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パレット  作者: 雨咲はな
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 もちろん、地中にめり込むくらいに、後悔した。

 なぜ私は、あんなことを口走ってしまったのか。あのまま何も言わず、スケッチブックと道具を抱えて逃げ帰っていればよかったのに。

 余計なことを言ってしまったばかりに、こんな風に家に帰っても悶々とする羽目になる。気分を変えようと音楽を聞いても、晩ご飯を食べても、お風呂に入っても、ベッドに潜り込んでも、頭の中はそのことばかりに占められて、まったく落ち着かない。その日のご飯は私の好きな和風ハンバーグだったというのに、ちっとも味がしなかった。

 どうしよう。どうすればいいんだろ。明日も行くと言ってしまった以上、やっぱり行かなきゃいけないのだろうか。

 私は一度お気に入りの写生ポイントを見つけたら、二カ月か三カ月かは休みのたびに通い詰めて、自分が満足するまでとことん描き続ける。あんなことがなければ、明日だって何も悩まずあの場所に向かっていた。しかし今は悩まないどころの話ではない。


 ……行かない、という選択肢があることは、わかっているのだ。


 あの来栖という男の人は、私のことを何も知らないのだし、そもそも約束をしたわけでもない。私は、明日も来る(と思う)、という予定を口にしただけ。必ず行かなきゃならないという義務はない。

 明日は家の中で大人しくしていたって、別の写生ポイントを見つけに余所へ足を向けたって、なんの問題もないはず。

 大体、彼が明日も現われるとは限らない。世慣れた大学生が、いかにも気弱そうな高校生を見かけて、ちょっとからかってみた、という可能性は大いにあり得る。いや、どちらかといえば、そちらの説のほうがずっと納得できる。今頃彼は、あんなやり取りをしたことも綺麗さっぱり忘れて、楽しく遊んでいるのかもしれない。または、友達との笑い話のネタにしているのかもしれない。

 それだったら、私ばかりがこんなにうろたえているのはバカバカしいというものだ。そうだ、あんなの冗談に決まっている。行ったってどうせ他には誰も来ないだろうし、行かなくたって誰も困らない。

 でも……けど。

 そこまで考えても、まだ往生際悪く、うだうだと迷い続ける思考に、我ながら呆れた。呆れるけれど、どうしても想像せずにはいられない。

 ──でも、もし、本当に来ていたら。

 早起きして(徹夜をして、というのはさすがに冗談だと思いたい)、あの場所にやって来て、彼はその後もずっと、私を待ち続けたりするのだろうか。そんなこと、あるはずないとは思うけど。あるわけないとは、思うけど。

 誰もいない土手で、長い脚を窮屈そうに曲げて、ただ一人、ぽつんと座っている姿が、どうしても頭にこびりついて離れないまま、私は日曜日の朝を迎えた。




 いっそ土砂降りになればよかったのに、その日は朝からからりとした青空の広がる晴天だった。

 おまけに父と母は、親戚の結婚式があるということで、早くから慌ただしく準備を済ませて出かけて行った。お小言を並べたり、引き留めたりする母がいないのだから、今日はこそこそと隠れるように出て行かなくてもいい、ということだ。

 無人の家の中で、私はちょっと茫然としながらトーストを齧った。なんだろう、この、いかにも「さあ早く行きなさい」といわんばかりのシチュエーションは。

 仕方ない、と腹を括って、出かける準備をした。

 どうせ、どこにも出かけず筆も持たずに家に引きこもる、なんてことが私に出来るわけがない。他のところに行ったって、きっと気になって絵に集中するのも難しいだろう。せっかく思う存分時間の使える日曜日を、そんな風に過ごしてしまうのは、あまりにももったいなさすぎる。

 どうせ、来てないよ。あれは通りすがりのヒマな大学生の、ただの気まぐれだ。思い煩うだけ、時間の無駄というものだ。

 ドキドキしたり、びくびくしたり、自分を励ましたり、開き直ろうとしたり、やっぱり失敗して落ち込んだり、まるで嵐のように様々な感情に振り回されながら、引きずるようにして足を運んだその土手に──


 あの大学生は、いなかった。


 なーんだ、やっぱりね。

 ほんの少しだけ肩透かし気分を味わいつつ、でも大部分はホッとして、草をかき分けつつ土手を降りる。ようやく心が落ち着いて、絵のことに意識を向けるだけの余裕も戻った。

 今日はどうしようか。こんなにも綺麗な空だから、なるべく上のほうに視点を据えてみようかな。スケッチブック一面に、流れる雲を写してみるのもいい。それから……

 わくわくしながら、そんなことを思った時、前方の草がガサッと動いて、いきなり人が現れた。

「…………」

 足も止まったけど、たぶん、心臓も確実に一瞬止まった。どうしてこの人は、一度ならず二度までも、私の息の根を止めるような行動をするのか。


「あっ、来た来た! いやーよかった、もしも来なかったら、ワタシ泣いちゃおうかと思いましたよ!」


 土手の草むらの中に寝そべっていたらしい彼は、嬉しそうにそう言いながら、むっくりと起こした上半身を手の平でパタパタと叩き、洋服についた草や葉っぱを払い落とした。

「よく考えたら、特に約束したわけでもないですしね。さらによくよく考えたら、ワタシあなたのこと何も知らないじゃないですか。ああいう時はせめて名前なりケータイの番号なりを聞いておくべきだったって、あとで気づいて死ぬほど後悔しました。とりあえず夕方までここで待って、それでも来なかったらどうしようかなと空を見ながら思索に耽っていたら、足音が聞こえたんです。よかったよかった」

「…………」

 にこにこと手放しで喜んでいるその姿を見て、私は困惑しながら、昨日と同じことをもう一度思った。

 ……痴漢とか、変質者とかでは、ないんだろうけど。


 なんなんだろう、この人。



          ***



 その場に突っ立ったままの私を見て、彼は、ん? というように首を傾げた。

「座らないんですか?」

 自分の前の空間を手の平で示すその態度は、まるで自宅を訪れた客に座布団を勧める主人のようだ。示された場所は、雑草が生い茂った地べたの上だけど。

「……あの」

 私は腰を下ろさず、なんとか自分の中にあるありったけの根性を総動員し、声を出した。

「あの……えっと、来栖さん、は」

「司でいいですよ」

 朗らかに返された言葉は、聞こえなかったことにした。

「来栖さんも、絵が、好きなんですか」

 そうなのだ、いちばんの疑問点は、彼がどういう目的でここに来て、なんだかんだと私に話しかけるのか、ということなのだ。それがさっぱり判らないから、私としてもどう対応すればいいのか判断がつかないのである。誰でもいいから絵のコーチングをしたくてたまらない、とか、絵は好きだけど訳あって描けないので代償行為として誰かが描くのを見たい、とか、そういう理由があれば、まだしも私も納得できるのかもしれない。理解はできないけど。そしてそんな事情でも、たぶん困ると思うけど。

「え?」

 しかし来栖さんは、外人が、What? と言う時のような顔で見返してきて、ますます私を当惑させた。

「ああ、絵ね。うん、そうですね、もちろん嫌いじゃありませんが、正直、技術的な良し悪しとかはよくわかりません。ワタシねえ、わりと大概のことはそつなく出来るほうなんですけど、どういうわけか昔から、絵を描くのだけは異様にヘタクソで。きっとそちらの遺伝子は、生まれる時に母親のお腹の中に全部置いてきて、それを妹が回収して出てきたんじゃないかと思うんですよ。だから見るのはわりと好きですが、描くのはサッパリです」

 で、それが何か? と言いたげな邪気のない顔で、首を捻っている。首を捻りたいのはこちらのほうだ。

「あの……じゃあ、なんで、ここに」

「え。あなたに会いたかったからですけど」

 今度は驚いて目を見開かれた。どうしてそんな当たり前のことを聞かれるのか、というようなその顔は、確かによく整っているのだけれど、私には遠い宇宙の異星人のように見えた。だって何を言っているのかちっともわからない。

 私の足が半歩くらいじりっと後ずさりしたのを目で捉えたのだろう、来栖さんはここではじめて気づいたように、あ、と口をまるく開けた。


「……もしかして、ワタシのことが怖いですか」


 途端に眉を下げ、申し訳なさそうな表情になる。大学生の男の人なんて、私にとっては「大人」とほとんど変わらない存在のはずなのに、その姿はなんとなく先生に怒られてしゅんとする小学生を彷彿とさせた。

 私も肩をすぼめ、一緒になって小さくなりながら、わずかに首を横に振る。

 確かに、「怖い」とは思っているけれど、たぶん、来栖さんが考えているような意味とはちょっと違う。ここにいるのが私ではなく、たとえば同じクラスの女の子たちなら、来栖さんのような人に話しかけられたら大喜びをして、あっという間に仲良くなれるだろう。

「あの……私、他の人と話すのとか、あんまり、得意じゃなくて……昔から、どちらかというと、苦手で……」

 自分でもイヤになるほど情けないことを言っている、という自覚はある。だから私の視線は下を向いたきり、そこから動かせなかった。高校生にもなって何を言っているのかと、呆れられても仕方ない。

「……来栖さんが怖いんじゃなくて、他人はみんな、怖い、っていうか……時々、人と一緒にいると、すごく、疲れることが、あるんです。それで……」

 あまりにも恥ずかしくなって、中途半端なところで言葉を切り、口を噤んだ。

 笑われるか、ため息をつかれるか、お説教をされるかの、どれかが返ってくるだろうと身構える。けれど聞こえてきたのは、「ああそうかー、じゃあ」とひどく感心したような声で、私は顔を上げた。


「──じゃあ、今日ここに来るのも、ホントはしんどかったんじゃないですか。けど、もしかしたらワタシが待ってるのかもしれないと思って、頑張って来てくれたんですね。ごめんなさい。……ありがとう」


 来栖さんは、優しく目を細めて、そんなことを言った。

 私は驚きと共にその顔を見て、それからどうしたらいいのか判らなくなって、また顔を伏せた。

 なぜか、少し泣きそうになった。



          ***



 ありがとう、と言ってから、来栖さんは困ったような顔になり、少し茶色がかった髪の中に手を入れてぐしゃりと掻き回した。

「えーと、じゃあ、どうしよう」

 口調も困り果てている、ように聞こえる。私は、は? と問い返した。どうしようって、何が?

 それには答えず、来栖さんはぱっと立ち上がった。そのまま踵を返すのかと思ったら、足を動かして、数歩分、私のいるほうとは逆方向に横に移動した。何をするにも唐突な人で、そして何をするにも、今ひとつ意味が判らない。

「これくらいでは、どうです?」

「は?」

 私の口からは、同じ言葉しか出てこない。心底、彼が何を言っているのか理解できなかったためなのだが、来栖さんはそうは思わなかったようで、少し悲しげに口の端を下げてから、さらに数歩分向こうに遠ざかった。

「せめてこれくらいにしてもらえませんか。いくらワタシが視力に自信あるといっても、これ以上離れるとさすがにキツいです」

「……すみません、なにを言ってるのか、よく」

「ですから、距離です、距離。これくらい距離をとれば、少しは安心しませんか」

 私から数メートルくらい離れた場所で、来栖さんは真顔で訊ねている。

「……あの」

 しばらく黙ってから、私はおそるおそる言った。

「来栖さんに、『こんな鬱陶しいことを言う相手には、もう今後一切関わらないでおこう』、という気持ちは……」

「ありません!」

 これ以上なく、キッパリとした返事だった。

 それから何を思いついたのか、「あっ、そうだ!」と目を輝かせ、いそいそとまたこちらに戻ってきた。人を二、三人くらい挟めるだろうという距離で、ぴたりと立ち止まる。

「いっそ、ワタシを人間じゃなくて、犬だと思えばいいんじゃないですかね?!」

 ものすごい名案、みたいな顔で、来栖さんは嬉々として提案した。

「ずーっと犬言葉でワンワン話しますから! あ、別に返事をしなくてもいいですから! ボール投げられたら飛ぶように取りに行きますし! たまに頭だけ撫ぜてくれたらいいですから!」

「…………」

 これなら怖くないのでは? とにこにこしながら問われたけれど、むしろその発想のほうが怖いです、とは言えなかった。

「……普通に、人間のままのほうが、いいです……」

「そうですか」

 どうしてちょっと残念そうなのか。

「あ、そうだ! だったら最初のうちは、ワタシ土手の上にいましょうか。……いや、それだと顔が見えないな……それなら下にいるほうがいいかな。待てよ、どちらにしろ遠くからだとよく見えないから、その場合は双眼鏡が必要か……」

 ぶつぶつと考えるように呟く。本人はどうやら大真面目なようなのだけど、どんどん気持ち悪い方向に向かっている気がしてならない。

 次に「あ、そうだ!」と言いださないうちに、私は慌てて再び口を開くことにした。来栖さんは名の通った大学に通っているだけあって頭の回転が速いのだろうけれど、その思考は、どうも私とは別の次元を廻っている。賢い人というのはこういうものなのだろうか。並程度の頭しか持っていない私には到底ついていけない。

「あの」

「はい?」

「……普通に、昨日と同じくらいの距離で、いいです……」

「そうですか、よかった」

 満面の笑みを浮かべて、来栖さんはさっさと足を折ると、もとの位置に座った。

「…………」


 もしかして、私、ハメられたんじゃ?


 なんだか釈然としなかったけれど、もう何かを考えるのも疲れてしまって、自分も腰を下ろした。

 どういうつもりなのかは知らない。でもきっと、すぐに飽きるだろう。私は気のきいた会話なんてまったく出来ないし、どうやって人を楽しませたらいいのかも判らない。何かを話しかけられても、絵を描いている時は返事もしなくなる。こんなつまらない人間と一緒にいようとする物好きはいない。

 ……そのうち、帰るに決まってる。

 スケッチブックを開き、鉛筆を取り出す私に、来栖さんはにこにこしながら目を向けている。気にしない気にしない、と私は懸命に言い聞かせた。一時間か二時間の辛抱だ。あるいは、もっと短いかもしれない。話すのが苦手、と断ってあるのだから、最低限の返事しか出来なくてムッとされても、そんなに落ち込むことはない──はず。

「そういえばワタシ、あなたの名前を知らないんですけど」

 来栖さんが今になって思い出したように言った。

「あ、別に無理に聞き出そうとは思わないので、ご安心を。ですよね、よく知らない他人に、しかも若い男に、自分の名を軽々しく教えたくないですよね。それはきっと防犯上でも正しい対応かもしれませんしね。とすると……あっ、そうだ!」

 ぽんと手を叩く。

「じゃあ、ワタシの好きな名前で呼ぶことにしましょうか。えーと何がいいかな、ワタシの好きな植物、ナンジャモンジャ……は、ちょっと合わないな。好きな食べ物だと、まんじゅうか……あとはサバ……さつま揚げ……うーん」

「──なお、です。直線の直、で、なお」

 私が名乗ると、来栖さんはにこっと笑った。

「ナオさん。いい名前ですね。あなたにぴったりです」

「…………」

 たぶんやっぱり、彼は頭が良いのだと思う。

 ……なんか、悔しい。



 その日来栖さんは、私が二枚の絵を描き上げるまで、ずっと同じ場所にいた。





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