猛勉強
魔法学校の図書室は、もはや図書館といっても良いレベルの広さだった。
本棚が数十個も並んでいて、そのすべてに本がぎっしり詰まっていて、知識で溢れかえっている。表面に出ている本は氷山の一角に過ぎず、閉架にも大量の本が収蔵されているのだが、もちろんフェリスはそんなことを知らない。
むしろ本という存在そのものを知らないので、ここはなにかの倉庫なのだろうかとさっきから不思議に思っていた。
アリシアが薄い紙束を持って来て、フェリスに見せる。
「これが、本。本は分かるわよね?」
「分かりません!」
元気な返事だった。
「えっとね。本っていうのは、私たちが喋っている言葉を、後で誰でもいつでも読めるように保存したものなの」
「言葉のお漬け物ですか……?」
「お漬け物……? まあ、そういうことになるわね。で、本があれば、何百年も未来の人に知識を伝えることができるし、逆に世界の裏側にいる人の知識だって、もらうことができるのよ」
「ほおおおおおお……すごいですね……」
そうやって教えてもらうと、フェリスは急に図書室が素晴らしい場所だと思えてきた。ここは宝箱だ。知識の宝庫だ。
たくさん集められた本の中にはどんな知識が隠されているのだろうかと胸が躍る。きっと、フェリスの知らないことでいっぱいだろう。
「わたし、早く本を読めるようになりたいです! 文字を教えてください!」
「ええ、それじゃ、このページから始めましょうか」
アリシアが本を開いた。
そこには、小さな模様が三十個並んでいる。
「これが文字――アレフベートよ。それぞれに音が割り当てられていて、このアレフベートを組み合わせることで文章を作るの。これがエー、これがビー、これがシー、デー、イー、ケトラ、エフ……」
アリシアが指差しながらはっきりと発音してくれる。
三十個全てを読み終えてから、アリシアがフェリスの目を覗き込んだ。
「どうかしら? 今日はとりあえず、このアレフベートを十個くらい覚えてみましょう」
「もう覚えました!」
「え……?」
「もう全部覚えました!」
「そんな……まだ一回しか読んでないのよ。まさか……」
「じゃあ、読んでみます! 間違ってたら教えてください!」
フェリスは本に記されたアレフベートを一個ずつ指差しながら、発音していく。その度にアリシアの目がどんどん大きく見開かれていく。
フェリスが三十個を読み終えるや、アリシアは感嘆の息を吐いた。
「すごい! すごいわフェリス! アレフベートを見たのは初めてなのよね!? なんで覚えられるの!? 」
「な、なぜか覚えられちゃいました」
どうしてだろうと考えるが、フェリスにはさっぱり分からない。ただ、昔から物覚えは良い方だった気がする。
文字を覚えたということは、次は知識だ。フェリスは自分があらゆる知識に不足していることを、最近痛感していた。
「あの……アリシアさん。テストに合格するため、オススメの本とかはありますか。まずは言葉を覚えて、次に、簡単なことから順番に覚えていけると助かるんですけど……」
「そうね……見繕ってみましょ!」
アリシアは図書室を行き巡り、用語辞典や、魔術の入門書、応用編の参考書などを、一通り集めていく。
後ろからちょこまかついてくるフェリスのため、厳選に厳選を重ねて良書を揃えた。
まるで海綿のように知識を吸収するフェリスに、できる限りたくさんの知識を得て欲しいと思い、こっそり上級編の参考書も追加しておく。
ミドルクラスの自分もまだ勉強していない範囲だが、ひょっとしたらフェリスには分かるかもしれない。
「この用語辞典から始めて、この二十冊を左から右に勉強していけば、みんなに追いつけると思うわ」
アリシアは机の上に本を並べて見せた。
「ありがとうございます! 頑張ります!」
フェリスは胸をわくわくさせて宣言した。
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言葉の通り、フェリスは頑張った。
もう死ぬほど頑張った。
常に辞典や教本を持ち歩き、ひたすら読み耽る。
休み時間はもちろんのこと、歩くときも、ごはんを食べるときも、頭の中に情報を叩き込み続ける。
学校が終わるとすぐ寮に飛んで帰り、部屋にこもって本を読んだ。
そのテスト勉強は、フェリスにとって苦痛ではなかった。
むしろ、これまでにないほど興奮させられる経験だった。
なにせ、自分の知らなかったことが、目の覚まされるような知識が、大量に流れ込んでくるのだ。
理解。発見。驚き。感心。
脳細胞が刺激され、全身の血が沸き立ち、鼓動が早鐘のように打つ。
魔術の基礎や、その使い方、訓練方法、概念、奥深い技術までもが、目を通して脳を叩き、全身に行き渡る。
「フェリス? 食堂からお夜食もらってきたわよ? ちょっと食べて休憩しない?」
アリシアは教本を読んでいるフェリスに声をかけるが、フェリスは夢中になりすぎているせいか、聞こえてもいないらしい。
両手でぎゅっと教本を握り締め、ひたすら目をぱちくりさせている。
「そんなに勉強が好きな人って、初めて見たわ」
アリシアは小さく笑うと、ぽかんと開いたフェリスの口に夜食のサンドイッチを近づけた。
食事も忘れるほど勉強に没頭していたフェリスだが、空腹はあったらしく、反射的にサンドイッチをぱくつく。
「はぐはぐはぐ! はぐはぐはぐ!」
まるで飢えた子猫みたいなフェリスの姿を見て、アリシアはこういうお世話も楽しいかもしれないと思った。
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「えっ……? もうテスト受けるの? 大丈夫?」
ロッテ先生はフェリスに尋ねた。
勉強のために与えられた猶予期間は一ヶ月だったが、まだ一週間しか経っていない。それなのに、フェリスは今すぐでもテストを受けたいと言い出したのだ。
先生が驚くのも当然。だって、フェリスからテストの時期について相談を受けたとき、期間の延長を切り出されるものだと思っていたのだから。
しかし、フェリスは言う。
「大丈夫です! なんか、あんまり先になると忘れてしまいそうで怖いですし……、なによりも、アリシアさんの名誉を早く回復したいんです!」
「そっか。まあ、先生は構わないけどね。じゃあ、ついていらっしゃい」
ロッテ先生は笑った。
テストの内容は、ファーストクラスからミドルクラスまでの知識のあらまし。属性や、魔術の行使、強化、魔術に関わる歴史や組織名など、多岐にわたった。
放課後の教室を閉め切って、フェリスだけが解答用紙と睨めっこするのを、ロッテ先生が監視している。
そして、教室の外からはクラスメイトたちが大量に窓に貼り付いて、テストの様子を眺めていた。
なんだか落ち着かない気持ちになるフェリスだが、集中を切らすわけにはいかない。これにはアリシアの名誉がかかっているのだ。
テストの最終日、フェリスが最後の答案を渡すと、ロッテ先生はフェリスの頭を撫でてくれた。
「お疲れ様、よく頑張ったね。結果は明日の朝には発表するから、今日はぐっすり寝るんだよ」
「はい!」
フェリスは大きくうなずいて教室の外に出る。心配で今夜は眠れそうにないけれど、とりあえず体を休めておこうと思った。
と、クラスメイトたちと一緒にテストを観戦していたジャネットが、おずおずと近づいてくる。
「あ、あのっ、フェリス。あなたにお話したいことがあるのですけれど……」
「ふぇ? なんですか?」
まさかジャネットから話しかけられると予想していなかったフェリスは、きょとんとする。
ジャネットは指をいじりながら、ちらちらとフェリスを見やる。
「え、えっとですね……この前の、ことなんですけれど。わたくし、あの……フェリスに……」
謝りたくて、と言いたいジャネット。だが、言葉が喉から出て来ない。
たくさんのクラスメイトたちがいる前で謝るのは恥ずかしいし、素直に感情を言葉にするのも難しい。
「な、なんでもありませんわ! 明日の結果が楽しみですわね! せいぜい、荷造りの準備でもしてなさいっ!」
――ああもうっ、またひどいことを言ってしまいましたわ! わたくしの馬鹿! 大馬鹿!
捨て台詞と共にその場から駆け出しながら、ジャネットは自分の頭をぽかぽか叩いていた。そんなジャネットを廊下の生徒たちが不思議そうに眺めていた。