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藤田の暮らしぶりは静かなものだった。夕方、煮炊きをする時と、トイレに行く時、風呂に出かける時以外は、いるのかいないのかもわからない。部屋にはテレビもラジオもないらしく、物音ひとつしなかった。千枝のほうがかえってテレビのボリュームに気を使うほど隣りはいつもしんと静まり返っていた。
しかし藤田が越してきて一週間ほど経つと、次々に奇妙なことが起こり始めた。ある晩、千枝はふと夜中に目を覚ました。隣室からひそひそと話し声が聞こえたような気がしたからだ。時計は午前二時を回っている。
――こんな時間にお客さんでもあったのかしら
話し声は途切れ途切れに続いた。千枝はトイレに行くふりをしてドアを開けた。しかし藤田の部屋は真っ暗で、話し声もそれきりぴたりと途絶えた。
翌朝、千枝が台所で顔を洗っていると藤田が出てきた。古い大きなズックの袋を肩に掛けて仕事に出かける様子で、千枝を見ると黙って頭を下げ、狭い階段をきしませながら降りていった。あれ以来一度も話をしていないので、昨夜のことをたずねてみるわけにもいかなかった。
その日の夕方、千枝が銭湯から帰ってきて階段を上がりかけると、今度は水屋のあたりに人の気配があった。住人のほとんどが夕方から出払ってしまうので、アパートの中はひどく暗い。千枝は手さぐりで階段の電気をつけた。すると、藤田の部屋のドアが閉まる音がした。
――なあんだ、藤田さん、帰ってきてたんだわ
千枝は少しほっとして自分の部屋に戻った。しかし、それから三十分ほどして、みしみしと藤田が階段を上がってくる足音で千枝は飛び上がった。
――やっぱり藤田さんの部屋には、誰かいる
三度目も夜だった。階段の途中に小柄な女性が立っていた。白いワンピースの後ろ姿が、ぼんやりとくらがりに浮かんでいる。千枝の気配に気づいたのか、その人影はすっと階段を上って藤田の部屋へ入っていった。千枝は顔から血の気が引くのを感じた。このアパートの古い木製の階段は今にも壊れそうで、誰が歩いてもひと足ごとにきしむような嫌な音を立てるのだ。それなのにその女性は音もなくその階段を上っていった。ちりりと小さな鈴の音が聞こえた。千枝は頭がくらくらして、部屋に戻ったあともぺたりと畳に座り込んだきりしばらく動けなかった。
「ねえ康子、幽霊って信じる?」
千枝は翌日の昼休みに、原口康子に話しかけた。
「どうしたの、急に。亡くなった患者さんの幽霊にでも会ったの?」
「ううん、そういうわけじゃあないんだけど……」
今まで病院勤めをして、患者の臨終にも何度か立ち会ったことがあるが、霊のようなものを見たり聞いたりしたことは一度もなかった。同僚の看護婦の中には、たまに霊感が強いという人間がいて、夜勤をしていて不思議な人影を見たとか、死ぬ間際の患者が廊下に立っていたとかいう話をしていたが、千枝自身にはそんな経験はない。
「いったい、どうしたのよ?」
千枝は康子に昨夜の出来事を話した。
「そっかぁ。そういえば、千枝ってあけぼの荘にいるんだよね。気にしたら悪いと思って言わなかったんだけど、あそこ昔何かあったらしいよ」
「何かって……?」
「あたしも詳しいことは知らないんだけど、心中事件があったって。前にここに勤めてた子が、やっぱり近くで部屋を探してて、そこを見にいったらしいけど、その子は霊感が強いタイプでさ。部屋に入った時に、すごく嫌な気持ちがしたんだって。結局他のアパートを借りたんだけど、ずっとそのことが気になってて、あとで近所の人に聞いたらしいの。そしたら、その部屋は、板前の旦那さんが奥さんを殺して自分も後追いをしたっていういわくつきの部屋だったわけ。だからその部屋それ以来はずっと空き部屋になってるって聞いたわよ」
千枝は康子のことばに、いつかの夜に見た男女の人影を思い出した。そう言えばあれ以来、一度もあの二人には会っていない。けれど考えてみればあけぼの荘は、千枝自身も含めて、いわば世間から身をひそめるようにして生きている人間たちの吹き溜まりのような場所だ。お金もなく、これといって生きる希望もない、ただ今日を明日につなぐために働いて寝るだけのような、たくさんの人間たちが、何十年も昔から、あの古びた狭苦しい空間で生活してきたのだろう。アパートの雰囲気が暗いのは、あながち建物のせいだけではないのかもしれなかった。そして千枝は、自殺未遂をして生と死の境を漂ったことで、何かの拍子に、そのはざまの世界が見えるようになったのかもしれないとぼんやりと考えていた。