第三章 怪物 その1-2
キンスキー家の朝食は、午前六時半、と、決まっている。数秒のずれも許されない。
リヒャルトおじさんは七時きっかりに仕事に出かける。(どんな仕事をしているのかはわからない。外に出るならついでに村で食糧や薬を調達すればいいのにと思うけどもちろん云えない)
フランシスカおばさんは仕事を辞めてハンナの看病にまわったようで、一日中家の中にいる。医者を呼ばない理由がひとつわかった。おばさんは以前、看護師をしていたようで、彼女がハンナを診ているのだ。
息の詰まる食卓から解放され、無言の威圧が消え、笑い声が遠のいたあと、ワタシとティルは、楽園、へと駆け出した。
暖かい日差しが頬をなでる。抑圧された笑顔が自然とこぼれる。屋敷の中では味わえない心地よさだ。まだ花は咲いていないけれどアブラナ科のオランダガラシがワタシたちといっしょに踊る。青い眼でワタシたちを見送ってくれるゴマノハグサ科のオオイヌノフグリ。黄色い声で歌うキク科のノゲシ。いろいろな草花と戯れたあとに見えてくるサクラソウ科のプリムラ。普通は公園や庭で見られる植物なのだが、このような野生種が群生しているのは珍しい。泉は平らで鏡のように、周りを囲むプリムラの色を映していた。なんて美しいのかしら。この絶景は、ちょっと怖いくらいだ。
ティルは無邪気にはしゃぎまわった。ワタシは水辺に腰を下ろしてその様子を楽しんだ。
蝶を追いかけ、バッタを捕まえようと泥だらけになる弟の姿を見ていて、何故か、涙が浮かんできた。これ以上は見ていられない、というタイミングで、
「やっぱりここか!」
純真な、笑顔、でコンラートが駆けてきた。彼の瞳には、ワタシたちとは、別の世界、が映っていた。
「おはよう、コンラート。食材はしばらく持ってこなくてもいいんでしょ。どうしてこんなところへ?」
ワタシの言葉が彼の顔に影を落とした。変なことでも云っちゃったかしら、と申し訳ない思いでいっぱいになったとき、ティルがコンラートのもとへ走ってきて彼の手を取った。
「ねえねえ、何して遊ぶ?」とせかすティル。
「来たばかりだから疲れているのよ。少し休ませてあげなさい、ティル」というワタシの忠告を無視して、彼はコンラートの腕を引っ張った。
コンラートはワタシをちらりと見て、反対の手で頭をポリポリとかきながら、
「遊びに来たんだから大丈夫だよ」と、付け足す。
楽しい時間というのは何故こうもすぐに、過ぎ去るのか。頭では理解していても、これほど直に体感できるのも、すごい。
山の天候は変わりやすいという言葉もよく耳にするが、それも体感することになった。
あれほど暖かい日差しを振りまいていた空が機嫌を損ね、下界にやつあたりしようとしている。これはひと雨くるな、と天を仰ぎながらコンラートが云い、そろそろ帰ったほうがいいとも忠告してくれた。
ティルはコンラートを気に入ったらしく、屋敷までの道中、ひとときも手を離さなかった。そんな様子に嫌な顔ひとつせず、始終笑顔を絶やさないのは、コンラートの人の良さだろう。
「この間、変なことを云っていたけど、何故あんな質問をしたの?」
低くなった空をさらに重くするようなことをワタシは尋ねたのかもしれない。
その直後、空が唸り声を上げた。
「ああ……それね……」
コンラートは視線を上から下におろして、
「この森には、昔から妖精伝説が伝えられているんだ」
「妖精伝説? 妖精って、手のひらサイズで背中に透明な羽を持った?」
「そう、その妖精。妖精っていたずらもするけど、翅の鱗粉には怪我を治す効用があると云われているのを知っているかな」
鱗粉……①蝶や蛾の翅などにある微小なうろこ状の付属物。毛が変形したものとされている ②洋服などにつくとなかなか落ちないので好まれるものではない ③たまに鱗粉に似たものを頭部から出す男もいる
「麓の村は、辺ぴな場所にあるから都会の病院まではかなりの距離があるんだ。だから昔の人たちはこの森に怪我人を連れてきて、一昼夜、放置していたらしい。妖精に傷を治してもらおうとしてね」
「で、治ったの?」
「さっきも云ったろ? 妖精はいたずらっ子だって。治ることもあったし、ひどくなることもあった。それに治った人でも、誰も妖精を見てはいないらしいんだ、だから本当にいるのかどうか疑わしくて、そんなもんだから、治るか治らないかの賭けに出るよりも、遠い隣町まで行ったほうがましだ、ということが広まり、妖精治療は衰退していった」
「へえ、そんな言い伝えがあったんだ。でもその伝説とこの間の質問は何か関係があるの?」
そのとき、空の堪忍袋が、切れた。トトトト、と木々を叩く音が響いてくる。
「それなんだけど、クリストフが、ああ、クリストフというのは村の男の子でね、あいつがね、『キンスキー屋敷で妖精を見た!』と騒いでいるんだ」
つづく