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翌週の土曜日も、来栖さんは土手にやって来た。
先週顔を合わせた時、最近土日は大体ここにいる、とうっかり口を滑らせはしたけれど、そしてそれを聞いた時の来栖さんの目がなんだか異様に輝いていたけれど、まさか本当に二週続けて来るとは思ってもいなかった。
「あの、大学生っていうのは、そんなにもヒマなものなんですか……」
草の中に腰を下ろしてにこにこしているその人を見た途端、つい心の声がそのまま外に出てしまった。普段、相手が話す前から自分が言葉を出すことなんて滅多にない私だが、どうしても胸の中に留めておくことが出来なかったのである。
来栖さんは、私の失礼な質問にも不快そうにすることはなく、むしろ嬉しくてしょうがないというように、あははと笑い声を立てた。容姿はいいので、その笑顔も一見爽やかそうに見えてしまうけれど、この人の中身はたぶん、爽やかさとは二段くらいズレたところにある。
「大学生っていうのはおしなべてヒマな人間が多いものですけど、ワタシはせっせと勉学に勤しむ真面目な学生なので、そうでもないですよ」
絶対嘘だ。
「あれ、なんですかその胡散臭そうな顔。ホントですって。ちゃんと授業にも出て、平日にはバイトもしてます」
「土日は、バイトしないんですか」
「してますよ。あ、でも安心してください、夕方からなので、まだたっぷり時間があります」
何をどう安心しろというのか、まったく判らない。私は少しためらってから、口を開いた。
「平日は、学校とバイトで」
「はい」
「土日も、夕方からバイトが入っていて」
「そうです」
「……だったら、来栖さんにとって、今のこの時間帯は、身体を休めたり遊んだりするための、貴重なものなんじゃないんですか」
「そうなんですよ!」
私としては、かなり露骨に、「そんな貴重な時間をこんなところで無駄に消費せず、他のところで休んだり遊んだりしたらどうか」ということを伝えたつもりだったのだけれど、来栖さんは何を思ったか、握り拳を作って力いっぱい肯定した。
「この貴重な時間に、ナオさんを見つけられたのは、ホントに幸運でした。神さまなんてもんは全然まったく信じていませんが、ほんの一瞬感謝しそうになりましたね。いや、してやりませんけど。だからこれはきっと、ワタシの第六感とかそういうもので引き寄せた奇跡的な巡り合わせだったんでしょう。ワタシすごいですよね」
謎の理屈で、来栖さんは自分を賞賛し、ねえ? とにっこりした。同意を求められても困る。
「…………」
私はため息をついて、それ以上の徒労を費やすのを諦めた。対話の能力的にも、精神のキャパ的にも、あちらには腐るほどの余裕があるらしいが、私には限界だ。
定位置である場所に自分も腰を下ろし、スケッチブックを開いた。
来栖さんは確かにいろいろ変わっているけれど、私が絵を描いている時にそれを邪魔をするような真似は、一切しなかった。
人が一人か二人は入れそうなスペースを空けたところで座ったまま、決してそれ以上こちらに近づこうとする素振りも見せない。私がスケッチブックと向き合っている間は、そこで本を読んだり、寝転んで空を眺めたりしているようだった。
絵の世界から現実世界へと意識を戻し、ふう、と息をついてからそうっと視線を移すと、本から顔を上げた来栖さんが、目を細めてにこっと笑う。
どう返していいのか判らなくて私が下を向いてしまっても、彼を取り巻く空気に何ひとつ変化はなかった。
「ナオさん、区切りがついたら一息入れませんか。あ、そうだ、ワタシ喉渇いちゃったので飲み物買ってきます。一緒に飲みましょう。ワタシねえ、ペットボトルのお茶を買う時っていつも悩むんですよね。たくさん種類があるけど、アレどういう違いがあるんですかね。さほど違いがなければ、あんなに何種類も並べなくていいような気がするんですけどね。どういう差異があるのかひとつひとつにキチンとした説明書きをつけて欲しいとか思っちゃいますよね。で、ナオさんは何にします?」
という調子で怒涛のようにまくし立てられて、頭の混乱した私が、「……こ、紅茶」と思わずもごもご口にすると、機敏な動作でさっさと立ち上がり、土手の上にある自販機に向かって歩いて行ってしまう。そして当然のように、ペットボトルをはいどうぞと差し出されることになるわけだ。
受け取った紅茶を手に、困惑しながら来栖さんに目をやれば、彼は結局お茶ではなくスポーツドリンクを買って、喉に流し込んでいる。
気がつけばそんな風に、来栖さんのペースに流されているのだけれど、不思議と、怖れも、逃げたいという気持ちも湧かなかった。
無言で手の中のペットボトルに視線を下ろし、自分も蓋を取って口をつける。ほのかな甘みが広がり、すうっとした清涼感が喉を通って、身体の中に染み込んでいった。
その時になって、はじめて気づくのだ。
空気が乾燥して、喉が渇いていたのだと。絵を描いていると自分の状態さえも判らなくなる私を、来栖さんは気遣ってくれたのだと。
私はまた迷ってから、おずおずと言葉を出した。
「……あの」
「はい?」
「ありがとう、ございます」
俯きがちで、聞き取りにくいくらいに小さな声の、ものすごくヘタクソで不器用なお礼だった。もっと他にいくらでも言いようがあるだろうに、こんな態度では、まるで迷惑がっているようだ。どうしていつも、他の女の子のように上手に出来ないのだろう。
これまで自分の前で落とされた、苛つくようなため息や舌打ちを思い出して、ひやりとした。
──つまんないの?
──ちっとも楽しそうじゃないよね。
──どうしてもっと「普通」に出来ないの?
母親を含めたいろんな人の声が、脳裏を過ぎる。
ここにいるのはただの物好きな通りすがりの人だ、他人だ、と必死になって内心で言い聞かせる。そうやって予防線を張って、少しでも自分が受けるダメージを軽減させようと、びくびくしながら身を竦めるばかりの私は、どこまでも愚かで臆病な人間だった。
「どういたしまして」
来栖さんは、なんでもないように朗らかにそう応えてから、両手で握りしめるようにペットボトルを持った私の顔を、軽く覗き込んだ。
「その紅茶、美味しい?」
訊ねられ、慌ててこくこくと頷く。
「お、美味しいです。すごく」
「そうかー、よかった」
来栖さんは、安堵したように笑った。
その顔を見て、私はひとつ学習をした。
──そうか、最初から、「美味しい」って言えばよかったんだ……
その日は三枚の絵を描き上げたところで、切り上げることにした。
「今日はここまでですか」
読んでいた本をぱたんと閉じて、来栖さんがちょっと残念そうに言う。彼は結局、四時間近くをこの場所で何をするでもなく過ごしていたことになる。先週もそうだったけど、退屈ではないのだろうか。
スケッチブックと道具を持った私に、「じゃあ、気をつけて」と来栖さんは片手を挙げた。これも先週と同じだ。彼は私に対して、家はどこなのかと聞くこともなければ、携帯の番号すら聞いてくることもなかった。
お互いに、知っているのは名前だけ。
来栖さんはもしかしたら、そういう気軽な立ち位置で、ちょっとお喋りしたり、からかったりするだけの相手を求めているのかな、という可能性を思いつく。
私のように、人付き合いが苦手、というタイプにはまったく見えないが、大学生は大学生で、煩わしい人間関係から離れて息抜きしたい、と思う時もあるだろう。
いつでも切り捨てられて、すぐに忘れてしまえる。私という人間は、そういう存在としてぴったりだと、彼は認識しているのかもしれない。
そしてそれは、確かに正しい。
「ナオさん」
来栖さんに呼びかけられて、私ははっとして顔を上げた。いつの間にか、また下を向いていたらしい。
「は、はい」
「明日も、ここ来ます?」
「……え、と、はい、たぶん」
少しうろたえながら、曖昧な返事をする。どう答えていいのか、よく判らなかった。予定がどうこうというよりも、自分の気持ちとして。
明日も、私は、ここに来るつもりがあるのか。
……来たいと、思っているのか。
「ワタシも、また来ていいですか」
その声にはわずかに緊張が含まれているように聞こえて、私はさらにうろたえた。どうして今さらそんな確認をとるのだろう。先週だって、今日だって、勝手にここに来ていたではないか。
まるで、私に正式な許可を求めるみたいに。
「……く、来栖さんが、来たいのなら」
さんざん頭の中でぐるぐると言葉を探し回った挙句、そんな返事しか出せなかった私に、来栖さんは大きな息を吐いた。
「あーよかった。さすがにそろそろストーカーとして警察に訴えられるんじゃないかと思って心配だったんです。で、ナオさんは、甘いものは好きですか?」
笑顔のまま、ころりと話の方向を変えるのは、どうやら来栖さんの癖らしい。
「甘いもの……は、はい、わりと」
「じゃ、明日はでっかいケーキでも焼いて持ってきましょうね」
「え……」
「冗談です。そうしたい気持ちは溢れるほどありますが、残念ながら実力が伴っていません。というわけでコンビニで何か買ってきます。ケーキがいいですか、プリンがいいですか、おでんがいいですか、肉まんがいいですか」
なんで、その四択?
「え、えーと……プ、プリン……?」
勢いに押されてそう口にすると、来栖さんは目許を緩めた。
「はい、用意しておきます。じゃあ、また明日」
「…………」
この時点で、明日ここに来るのは、「約束」になった。
帰る道すがら、ふと足を止め、空を見上げた。
そこには抜けるような蒼天が広がっている。少しずつ陽が短くなってきたとはいえ、赤く染まりはじめるのは、まだもうしばらく後だろう。
明日も晴れるかな、とぼんやりと思う。
──晴れると、いいな。
***
翌日、座って手を振る来栖さんの傍らには、ちゃんとコンビニの袋が置いてあった。
にこにこしながら私にプリンを渡し、自分は肉まんを取り出して嬉しそうに頬張る。
その姿を見たら、思いついた。
「あの」
「はい?」
「ケーキとプリンとおでんと肉まん、って……」
「どれもワタシの好物です」
「…………」
当然のように返ってきた答えに、我慢できなくなって、私は噴き出してしまった。来栖さんは何を考えているのかちっとも判らない人だけど、子供のように単純なところもあるらしい。
来栖さんは肉まんを口の近くに持っていった態勢で動きを止め、じっとこちらを見つめた。
「──ナオさん」
「あ、はい」
「ワタシ今から犬になるので頭を撫でてくれませんか」
真顔で言われた。かなり引く。
「……それは、ちょっと」
「あっ、そーだ!」
「イヤです」
「まだ何も言ってないんですけど」
悲しげに眉を下げる来栖さんのその顔が、なんだか本当にしょげた犬のようで、それを見て、また噴き出した。
くすくす笑いながら、スプーンですくったプリンをぱくりと口に入れる。
「美味しい」
こんな風に笑えたのは、何年ぶりだろう。
誰かと一緒にいるのが楽しいと思えたのも。