第十三章 王国 その3
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泉までまだまだ距離があるというのに、いきなりコンラートが立ち止まり、口に指をあて、黙るのと立ち止まるのを同時に要求した。ちょっと何やってるの? と怒鳴りたかったけど、彼の様子が尋常じゃなかったので素直に従う。身振り手振りでどうしたの? と聞くと、口にあてていた指を形はそのままで前方に向けた。
月明かりの欠片がこぼれる森の間を、何かがこちらへ駆けてきた。
《それ》は奇声を、発し、ながら向かってくる。
危険な野生動物かと身構えたけれど、正体は、違う意味で危険なものだった。
あはははははははははははははは
鼻で酸素を吸いながら口から笑い声を発しているのだろうか。途切れない奇声は、息継ぎをしていないと思われる。フランシスカだった。
彼女はワタシたちに気づきもせず、直立不動の姿勢で、手足を大きく振りながら走り去って行った。
息継ぎ……①はげしく働いた後にしばらく休むこと ②歌や吹奏などの途中で息を吸い込むこと ③息継ぎしないでしゃべり続ける人がたまに出現する不思議
☆
フリージアのようなさわやかな香りが、泉には、風に流されず漂っていた。いつ見ても心安らぐプリムラたち。水面もあいかわらず静かで、まるで氷が張っているように、すべすべとしている。しがらみを忘れて景色を楽しみたいのだけど、そうはいかない。
リヒャルトはティルの肩を右手でつかんで泉のほうを向いている。森の歴史、泉の成り立ちなどを教えているようには見えない。もしかしたら水の中へ突き落そうとしているのかしら、と不安になってワタシが声をかけようとしたとき、コンラートが止めた。
「さっき、三人と云ったけど、それは間違いだったようだ。四人だ。リヒャルト、フランシスカ、ティル、そして――」コンラートが遠くを指す。「ハンナだ!」
泉の反対側にある大きな木の枝に、ハンナの姿があった。彼女は四つん這いになってリヒャルトたちを見下ろしていた。
そっと、音を立てないように、ティルたちの元へ近づく。まだ距離があるため、ところどころ聞き取りづらい部分もあるけれど、どうやらリヒャルトはハンナに対して謝罪を述べているようだった。
「私の……おゆるしください。傷めつけて……苦しめて笑顔を……罪をおゆるしください。どうかご慈悲を……」
ボドボドボドボドという音も、言葉と同時に響いている。なんだろう。ジェル状のものが地面に落ちる音。森の中で普通に遭遇するような音ではない。
リヒャルトおじさんたちの横に並んだとき、その音の正体を、驚愕とともに知ることになる。
リヒャルトの嘔吐だったのだ。
彼は吐きながら、何者かに――おそらく妖精に――哀願していたのだ。
「ごの……ゴボ……交換して……ブブブ……バンナを……ヴェ……じてくれ」
桃色のネグリジェをまとったハンナは、枝の上で月明りを浴びて、その姿を闇夜に浮かび上がらせていた。花のような衣服は、彼女そのものを妖精のように映していた。奇麗、とは思ったけど、優しさは、伝わってこなかった。
ティルの側へ行き、肩に手を置く。弟は怯えた表情を上げた。その視線に、もう大丈夫よ、と返した瞬間、コンラートが少し離れたところから絶叫した。
「アムール、危ない!」
振り返ると、コンラートがワタシのほうへ駆け出そうとしていて、リヒャルトおじさんは泉のほうを凝視していた。おじさんの視線の先を追う、そこに、吸い寄せられるかのように。
樹上にハンナがいない。下りている。群生しているプリムラの下だ。四つん這いになって走ってくるハンナの姿。異常な光景。異常な事態。異常な速さで、走ってくる。
一瞬のうちに眼と鼻の先まで迫るハンナ。直前で跳躍し、ワタシたちに覆いかぶさろうとした。ワタシは見た。五十センチ以上に伸びて、くらげの足のように揺れる桃色の舌を。宙を舞うハンナ。しかし、すんでのところで、コンラートが身体をぶつけてワタシたちを救ってくれた。ワタシとティルの三人は地面に崩れ落ちる。ハンナは手を緩めない。ターゲットをすぐにリヒャルトへ変えた。
「おおハンナおおハンナありがとうありがとうこうやってまた抱けるなんてお父さんはうれしいおおハンナおおハンナ信じていたよありがとうありがとうおおおお」と泣き叫びながらも嘔吐は続いている。徐々に、感謝の言葉の中に、短い悲鳴が混じってきた。
異様な光景に、ワタシは眼をそらした。
「ハンナひいかならず治ると信じていたよ痛いああお前が好きな噛まないでおくれマギーにバウムクーヘンを作ってもらおうひいいやめて痛い楽しみだよ」
何が起こっているのか、知りたかったけど見ることは出来なかった。
狂っている。すべてが狂っている。
「逃げるよ」
コンラートはワタシとティルの手を取り引っ張ってくれた。
リヒャルトの声が遠くなる。
やがて、悲鳴だけがワタシの耳に残った。
つづく




