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アパートの玄関には、「あけぼの荘」と墨で書かれた木製の看板が掲げられている。長年の風雨に洗われて墨の色があせ、かろうじて文字が読み取れるような代物だった。すりガラスが入った玄関の引き戸は建てつけが悪く、開けるのに苦労した。玄関を入って右側の木製の下駄箱には、いつも派手な女物のつっかけが何足か乱雑に放りこまれていた。一階と二階にはそれぞれ廊下をはさんで三つずつ部屋が並んでいる。住人の大半は水商売の女性のようで、昼間は眠っていて夕方から出勤するらしい。深夜になると、階下の部屋に明かりがともり、時折控え目な話し声や笑い声がもれてくることもあるが、住人と顔を合わせることはまれだった。
その夜も千枝は酔って帰宅した。仕事が終わった後、同僚の原口康子と馴染みのスナックで飲んで、その後カラオケに行ってまた飲んで、時計はすでに午前二時を回っている。床屋の角を曲がってアパートの入り口が見えるところまで来た時、玄関先に板前姿の若い男と和服の女性が立っているのに気づいた。どちらも一度も見かけたことのない顔だった。二人はうつむいたままアパートの中に消えた。少し遅れて千枝が玄関を入ろうとした時、一階の玄関の脇の部屋に青白い小さい灯がともった。
―― この部屋、人がいたんだ
空き部屋だとばかり思っていた千枝は、首をかしげながらつぶやいた。引っ越して半年になるが、いまだに他の部屋にどんな人が住んでいるのかよくわからない。だから千枝はその二人連れのこともたいして気にも留めず、酔いにまかせてすぐに忘れてしまった。
「お姉さん、一個持ってあげようか」
千枝が休日にスーパーの袋を両手に下げて歩いていると、金髪の若い娘が声をかけてきた。目の周りが太いアイラインで隈どられているために、最初は誰だか分からなかったが、よく見るとキャバクラで働くアカネという二十歳の女の子だった。
千枝が返事をする間もなく、アカネは千枝の手からスーパーの袋を取りあげて「おもっ」とすっとんきょうな声を上げた。袋の中には五百㏄の缶ビールが十二本入っている。
「彼氏の?」
アカネの問いに千枝は首を横に振り「病院の人には内緒だよ」と言いながら唇に人差し指を当てた。
アカネはリストカットの常習者だった。千枝はそんな彼女を二度介抱した。最初の時は動転した若い男が、ネグリジェ姿で血まみれになったアカネを、病院に運びこんできた。二度目は明け方に別の男が、アパートに千枝を呼びにきた。
「看護婦さん、看護婦さん」
酔いつぶれて寝ていた千枝は、ドアを叩く音で起こされ、這うようにして扉を開けると、金髪のロン毛の男が蒼白な顔で立っていた。
「お姉さん、棚橋外科の看護婦さんですよね。アカネが……」
千枝がふらふらしながら男について行くと、アカネが手首にタオルを巻いた姿でベッドに横たわっていた。アカネのマンションが、あけぼの荘の二軒隣りと知ったのはその時だった。
アパートの前まできて千枝が「今日は仕事は」と聞くと「休み」という答えが返ってきた。
「それじゃあ、ちょっと寄ってく?」
千枝の誘いにアカネはこくんとうなずいた。見た目は派手だが、人なつっこくて気のいい娘なのだ。
部屋に入るとアカネは部屋の中をもの珍しそうに見回しながら、千枝から缶ビールを受け取った。年は若いが、アカネは千枝よりは数段上等な部屋に住んでいる。
「お姉さん、ちゃんとした仕事ができるけんいいよねぇ」
アカネはしみじみとした口調で言った。
「あんただってまだ若いんだから、ちゃんとやろうと思えばまともな仕事なんかいくらでも見つかるわよ。本当に死ぬ気なんてないんでしょう。だったら、やめなさいよ。手首を切るのなんて」
そう諭しつつも千枝は、心の中であたしもあんたと変わらないとつぶやいている。人に説教なんてできる柄ではないのだ。それでも自分よりもずっと年の若い娘が、堕ちていくのを目の当たりにすると、胸の奥がきりきりと痛い。酒の相手をしたり、たまに客と寝たりするくらいで済めばよいが、かかわった相手が悪ければ、薬漬けにされて、想像を絶するような地獄に落ちて、命を失うことだってある。千枝の前でにこにこ笑っているアカネは、まだそんな底なしの闇を知らない。できることなら、引き返せなくなる前に、夜の世界から足を洗ってほしいと千枝は願っている。
「あたし、子宮……取っちゃったんだ。高校の時」
アカネはぽつんとつぶやいた。
「妊娠しちゃって、子供おろしたんだけどさ。そのまますぐ家帰ると親にばれそうだったから、ラブホで休んでたんだ。そしたら彼氏がやりたがってさ。あたし、いやだっていえなかったんだよね。それでばい菌が入っちゃって……」
アカネはそう言うと、二本目のビールを開け、ごくごくと流し込んでふぅと息をついた。
「あたし、どうしようもない馬鹿だよね。もう一生自分の赤ちゃんをだっこすることができないんだもん。とりあえずお金欲しいからセックスするんだけどさあ。何だかよけいに寂しくなっちゃってさ」
アカネの言葉に千枝は黙ってうなずいた。
「でもね、お姉さん。あたしが堕した赤ちゃんが夜中に遊びに来てくれることがあるの。ふっと目が覚めると、まだハムスターくらいの大きさなんだけど、枕の横にちっちゃい手足をきゅうっと縮めて、でもあたしのことじぃーと見てるんだ。そうしたらあたしはむこうの世界にいってこの子だけのママになりたいなあって思っちゃうんだよ」
アカネの目に涙が盛り上がった。千枝はもらい泣きをしそうになって、あわてて目をそらし、ビールの残りを一息で飲み干した。
自殺未遂をしてから千枝は変わった。働いて、食べて、寝るという毎日の暮らしも、苦しいとか悲しいとか楽しいとかいう感情も、周りの人たちとの関係もどこかぼんやりとして、薄い膜の向こう側にあるように頼りない。だから、しこたま酒を飲む。生きているのか死んでいるのか分からないような現実よりも、酔っ払った目で見る世界のほうがよほど楽しくて明るかった。自分にとってもアカネにとっても生きることと死ぬことの境界線が、手を伸ばせば触れるくらい近くにあることに変わりはないのだろうと千枝は思った。