幸せな鉱山奴隷
「ほらよ、フェリス。今日のメシだ!」
「ありがとうございます!」
親方が地面に放り投げたパンに、フェリスは飛びつき、はぐはぐと貪る。
色あせ、あちこちが破けたワンピース。
岩肌をしっかりと踏みしめた素足。
伸び放題の髪の毛。
そんな姿の少女がカビの生えたパンをかじるのを、親方は遠く離れた場所から眺めていた。
今年で十歳になったフェリスは、鉱山奴隷だった。
物心がついたときには、この魔石鉱山にいて、奴隷として働かされていた。
フェリスの一日は、鉱山の入り口にこしらえた粗末な寝床から始まる。
繊維がボロボロになったムシロの上で目を覚まし、鉱山から這い出すと、親方が魔石を掘ってこいと怒鳴る。
フェリスは外の空気を吸ってから鉱山に潜り、魔石を掘る。
真っ暗な坑道だが、長年その中で働くうちに、フェリスは夜目が利くようになっていた。
鉱山で採掘をしているのは、フェリスただ一人。
フェリスは魔石を掘って地上に戻ると、魔石をトロッコに積んで、トロッコを押し飛ばす。
それを離れたところにいる鉱夫や親方が受け取り、炉の中で溶かして、精錬する。
親方たちは、なぜか鉱山の入り口にも、フェリスにも近づいてこようとしない。やたらと全身を防具で覆っているし、食べ物をくれるときだって投げるだけだ。
あるとき、息を荒げてフェリスに近寄ってきた鉱夫が血を吐いて倒れてからは、親方たちはさらに遠くからフェリスに話しかけるようになった。
フェリスが丁寧語で話すのを覚えたのは、そっちの方がパンをたくさんもらえることに気付いたからだ。
親方の機嫌が良ければ、パンの量が増える。
そして、親方はみんなから尊敬されることを喜ぶようだった。
だからフェリスは、鉱夫たちが親方に向かって話すときの言葉に聞き耳を立て、その中から個人差のある不純物や訛りを除いて、綺麗な話し方で親方を敬うように注意した。
すると、以前は親方の機嫌が悪いときは一つまみほどのパンしかもらえなかったのに、ちゃんと一つかみのパンをもらえるようになった。
親方の機嫌が良いときなんて、パンを二つか三つ投げてもらえることもある。お陰で、フェリスは鉱山の中に潜っているときにお腹が鳴る頻度を減らすことができた。
フェリスは馬鹿ではなかった。自分の生存に必要なら、しっかりと周りを観察し、分析して、対策を練ることができた。
ただ、フェリスはあまりにも無欲で、生存に必要な分析しかしなかったから。
ただ、目にする相手があまりにも少なくて、情報量が足りなかったから。
フェリスは、なぜ魔石鉱山に自分だけが潜らされるのか、知らなかった。
なぜ魔石鉱山に潜っても死なないのか、知らなかった。
そもそも、魔石鉱山が人間にとって致命的に有害であることさえ、まったく知らなかった。
フェリスは現状に満足していたのだ。
これ以上の生活があることを知らなかったから。
鉱山に連れて来られるよりずっと前、家の中で暮らしていたことはうっすらと覚えている。
けれど、その記憶はどこまでもぼんやりとしていて、フェリスの内部ではほとんど存在感を残していない。
フェリスはただ、雨風をしのぐ場所があり、食べる物をもらうことができ、命を脅かす者がいなければ、それだけで幸せだった。
そう、ときどき胸を刺す鋭い痛みが、孤独感だということは知らなかったし。
親方たちがサンドイッチや肉を美味しそうに食べているのを見るときに感じる胸の焦げるような感じが、羨望だということも知らなかった。
フェリスは幸せな鉱山奴隷だった。
……あの日、親方たちのあの会話を、こっそり聞いてしまうまでは。
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それは、珍しくフェリスの寝付きが悪く、一晩中うつらうつらしながら過ごしたときのことだった。
鉱山の内部に朝日が射し込み、フェリスは寝床でぼんやりと目を開けた。
外からは、鉱夫たちが仕事の準備を始める物音、そして彼らの眠たげな話し声が聞こえてくる。
「あのガキ、まだ寝てんのか。俺たちは朝早くから忙しいってのに、いい気なもんだな」
「まったくだぜ。もうちょっと色気があったら、宿に連れ込んで夜の仕事でもさせるんだがなぁ」
「はははは、冗談。あんなの剥いたって、あっという間にこっちが萎えちまわぁ」
下品な笑い声。
なんの話をしているのかは分からないが、良い感情を向けられていないのは分かる。フェリスはぎゅっと自分の体を抱き締めて縮こまった。
「つーか、あんな化け物と毎日仕事してると気分が暗くなっちまうよな」
「ああ。地べたに落ちたパンをがっつく感じなんて、完全にケダモノだ。うちにも女の子はいるけど……同じ生き物とは思いたくないね」
フェリスの小さな胸に、悪口が突き刺さる。
こんなの、聞いたことがなかった。
いつもは採掘の仕事で疲れ切って、日が沈むとすぐに前後不覚で昏睡していたから、鉱夫たちが普段どんな陰口を叩いているか、知りようもなかったのだ。
フェリスは常識も知識もなかったが、感情はあった。
いや、理性が魂の中で占める割合が少ないからこそ、人から向けられる敵意はより強く感じられた。
「おい、お前ら。いい加減にせんか」
そのとき、親方のたしなめる声が聞こえた。
そうだ、親方だ、とフェリスは思う。
親方は優しい。食べ物をくれる。寝床にムシロもくれた。茶色く濁っているが、飲み水もくれる。生きるために必要な物をくれる人は、良い人だ。
親方なら、みんなの悪口をやめさせてくれる。
フェリスはそう期待した。
だが、親方の口から出た言葉は。
「フェリスは利用価値があるガキなんだ。化け物だろうとケダモノだろうと、役に立つことは変わりゃしない」
「でもよぉ、親方……」
言いかける鉱夫をさえぎって、親方が続ける。
「なぁに、そのうちメシも食えないくらいボロボロの体になるだろうから、そんときはてめぇらの好きにするがいいさ。それまではせいぜい機嫌を取って稼がせるんだ。なんせ腐ったパンをやっときゃ喜ぶんだからな、あのゴミは」
「へへ、違ぇねえ」
「残飯漁りのゴミ女だぜ」
「あー、臭い臭い」
嘲笑。
フェリスは、ぎりっと奥歯を噛み締めた。
胸が、頭が、全身が、カッカッと熱かった。
それが怒りと呼ばれる感情だということを、フェリスは知らなかったけれど。
これ以上、あの人たちと一緒にはいたくない。
ここで働いていたくない。
そう心に決めるには、充分だった。