暴虐
酒場の路地裏、曇り空さえほとんど望めない薄暗がりで、ロゼッタ姫は倒れていた。美しい髪が引きちぎられて雪上に散らばっている。頭は影狼に踏みにじられ、泥まみれの靴底に汚されている。
ちゃんと逃げられていると思っていたのが、間違いだった。影狼の本質は闇の狩人。見知らぬ街で右往左往する少女たちを攪乱し、分散させ、ロゼッタ姫だけを引き離すのが彼らの狙いだったのだ。
まんまとその企みにはまったと気づいたときには、既に遅かった。戦闘能力のないロゼッタ姫では、影狼に一矢報いることもできない。
「返しなさい……それは……幾千万の命を救うため必要なもの……」
悔しげにつぶやくロゼッタ姫の上で、赤々と炎に侵されているのは、密書の皮袋。
「愚かな民の命など、幾千万集まろうと牛馬にも値しませんよ。奴らはエサをもらうのを、間抜けな口を開けて待っているだけ。国家の未来も、人類の行く末も考えていない。その辺はあんたら王族の方がマシですね」
「民が日々の生活に追われているのは、王族の咎です。国家の未来を考えるなら、その文をなくしてはいけないことも分かるでしょう……」
「今のままの平和が続いて、なんの意味があるんですか? 愚かな民は我々の価値も理解せず、与えられるモノを当然だと信じ込んでのうのうと生きる。たいして税を納めてもいないくせに、自分たちは搾取されている被害者だと騒ぐ。本当は、王侯貴族のお情けで生かされてるのにね。民の目を覚ましてやった方が、面白いと思いませんか?」
消し炭になっていく密書を、影狼は熱がりもせずに手の平で転がしている。ロゼッタ姫は影狼の靴底から逃れようとするが、骨が折れそうなほど押さえつけられていて身動きできない。
「お情けではありません……為政者には民を愛する責任がある……民は国家の要なのですから……」
「ま、どうでもいいんですけどね。生きとし生ける者は死ぬのが自然、けれど今の民は平和ボケしていてそれが理解できない。私は奴らに教えてやりたいんですよ、『守られていなかった頃の、人間の本当の姿』っていうのをね」
影狼はくつくつと笑った。少し前まで密書だった灰燼が、ロゼッタ姫の上にばらまかれる。影狼はフードを外し、ロゼッタ姫の顔を観賞するように眺めた。
冷たく、澄んだ瞳。そこに宿っているのは悪意ではなく、敵意でもない。そもそも人を見る目ではなく、モノを見る目だった。
――この人は、わたくしを同じ生き物だと思っていない……。
そう悟ってしまい、ロゼッタ姫は身の毛がよだつ。長年の殺戮が人の心を壊すのか。だとしたら、影狼の心を殺した王族が影狼に殺されるのも因果なのか。
「さて、同僚が来る前に姫様の首を頂いてしまいましょうかね。王族殺しの味、他の奴に譲るなんてもったいない」
影狼がロゼッタ姫の頭を鷲掴みにし、宙に持ち上げた。
ロゼッタ姫は無我夢中でもがくが、足も地面に着かない。曲刀が喉元に突きつけられ、刃の冷え切った感触に臓腑が沈む。
――フェリスたちは……逃げられたでしょうか……。
遠い異国に連れてきて、大切な友人まで死んでしまったら、後悔してもしきれない。せめて友人たちだけでも無事でありますようにと願いながら、ロゼッタ姫は目を閉じる。
「や、やめてくださいっ!」
そのとき、幼くも凜々しい声が、路地裏に響き渡った。
ロゼッタ姫が目を開けると、フェリスが路地の入り口に立っている。一生懸命に走ってきたのか、苦しそうに息を切らしている。
ロゼッタ姫の頭を掴んだまま、影狼は眉を上げた。
「武器も持たない民間人が、誰かを救えるとでも思ってるのか。これだから平和ボケした民は愚かだというんだ」
「ロ、ロゼッタさんを、放してください。じゃないと、どかーんってしちゃいます……」
フェリスが影狼に向かって両の手の平を突き出した。
「なんの冗談だ? お前みたいなガキが、王家直属の精鋭に素手で挑むつもりか?」
困惑する影狼。
だが、ロゼッタ姫はフェリスの力を知っている。フェリスは影狼よりも、王国の正規軍よりも、探求者たちよりも高みに立っている。フェリスに足りないのは、人を傷つけるための無情さだけ。そしてロゼッタ姫は、フェリスに優しいままでいてほしい。
「……放してください。わたくしはフェリスに、あなたを殺めさせたくありません」
「は? なにを言って……」
訝しむ影狼の正面で、フェリスが言霊を唱える。
「踊れ、雪の軍勢よ。妙なる調べに従いて、彼の者の息吹を打ち砕け――アイシクルブリザード!」
フェリスの手を中心に、蒼い魔法陣が展開された。円環が輝きながら回転し、周囲の雪が吸い込まれていく。清浄な音色と共に、円環の表面から氷柱が生み出される。氷柱には不可思議な文字が刻み込まれており、その文字が形を変えながら数を殖やしていく。
「魔術……? 杖も使わずどうやって……?」
ようやく影狼がわずかな警戒を見せた。直後、円環から無数の氷柱が射出される。
「……っ!」
飛び退く影狼。氷柱が寄り集まって吹雪となり、渦巻く嵐となって影狼に襲いかかる。辺りの建物が削られ、騒々しい金属音を響かせる。
影狼はロゼッタ姫を盾にして攻撃を防ごうとするが、緻密に制御された嵐はロゼッタ姫にかすることもない。次々と氷柱が影狼に突き刺さり、貫く。
「このっ……クソガキがああっ!」
影狼はロゼッタ姫を放り出し、曲刀を振りかぶってフェリスに突進する。常人なら歩くこともできないような傷に堪え、術師を殺そうと飛びかかってくる。
だが、そんな影狼を嵐が追撃する。氷柱が分解して細かい雪片に戻り、大蛇の形を成す。純白の大蛇が尾で影狼を吹き飛ばし、大地に叩きつける。
「がっ……あっ……」
鼻柱が砕ける音。影狼の口から赤い筋が垂れた。手から曲刀が転がり落ち、全身が小刻みに痙攣する。
「ロゼッタさん! だいじょぶですか!?」
倒れているロゼッタ姫に、フェリスが駆け寄った。
「え、ええ……。ありがとうございます。フェリスには、迷惑をかけてばかりですね」
「迷惑じゃないです! 離れてしまってごめんなさい! わたし、ロゼッタさんの護衛でついてきたのに……全然役に立たないです……」
しょんぼりするフェリス。
「役に立たないなんてことありません。あなたが来てくれなかったら、わたくしは影狼に殺されていたのですから」
フェリスはロゼッタ姫に手を貸して起き上がらせようとするが、うんしょうんしょと顔を真っ赤にしても、引っ張り起こせない。魔力は絶大でも、腕力は年相応だ。ロゼッタ姫は自分で立ち上がり、コートの雪を払う。
「あら……? 影狼は……?」
知らぬ間に、敵の姿はなくなっていた。地面に血痕だけが残っている。
「帰ってくれたんですね。良かったです!」
ほーっとフェリスが安堵の息をつく。
「……そうですね。良かったのかもしれません」
陰湿な敵に逃げられたことには不安を覚えるロゼッタ姫だが、戦いを続けていたらフェリスが影狼を殺してしまったかもしれない。
路地裏に慌ただしい靴音が近づいてきて、友人たちが現れた。
「フェリス!」
「二人とも怪我はありません!?」
「怪我は、たいしたことはないのですが」
ロゼッタ姫は灰になった皮袋を見下ろす。
「密書を……影狼に焼かれてしまいました」
「そんな……」
少女たちは呆然と立ち尽くした。
王宮まで後一歩というところに来て、肝心の届け物を失うなんて。和睦の密書がなければ、バステナとプロクスの戦争を防ぐことはできない。
いったい自分たちは、なんのために旅をしていたのか。徒労感と無力感が、ただでさえ疲れ切っていた体にのしかかってくる。
ジャネットがつぶやく。
「これから……どうしたらいいのですかしら……」
「分からないわ……」
アリシアは唇を噛んだ。




