第一章 猫 その3
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カリコリ……。
カリコリ……。
キチキチ、クココククココ……。
風が泣く。星々が歌う。草花が宙を叩く。プリムラたちが語る。キンスキー家が、笑う。
奇妙な夢を見てワタシは眼を覚ました。大きく息を吐き出し深呼吸する。どんな夢だったのか、おぼろげにしか思い出せないが、キンスキー家を取り巻く自然たちが、何かを訴えていたような気が、する。
カーテンの隙間から優しい色が室内をそっと照らしている。耳を澄ますとヒュウヒュウガサガサササササという音に混じり、カリコリカリコリという耳慣れない音が響いていることに気づいた。なんだろう? と思い、腰を上げる。
隣で寝息を立てている弟を起こさないように呼吸を殺す。音はドアから届いているようで、ワタシは歩を進めた。
キチキチクコクコ……音が大きくなる。ねずみなどの小動物がドアをかじっているような音だ。
そっと、ドアノブに、腕を伸ば、した。
「何所へ行くの? お姉ちゃん」
ビクッとして振り返る。呼吸を整え、ワタシは平静をとりつくろって返事をした。
「やっぱりミカエルのことが気になって。ちょっと家の中を探してくるわ。どう? あなたも来る?」
「いや、僕はいいよ。見つからないように気をつけてね」
わかったわ、と云い残しドアを開けてみるも、そこには何者も存在しなかった。ワタシたちの会話に驚いて逃げたのかしら、と渡り廊下に出てみる。ランタンから漏れる光が通路を明るくしてくれているけど、一階部分までは届かない。暗闇の中から誰かが見上げているような気がする。もちろんそんなことはないのだけど、一度、そう意識してしまうとなかなかぬぐい去れない。仕方がないのでランタンのひとつを手に取り、ワタシは歩き出した。
隣の空き部屋の前に到着。そっと扉に耳を近づけてみるがなんの音も響いてこない。そもそも施錠されているのでミカエルがかってに入ることなど出来ないのだけど。先を急ぐ。廊下を左に曲がり、右手にハンナの個室への扉が見えてきた。
この屋敷に越して来て、ただの一度も、この扉が開けられたところを見たことがない。本当に存在しているのか、と疑ったりもしたけど、食事時にはマギーが料理を持って行くので、まあ、いるのだろう。はたして外にも出られないほどの病とは、いったいなんなのか、医学の心得があるはずもないワタシには、知る由もない。
ふと、コンラートが口にした言葉を思い出した。
『村の噂になっているんだけど、ハンナは、呪われているんじゃないか……って』
この世に呪なんてあるのだろうか。もしもあったとして、不思議な現象と、呪の境界線って、どこにあるのだろう。
もしもハンナが呪われているとしたら、いったい、誰に? それと、病状はなに?
呪い……①のろうこと ②うらみに思う相手に災いが起こることを願うこと ③暗い人と思われるのであまり口にしないほうがいいこと
ハタタタタ、と突然、階下から聞こえてきた音。姿は闇に溶け込んでいて見えない。ミカエルかしら? とにかく、目的地は決まった。一階だ。
階段の真正面にある部屋が、リヒャルト夫妻の個室だ。彼らに見つかると、有無をいわさずUターンさせられる。だから階段の上でワタシは足を止める。しばらく立ち止まったまま様子を伺う、が、寝息ひとつ響いてこないので再び歩き出す。幸い廊下には分厚い絨毯が敷かれているので足音の心配はない。ザックスとマギーの部屋からも光はもれていない。安心すると同時に先ほどの音が気になり出す。ミカエルは人間に慣れていて行動的でもないのでいつものんびりとしている。寝ているか食べているかノソノソ短い距離を歩いている姿しか見たことがないのであれほどの行動を取る理由がとても気になってワタシは勇気を奮い立たせる。
暗い階段は終わりが見えず、何所まで、下りて、行くのかわからない恐怖をはらんでいて、果てしなく続いていそうだった。
ハタタタタという音がハンナの部屋の真下あたりから響いてきた。再びその音を聞いて、恐怖心がやわらいだ。
階段を下りきって左に曲がると、エントランスの奥にふたつの扉がある。ワタシはダイニングのほうではなく、右隣りに位置する、地下への扉へと向かった。ドアの前まで行くと間違いないと確信した。何故ならば、今もハタタタタとドアの向こうから聞こえてくるのだから。
キンスキー家には開かずの間がふたつほどある。開かずの間というか、リヒャルトおじさんに入るなと念を押されているだけなのだけど。
ひとつはハンナの部屋で、もうひとつが、この先にある、地下室なのだ。
ふたつの扉はつねに施錠されている、にも関わらず、どうやってミカエルは扉の先に行くことが出来たのか。現にこうして、開けることが出来ないのだから。
ランタンの灯かりが、ニャグニャグ、と揺れる。絨毯の毛が、一本、一本、動き出す。大時計が鐘を十三回鳴らす。背後の暗闇が、ニタニタと微笑を浮かべる。
ワタシは、《へその下に意識を集中させた》
扉に触れようと手を伸ばす……と、そのときだった。
オーンオーン、という犬の鳴き声が背後から聞こえてきた。すぐさま伸ばしていた手を戻す。背後には大広間がぽっかりと口を開けており、その先に、外への巨大なドアがある。鳴き声はその扉の向こうから聞こえてきた。ということは、外に犬がいて、屋敷内に、ここへ向かって、ワタシに向かって、吠えているのだ。音の響き具合から、ドアのすぐ前にいるように感じた。もちろんワタシは闇に押しつぶされず勇気を奮い起し、踵を返して歩き出す。鉄製の黒い扉が、ワタシの前に立ちふさがった。
オンオンと犬の鳴き声が止まらない。ここまで来ると、しっかりと聞こえてくる。
すぐには開けない。あたりには非日常性がにじんでいる。両親が死んだ夜もたしかこんな空気が流れていた。だからワタシは、再び、へその下にちからを集中する。変化はすぐに訪れた。水が沸騰するように、炉辺にある鉄が太陽に熱せられて熱くなるように、当然のこととしてワタシの腹部が、熱気を、帯びてきた。
ランタンの光を色とりどりに反射させる銀色のドアノブに、手が、触れた。
心音が耳元で絶叫している。
ハンナを抱えながら血相を変えているリヒャルトがわめき、大小さまざまな家具類がいろいろな人の笑顔に運ばれ、泣きわめくフランシスカが倒れ、コンラートが驚愕の表情を浮かべ、ザックスの顔のしわが一本二本三本と増えていき、ミカエルがナオンと鳴き、マギーが恥をぬぐい去って泣く、ザックスが太く泣く、リヒャルトが静かに泣く、フランシスカが豪快に笑う、家中が震え、ドアが泣くドアが泣くドアが泣く、小さな影が、躍る。
ワタシは肩を大きくはずませながらドアノブから手を離した。
鉛の玉が脳内を転がりまわっている。ゴウンゴウン、ゴウンゴウン。ガクガクと震えだす膝。何故、《姿が見えなかった》のか……その不可解な映像にワタシは恐怖を感じたのだ。
それでもドアを開けないわけにはいかない。困難を避けてばかりでは、成長できない。
ワタシは、弟のために、もう逃げないと誓ったのだから。
扉をそっと開ける。大きさの割に軽い音を立てる。居た。暗闇の中に輝く双眸。ふたつの眼だけが視界に映る。オンオンオンオン。犬の声が大きくなる。
「何をそんなに吠えているの? 何もしないから怒らないで」と相手を興奮させないように、優しく云った。
ランタンをそっと下ろす。闇を照らす光が、真実をさらけ出す。それはかならずしも、安心をもたらすとは、限らない。知らなければいい真実は、山ほどある。
闇の中で何かを訴えるかのように、助けを求めるように、敵意をむき出しにするように、鳴いていたのは、わめいていたのは、ミカエルだった。
オンオンオンオンオンオンオンオンオンオン。
☆
どうやって部屋の前までたどり着いたのか覚えていない。今でも耳の内側にこびりついているオンオンオンオン。猫が犬の鳴き声を発していたことが真実なのか、何もかもが曖昧になって行く。今すぐ現実に戻らなければ壊れてしまいそうだった。だからティルにすがることにした。ティルだけが、ワタシを現実につなぎとめてくれる。異界との境界線に建っているキンスキー家での唯一の光。
ワタシは鉛のように重い腕を伸ばし、ドアを開けようとした。
「どうして?」弟の声が響いてきた。
「約束してくれる?」「……」「本当に?」「……」「……いっしょだよ」「……」「でも、正確な日を知りたいな」「……」「え?」
相手の声はよく聞こえない。でも、親しげに話すティルの様子から、誰だかは見当がつく。何故だか、ドアを開けることが出来なかった。邪魔をしてはいけない、と思った。
膝から力が抜けていく。それと同時に、意識も遠くへ行こうと歩き出した。ああ、森が見える。泉が見える。プリムラが咲き乱れる泉のほとり。何か、得体の知れない小さな生物が飛び交っている。ああ、この子たちがティルの云っていた小人か、と安心したところで、弟の声がひときわ大きくなった。
「四日目の夜、ここから出してくれるの?」
次の瞬間、ワタシの意識は、完全に独立した。
つづく