第十二章 十―裏切り―愚か その1
第十二章 十――裏切り(フェアラート)――愚か(ドゥム)
悪魔の気配。悪魔の香り。悪魔の名残。悪魔の伊吹。悪魔の視線。悪魔のぬくもり。悪魔の鼓動。悪魔の感覚。悪魔の誕生。悪魔の奇跡。悪魔の愛。
歌う。
歌う。
少女が歌う。
霧のような雨が頬を伝い、大きな流れとなって川となる。
一条の光が瞳に入り、それらが集まって太陽となる。
ひとつの歌が風となり、ふたつの歌が嵐となる。
悲しい顔が闇となる。
愛が重なり合い、炎となる。
大勢の人間が集まり欲望の渦となる。
愛という幻想が笑った笑った。
愛が世界を食らった食らった。
カタリーナはベッドの上を跳びはねている。
シャルロッテが云う。エルンスト様が見えましたよ、だから大人しくしなさい。ピタリと踊りと歌を止め、カタリーナがこちらに視線をよこした。そしてにっこりと笑顔を浮かべた。
「これはこれはよくいらっしゃいました、エルンスト様、それからゴットフリート様。それから、そちらは……ああ、お医者様のフレデリック様。こんなににぎやかになって、いったい何が始まるのかしら」
カタリーナは再び幼女のようにベッドの上をジャンプした。
「面識は?」とフレデリックに尋ねると、「いや、一度も……」と答えた。
わたしは、しくしくと泣き出したシャルロッテの手を取って部屋の外へ出す。
「いいですか、これからどんなことがあっても、決してこの部屋へ入ってはいけません。それが、娘の哀願する言葉でも、それから、亡くなった夫の言葉でも、です。よろしいですか?」
シャルロッテは何も答えずただ頭を上下に振るだけだった。わたしはさらに付け加える。
「エルンストやフレデリック医師、それからわたしが、もう大丈夫ですよ、と云ってもぜったいに入ってはいけません。いいですか?」
わかりました、という消え入りそうな返事を聞いて、わたしは踵を返した。
踵……①かかと ②《~返す》をつけることによって、後戻りをする、引き返すに変わる、物書きにとっては非常に便利な言葉
☆
汝が犯したすべての罪を許す父と子と聖霊の御名によりて命ずるお前の名を名乗れ。
もう何度、このセリフを口にしただろうか……。
しかし一番効果がある。
現に、ベッドの上で縛られているカタリーナは苦しんでいるのだから。悪態をつき、束縛を解こうと暴れ、それから静かになる。静かになったからといって肉体から出て行ったわけではない。安心してはいけない。だからわたしは続ける。
汝の名を云え主イエス・キリストの御名によりて命ずる。
聖書を広げ十字架をカタリーナの額に押し付け聖水をかける。何度も何度も繰り返した行動。
悪魔祓いの儀式は数か月かかることもある。長期戦なのだ。患者の肉体の疲労、衰弱が心配なので無理はできない。その見極めも難しい。
部屋の隅で小さくなっているフレデリックに眼をやる。
彼はわたしの視線に気づいてチラチラと胸元で十字を切る。それを見てまだ行ける、と判断した。
エルンストは一心不乱に聖書を朗読している。ありがたい。
儀式の成否はわたしにかかっている。だから決して熱くなってはならない。そして、油断してはならない。助手と、それから、患者を、危険にさらすわけにはいかない。
主イエス・キリストの御名において命ずる。
「面白いことを思い出した」と、カタリーナはまるで男の声でそう云った。「あいつはかつてこう云った。明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日みずからが思い悩む」
わたしはその先を続けた。
「その日の苦労はその日だけでじゅうぶんである。福音書の引用だ。そんなことならだれでもわかる」
カタリーナは口を顔の半分を占めるほど広げて、不気味な笑い声を上げた。
「あいつはかつて私にこう云った。娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にはかからず、元気に暮しなさい。ははは」
「娘? お前は、女の悪魔なのだな?」
カタリーナは両手両足を固定されているため胴の部分のみを上下にバウンドさせて喜んだ。
「そうだ俺は女だ。女だ。うれしいか。かよわい女だ。はははは」
ここで聖水をかける。カタリーナの短い悲鳴を聞きながらわたしはさらに続ける。
「お前の目的はなんだ? その娘にとり憑いて何をしようとしている? 述べよ」
「おおお我は、イスラエルの神の命令によって、エルサレムを滅ぼしにきた」
「それはイザヤ書の引用だ。こんなことは通用しない。決して動揺しない。もう一度云う。お前の目的はなんだ?」
ハケ
ハケ
ハケ
エケ
クフ
カタリーナの呼吸音。どういった意味があるのか、いや、これは罠だ。心を乱すな。
フレデリックがわたしの肩をつかんだ。跳びはねた。
「今日はここまでです」
つづく




