第二章 黙示録
第二章 黙示録
十九歳の少女カタリーナとの出会いは、後の人生を左右する宿命的なものだった。
それがわたしの未来に不幸をもたらす結果になるのだが、後悔はしていない。否、そうじゃない。幸運だったのだ。
わたしはこの数奇な運命に、感謝する。
聖書を読みふけっているときにあわただしくドアが開けられて見習いのエルンストが血相を変えながら飛び込んできた。四角い顎をカクカクと動かしながら相変わらずわたしよりも老けて見える顔をこちらに向けて唾をまき散らしながらまくし立てた。
「ゴットフリート神父! 単刀直入に云います。あなたは悪霊を信じますか?」
それを聞いてわたしは聖書を閉じ、彼を落ちつかせようという狙いも込めて、冷静に答えた。
「気をつけてください。それはとても危険な発言ですよ?」
「わかっています。私はあなただから信頼して、こう発言しているのです」
見た目からは想像できない生真面目な青年で、わたしは彼のことを信用していて、また、信頼もしている。そして、温厚な彼がこのような言葉を発するとは、わたしは何かを感じて続きを促した。
「わかりました。ここだけの秘密として、あなたの話しを訊きましょう」
「他言無用でお願いします」と、念を押してエルンストは続けた。
他言無用……①秘密をここだけのものとしてもらさないこと ②半分くらいの確率で外にもれること
「何故、悪霊などと、魔女狩りに遭いそうな恐ろしい言葉を使わなければならないのかと云いますと、悪魔にとりつかれたとしか考えられない症状を持つ少女がいるからなのです」
「面白いですね。その症状と云うのはどういう?」
この部屋にわたし以外には誰もいないというのにエルンストは声をさらに殺して続けた。
「一見すると魔女であるように思えます。ところが、どうも、そうではないと私は判断しました。彼女との出会いからお教えしましょう。少女……十九歳なので少女と云うのもどうかと思いますが、彼女は名前をカタリーナと云い、花屋の娘で独身。やましい気持ちなどありません、純粋に、私は彼女に興味を持ったのです。そのため、何度か彼女のいる花屋に足を運びました。それはそれは線の細いかわいらしい娘で声も耳の裏側をこするというか背筋を流れるというか――」
エホン、というわたしの咳ばらいでエルンストは我を取り戻し、
「すみません。彼女はいたって普通の大人しい娘で、人柄も良く、私はすぐに彼女を気に入りました。足しげく通って、何度目のことでしょうか。会話をしているとき、ふと、彼女が私の背後に視線を向けまして、こんなことを云ったのです。
『あの女性は、何故、男の背に乗っているのかしら?』
不思議に思い振り返ると、表の道を横断する中年男性がいました。もちろん背中に何かが乗っている、といったことはありません。早足で横切るたったひとりの男性がいるだけでした。見間違いなんかじゃありません、本当にひとりでした」
「それだけではないのでしょう?」
女性のたった一度の奇妙な言動にエルンストが不信感を抱くとは到底思わなかったので疑問を口にした。
「はい、そのとおりです」
わたしの予想は的中した。このような現象は、一度や二度ではないのだろう。
エルンストはここで机の上にある水に視線を移し、次に、わたしの眼を見つめた。その意図を汲み、どうぞ、と云った。案の定エルンストは喉をうるおした。
「他にはどんな不思議なことがあったのですか、その……」
「カタリーナです」
「カタリーナという女性には」
「ある日のことです。彼女の様子がずっと気になっていた私は朝一番にカタリーナのいる花屋へ向かいました。彼女は私の姿を確認するとにっこりとほほ笑んでくれました。それはそれは早朝や夕焼け時に見ることのできる、宙の塵を反射して変色した太陽光のような、美しさでした。ええ、ええ、もちろん私はそれに笑顔で返しましたよ。交差する笑顔。ゴギュリという唾を飲む音が響き渡りました。ゴットフリート神父……このときのきらめき……いとおしさ……」
エホン、というわたしの咳ばらいでエルンストは我に返ってくれた。
「ああスミマセン。異変はすぐに起こりました。カタリーナはつる性の黄色いバラの手入れをしていたのですが、突然、店外へ駆け出し、数メートル先でピタリと止まり、振り返ってこう云いました。
『みんなが私を連れて行こうとしているの』
カタリーナの母親が奥で何事か手作業をしているだけで店内には他に誰もいませんでした。そのため、《みんな》という言葉は当てはまらないのです。カタリーナは路上でうずくまり、プルプルと震えていました。私は彼女のもとへ駆け寄り肩を抱いたのですが、氷水が絶えず背筋を流れているかのように、汗がとまらず、彼女の震えは止まりませんでした」
ふううう、と大きく息を吐き、エルンストは牛革のソファへ視線を移した。どうぞ、と促す。すると疲れていたのだろう、彼はツバキの花が落ちるようにボドンとソファへ腰を下ろした。弛緩したエルンストにわたしは静かに語りかけた。
弛緩……①ゆるむこと ②だらしなくなること ③日常でそう何度も耳にすることはない言葉
「さて、あなたはわたしに何を求めているのでしょうか。アドバイスが欲しいのですか? それとも慰めて欲しいのですか? それとも――」
「最後の《それとも》のほうです」
ふううう、と次に息を吐いたのはわたしの番だった。
「こんなこと、他の司祭にはとても話せませんよ」
「ゴットフリート神父だからこそ、です」
「ありがたいお言葉ですが……」
「私は、カタリーナを楽にしてあげたいだけなのです。名誉が欲しいなど、これっぽっちもありません」
エルンストの優しさは知っている。教会の門を叩いたときから、彼は努力を惜しまなかった。云われたことを嫌な顔ひとつせず、すべてをこなす。いや、むしろ率先してみなが嫌がる清掃などを選択するのだ。努力は、浸透して、今ではみんなの信頼を得るまでになっている。彼ならいずれ司教にもなれるだろう。わたしもそんな彼を応援している。そして、最後の言葉には、内からの感動をおぼえた。それでわたしは決意した。
「わかりました。一度、カタリーナに会ってみましょう」
「本当ですか? ありがとうございます。ありがとうございます」
眼に涙を浮かべて腰を上げてわたしのところへ駆け寄って腕を取ろうとしているエルンストを制し、
「《悪魔憑き》と決まったわけではありません。まずは、彼女を見てからです」
☆
光の差さない狭い路地。道端の雑草。姿の見えない子供たちの笑い声。建物のすきまをなでる風の音。竿に吊るされた洗濯物。風に揺れて鳴き声を発する窓。孤独な足音。枝の折れた木。割れたガラス。道端に落ちてつぶれた果実。切れ目のない暗雲。世界を変える……雨。
見えない壁が日常と幻想の境界線を作っている。その曖昧なバランスが未来を暗示しているかのようで、わたしは知らず知らず、無口になっていた。
太陽の力が衰えてから数分後、わたしとエルンストは、カタリーナの家に到着した。
つづく