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「熊本のしがない看板屋の次男坊だったわしが、父親のつてを頼って、戦後復興した博多にやってきたのは昭和三十年のことじゃった。見習いで入った工房は、当時大人気だった映画の絵看板を描く仕事をしていた。若かったわしは、じきに華やかな絵看板の虜になった。早く一人前になりたくて、わしは文字通り寝食を忘れて修行に励んだんじゃ」
若かった頃の記憶がよみがえったのか、老人の顔に生気が宿った。
「少しばかり心得があったのが幸いして、わしは半年ほどで仕事をまかされるようになった。博多に来て二年ほどして、休みの日に中州の映画館で、綾子と、女房とばったり会った。女房の店は、わしの働いとった工房の近くじゃったから、顔は知っとったが、一人で映画を観にくるような娘には見えんじゃったから、わしは驚いた」
綾子は、藤田に会ったことがよほど恥ずかしかったのか、耳たぶまで真っ赤になったのだという。映画が終わって、喫茶店でお茶を飲みながら、藤田が映画の看板を描く仕事をしていることを話すと、綾子は「まあ、素敵」と言って眼をきらきら輝かせた。それが縁で、二人は時々連れ立って映画を観に行くようになり、一年ほどして工房の主人の仲人で結婚した。
しかし、幸せな日々は長くは続かなかった。戦後の建設ラッシュで、映画館の数が増えすぎた福岡の映画業界は、急速なテレビの普及やプロ野球の隆盛に押されて、またたく間に苦境に立たされた。二人が結婚して二年も立たないうちに、映画の仕事は激減して、藤田の工房は、会社や商店が相手の看板描きや塗装の仕事を次々に請け負うようになった。
「まるで悪い夢を見ているようだった。小さな商店の文字看板を描くだけなら、わしは何のために熊本から出てきて何年も修行をしてきたのか、わしの苦労はいったいなんだったのか、そう思うと悔しくて胸が焼けるようだった」
仕事への情熱と目標を失なった藤田は、麻雀や、パチンコ、ボートといった賭け事を覚え、急速にそれにのめり込んでいった。家計は日に日に苦しくなる一方で、じきに家賃の払いにも事欠くような有様になった。綾子は自宅でミシンがけの内職の仕事を始めた。
「元はといえば身から出た錆。すべて自分のせいなのに、青白い顔でミシンを踏む女房の顔を見ると、甲斐性なしと当て付けられているようで腹が立った」
納期に追われる内職の夜なべ仕事が続いて、綾子の丸かった顔はやつれ、夫婦関係も途絶えた。まだ若かった藤田はますます家が面白くなくなって、ついには女遊びにまで手を出すようになっていった。街に出れば、華やかに化粧をして、男に喜んで体を開く女がいくらでもいるように思えた。 藤田は、綾子のような地味で内気な女を妻にしたことを悔やみ始めていた。
「わしが最初にあれを見たのは、まだあいつが生きている時だった」
その夜、藤田は、馴染みの春吉の一杯飲み屋の仲居を誘って連れ込み旅館へ行った。
「床に入って、女を抱こうとした時、部屋の隅にあいつが真っ青な顔でうつむいて座っているのが目に入った。わしはもう女どころではなくなり、飛んで家に帰った。あいつはいつもと同じようにミシンの前に座っていた」
藤田は、自分でも説明のつかない怒りが湧き上がるのを覚えた。
「わしは、あいつを怒鳴りつけた。それほど金が欲しいなら、そんな貧乏たらしい仕事をせずに、もっと見入りのいいことをして稼げと……」
その藤田のことばに、綾子は凍りついたような顔をあげた。そこには言いようのない悲しみと絶望とが貼り付いていた。藤田は妻の顔を正視できず、思わず顔をそむけた。そして次の日、藤田が仕事から帰ってくると、綾子は部屋の鴨居で首を吊って冷たくなっていたのだった。鬱血して赤黒くむくんだ顔、半眼に開いた白目、だらりと垂れ下がった手足、その全てに夫に裏切られ、傷つけられた綾子の無念の思いがこもっているようで、藤田はあまりの恐ろしさに声を上げることもできなかった。
「その日から、あいつは寝ても覚めてもわしの周りに現れるようになった。時には青白い顔でじっとうつむいたままわしの夢枕に立ち、時には首をくくった時の、怨みのこもった形相でわしをおびやかした。まだ命があるうちから、生霊となって魂が肉体からさまよい出るほどあいつはわしを怨んでいたのだからそれもしかたのないことだった」
工房の主人は、妻に死なれてやつれ果てた様子の藤田を気の毒がって、店の二階に住まわせ、仕事をさせてくれた。その頃には、兄弟子たちは次々に店を去って、絵看板が描けるのは主人の他は藤田だけになっていた。三年後、そんな藤田に思いがけないチャンスが巡ってきた。昭和四十年の二月、小林正樹監督がメガホンを取った文芸大作『怪談』が福岡宝塚劇場で封切られることになり、藤田はその『怪談』の映画看板に、岸恵子扮する「雪女」のお雪を描いて大好評を博した。
「皮肉なことに、わしがお雪を描くために絵筆を動かしていると、それは知らず知らずのうちに、怨みを込めた目でじぃっと一点を見据えて座るあいつの顔になっていくのだ。わしは、まるで目には見えない力に突き動かされるように、あいつの怨念を紙の上に写し取っていた」
評判が評判を呼び、藤田は頼まれて立て続けに怪談映画やお化け屋敷の絵看板を描いた。『四谷怪談』のお岩も、『皿屋敷』のお菊も描いた。何を描いても、そこには怨みに燃えた綾子の顔が立ち現われた。そして皮肉なことに藤田はいつか「幽霊政」と異名をとるほどの怪談映画の絵看板の名手になっていた。
綾子は何年経ってもそんな藤田の側を離れようとはしなかった。藤田が食事をしている時や、ぼんやりとテレビを見ている時、夜布団に入ろうとした時などに、ふっと目を上げると部屋の隅に青白い顔でうつむいている綾子の姿があった。最初の頃は、藤田も錯乱した。怒鳴り声を上げたり、浴びるほど酒を飲んで、女房の幻を追い払おうとしたことも二度や三度ではない。ねんごろな供養も何度となくやった。月命日には必ず墓参りに出かけ、花や供物を備えて成仏を祈ったが何の効果もなかった。
「そこからの三十年は、文字通り孤独地獄だった。それほど怨むなら、いっそ取り殺してくれたほうが楽になれるとあいつに嘆願したこともあった。しかし、あいつは何も答えずただじっとうつむいたまま、わしのかたわらにいた。だが年を取るうちにだんだんと、あいつの怨霊と暮らしていることを、辛いとも恐ろしいとも思わなくなった。それどころか、近頃ではあいつと所帯を持った頃の楽しかったことが思い出されて、気が付くと、無言で座るあいつを相手に昔話をしていることさえあるんじゃ」
藤田は淡々として口調で話し続けた。
「時雨の降るような寒い日に、映画館の前に立っている女房を見かけたことがあった」
内職を届けに行った帰りらしく、綾子は胸に風呂敷包みを抱えていた。
「わしと一緒になってからは家計のやりくりに追われて、大好きな映画を観に行くどころではなかったあいつは、せめてものことに映画館の絵看板を眺めることで寂しさを紛らわしていたんじゃろう」
藤田の顔が微妙にゆがんだ。
「しかし、その頃のわしは、寝ても醒めても自分のことばかりにかかずらって、女房の気持ちなど顧みようともしなかった。その上に、自分の女房に女を売って金を稼げなどと、まさしく人間の屑。人の心を忘れた鬼じゃ」
千枝はもう一度部屋の中を見回した。綾子という女性がかたわらで、この藤田の打ち明け話を聞いているのかと思うと、まるで異界に迷い込んだような不思議な心持ちがした。
「いい年をしてと思われようが、女房はそれは笑顔の愛らしい女じゃった。かなわぬ願いなのは百も承知じゃが、わしは、なんとしてももう一度、あいつの笑った顔が見たくてな」
千枝は、わずかに赤みがさした藤田の顔を見ながら、黙ってうなずいた。