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第九章 お喋り その5

     5


 汗で少しだけテープが(ゆる)んできた。それでも、固定するというテープの役割はしっかりと守られている。

 届かないと知りつつもティルの名を叫ばずにはいられない。名を呼ぶたび、涙があふれてくる。無力感に支配される。絶望、ただそれだけがワタシの脳を満たしていた。

「ティ~ル!」

「変な声が聞こえると思ったら、こんなところで何をしているんだい?」

 コンラートだった。今回は本当に、いいところに来てくれた。

「ティルがリヒャルトおじさんたちに拉致されたの、急いで助けに行かなきゃ」

 今までどんなに頑張ってもはずれてくれなかったテープがいとも簡単に取れて久しぶりの開放感に感動している場合ではなくてありがとうとひとつだけコンラートに礼を述べてワタシたちは駈け出す。彼らのいる場所は予測がついている。地下室。

 バラ園を抜け、前庭を過ぎ、巨大な門を開けて屋敷の中へ。ワタシの鼻の奥にバラの香りが残っているのかザックスたちがここを通ったからなのかわからないけれどバラの甘い匂いが、屋敷の中を満たして、いる。

「地下室の扉が開いているよ」と、コンラートが指さす。

「行きましょう」

「待って、何か武器になるものを持って行ったほうがいいんじゃないかな」

 急に怖気づくコンラート。勇気を見せようと笑顔をつくっているけれど、眼は笑っていない。

「探している時間はないわ。コンラート、あなたは何か武道でも習っている?」

「いや、食糧の配達だけで精いっぱいだよ」

「もう、ダメな子ね! リビングの隣にも物置があるからまずはそこへ行きましょう」

 物置にはいろいろな清掃用具があった。そこでワタシとコンラートはほうきを手にして地下室の扉の前へ。

「質問があるんだけど」突入前にコンラートが云った。「何でリヒャルトさんたちはこんな暴挙(ぼうきょ)に出たの?」


 暴挙……①乱暴な行い ②不法な行い ③無謀な行い ④日常的な行い


「ハンナの病を治そうと、妖精を探しているらしいの」

「妖精って本当にいるのかな?」

「わからない。でも、少なくとも、リヒャルトおじさんたちと、ティルは信じている」

 階段の途中で、おもわず足が止まった。左に曲がる階段はその先に不安感を宿す。何が待ち受けているのか、何がのぼってくるのか、何を飲み込もうとしているのか、すべてを闇と死角の奥へと隠している。だから、すぐには動けずにいた。

「と、とりあえず」コンラートが、震える声を修正しながら云う。「行くしかないよね」

 そのときだった。トンネル内を隙間なく満たす水が押し寄せてくるかのように、恐怖の波動が上昇してきた。その正体は、ザックスだった、マギーだった、フランシスカだった、リヒャルト、だった。

 ザックスとマギーとフランシスカがワタシたちの横をすり抜け、最後のリヒャルトが眼の前で歩を止め、ワタシの肩をつかんで、叫んだ。


「私は勘違いをしていた! ハンナはただの精神病。魔女と誤解される恐れがあったので病院に連れて行かなかった。フランシスカに任せればすべて解決すると思っていた。浅はかだったのか? そうだ、私がすべて悪いのだ。私のミスだ。すぐにでも病院へ連れて行くべきだった。ああハンナ、こんな父親を許してくれ。

 妖精は実在した!

 私が間違っていた。いや、存在していると思いこもうとしていたのは事実。だからこうやって妖精の入った鳥かごを絶対に開けずにもう大丈夫だとハンナに見せて安心させようとしていた。ところがどうだ。逆効果だった。妖精は存在していて閉じ込められたことに激怒していたのだ。怒っている。妖精は狂っている。いや、妖精が存在していることを私たちは知っていた。何故ならば、こうなってしまったから。私たちがこうなってしまったからだ! 私たちは狂わされた! 元はこうじゃなかった。まともだった。異常ではなかった。何故気づかなかった? 何故だ何故だ? 教えてくれアムール。アムールよ、ティルは魔女なのか? 悪魔の使いなのか? 私は恐ろしい。何故だ? ハンナは妖精を憎んではいなかった、ただいっしょに遊んでいただけなのだ。なのにこんな仕打ちはひどいじゃないか? 妖精は何を求めている? 何が欲しい? 助けてくれ、それからどうすればいいのだ? お前からティルに云って、妖精が何を求めているのか問いただしてくれ。お願いだ、お願いします。ハンナは悪くない。悪いのは私なのだ。私なのです。許してくれ。お願いします! 神か悪魔か、どちらでもいい。妖精でもいい。私たちを助けてください助けてください許して救ってください」

 ここまで云ってリヒャルトはワタシの肩を離して階段を上がって行った。

 彼の言葉は正直、どうでもよかった。ワタシの頭の中にあるのは、ティルのことだけだった。

 どうか無事でいて。みんなが逃げだすほどの何かがあったのだ。

 ワタシはコンラートの手を引いた。


つづく

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