6
──あの日以降、土手には行っていない。
土日になるとスケッチブックと道具一式を持って外に出るのは変わらないものの、私の足があの場所へ向かうことは、もうなかった。どこで描こう、とあちこちを廻る時でも、無意識のうちにあそこを避けるようにして動いている。
あれから一カ月が経った。短い秋はとうに過ぎ去って、今はもう完全に冬の気候になりつつある。ただでさえあんな何もない吹きさらしの場所、たとえ行ったって、誰もいないことは判りきっているけれど。
しっかりと上着を着込み、マフラーと手袋で防寒対策をして、私はその日も、新しい写生ポイントを見つけるため、道路を歩いていた。
亀のようにのろりとした歩調の私の横を、他の通行人たちが寒い寒いと言いながら、足早に追い越していく。空は青いけれど、風は冷たい。目線を上げて辺りを見回し、ため息をついてまた下を向く。
……描きたいところが、見つからない。
あれから、ずっとこんな調子なのだ。とりあえず適当に場所を決め、一枚描いてはみるものの、どうにも落ち着かなくて、すぐにスケッチブックを閉じ、余所を探すために再び移動をはじめてしまう。この時期になると、大きな公園でさえ人の姿はあまりないから、かえって安心して腰を据えることが出来そうなものなのに。
いつも頭に思い浮かぶのは、草地と川と建物。
あの土手が、そこまで最高の写生ポイントであったかと問われれば、そんなことはないとしか言いようがない。あそこよりももっと綺麗で、人の目もなく、二時間や三時間絵を描いていても誰にも咎められない場所なら、他にいくらでもある。
それでも、どうしても思ってしまうのだ。
ここは違う、と。
それで休みごとに、スケッチブックと道具を抱えてうろうろと彷徨う羽目になる。時間ばかりが過ぎていくけれど、満足がいくまで描き上げられた絵はほとんどない。自分でも、ちょっとイヤになってくる。私は一体、何をしてるんだろう。
──結局。
結局、私はただ、逃げただけなんだ。
時間と共に、その自覚は私の中で大きくなるばかりだった。同時に、どうにも居たたまれない気持ちが押し寄せて、胸が苦しくなってくる。だからこそ、どこに行っても落ち着かない。
来栖さんが、私を亡くなった妹の代わりとしてしか見ていなかった、という事実から、私は逃げたのだ。来栖さんの話をちゃんと聞くこともせず、一方的に自分のほうから関係を断ち切った。それが今さらになって、自分の上に重く圧し掛かっている。
私は、何か──何かを、来栖さんに言わなきゃいけなかったはずなのに。なのに、顔を背け、身を翻して、離れることを選んだ。見たくなかったし、聞きたくなかったからだ。
私を傷つけるもの。私という存在を否定するもの。
いつもいつも、そういうものから逃げてばかり。
……これからもずっと私は、そんな風に生きていくんだろうか。
母にも、他の人にも、自分にも、負い目を持ちながら。
ビクビクと怯えるように身を縮めて、誰からも見つからないように隠れ続け、逃げ続けていかなきゃいけないのだろうか。
スマホの小さな画面の中にいた、可愛い女の子の笑顔が、脳裏に浮かぶ。
あの子も、ものすごく絵を描くのが好きだったのだろう。楽しくて楽しくてしょうがなくて、筆を握っている間は時間を忘れてしまうくらいだったのだろう。ずっといつまでも描き続けていたかっただろうに、彼女にはもうそれは叶わなくなってしまった。
あの子が私を見たら、なんて言うだろう。怒るかな。呆れるかな。不思議そうな顔をされるかな。
それとも、こんなことを言ったりするのかな。
──好きなら、それでいいじゃないですか。
聞いたことのない女の子の声と、まだしっかりと耳に残ったままの男の人の柔らかい声が重なって届いた、気がした。
「……っ」
のろのろと進み続けていた足が、完全に動きを止めた。
下に向けていた目から、滴が零れ落ちた。
私は──
スケッチブックをぎゅっと握る。
……本当に。
本当に、私は一体、何をしているのだろう。
今、すべきことは、寒風に吹かれながら、絵も描かず、一人行く当てもなくフラフラと街中を迷子のように放浪することではない。
絶対に、そんなことではない。
私はくるりと方向転換をした。
来栖さんは私のことをほとんど何も知らないけど、私はそれよりももうちょっと、来栖さんのことを知っている。
来栖司というフルネーム、そして見せられた学生証に印刷されていた大学名と学部。これだけ手がかりがあれば、探し出すのは決して不可能ではないはず。
自分から、誰かに近づいて行こうとすること。考えてみれば、そんな決意をするのは、生まれてはじめてだったかもしれない。他人には容易いことでも、私にとってはエベレスト登山くらいに険しく感じられる道のりだ。
……でも、それでも。
顔を上げ、まっすぐ前に向かって足を踏み出そうとした時、
「あーっ、君だ! やっと見つけた!」
という大きな声が聞こえて、その場で飛び上がるくらいびっくりした。
「え……え?」
ドキドキと暴れ回る心臓を宥めるために胸に手を置き、声がしたほうに目をやる。
そちらから、一直線に私めがけて早足で近づいてくるのは、若い男の人だった。まったく覚えのない、知らない人だ。その人が、君だ君だやっと見つけたマジラッキー俺泣きそう、と声を弾ませながら笑っているのである。
「…………」
怖くなって二、三歩後ずさったら、彼はやにわに慌てたように血相を変えて手を振り、「待って! 逃げないで! 怪しくないよ!」と駆け足になった。いえあの、怪しいです、どう見ても。
「ホントに大丈夫! ナンパでもないし、変な勧誘とかでもないから! 俺ごくフツーの学生だから!」
お願いだから逃げないで、と懇願するように言いながら私の近くまで寄ってきたその人は、そこで改めて気づいたように、「あ、これを言わなきゃいけないのか」と声を上げた。
「俺、林田っていうんだけど」
身を縮めていた私は、戸惑いながら、林田、という名前を口の中で呟いた。どこかで聞いたような──
「来栖の友達、っていえば、わかる?」
それを聞いて、心臓が大きく跳ね上がった。
そして思い出した。林田という名前、あの土手で来栖さんの同級生の女の人たちが口にしていたものではなかったか。
ぴたりと後ずさるのをやめると、彼は安心したように口許を綻ばせた。
「よかった。俺の話、聞いてくれる?」
こくりと頷く。
林田さんは、ますます安心したように息を吐き、それから、おもむろに両手を自分の顔の前で拝むように合わせた。
「えーとね、言いたいことはいろいろあるんだけど、やっぱりまずこれだな。ごめん!」
「……?」
来栖さんの友達が、どうしていきなり私に話しかけてきたのか、どうして私のことを知っているのかも判らなかったけれど、その人にごめんと言われるのはもっと判らない。きょとんとして首を傾げた私に、林田さんは申し訳なさそうに頭を掻いた。
「いやホント、ごめんね。すべての元凶は俺です。女三人に囲まれてさ、すげえきつい口調で問い詰められて、つい喋っちゃったんだよね。来栖とは昔からの友達でさ、いや俺も普通ならそんな個人的なこととかは言わないでおくんだけど、その時はただもうあいつらの剣幕が怖くて怖くて。いくら美人でも、俺ああいうタイプ苦手なんだよ。来栖もああいうのは嫌いなほうなんだけど、なぜかあっちからは好かれちゃうんだよねー。まあ顔はいいからね、中身はただの変人だけどね。でもとにかく、そのせいで君にとばっちりがいったようで、本当に申し訳なく思ってる。ごめんなさい」
一気に言って、ぺこんと頭を下げる。
「……はあ」
友達というだけあって、林田さんはどこか非常に、来栖さんとよく似た性質を持ち合わせていた。そのためか、私の恐怖心と警戒心は、早々に飛んで行ってしまったようだ。つい、くすっと笑ってしまう。
頭を下げていた林田さんは、ちらっと目だけを上げて、私を見た。今度は真面目な表情と声になって、「……あのね」と続けた。
「来栖、あの場所でずっと、君を待ってる」
笑みの形を作っていた口が、そのまま動きを止める。一瞬、息まで止まりそうになった。
「土日になるたび、土手に行って一人で座ってる。うん、はっきり言って、気持ち悪いよね。ストーカーそのものだもんね。俺も友達とはいえ、けっこうドン引き。……だから、無理にとは言わない。言わないけど」
よかったら、会ってやってくれないか、と林田さんは私をまっすぐ見つめ、真摯な口調で言った。
「イヤならいいんだ。もう来栖の顔を見たくもない、ってことなら、俺もここで君に会ったことと話をしたことを忘れる。これっきり関わらないし、あいつにも何も言わないで好きにさせておく。──でも、もしも、君のほうに誤解があるのなら、あのバカの話をちゃんと聞いてやってほしい」
「…………」
私のほうに、誤解があるのなら──
「俺が来栖から聞かされていた話と、君が誰かの口から聞かされた話には、たぶん、かなりの齟齬があると思う。問題をこじらせた俺がこれ以上余計なことは言えないから、せめて本人にちゃんと弁明をさせてやりたい。忠犬ハチ公みたいにひたすらじっと来ない人を待ってるあの後ろ姿を見るたび、正直なところ俺、責任感じて押し潰されそうでさ。『スケッチブックを持った高校生の女の子を見かけたらすぐに連絡して』って知り合いという知り合いに声かけまくって、やっと今日になって君を見つけたんだ」
「…………」
知らないうちに、私は指名手配犯のような扱いになっていたらしい。
「あ、君にイジワルをしたとかいう女の人については、もう心配いらないから。来栖のハンパないキレっぷりに恐れをなして、姿を見ただけで逃げて行くようになったから」
「ハンパないキレっぷり……」
あの、ニコニコ笑ってばかりの、来栖さんが?
ぽかんとして繰り返すと、林田さんは、おっと、というように自分の口を手で塞いだ。
「どうして俺はこう、余計なことばっか言っちゃうかな……とにかくその、もしも君に、あいつの話を聞いてやってもいいかな、と思う気持ちが少しでもあるのなら」
「はい」
私はこっくりと頷いて、林田さんの顔を見返した。
「私のほうも、来栖さんを探そうとしていたところでした。私、今度こそちゃんと、来栖さんの話を聞きます。私も、自分の言いたいことを言おうと思います」
今度こそ、逃げないで。
***
けれど、その場所に、来栖さんはいなかった。
肩で息をしながら土手を駆け下り、周囲を見回す。ずっと走りっぱなしで、心臓は爆発寸前だ。空気は冷たいけど、全身から熱が放射されて湯気が出そう。マフラーを首から外しながらぐるりと顔を巡らせて──
はっと息を呑む。
見つけた。
来栖さんは、対岸の土手にいた。
川を挟んであちら側、ちょうどこの場所の向かいになる位置に、じっと置き物のように座ってこっちを見ている。彼の目が私を捉えているのは明白なのに、まったく動く様子を見せなかった。
ここからは距離があってよく判らないけれど、口を結び眉を上げた彼の顔は、間違いなく怒っている人のそれだ。
足を動かしかけ、思い直した。
私はそのままその場所に腰を下ろした。生い茂った草は大半がすっかり茶色くなり、かさかさと乾いた音を立てる。川の上を通って吹いてくる冷たい風が、障害物がない分まともに顔に当たったけれど、気にしなかった。
もどかしく手袋を剥ぎ取って、地面に放り投げた。
スケッチブックを開き、鉛筆を手に持つ。
何枚も何枚も描いたこの場所の風景画。それらはほとんど破られてしまったけれど、私の頭にも手にも、ちゃんと記憶は残っている。考えることもなく鉛筆が動き、白い紙の上にどんどん新しい線を生み出していった。
川と、その向こうの土手。
……そして中央には、怒った顔の男の人。
十年以上も他人を弾きだしていた私の絵の中に、この時やっと、人が入った。
***
「……めちゃめちゃドキドキした」
絵を描き上げ、対岸の土手にまで行って隣に座ると、ずっと黙っていた来栖さんが、くぐもった声でボソボソとそう言った。
「ナオさんの姿が見えたと思ったら、普通に絵を描きはじめちゃうし。絶対ワタシのこと気づいてないはずがないのに、なんの反応もしてくれないし。筆を置いたら置いたで、さっさと立ち上がって土手を上っていっちゃうし」
「だって、川の中を渡ってくるわけにはいかないから……」
なるべく人目につかないところ、という観点で選んだこの場所は、川向こうに行くための橋からも遠い位置にある。だから私が対岸の来栖さんのところに行こうと思ったら、土手を上がりぐるっと廻って橋まで歩き、渡るしかない。けっこう距離があったので、ヘトヘトだ。
「このまま帰るのかと思って、もう泣きそうだった」
立てた膝に顔を向けて、来栖さんはまだぶつぶつ言っている。その顔とその態度、いじけた子供にしか見えない。
「けど、来栖さんも、ずっと動かなかったじゃないですか」
私が立ち上がっても、土手を上がっても、来栖さんは声を出すでもなく、ずっと同じ場所で同じように座ったままだった。帰るのかと思った、なんて文句を言うくらいだったら、何かしらのアクションを起こせばよかったのに。来栖さん、よっぽど怒っているのかな、と私だってものすごく心配でドキドキしていたのだ。
「──だって、声をかけたら、ナオさん逃げちゃうかもしれないし。少しでもそちらに近づく素振りを見せたら、ぱっと飛んで行っちゃうような気がして、動けなかった」
野生動物とか、鳥とかじゃないんだから……
「こっちが動いた途端に逃げだされたら、その時こそショックで再起不能になる。実のところ、ずっと同じ姿勢をキープしてたから体中が痛い。明日、筋肉痛になりそう」
もしかして、拗ねてるの?
「もう、逃げません」
私はそう言って、持っていたスケッチブックを来栖さんに差し出した。
来栖さんは口を噤んで私を見てから、スケッチブックに目を移し、それを手に取った。
ぺらりと捲り、そこに描いてあるものを見ても、黙り込んでいる。
少ししてから、静かな声を出した。
「……気持ちよさそうですね。ナオさんの描く綺麗な景色の中にいられて、このワタシもきっと、喜んでると思います」
怒ったような顔を、してるけど。
来栖さんはそう言って、ようやく、くすっと笑ってくれた。
それから、改めて私のほうを向いた。
「ナオさん」
「はい」
「ナオさんの大事な絵を破った人に、謝罪をさせますか。ナオさんが望むなら、ワタシがなんとしても本人に頭を下げさせます」
来栖さんの目は、怖いくらいに本気だった。林田さんの言っていたことを思い出して、ちょっと背中が冷える。「頭を下げさせる」って、あの、どうやって?
「そんなの、いいです」
私は急いで首を横に振った。
「私だって、ひどいことを言ったんだから、お互いさまです。私もあの人に謝りません。だから、あの人にも謝ってもらわなくていいです」
「でも──」
来栖さんは少し不満げだった。顔をしかめ、まだ何かを言おうとするので、それを遮るようにして先に口を開く。
「私が謝らなきゃいけないのは、来栖さんのほうです。来栖さんの話も聞かずに、逃げてしまってごめんなさい」
「……ナオさん」
来栖さんの表情が歪む。
「来栖さんの妹さんは、絵を描くのが好きだったんですか」
そう問うと、来栖さんはまた少し黙った。私も黙って待った。
私はあの時、ちゃんとこうして、来栖さんの口から聞かなきゃいけなかったのだ。
「──そうです」
来栖さんはゆっくりと頷いた。
「事故で、亡くなったと聞きました」
「そうです。ワタシが高校一年の時に。咲はまだ、中学二年生でした」
咲さん、というのか。来栖咲さん。愛らしい名前だ。
「来栖さんは、私のことを、亡くなった妹さんを見るようにして見ていたんでしょうか」
「…………」
来栖さんは口を閉じ、じっと私の顔を見つめた。まっすぐこちらに向かってくる瞳には、どんな感情が乗っているのか、よく判らない。
返ってくるのは、否定か、肯定か。私はそれを確認することもなく来栖さんの前から姿を消した。そして今になって、それをひどく後悔している。
どんな返事であるにしろ、私は言いたいことがあったのに。
「私は来栖さんの大事な妹さんの代わりにはなれません」
どんなに弱く小さく情けなくとも。母の期待するような人間にはなれなくても。
私は、私だ。
来栖さんと会って、ようやく、そう思えるようになった。
「それでも私は、私として、来栖さんのことが好きでした」
少しだけ、笑みを浮かべる。
「──来栖さんと一緒にいられた時間、とても、楽しかったです。ありがとう」
それを、きちんと伝えておきたかった。




