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その日の夕方、日勤を終えて帰ってきた千枝が台所で簡単な夕食の準備をしていると、藤田の部屋から激しく咳き込む声が聞こえた。風邪の咳とは違う、長く尾を引くような咳きこみ方だった。
――喘息?
「藤田さん、藤田さん」
千枝は藤田の名前を呼びながら、ドアを叩いた。しかし、返事はなく、部屋の中では相変わらず獣が吠えるような異様な咳が続いている。引っ張るとドアがあいた。部屋の真ん中に、藤田が体をくの字に曲げながら苦しげに咳き込んでいるのが見えた。千枝は部屋に飛び込んで、藤田の背中をさすった。
「藤田さん、お薬は……?」
千枝の問いかけに藤田はズックの袋を指差した。千枝は袋の底から、吸入器を探し出して藤田に渡した。十分ほどすると、肩で息をすることがなくなり、やがて発作は治まった。
「面倒をかけた」
藤田は気だるそうに起き上がった。まだ少し声がしゃがれている。
「いいえ、商売柄、といっても私は外科の看護婦なんですけど慣れてますから」
千枝の部屋もたいした家具はないが、この部屋はとても人が暮らしているとは思えないほど殺風景だった。旅館やホテルのほうがまだいくらか生活の匂いがあるだろう。藤田がいつも持ち歩いているズックの大きな袋の他には、アルミの鍋と湯のみ、どんぶりが一個づつ部屋の隅に置いてあるだけだ。
「あの、お布団とかは……?」
千枝が尋ねると、藤田は押入れを指差した。
「寝袋を担いできた。まだ夜も冷えるわけでもなし。何もなくても寝れんことはない」
「お仕事で来られたんでしょう」
藤田はうなずいた。
「昔の知り合いにのお化け屋敷の看板描きを頼まれた。今はもう仕事はしてないんだが、どうしてもと言われてな。ごらんの通り、棺桶に片足を突っ込んでいるがこの世の仕事の仕納めと思って熊本から出てきた」
確かに藤田は、異常なほど痩せている。千枝は、ひそかに喘息の持病以外にもどこか体が悪いのではないかと思った。
「お仕事をされて、大丈夫なんですか?」
「体を労わって長生きしたいと思うほど、この世に未練があるわけでもないからな」
「でも、ご家族とかは……」
「兄弟はいるが、長い間ひとりで暮らしている」
「あの……」
千枝はその言葉を聞いて、思い切って例の女性のことをたずねてみることにした。
「何かな?」
「この前から、藤田さんの部屋に女の人が……」
千枝がそう言うと、藤田は穴が開くほど千枝の顔を見つめてから重い口を開いた。
「そうか、あんたにはあれが見えるのか。だが、心配することはない。あれは関係のない人間にはなにも悪さはせん。ただ、そこにおるだけだ」
そう言われて、千枝は思わず当たりを見回した。
「わしは昔、自分の女房を死なせた」
藤田の顔に深い翳が落ちた。
「実はこの前、大家さんの奥さんから、藤田さんのお話を聞きました」
千枝の言葉に、藤田はゆっくりうなずいた。
「ここの奥さんは、女房の幼なじみじゃったからな。女房が死んだ時には、わしにひどく腹を立てていた。だが、あれから四十年、女房はわしの側を片時も離れてはおらん」
藤田の言葉に千枝は思わず唾を飲み込んだ。
「この話を、他人にしたことは一度もない。話したところで信じてもらえるはずもないからな。だが、あんたにあれが見えるというのも何かの縁だろう。もう先の長くないこの年寄りの世迷言だと思って少し話を聞いてはくれまいか」
千枝は、黙ってうなずいた。