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第三章 怪物 その2

     2


 屋根を叩くドラムのような騒音が、キンスキー家の住人の存在感を殺していた。この屋敷にはワタシとティル以外に生き物はいないかのような雰囲気。しかし間違いなく、フランシスカ、マギー、そしてハンナもいるのだ。だから警戒心を失ってはならない。

 お昼ごはんまではまだ時間がある。だからティルを連れて遊技場へ行くことにした。大広間の左にある扉の先が遊技場で、長方形の大部屋にはビリヤード台とダーツ、壁際に巨大な書棚、その前に、高価そうなカーキ色のテーブルとソファがある。

 偉そうに威厳を放っているソファなのだけど、ワタシには価値のほどがわからないからただのソファだ。だからジャンプして飛び乗った。リヒャルトおじさんやマギーに見られたら間違いなく怒られるけど、知らない。

 書棚にマンガの(たぐい)はない。それでも児童書などが数冊は並んでいる。おそらく幼少期のハンナのために取りそろえたのだろう。ティルは興味をそそられた本を一冊取り出した。フィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』だった。ワタシはというと、腰を上げ、妖精関連の情報が載っていそうな本を探した。コンラートの話が気になったのだ。驚いたことに、それらの本がぞろぞろと出てきた。『世界の神々大辞典』『悪魔辞典』『民間伝承と都市伝説の考証』『妖精の不思議』『異界との境界線』などなど。ワタシは情報を得られそうな本を手当たり次第に引っ張り出すと、凶器のような重さになったのですぐにテーブルに置いて腰を下ろした。

 地方に伝わる妖精伝説とハンナの謎の病気、これらの本を読めばつながりの片鱗くらいは見えるかもしれない、そう意気込み、一冊の本を手に取る。そのときワタシはしまった、と後悔した。


 リヒャルトが血の涙を流しているフランシスカが誰かに怒鳴っているマギーがブルブルと震えているフランシスカが本を床に叩きつけているリヒャルトが血の涙を流しているリヒャルトが血の涙を流している本が哀しんでいるリヒャルトが血の涙を流している本が哀しんでいるティルが今にも泣きだしそうな表情でお姉ちゃん大丈夫と云うティルが――。


「お姉ちゃんどうしたの、大丈夫?」

 本を落とした。それでも、すぐには動くことが出来なかった。リアルがその言葉の意味を失っている。

「お姉ちゃん?」

「ああティル、ごめんなさい。少しぼうっとしていたわ」

 弟は両手を胸の前で握ったままワタシの顔をじっと見つめている。

「大丈夫だったら、ごめんごめん」

 それならいいんだけど、と、ティルは先ほどまで座っていた場所に戻った。

 よけいな心配を与えないように、ワタシは弟にちからのことを話していない。

 さて、気を取り直して今度はちゃんと《本》を読まなくちゃ、と手を伸ばしたとき、鋭い衝撃を脳内に受けて、ワタシは生れて初めて気を失った。ぜんぜん大丈夫じゃなかった。


     ☆


 プリムラの赤や黄色、紫の花びらたちが空中で渦を巻き、一本の道しるべとなり、ワタシの眼の前で止まった。止まったけど、グルグルと花びらたちは回転している。どうしたの? 何か伝えたいことでもあるの? どんな困難が待ち受けていようと、ワタシはあなたたちの願いを受け入れてあげるわ、と手を差し伸べる。

 その刹那、ワタシの身体は渦の中央に吸い込まれた。光の明滅、音と音が(きし)る、肉体が崩壊する。ドボン。数瞬後、水の中に放り出されてブハアと水面に顔を出す。

 月光に照らされた世界はよく見知った場所だった。

 森の泉。

 プリムラの花々が喜んでいる歌っている踊っている。

 ワタシもいっしょに――そう思って水から上がろうとした、そのとき、いくつもの視線が全身に突き刺さった。振り返り、泉を見渡す。昆虫とは異質な、小動物とは異質な、地球上の生物とは異質な『緑色の光』がいくつもいくつもワタシをにらんでいた。

「誰?」誰誰誰誰誰誰…………。

「ワタシはアムール」ワタシはアムールワタシはアムールワタシはアムール…………。

「何もしないから」何もしないから何もしないから何もしないから…………。

「出てきてちょうだい」出てきてちょうだい出てきてちょうだい出てきてちょうだい……。

 反響の嵐をかき分け、


 キャハハハハハ


 どろりとした笑い声を、耳のすぐ後ろから、吹きかけられた。


「……ル――」

「アムール!」

 ワタシを呼ぶ声で飛び起きた。ぼやけた視界の中、ベッド脇に、顔をくしゃくしゃにしたティルと、こちらも顔をゆがませたコンラートが、見下ろしていることに気づいた。

 ここはどこだろう、と周りを見渡すと、白いカーテンがひらひら揺れていて白いブランケットがふかふかしていて天井で回転しているファンがホンホンしていてワタシはここが自分の部屋だと認識し、その瞬間、あることに驚いたので声を荒げた。

「ダメよ、ここにいるところを見られたら怒られるわ。早く出て行って、コンラート!」

 そこでティルに、しぃ~っ、とされたのでワタシは口をつぐむ。

 コンラートが事のいきさつを静かに語り出した。

「マギーさんが村へ薬を取りにきてね、どうしたんだろう、珍しいな、と思って、薬屋さんのアンネおばさんとの会話を盗み聞きしたら、アムールが倒れたということを知ったんだ。いてもたってもいられなくなって、気づいたら屋敷の前に来ていた。もちろん入れてくださいと云っても無視される。だから門のところでウロウロしていたら、ティルが僕の存在に気づいて、誰にもバレないようにここまで連れてきてくれたんだ。もちろん正面からじゃないよ」と云ってベランダを指さした。

 ここまで一気に吐き出し、肩を上下させている。

「うふふ。ちょっとした貧血だから心配いらないわ。ごめんね」

 その言葉に安心したのか、コンラートは笑顔を浮かべて頭をぽりぽりかいた。

「でも安静にしておかないといけないよ。もう寝たほうがいい」

「寝る? あまり眠くないんだけど、ひょっとしてもう夜なのかしら」

 そうだよ~とティルが窓際に駆け出しカーテンを開けた。外から闇が飛び込んでくる。緑色の光じゃなくてワタシはほっとした。

 時刻は午後十時二十分。リヒャルトおじさんたちは九時きっかりに床につく。起きているのはワタシたちだけだろう、と思ったらそうではなかった。トントンとノックされる扉。コンラートはあわててベッドの角に膝小僧をぶつけて、フグウグブフウと唸りその場でうずくまる。ティルが窓を開けて無理やり外へと追い出す。コンラートがベランダに避難し、ティルがベッドに飛び乗りブランケットをかぶったところでワタシはドアを開ける。

 廊下には、眉間のシワを二、三本増やしたマギーが立っていた。

「こんな時間にどうしたんですか?」

「いや、無事かどうか気になって……」

「お薬のおかげでこの通りです。ありがとうございます」

「いえ……無理やり喉を通したので、心配で心配で……」

 完全に立場が逆になってしまったようにおずおずと答えるマギー。ワタシはふと、思い出した。このままマギーを自分の部屋へ戻すわけにはいかない。彼女の顔色をうかがいながら続ける。

「リヒャルトおじさまとフランシスカおばさまとザックスは寝ているのですか?」

「ええ、それはもう、ぐっすりと……」

「実はマギーに訊きたいことがあるの。先に遊技場へ行っていてくれませんか? 着替えを済ませ、すぐにワタシも行きますので」

 動かないマギーを見て、恐怖心と悩みと後悔が脳内を渦巻いているのだろうと思ったのだけど、ワタシにも余裕はなかったので「じゃあ、待っててくださいね」と否定する暇と時間をなくした。

 バタンと戸を閉める。駆け足でベランダに行く。外で寒そうに腕を組んでいたコンラートにワタシは云う。

「もしかしたらこれから、妖精とハンナの病の謎が同時に判明するかもしれない。今日はもう帰って。明日また来てくれるかな。そのとき、くわしい内容を話すから」

 コンラートは一瞬眼を丸くしたけどすぐに春の花のような笑顔を浮かべて、

「わかった。じゃあ、明日の九時半くらいでいいかな?」

 コンラートは壁伝いにするすると地上に降りて一度振り返り手を振ってから闇の中へと消えて行った。ワタシはティルに向きなおり、いっしょに行こう? と云ったけど、彼は小さく首を横に振るだけだった。ああ、お母さんたちと話をしたいんだ、と悟ったワタシは、遅くなるかもしれないから先に寝ているのよ、と念を押して、マギーが待つ遊技場へと向かった。


つづく

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