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千枝はそれから小一時間ほども藤田を探してあちこち歩き回ったが、歩けば歩くほど、この人ごみの中から藤田を探し出すのは難しいと思い知らされた。時計はすでに八時を過ぎている。
――こんな時間だし、藤田さんは、きっともう行ってしまったんだわ
千枝はそんなふうに自分を納得させ、重い足取りでバス停に向かった。バス停に着くと、ここにも帰りのバスを待つ人々が長蛇の列をつくっている。うんざりした千枝は、バス停の前で店開きしているたこ焼き屋で缶ビールを買って、混雑が収まるまで箱崎の浜辺で時間をつぶすことにした。
国道の信号を渡って少し行くと、もう一つ赤い鳥居があってその先はもう海だった。 鳥居の回りの砂浜は山笠の時にお汐井取りという神事が行われる場所で、このあたりまで来るともう露店の姿はない。祭りの喧騒が嘘のように、聞こえてくるのは波の音ばかりだ。足元に砂の感触を踏みしめながら、千枝は思わずほっと息をついた。
ぶらぶらと鳥居のところまで来た時、石柱の下に人影がうずくまっていた。傍らの大きな袋に見覚えがあった。千枝は手にした缶ビールを放り出してその人影に駆け寄った。
「藤田さん、藤田さん、大丈夫ですか?」
藤田はいつかの夜と同じように苦しげに体を折り曲げてうずくまったまま、千枝の呼びかけにも答えなかった。呼吸困難を起こしているらしく、息が細く手のひらも冷たい。
千枝は急いで袋の中を探ったが、薬も吸入器も見当たらなかった。その時、藤田が切れ切れに言った。
「薬は……海に……」
言葉を発するたびに、ひゅーひゅーと器官が鳴った。
「藤田さん、しっかりしてください。今、救急車を呼びますからね」
そう言った千枝の腕を、藤田はどこにそんな力が残っていたかと思うほど強い力で握りながら、ゆっくりと首を横に振った。
「もう……いいんじゃ」
「でも……」
藤田が再び何か言ったが、息が洩れるだけで言葉にはならない。千枝は藤田の体を抱きかかえて口元に耳を近づけた。
「女房のところへ……二人で映画を……」
そう言うと、千枝に寄りかかっている藤田の体から静かに力が抜けた。千枝は藤田の重みを両腕で支えながら、なすすべもなく茫然とその場に座り込んだ。どれほどの時がたったのだろう。藤田の隣りに白いワンピースの女性が影のように寄り添っていた。
その時千枝は、女性の視線の先の星空に大きなスクリーンが広がるのを見た。モノクロームの画面には、見詰め合う恋人同士の姿が映し出されている。藤田と並ぶ女性の姿は、いつか若い日の二人に重なった。暗い映画館の中で、楽しげに肩を寄せ合って映画を観ている藤田と綾子。そして綾子は物言わぬ藤田のそばで、幸せをそのまま形にしたようなおだやかな笑みを浮かべていた。(了)