第十三章 王国 その2
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保育園児が描いたような、歪んだ円になっている月が、ベランダを一生懸命照らしていたけど、ティルの行方は映し出せずにいた。
ワタシは下を覗き込んだ。薄闇の中にティルの姿はない。ここから落ちたとしても、アスファルトではないので命に別状はないだろう。だけど心配ではある。だから声を張り上げる。
「ティル~!」
返事はない。静寂が、不安感をさらに助長させる。
「もしかしたら、落ちてしまって、今こっちに向かっているかもしれない。下へ降りよう」と、コンラートは優しい言葉をよこす。ワタシはコンラートの親切さ、優しさに心から感謝した。
「ありがとう。そうしましょう」
部屋の外へ出ると、空き部屋の前にマギーが立っていて、黒い下着姿のまま、しくしくと泣いていた。ワタシとコンラートは何が起こっても対処できるように、身を固める。
「私たちの世界に入り込んだ異物。それが痛みを伴ってワタシのくるぶしを叩くの。くるぶし叩くくるぶしを叩くの。ちま~ん。寄り付かないように壁を作りすべてを排除していたのにあなたたちは誰?」
「マギー、マギー! しっかりして」
うつろな眼をしたマギーに、しかしワタシの声は届かない。ランタンに照らされ琥珀色のマギーの顔が、哀しみを帯びて、不気味に浮かんでいる。
「これは何かしら?」
そう云ってマギーは手にしていた小さな白い骨を持ち上げた。
「ああこれね、はいはい」と、骨をそのまま頭上へ上げて、「あなたの脇腹は刺しぬかれ、水と血が流れ出た。われらのために、死の裁きの前知とおなりください」
何かの呪文かしら? と疑問に思いつつも、その言葉の意味には触れず、
「マギー、ティルが消えたの。何所にいるか知ってる?」
恍惚の表情を浮かべるマギーに、しかしワタシの声は届かない。
「許したまえ、清めたまえ、拭いたまえ」そう云いながら、彼女は小さな骨をかりかりと噛み始めた。
コンラートは眉をしかめながらワタシの腕を取って引っ張った。
「あれは、猫の骨だよ」
それを聞いてワタシは叫んだ。「まさか、ミカエル!」
「相手をしているヒマはない。先を急ごう」
ワタシは震えだす足を抑え、頷いた。
マギーの横を通り過ぎたあと、走りながら、振り返った。
彼女は、骨を放り投げて、膝を落とし、肩を震わせ、顔を覆って泣いていた。
☆
コンラートは、リヒャルトおじさんたちの部屋のドアを蹴破った。
ふたりはいない。この部屋を見て、ワタシは不審に思った。生活感が、ないのだ。ベッドと鏡台はあるのだけど、化粧道具やごみ箱、グラスや埃など、暮らしているとどうしても出てくるものが、いっさいないのだ。まるで展示室。こんなところで、どういう時間を過ごしていたのか、眺めているだけで、ワタシはぞっとした。
コンラートが中に入りくまなく捜索するが諦めてすぐに戻ってきた。
「他を探そう」ということになり、ザックスとマギーの部屋も覗いてみるが、ティルの姿はどこにもなかった。
「まだ外なのかしら?」
「そうかもしれない。よし、行こう」
階段を降りたところに、見放された操り人形のように昏倒している、ザックスの姿があった。
手足がだらしなく広げられ生きているようには見えなかったのだけど、コンラートが調べた結果、気を失っているだけだというので、とりあえずホッとした。しかしこれが、人生のすべてをささげてきた人の末路なのかと思うと、とてもやるせなかった。
陰りを見せ始めている月は、それでもワタシたちの視界の手助けをしてくれた。夜の太陽の役割を果たしている。月に感謝する。
弟の名を叫ぶけど、夜鳥が逃げるだけで他に生き物の気配は、ない。
「もしかして地下じゃないかしら」というワタシの予測に対し、「いや、外で間違いないよ」と、コンラートが云って足元を指さした。
「踏み荒らされたばかりの足跡が残っている。まっすぐ、森へと向かっているようだ」
コンラートの云う通り足跡が、三つあった。
ワタシは腰をかがめ、「ちょっと調べてみるわ」
時間が惜しい。恐れている場合ではない。
地面に、触れる。
ストロボがたかれる。
ドン、ドン、ドン。
地面に伝わる衝撃。
痛い、痛い、痛い。
三人。走る、三人。
声、男の声、叫ぶ。
「泉へむかったぞ! 追うんだ、フランシスカ!」
間違いない。リヒャルトの声だ。
☆
感情の波動が渦巻いていて、我に返ったとき、ものすごい疲労感に襲われた。それでも、行かなくてはならない。ワタシは顔を上げて、相棒に云った。
「リヒャルトとフランシスカ、それからティルは、泉へ向かったわ。急ぎましょう」
ところがコンラートは動こうとしない。瞳に浮かぶ月明かりの反射をワタシに向けている。それを見て、ああ、と思い出した。
「ワタシにはある秘密があるの。落ち着いたら、打ち明けるわ」
それでも動こうとしないコンラート。ワタシはあきらめて、今、聞きたい? と訊ねた。
コクンと頷く。
「驚かない?」
いつかのフランシスカのようにまたコクンと頷く。
「ワタシたちのこと、嫌いにならない?」
彼がもう一度頷いたとき、ワタシは告白した。
知りたいという欲求を心に浮上させたまま物質に触れると、その物質の持つ記憶を見ることが出来る、ということを一部始終。
「その能力はいつからあるんだい?」驚いた様子もなく、彼は優しく語りかけた。
「物心ついたころにはすでに備わっていたわ」
「よく、魔女として通報されなかったね」
「お母さんが、隠していなさいって。ワタシはみんなが同じ力を持っていると思っていた。だけど学校生活を続けているうちに、何かがおかしい、と思い始めたの。口止めされていたから、徐々に、クラスメイトと接することができなくなって行った。そうなると、ワタシの立場がどういうものになるか、わかるよね?」
コンラートはしばらく黙っていた。それから月を見上げ、顔を下に戻してから云った。
「君は、本当に頑張ったよ。すごい、と思う。ボクは驚きもしないし通報もしない。これからもずっと友達でいたい、と変わらず、考えている。だけどもうひとつ、隠していることがあるよね。さっき君は、『ワタシたちのこと』と云っていたから」
あ! と思ったけど、もう遅い。だけど、彼なら信用できる。ティルのことを隠す必要もないか、と弟の能力も告白した。
死者との交信。
ついでに、両親が弟を迎えにくる、ということも伝えた。
またまたコンラートの沈黙。だけど今度は、ほんの二、三秒くらいだった。森の中に消え入りそうな小さな声で、誰にともなく彼は云った。
「明日の夜、何が起こるんだろう」
それはずっと気になっていた。だけどその前になんとかしなければならないのは、今夜よ! とワタシたちは先を急いだ。
つづく




