はじめて
意識を取り戻したフェリスは、横たわったまま目をぱちくりとさせた。
白い天井。いつもの灰色の岩肌ではない。
身を横たえているのも、固い岩地に薄いムシロを敷いただけの寝床ではなく、ふかふかのベッドだ。
まるで雲みたいなふわふわのお布団が、フェリスの小さな体を優しく包んでくれている。
(まだ……夢の中にいるんでしょうか……?)
フェリスは困惑した。
天井には可愛らしい照明器具がついているし、ベッドの近くには高そうなテーブルが置かれているし、フェリスが見たことも聞いたこともないような綺麗な部屋だ。
けれど、意識ははっきりしているし、光景は細部まで確認できる。ということは、夢ではなくて現実のはずだ。
どうしてこうなったのだろう、とフェリスが意識を失う前の記憶をたどろうとしていると。
「あら、起きたのね」
金髪の少女が、ドアを開けて部屋に入ってきた。
この少女になら、フェリスは見覚えがある。
「えっと……あなたは……」
「アリシアよ。アリシア・グーデンベルト。あなたのお名前は?」
「あっ、わたしはっ、フェリスです!」
フェリスは慌ててベッドから飛び降りてお辞儀をしようとし、目まいを起こした。よろめくフェリスの体を、アリシアがとっさに抱き止める。
「急に動いちゃだめ。多分、さっきは強大な魔術を使ったせいで体が堪えきれなくて倒れちゃったんだと思うわ。まだ回復しきれてないはずよ」
「魔術……? わたしがですか……?」
フェリスはきょとんとした。
魔術というものの存在は知っている。けれど、あれは限られたエリートだけが使える力のはずだ。
親方たちはいつも魔術師たちのことを、お高くとまった連中だと罵っていた。だが、そこには羨ましそうな響きがあった。少なくとも、フェリスにはまったく縁のない世界の話だ。
「そう、とてつもない魔術をね。正直、まだ私も信じられないのだけど、目の前で見ちゃったから信じるしかないわよね……あなたの召喚獣を」
「しょうかん……じゅう……」
フェリスはレヴィヤタンのことを思い出した。
凶悪で凶暴な、炎の塊のような生き物。いや、生き物なのかどうかさえ分からないが、あの恐ろしい姿を網膜に浮かべるだけで、フェリスはぶるるっと震えてしまう。
金髪の少女――アリシアがフェリスの手を取る。
「ありがとう……フェリス。あなたのお陰で、私は悪い連中にさらわれずに済んだわ。私にできるお礼ならなんでもするから、遠慮せずに言って」
アリシアの碧い瞳が、じっとフェリスを見つめている。
「え……そんな、お礼なんて! 別にわたし、なにかして欲しくて助けたわけじゃないですし! 助けられたのも偶然ですしっ!」
フェリスは慌てた。
そう、偶然なのだ。
もしレヴィヤタンが出現しなかったら、フェリスもアリシアもあのまま暴漢たちに酷いことをされていた。
あれは、自分の実力ではない。自分は弱くて脆い、ただの奴隷なのだから、とフェリスは思う。
「いいから、お願い、なにか言って。お礼をしなきゃ、私の気が済まないもの」
アリシアはフェリスの手を両手で握り締めて熱心に言う。
垢まみれの黒い手を、令嬢の白くて美しい手の平に包まれ、フェリスは恥ずかしくなった。あまりにも格が違いすぎる相手には、躊躇を感じてしまう。
このままでは手を放してくれそうにないので、フェリスはお礼を必死に考える。
「え、えっと、えっと……」
そのとき、廊下の方から神経質そうな女性の声がした。
「まずはその方に、入浴していただいた方がよろしいかと存じますが」
見れば、廊下に厳しい面持ちの女性が立っていた。フリルをたっぷりと使った服を着ていて、縛った髪のてっぺんに飾りをつけている。
それがメイド服であるということをフェリスは知らないので、相手が使用人だということも分からず、(怖そうな人です……)と思っただけだった。もちろん、女性がメイド長であることなど、分かるはずもない。
アリシアがうなずく。
「そういえば、そうね。女の子だもの、このままじゃダメよね! さっ、行きましょ!」
「えっ……えっ……?」
アリシアに手を引かれ、フェリスは部屋から走り出した。
「アリシア様!? お客人の入浴のお世話なら、メイドたちがいたしますから!」
メイド長が呼ばわるが、アリシアは止まろうとしない。
「そうはいかないわ! 恩人のお世話は私が全部やらないと!」
「あ、あのっ、わたし、どこへ……?」
なにをされるか予想もできないフェリスは、いきなり走り始めたお嬢様に怯えるばかりだった。
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フェリスが連れて行かれたのは、広々とした部屋だった。
床には大理石が敷き詰められており、奥に大きな水たまりがある。
いや、水たまりからは湯気がもうもうと上がっているから、あれはお湯なのかもしれない。
水たまりの端っこにはなにかの獣の彫像があって、彫像の口からどんどんお湯が流れ込んでいた。
「ここは……?」
呆然とするフェリスに、アリシアが教える。
「お風呂よ。これからあなたを、しっかり洗ってあげないとね。ずいぶん汚れちゃってるみたいだから」
「おふろ……? おふろって、なんですか……?」
「え……? お風呂は、お風呂よ?」
「なにをするところなんですか……?」
「体を洗うところに決まってるじゃない」
「どうして体を洗うんですか? 魔石みたいに出荷する前に洗うんですか?」
「あなたはなにを言っているの……?」
アリシアは眉を寄せる。
「まさかとは思うけど……これまで体を洗ったことないとか……言わないわよね?」
「洗ったことないですけど……」
ぷちっ、とアリシアの額でなにかが弾ける音がした。
「ちょっと、もう! 本当に!? 信じられない! 信じられないわ! あなた、女の子よね!?」
「多分そうだと思いますけど……」
「だったら体は毎日洗う! それが女の子のマナーなの! 分かるわよね!」
「わ、分かりませんけど……」
フェリスはおずおずと答えた。
女の子のマナーなんて言われても、今まで周りには女の子なんていなかったし、それどころか同年代の子供さえ見たことがなかったのだから、どうしようもない。
アリシアはため息を吐いた。
「仕方ないわ……。ちょっとごめんなさい。洗わせてもらうから、脱いで脱いで!」
フェリスの甲高い悲鳴が響き渡った。
いきなりアリシアにボロボロのシャツを引っ剥がされたのである。それだけでフェリスは裸になってしまい、アリシアから飛び退いて震える。
「な、なななななにをするんですかあっ!」
「なにって、お風呂に入るんだから、服を脱がないといけないでしょう。女の子同士なんだから、恥ずかしがらなくていいわ!」
アリシアも、その綺麗なドレスを脱ぎ、惜しげもなく裸身をさらす。
真っ白な、しみ一つない体。
均整の取れたプロポーション。
それはどこまでも完成された美しさで、フェリスは眩しくて目を開けているのすら難しい。
そして、自分のちんまりした体と比べてしまい、たとえようもなく恥ずかしくなった。思わず、両腕で自分の体を覆い隠す。
「さあ、始めましょう?」
アリシアはフェリスを連れて大浴場に入った。
手桶でフェリスの頭にお湯をかけると、石鹸の泡をぶくぶくと立て、髪の毛を洗い始める。
泡が目のところまで落ちてきて、フェリスは悲鳴を漏らした。
「ひゃ!? い、痛いです!」
「だめよ、目を開けてちゃ。髪を洗うときは目を閉じるの」
「は、はいいいい……」
アリシアにうながされ、フェリスはぎゅっと目を閉じる。
繊細な指に頭皮の隅々までも擦られていくのは、とても心地の良い感覚だった。体の緊張が解け、フェリスは「はぁ~」と息を吐く。
アリシアは何度もフェリスの頭をお湯で流し、また石鹸の泡を立てては、洗浄作業を繰り返した。
髪が済んだら、今度は体。小さな布っきれにいっぱい泡を作り、フェリスの体を擦っていく。その感触がくすぐったくてフェリスは幾度も抗議を申し立てたが、アリシアは容赦なしだった。
どれぐらいの時間が経っただろうか。
フェリスはお嬢様によって全身をくまなく磨き立てられ、へろへろになりながら大浴場を出た。
今までにない感じで消耗しきっているが、嫌な消耗ではない。やり遂げた気分である。全身がホカホカで、ほっぺたも火照っていた。
「ほら……見て。綺麗になったでしょ?」
アリシアがフェリスを鏡の前に立たせ、フェリスの肩に手を載せて尋ねる。
そこには知らない子が映っていた。
白くて、すべすべの肌。
きらきらと艶めき、滴を落としている髪。
真っ赤な唇と、桃色の頬。
「……誰ですか?」
フェリスが首を傾げると、アリシアは笑った。
「あなたよ、フェリス。本当のあなたはこんなに可愛いのよ。だからお風呂は毎日入らなきゃ」
「これ……わたし……なんですか……?」
見れば見るほど、フェリスは信じられない思いがした。
そんなフェリスのお腹から、くーっと音が鳴る。
「あらら、お腹が空いてるのね。そろそろ用意ができた頃でしょうし、食事にしましょう」
食事という単語に、フェリスは跳び上がる。
「ごはん!? ごはんですか! ごはんがもらえるんですか!?」
「まあ、いきなり凄い反応ね」
「あ、ご、ごめんなさいっ! つい……」
フェリスはうなだれる。なんだか自分があさましい生き物のような感じがして、いたたまれなくなった。
「いいのよ。さあ、食堂に行きましょう」
アリシアは優しく笑って、フェリスの手を取った。
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アリシアが食堂と呼んだ大きな部屋には、長いテーブルが置かれていた。
テーブルの上には白い布がかけられており、金属製のドームが幾つも並んでいる。食べ物はどこにも見当たらない。
フェリスがしょんぼりしているのに気付いたのか、アリシアが言った。
「大丈夫、この蓋の下に、ちゃんと料理は入っているから」
「あ、そ、そうなんですね……」
十歳の女の子には大きすぎる椅子の上で、フェリスはさらに小さく縮こまる。
食堂にメイド長が入ってきて、アリシアに告げた。
「お嬢様。屋敷に衛兵長様がいらっしゃっています。今回の襲撃事件のことで、旦那様とお嬢様……そしてそちらのお客人にお話をうかがいたいとか」
アリシアは首を振る。
「事情聴取は後にして頂戴。今はまず、フェリスのお腹をいっぱいにしないとね」
そう言って、フェリスに微笑みかける。
「ですが、お嬢様。衛兵長様はお忙しいらしく……」
「後よ、後。衛兵長の今日のスケジュールと、大切な恩人の空腹、どっちが大事だというのかしら?」
有無を言わせぬ口調に、
「仕方ございませんね……旦那様にはわたくしから上手く言っておきます」
メイド長は苦笑しながら引き下がった。
「さあ、好きなだけ召し上がれ!」
アリシアはフェリスのすぐ隣の席から、メイドたちにうなずいて合図した。
すると、メイドたちがテーブルに近づき、次々と料理の蓋を取りのけていく。
そこに現れたのは、フェリスの見たこともない料理の数々だった。
こんがりと焼かれ、得も言われぬ香りを漂わせる肉。
赤、緑、黄色と、鮮やかな色を組み合わされたサラダ。
巨大な皿に山盛りにされたフルーツ。
ぐつぐつと煮え続けている油に様々な食材を投じたもの。
白いクリームのたっぷりかかったケーキ。
フェリスには名前も分からない。食べ方も分からない。
でもそれらはいずれも、とんでもなくおいしそうで。
「い、いただきます!」
フェリスは魅力に抗うことができず、料理に飛びついた。
テーブルに置いてあったナイフやフォークの意味など分からず、手づかみでケーキを貪る。口の中に押し込み、噛むこともなしに呑み込む。
「まあ!」「なんて食べ方でしょう!」「フォークをお使いくださいませ!」
メイドたちがざわめくが、
「いいの」
アリシアが一言告げると、メイドたちは静かになった。
フェリスは無我夢中でケーキを食べる。
クリームを顔中にくっつけ、イチゴをかじり、スポンジをぱくつき、喉を鳴らして咀嚼する。
こんな美味しいもの、フェリスは食べたことがなかった。
甘くて、爽やかで、ふわふわで……夢のような味の饗宴に、ほっぺたが落ちそうだ。舌がとろけてしまう。お腹の奥がきゅうううんとなって、もっと、もっと食べたいと叫んでいる。
「どうかしら……? おいしい?」
アリシアが尋ねた。
そこでようやく、フェリスは自分ばかりがケーキを貪っていることに気付き、申し訳なくなって手を止める。
「おいしく……なかったんです……」
「え……」
アリシアが目を見開いた。
「わたし……分かっちゃいました……。おいしく……なかったんです……わたしがずっと、おいしいと思って食べていたパンは……全然、おいしくなかった……」
そう、このケーキに比べたら、あのパンはゴミ同然だった。
あのパンしか与えられていなかったから、フェリスは美味しいと感じていたけれど、本当はまともな味ではなかったのだ。
それに気付かなかった自分の愚かさ。
親方たちが言っていた、「残飯漁りのゴミ女」との言葉。
街で見かけた、綺麗な身なりの人たち。
様々なものが脳裏を埋め尽くし、フェリスは身を震わせた。
なぜか、涙が溢れてくる。止まらない。
「このケーキは……すごく、おいしいです……」
フェリスは、えへへ、と笑ってみせた。
そんなフェリスを見て、アリシアは唇を噛み締める。
「……好きなだけ、食べていいから」
「はい……」
「……あなたが飽きるまで、この屋敷にいていいから」
「ありがとう……ございます……」
後ろから抱き締めてくるアリシアの体が、あたたかい。
その声が、あたたかい。
フェリスはしょっぱくなったケーキをかじりながら、嗚咽を漏らし続けた。
胸の中が、痛くて、つらくて、でも心地良くて。
このままずっとアリシアに抱き締められていたいと、そう思った。