていると、妹さんを思い出すから、っていう理由ではなく……?」
「あのねえ……」
来栖さんは苦々しい顔、苦々しい口調で言って、額を手で押さえた。
「ナオさんの美しい妄想を壊すのは申し訳ないんですけど、ワタシこう見えて健康で健全な男子大学生ですから。ナオさんのことははじめから、可愛い女の子としてしか見てません。もっと言えば下心も込み込みです。大体、咲とナオさんはタイプがまったく違うのに、ただ『絵を描くのが好き』っていう一点をもってして同一視してしまうほど、ワタシの頭はおめでたくもありません」
ふん、と鼻で息を吐く。
「どんどん攻勢をかけていこうって張り切ってたんです。そうしたら、ナオさんが怖がってる、ってことがわかってね。そんな気持ちはいっぺんにぷしゅーっと萎んでしまいましたよ。せっかく奇跡的に見つけた貴重なお宝、ここで怖がらせて逃げられたら、たぶんワタシ一生立ち直れないですから。……それに」
来栖さんは、そこでふと言い淀んだ。
しばらくためらう様子を見せてから、少しだけ目を伏せ、再び口を開く。
「ワタシはね、すごく臆病なんですよ」
私は目を瞬いた。来栖さんという人と、臆病という言葉は、まるで縁がないほどかけ離れているように思えたからだ。
来栖さんがこちらに視線を向けて、ちょっと苦笑する。
「妹は中二の時に、事故に遭って帰らぬ人になりました。悲しかったのはもちろんですが、身内を亡くすというのはね、どうしても、悔いが残ってしまうんです。あの時ああすればあいつは死なずに済んだんじゃないか、失わずに済んだんじゃないかと。そんなことは考えても無駄だと判ってるのに、どうしてもずるずると重たく引きずってしまうものがあるんです。そうです、今でもね。この先もおそらく、それは消えることはないでしょう。ずっと身体のどこか、心のどこかに引っかかり続けて、その重みがあちこちを歪ませる。──そんなわけで」
ごほん、と咳払いをする。
「そんなわけで、ワタシは自分で言うのもなんですが、非常に厄介で、面倒くさいところがあります。一旦自分の手の中に大事な何かを入れてしまったら、それをものすごく鬱陶しいほど神経質に守ろうとするだろう、という自覚もあります。けど、その対象にされるほうはたまったもんじゃないだろうな、とも思います。だから躊躇してました。ただでさえ自分のことで精一杯なナオさんを、こちらの都合で振り回すことになってもいいもんかと」
怖かったんですよ、と来栖さんは呟くように言った。
逃げられるのも。嫌われるのも。失うのも。
自分のせいで、この笑顔がなくなるかもしれないと思うのも。
だから、動けなかった。さっきまで、川を隔てた場所でじっと座っていることしか出来なかったように。足を止め、動きを止め、気持ちを止めて。
「一歩を踏み出してしまったら、ワタシの性格上、もう止められないことは判ってました。だから一定以上近づくのも、その先に進むのも、わりと必死に自制してました。……ナオさんが、ここに来なくなって」
ぽつりとした調子で続けて、私から視線を外し、すぐ前にある川とその向こうにある土手を見やる。
「やっぱり、迷ってました。探そうと思えばいくらでも手段はあるし、ワタシけっこうそのテのことには有能だと思うので、その気になればナオさんの住むところくらいは簡単に見つけられるんじゃないかと思ったんですけど」
なんとなく物騒にも聞こえるようなことを、来栖さんは淡々と口にしている。あまり深く考えないようにしよう、と私は思った。
「……でも、これでよかったのかな、とも思ったり。ナオさんをもう一度見つけたら、その時こそワタシは、もう何者からも傷つけられないように、自分の手の中に囲い込んで雁字搦めにしちゃうかもしれない。ナオさんの行く先にはいくらでも明るい未来ってやつがあって、それを得るためにはナオさん自身の力でたくさんのものを乗り越えなきゃいけないって判ってるのに、ワタシはその機会さえも奪ってしまうかもしれない。それならいっそ、遠くにいたほうがいいのかなと……けど、完全に諦めることも出来なくて、土日になると足は勝手にここに向かっていたんですけど」
はあー、と深く息を吐きだした。
「──今は?」
私の囁くような問いかけに、来栖さんがもう一度こちらを向く。
「今もやっぱり、迷ってますか?」
「ナオさんのほうから、来てくれたのに?」
質問に質問で返して、ちらりと笑みを洩らした。
両手を上げて、肩を竦める。
「そりゃ無理だ。今でさえワタシ、自分を抑えるのでいっぱいいっぱいです。ナオさんにあんなこと言われて、手を握るだけで我慢してる自分は、なんて偉いんだろうと自画自賛です」
来栖さんは相変わらず、惜しみなく自分を賞賛する人だった。
「──でもね」
けれどそこで、複雑そうな表情になり、来栖さんは口を噤んだ。そこから先、何を言っていいのか自分でも判らない、というように。
「……来栖さん、私」
私は考えながら言葉を出した。
「私も、臆病です。だから今まで、逃げてばかりでした。迷っていたし、不安だったし、後悔もしました」
やっぱり、拙い言い方しか出来ない。けれど来栖さんは、静かに耳を傾けて、続きを待っていた。
「でも、頑張って、ここまで来ました」
「……うん」
来栖さんが、優しく微笑んだ。
この人は、ちゃんと私の話を聞いてくれる。こういう私を受け入れてくれる。もしかしたら、他にもこんな人はたくさんいるのかもしれない。私がずっと自分の周りに壁を張り巡らせて、誰にも心を開かなかっただけで。
「これからも、頑張ってみようと思います。お母さんとも、ちゃんと話をします。私は絵が好きなんだって──お母さんにとっては価値がないものでも、私にはとても価値があるんだって」
自分以外の誰か──特に近しい誰かと、価値観や考え方が異なり、噛み合わないことは、確かに大変で、つらい時もある。
けれど。
誰かにとっては取るに足らないものでも、私にとっては大事なもの。私がそれをとても大事にしていることを、理解してくれる人もいる。それが失われたら、私以上に怒ってくれる人もいるのだ。
だったら私はもっと、胸を張っていなければ。
「本当は」
私はちょっと下を向いて、こっそりと秘密を打ち明けた。
「……本当は、私、美大に行きたいんです」
今まで、誰にも話したことがない。口にしたところで、反対されるのも判りきっている。趣味の一環、ということでなんとか様々なことに目を瞑っている母はもちろん、そういうことにはまったく興味のない父だって、決して認めも許しもしないだろう。
だからずっと諦めていた進路だったけど。
「頑張って、説得します。もっと本格的に、勉強もします。そうしたら、ほんのちょっとだけ、自分のことが好きになれそうな気がするんです。そう思えるようになったのは、来栖さんのおかげです。……だから、あの」
決死の覚悟を振り絞って、私は顔を上げた。
「これからも、こうして会って欲しいです」
「はい、もちろん」
打てば響くように速攻で返事をして、来栖さんはにっこり笑った。
「ワタシもナオさんの自立を邪魔しない程度に、もうちょっと自分の欲望を抑える努力をします。ホントは二十四時間体制でべったりそばに張り付いていたいくらいなんですが」
しゃらっととんでもないことを言って、立ち上がる。私の手を取って同じように立たせると、向かい合った。
「──じゃあもう一度、はじめからやりましょうか。ワタシは来栖司と申します」
真面目な顔つきで名乗られ、私は思わず噴き出してしまった。そういえば、私って、下の名前しか教えていなかったんだっけ。
まだまだ、お互いに知らないことが、たくさんある。
何をすれば、相手が喜んで、怒って、悲しむのか。そういうことは、逃げずにぶつかっていかなければ、きっと永遠に判らない。隠れていたら、誰からも見つからない代わりに、誰のことも見つけられない。
傷つくことを怖がってばかりでは、パレットは白いまま。
──私は私という人間を、もう少し彩ってみたい。
「向坂直です」
私も名乗ると、来栖さんは目をやわらかく細めた。
「向坂直さん。あなたのことが好きなので、付き合ってもらえますか」
真正面から言われて頬が赤くなる。
「はい。こちらこそ、お願いします」
「じゃ、ケータイの番号を交換してもらえますか」
「はい」
「毎日電話してもいいですか」
「はい」
「朝昼晩とかけてもいいですか」
「え……それは、ちょっと」
「番犬のように毎日高校に迎えに行ってもいいですか」
「とても、困ります」
「あっ、そうだ!」
「イヤです」
二人で声を合わせて笑った。
ひとつずつ、ひとつずつ。
そうやって、ゆっくりと色を足していこう。
完結しました。ありがとうございました!




