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パレット  作者: 雨咲はな
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 昔から、絵を描くことが好きだった。


 幼稚園まではクレヨンで、小学生の時は色鉛筆で、中学生になってからは水彩絵の具で。好んで使う道具は変遷しても、「絵を描く」という点だけは、ずっと変わらず好きだった。

 高校生になってからは、油絵やコピックなどにも手を出してみたけれど、今ひとつ馴染まなかった。何がダメ、というわけではなくて、そちらはそちらで楽しいのだけど、なんとなくしっくりこなかったのだ。

 そんなわけで、高校二年生になった現在も、絵を描く時はもっぱら水彩絵の具を使っている。おかげで中学時代から愛用し続けていた道具一式は、あちこちが擦り切れ、すっかりぼろぼろになってしまった。

 ……けれどそれは、私のいちばんの宝物。

 筆の一本から、すっかり色の染みついたパレット、ぺっちゃんこになって絞り出すたび渾身の力を必要とする絵の具チューブに至るまで、すべてがまるで自分の一部のように、ひとつひとつが愛おしい。



 土日の休みは、大体外に出て写生をする。

 朝起きて、ご飯を食べて、身支度を整えると、私はスケッチブックと道具を持って、こっそり家を出る。

 母はもう半分以上諦めているようだけど、その二つを持っている私の姿を見ると、必ず何か小言を言わずにはいられなくなるらしいので、なるべく見られないように、様子と機会を窺いながら身を低くして移動するのである。自分の家だというのに、気分は完全にコソ泥だ。しかしこのほうが、お互いの平和のためであるということも、これまでの積み重ねで身に染みて知っているのでしょうがない。

 自宅が見えない位置にまで来ると、ほっとして全身から力を抜く。時々、緊張しすぎて気持ちが悪くなることもある。そんな時は、手に持っているスケッチブックの表紙のざらざらとした手触りと、肩から掛けた布製のバッグに入っている古ぼけた水彩道具一式の重みで、なんとか心を浮上させるのが常だった。

 よし、と顔を上げ、足を動かす。

 悶着のもとになっているのも絵、でも私を救うのも絵。どうして私はこんなにも、絵を描くのが好きなのか。たまに、無性に不思議になることがある。

 自分では、考えても考えてもわからなかった。これからも、わからないのかもしれない。

 ──わかったら、この息苦しさからも、少しは解放されるのだろうか。



          ***



 今までに選んだ写生ポイントは数多く、場所も景色も様々だ。しかし、いつも共通していることが一つだけある。

 人があまりいないこと。

 本当は、だーれも来ない孤島のようなところが望ましいのだけど、残念ながら今どき街なかにそのような場所は皆無に等しい。山奥にまで出かけていくような時間もお金もない。だから、「なるべく」人が来ないところを慎重に探すようにしている。

 最近見つけた写生ポイントは、川沿いの土手だ。

 あんまり大きい川でもないし、ほとんど整備もされていないので雑草は伸びっ放しで、おまけに狭い。そんなんだから駆け回って遊ぶ子供たちもおらず、野球やサッカーの練習をする熱血少年もおらず、カップルなどの姿もない。

 地べたに座り込んでせっせと絵を描いている高校生がいても、草の中に埋もれて隠れてしまうので、ちょうどいい。

 近くには橋もないから、上から見つけられることもなく、私はこのベストポジションを非常に気に入っていた。


 ……目の前には、流れる川と、対岸の土手と、さらにその向こうに広がる景色、そして空。


 このあたりは住宅街だから、建っているのはマンションや一戸建て住宅ばかりだ。だからあまり人通りもない。静けさの中を、風が吹き通り、草を揺らし、川面に波が立つ、ささやかな音が響いている。どこかから、車の排気音や、赤ちゃんが泣き叫ぶ声も届く。姿は見えなくともその存在は感じ取れて、姿が見えない分、私を安心させた。

 夏の暑さはすっかり和らぎ、高く澄んだ青空には、いわし雲が見えはじめている。あまり綺麗な川ではないけれど、太陽の光が反射してきらきらと白く輝くさまは、私の目にはとても美しく映った。

 スケッチブックをめくり、真っ白な紙面に鉛筆を走らせる。構図を決め、輪郭を描き、細かいところに手を入れていく。私の下描きはものすごく線が少ない。その段階で誰かが見ても、何が描かれてあるかよくわからないくらいだろう。

 それから鉛筆を置いて、筆に持ち替える。ほとんど無色に近いような極薄の色をざっと塗り、少しずつ少しずつ、そこに色を足していく。他の人のことはよく知らないけれど、それが私のいつもの描き方だった。

 一筆ごと、一色ごとに、建物が質感を増し、植物に生命力が宿り、空が無限の広がりを見せはじめる。この瞬間、毎回毎回、呼吸が止まるほどの幸福感に包まれる。

 楽しくて楽しくて、たまらない。

 この喜びが得られるのなら、他の何を失っても構わない、などと考えてしまう私は、ひょっとしたら病気なのかもしれないとさえ思う。



          ***



 夢中になって一枚を描き上げ、ふう、と息をついた時だ。

 いつの間にか、すぐ近くに人が座っていることに気がついた。

「……!」

 今度は幸福感からではなく驚愕で、呼吸と心臓が止まりそうになった。筆をパレットの上に置いて、あーあと伸びをしかけたその格好のままで硬直する。

 今の今まで、自分以外の存在になんて、これっぽっちも気づかなかった。


「あ、やっと気がついた」


 そちらに視線を向けて石になってしまった私を見て、その男の人は嬉しそうににっこりした。

 人が二人入れるくらいの距離を置いて座っているのは、まだしも私にとって幸いだった。もっと近くだったら、貧血を起こして倒れていたかもしれない。

「こんにちは」

 にこにこしながら普通に挨拶されたが、私のほうはそれどころではない。身体の動きも思考も停止したっきり青くなっている私を見て、彼は少し困ったように頭を掻いた。

「えーと、一応、何度も声をかけたんですけどね。座ってもいいですか、座りますね、座りますよ、って」

「…………」

 ぜんぜん、聞こえなかった。

 私は絵を描きはじめると、途端に周囲の音が耳に入らなくなる傾向があって、誰に何を話しかけられても無反応になってしまう。子供の頃からそうなので、父と母に何回も怒られた。気をつけようと思っても、絵の世界に入り込んでしまうと、どうしても周囲に無頓着になる。その自覚はあるから、そんなわけないと彼の言葉を否定することなんて出来るはずもなかった。

「怪しい者ではありませんから」

 と彼は言ったが、怪しい怪しくないに関わらず、他人がこんな至近距離にいる、ということが私にとってはほとんど恐怖なのである。スケッチブックを抱えて座ったままじりじりと後ずさると、彼はうーんと考えるように首を捻り、ぽんと掌に拳を打ちつけた。


「あ、自己紹介がまだでしたね。ワタシ、来栖司と申します」


 これでいい? というように、またにこにこする。そういう問題ではない、と私は心の底から思ったが、彼はちっとも気づいていないようだった。

「お疑いなら学生証も出します。はいどうぞ」

 ジーンズの後ろポケットに手を入れて財布を出し、そこからカードのようなものを取り出して、どうぞどうぞと私に向かって押しつけてくる。何がなんだかわからなくて、ものすごく混乱していた私は、思わずそれを受け取ってしまった。

 この地域ではよく名の通った国立大学の名前が印刷されたその学生証には、ちゃんと写真と「来栖司」という名前が載っていた。二年生であるらしい。

「あ、あの……どうも」

 少し震える手で学生証を返すと、彼はにこやかにそれをまた財布の中にしまった。

 これでなんの問題もなくなった、というように晴れ晴れとした顔をしている。


 ええー……


 私は大いに困惑した。そもそも学生証の提示を求めていたわけではない。どちらかというと、切実に求めているのはこの場からすぐに立ち去ってくれることなのだが、今のところ彼が腰を上げる気配はまったくなかった。

「…………」

 どうしたらいいのかわからず、途方に暮れる。

 来栖司という名の大学二年生は、かなり見た目の良い男の人だった。もちろん顔がいいからって痴漢や変質者ではないと言いきることは出来ないが、彼を包む空気というか雰囲気は、警戒心を起こさせるというものと、とことん真逆の性質をしていた。誠実そう、優しそう、というより、そんなことを考えるのがバカバカしくなってくるような──悪く言うと、ひどく間の抜けた感じのものだったのだ。

 涼やかな目許に、通った鼻筋、尖った顎。道ですれ違えば、結構な確率で女の人が振り返るだろうことは想像に難くない。だけど、なんだかちょっと、単純に「かっこいい」というのとは違う、気がしてしまうのである。

 シンプルな黒いシャツを着て、ジーンズに包まれた長い足は、障害物があるわけでもないのに、なぜか窮屈そうに曲げられている。スケッチブックを持つ私がそういう格好をしているので、まるで自分もそうするのが礼儀だと思っているかのようだった。

 何も言わずに逃げる、ことはもちろん可能であるけれど、逆にそういう行為をためらわせるようなものを、彼は持っていた。


「あの……私に、なにか」


 こんな容姿をした人が、わざわざ私のような地味な高校生をナンパするとは思えない。女性なら誰でもいいからと見境なく襲いかかる性犯罪者なら、私が気づくまでじっとその場で待機することはしないだろう。

 そう思い、なんとか勇気を振り絞っておどおどと出したその問いに、彼はちょっと恥ずかしそうに「いやあ」とまた頭を掻いた。

「なにかってわけでもないんですが、なんだか楽しそうに絵を描いている人がいるなあと思いましてね。最初は土手の上から見ていたんですけど、どうしても我慢できなくて、近くまで寄ってきてしまいました」

「……そう、ですか」

 今までにも、写生をしている時に、見知らぬ人に声を掛けられたことはある。後ろから覗かれて、またはじっと見られて、上手だねえと褒められたり、ここはもっとこうしてごらんとアドバイスを受けたり。大体、犬の散歩中のおじいさんとかであることが多かったけど。

 そういう人に対してさえ、私はどう返事をすればいいのかわからない。いつも下を向いて、はい、とか、いえ、とかの最小限の言葉を出すのがやっとだ。そうしているうち、相手のほうが、やれやれ最近の若い子は愛想がないねと呆れて去っていく。

 だから今も、私は下を向いてぼそぼそと低い声で返すだけだった。この人も絵が趣味で見に来たのだろうか。もしかしたら、うんと上手な人で、技術的な助言をしてあげようという親切心から土手を降りてきたのかもしれない。


 ……けど、困る。

 私は、上手く絵を描きたいわけではないのだ。


「そういうわけで、ワタシのことには構わず、どうぞ続きを」

「は?」

 当然のように続けられた言葉に、私は目を瞬いた。

 てっきり、今描いたばかりの絵に関して、何かを言われるかと思ったのだけど。

 よくよく気づいてみたら、彼の目はさっきから、ちっともスケッチブックのほうを向いていない。

「あの……」

「あれ、もしかして今日はもうお終いですか」

 びっくりしたようにそう言って、彼はとてつもなく残念そうな顔になった。がっくりと肩を落として、しょんぼりする。なんとなくこちらが悪いことをしたような気にさせられるくらいの、落胆っぷりだった。

「え、と……その」

 いつもなら、一日に三枚くらいは風景画を仕上げることにしている。視点を変えてみたり、少し位置をずらしてみたり、同じ場所の景色を何枚も描いていくのが、私のやり方だ。

 今の時点で描き上げたのは一枚。本当ならもっとこの場所に居座って、変わっていく空の色と、それに合わせて様相を変える、川面や建物の陰影を楽しむところなのだけど……

 この状況で、正直にそう言うのは、非常に憚られる。

「あの、はい、今日はもう、これで」

 そそくさとスケッチブックを閉じて道具を片付け始めると、男の人は、「そうなんですかあー」「もっと早くここを通ればよかったああー」「ていうかもう三十分早く起きればよかったああーー」と、曲げた足で小さく地団駄を踏みながら、子供のように悔しがった。頭を抱えて、うおーとかああーとか唸り声を上げるので、通りがかった誰かが誤解して救急車でも呼ぶんじゃないかとヒヤヒヤした。

 あまりにも彼が悲嘆に暮れているように見えたので、私はつい、口を開いてしまった。

 普段の自分なら、絶対にそんなことはしない。たぶん、魔が差した、のだと思う。


「あの、でも、明日も来ます、から……」


 もごもごと呟くように言った途端、男の人はぱっと顔を上げて、目を輝かせた。

「ホントですか! よかった、じゃあワタシ、明日は必ず早起きしてスタンバってますから! なんなら徹夜してでも寝坊しないようにしますから! じゃあ、そういうことで!」

 そう言って、彼は打って変わったように陽気に立ち上がり、片手を挙げて土手を上がっていき、あっという間に姿が見えなくなった。

 私はひたすらぽかんと座り込み、茫然とするしかない。



 なんだったんだろ、あの人……





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