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キネマ・エレジー  作者: サニー
あけぼの荘
1/9

 蛇口をひねるとぬるま湯のような水が出た。千枝は、それを手のひらに受けてざぶざぶと顔を洗った。部屋へ戻り、けばだった畳に、夜勤明けの疲れた体を投げ出した。うだるような室内の熱気を、扇風機がかき回している。ヤニと埃で真っ黒にすすけた天井をみていると、勤め先の病院のベッドで目覚めた二年前の記憶がよみがえってきた。


「目が覚めた?」

 

 同僚が、千枝の寝ているベッドに近づいてきた。


「あたし……」


「辛いのはわかるけど、もうこんな馬鹿なことしちゃ駄目よ」


――そうだ、あたし、薬飲んだんだ

 

 頭は大量の睡眠薬のせいで、まだもうろうとしていたが、ゆっくりと記憶が戻ってきた。

 萩原千枝は、いわゆる男運の悪い女だった。飛び切りの美人ではないが、笑うと左の頬にできるえくぼが可愛かった。だから看護学生時代から、男性には結構人気があった。


 それなのに、最初に付き合った医学生には逃げられ、二番目の男は、二股をした挙句千枝を捨てた。それから一年も経たない内に、三人目の男になけなしの貯金を持ち逃げされた。千枝が仕事から帰ると、勤め出してから三年の間こつこつ蓄えてきた四十万円の通帳と印鑑が、男とともに消えていた。


 なぜ、いつもそうなるのか千枝には分からなかった。惚れっぽくて、男を見る目がない。今どき流行らないが、好きになったら男に尽くす。信じた私が悪いなんて、まるで古い演歌みたいだ。

 男が去って三日目の夜、眠れないからと処方してもらった睡眠薬の残りをありったけ飲んだ。


―― 何回恋愛しても、また同じことを繰り返すんだろうな

 

 そう思ったら、ふっと何もかもがどうでもよくなっていた。心配して様子を見に来た同僚が見つけて、勤務先の病院に担ぎこまれたのだった。


 自殺未遂をしてから千枝は酒の味を覚えた。深酒をするようになって勤務態度が乱れ、流れ者の労務者のように転々と勤め先を変えた。今度働くことになった外科で七軒目だった。


 気が付くと看護学校を出てから、五年の月日が過ぎていた。新しい職場は、福岡市の繁華街天神からすぐのところだった。わずかの金で職場の近くに住まいを探していた千枝に、不動産屋は、このあけぼの荘というアパートを紹介した。


 あけぼの荘は、渡辺通りの東側の、小さな飲み屋やスナックが、細い路地にそって軒を並べている一角にあった。勤め先の病院には歩いて五分ほどで行ける。三畳ひと間で風呂はなく、トイレと水屋は共同で、家賃はわずか一万円。いつ頃建てられたのかわからないほど古い三階建ての木造家屋で、その三階に二間ある屋根裏部屋のうちの一つだった。部屋と部屋の間には、コンクリートがむきだしの、昔の小学校の水飲み場のような水屋と丸いガスコンロがひとつ置いてあった。


 アパートの大家は、あけぼの荘の向かい側に建っているビルの一階に住んでいた。千枝が看護婦をしていると言うと、大家の奥さんは相好を崩した。


「それはよかね。看護婦さんやったらお給料もよかやろうし。やっぱり女の人は、手に職があるのが、なによりよ」


「そうですね」


 千枝は気のない相槌を打った。


「水屋はお隣と共同やけど、今は空き部屋やけん、気兼ねなく使ってよかよ。洗濯機は共用で玄関のところにあるけん使いんしゃい」


 アパートの隣には銭湯があって、半間の小さな窓を開くと灰色の巨大な煙突が見えた。看護学校時代の友人に小型のワゴン車を借り、引越しは一時間足らずで終わった。 単身者用の小型の冷蔵庫とテレビ、小さな姫鏡台、衣類と食器や鍋を入れたダンボールが五つ。友人は、千枝の新居の粗末さにも荷物の少なさにも内心驚いた。



 月々の給料の大半が生活費と酒代に消え、貰って二十日もすると底をつくようになって、前のアパートの家賃が払えそうにないので、引っ越しを決めた。まともな生活感覚がなくなっていくにつれて、女らしい不安や警戒心も薄れ、千枝は夜道で酔っ払いにからまれようが、狂犬のような目つきをしたチンピラに行き合わせようがなんとも思わなくなっていた。だから、家賃が安くて職場の近くに住めるなら、場末の盛り場だろうと何だろうと平気だった。


 しかし夜勤を終えて、昼間に睡眠をとらなければいけない体に、クーラーのない真夏の暑さはさすがにこたえた。布団に横になると、それだけで汗が毛穴から噴き出して、布団がじっとりとねばった。千枝は何度も寝返りを打ったあげく、冷蔵庫から缶ビールを取り出して一気に飲み干し、アルコールの助けを借りてようやく浅い不快な眠りに落ちていった。

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