1
「隣に藤田さんていうおじいさんがきんしゃったでしょう」
玄関先で洗濯をしていた千枝に、珍しく大家の奥さんが話しかけてきた。
「心配せんでもよかですよ。あの人は昔ここに住んどったことがある人やけん。看板を描く仕事をしとる人で、放生会の仕事があるけん熊本から出てきんしゃって、しばらく部屋を貸してほしいて頼まれたとよ。仕事が終わったら、すぐ出ていきんしゃあけん」
「そうなんですか」
千枝は奥さんのことばにうなずいた。
「萩原さん、今日は休みね」
奥さんがたずねた。
「ええ、夜勤明けで」
「ちょっと、お茶でも飲みにきんしゃれんね」
「あ、ええ」
千枝は意外な誘いにとまどいながら、あいまいにうなずいた。まさか、昼前から酒を飲むわけにもいかず、休みといっても何か予定があるわけでもない。断わる理由はみつからなかった。
玄関を入ると、靴箱の上に観光地のみやげ物やケースに入った日本人形がごてごてと飾ってあって、千枝はふと柳川の実家を思い出した。奥さんの後について応接間に入ると、薬品と芳香剤の入り混じった強烈な臭いが鼻をついた。部屋の奥はカーテンでしきりがしてあって、その向こうに電動ベッドが置かれ、ベッドには一人の老人が横たわっていた。
「お父さん、あけぼの荘の三階を借りとんしゃあ看護婦さんたい」
奥さんの言葉に、老人はかすかに首を動かした。血の気のない、白っぽく乾いた顔には深い皺が刻まれている。奥さんよりはずいぶんと年上のように見えた。
「六年前に脳梗塞で倒れて寝たきりになったしもうてね。こっちの言いようことはわかるっちゃけどね。もう、動くことも喋ることもほとんどできんとよ。あたしも、食事やら下の世話やらで、気軽に買い物に出ることもできんようになってしもうてね」
奥さんはお茶の用意をしながら千枝に話しかけた。さらりと語られてはいるが、何年も寝たきりで話すこともできない夫の看病をする辛さが言葉のはしばしににじんでいた。
「こどもさんは?」
千枝は尋ねた。
「男の子が二人おるけどね。どっちも遠方で所帯を持ったけん」
「そうですか」
実家から電車でわずか一時間足らずのところに住む自分でさえ、仕事を口実にもう何年も帰省していない。老いた両親の面影が脳裡をかすめ、ちくりと胸が痛んだ。まもなく奥さんは、千枝の前に香りのいい紅茶と上等な焼き菓子を並べると向かい合って腰をかけた。
「今度お隣にきんしゃった藤田さんは、戦争が終わってしばらくして熊本から出てきんしゃってね。うちに間借りして春吉の看板屋さんで見習いをしよんしゃったとよ」
千枝は紅茶をすすりながらうなずいた。
「戦時中はみんな、食べるものもないし、空襲でいつ死ぬかもわからんどん底の生活をしとったけど、戦争が終わったら、博多の街はみるみるうちにそりゃあ賑わうようになってね。中でも映画は大人気で街角映画館て言うくらい、あっちにもこっちにも映画館が出来たとよ。そこの渡辺通りの角にもみなみ東映ていう映画館があって、あたしたちもその頃はしゅっちゅう映画に行ったもんたい。藤田さんは、その映画の絵看板を描く仕事をしよんしゃったと」
千枝は物心ついた頃からテレビで育った世代で、映画というものに特別な思い入れはない。だから奥さんの口調が次第に熱を帯びてくる様を不思議な思いで眺めた。
「今の映画館は、ちっちゃなポスターが貼ってあるだけやけど、その頃は映画館の表に裕次郎さんやら、ひばりさんやら人気スターの顔ば描いた大きな絵看板が飾ってあって、その看板を見るだけでも楽しかったと。当時の藤田さんは、そりゃあ朝も夜もなく忙しく働きよんしゃった。そのうちに、この近所の平野商店ていう雑貨屋の綾子ちゃんていう娘と、所帯を持ちんしゃってね」
奥さんは四十年以上も昔のことを、まるで昨日のことのように生き生きと話し続ける。
「あたしと綾子ちゃんはちいちゃい頃から仲がよかったと。小学校も中学校も一緒やったけんね。綾ちゃんは口数は少なかったけど、お客さんが来たら、にこにこ愛想がよかったけんお店の看板娘やったとよ。それが……」
不意に奥さんの声が曇った。
「何があったかしらんけど、藤田さんと結婚して二年くらいして自殺したとよ」
「そうなんですか」
「映画のブームはあんまり長くは続かんやったけんね。テレビを買う人がどんどん増えて、あたしも家にテレビが来てからは、めったに映画館には行かんようになったもんね。そげな風やけん仕事が思うようにいかんやったとかもしれんね。綾ちゃんが亡くなるちょっと前に、道で藤田さんにおうたけど、別人のように険しい顔になっとんしゃって、あたしは恐ろしくてあいさつもしきらんやった。それから間もなくたい。綾ちゃんが死んだって聞いたとは」
そこまで言うと奥さんの目から大粒の涙があふれた。
「でもあたしは、ずうっと思うとったとよ。なんで綾ちゃんは死なんといかんやったとやろう。辛かった戦争もやっと終わってこれからていう時に。あげん若くて可愛らしかったとに……」
奥さんはハンカチで目頭を押さえた。
「ごめんなさいね。あなたに、こげな古い話をして……」
「いえ、そんな。気になさらないで話してください」
「藤田さんも綾ちゃんが死んでからは、気が抜けたようになっとんしゃった。それでも五、六年は仕事をしよんしゃったけど、それから熊本に帰りんしゃったって聞いたとよ。それが、おととい、まあ三十年ぶりに訪ねてきんしゃって、ずいぶん年は取っとんしゃあけど、仕事もしよんしゃあみたいで、本当にびっくりしたと」
千枝は先日会った朽木のような老人の風貌を思い浮かべた。思いがけない再会に、長年奥さんの心に封印されていた思いが、堰を切ったようにあふれ出し、誰かに話さずにはいられなくなった。奥さんが千枝をお茶に誘った本当の理由は、それだったのだろう。
まもなく部屋に戻った千枝は、半間の窓から隣りの銭湯の巨大な煙突を見ながら、先日亡くなった男の子とその両親のことを思った。誰もが心の奥深くに、それぞれの悲しみを抱えて生きているのだ。そう思うと、なんだか今日一日は酒を飲まなくても終われそうな気がしていた。